月ごと酔夢譚2月

陽のあたる坂道



昨年の2月中旬、所用があって熱海に住む知人の家を訪れる機会があった。梅がそろそろ開花したかなと思い、日頃の運動不足を反省し、久しぶりに梅園周辺を散策してみることにした。だが花はまだ二分咲きで、入園料も無料だった。

園内の高台に中山晋平記念館があったので寄ってみた。この建物は昔、来宮駅裏の西山町の奥に建っていたのを道路にあった案内板で知っていたが、ほとんど観光客も訪れないらしく、市が観光スポットのここに移築したようだ。

梅園が記念館の庭のようで、2階からのロケーションも素晴らしい。開花の遅れが残念だった。この偉大な作曲家には、北原白秋とコンビを組んで創った歌も『砂山』『アメフリ』などがあることを館内の資料で知った。園内に流れる初川を挟んだ西側には澤田政廣記念美術館がある。ここを訪れるのも初めてだ。文化勲章を受章した彫刻家だから出身地として熱海市も功績を称えて建てたのだろう。市の財政が豊かだった昭和の時代の話だ。いくつかの絵が展示されていたが、彫刻よりもそちらのほうに惹かれた。彫刻家のデッサンというのは瞬時に形を捉えて描写し、線が生きていると改めて感じた。

梅園をあとにして、市の中心部に住む知人宅へ水口町の坂を降っていった。

来宮駅前の角に牛次郎の家がある。かつて夕刊紙の連載漫画の原作を書いていた人気作家だ。突然、得度して東伊豆の富戸に転居してしまった。彼と親しくしていた友人と転居先を訪れたことがあった。あれはいつごろだったか、読んだ小説の内容とともに記憶が無い。

そんなことを懐かしがりながら長い竹垣の続く屋敷に沿って歩いていると、途中に冠木門があり、小さな案内板に気がついた。そこには「双柿舎」と書かれてある。明治時代の坪内逍遥が晩年を過ごした家であることがわかった。日本にシエークスピアを全訳して紹介し、『小説神髄』『当世書生気質』などを書いた作家であることぐらいは知っていたが著作は読んだことはない。敷地内は日曜日のみ公開されると表示されていた。そのときは竹垣越しに書斎の屋根だけを見て知人の家に向かった。それから何日か経って、書店の文庫本コーナーで松本清張の『文豪』のタイトルが目に入り、はて、誰をモデルにした小説かと手に取り、ぱらぱらと捲ったところ、逍遥について書いたものとわかり、買い求めた。いつか双柿舎を訪れたときの参考にしようと思ったのだ。内容は、清張が伊東のホテルに逗留して執筆し、仕事に区切りがついたのでタクシーで熱海の双柿舎を訪ねるシーンから始まる。うつに悩み睡眠薬を常用していた逍遥が、医師から指示された量を超えて飲んだのは、自ら命を絶つ意思によるものではなかったかと清張の推理が及ぶ。死因について双柿舎で居合わせた男に語らせるという手法で、書き出しの部分に興味をそそらせられた。途中から逍遥を巡る明治の文壇事情に話題が移り、門外漢の私には退屈になって読むのを止めた。しかし、機会があったら逍遥が設計したという双柿舎をいつか覗いてみたいと思った。

熱海には双柿舎と並んだ観光スポットに旧日向邸別邸がある。これも公開日が限定されている。かねてから1度は見たいと思っていたので公開日の土曜日に出掛けた。春日町にある建物に着くと入り口で、内部の見学は完全予約制ですといわれ、諦めるしかないかと思ったら、あとから予約済みの初老の婦人グループが来たので仲間に入れてもらい見学できた。ほかに女子大生らしき二人が加わってガイドの説明を聴いた。この二人は随分熱心に見学していた。不特定多数の見物客を入れると、建物保存上問題があるので予約制なのだという。

この歴史的建造物は戦後、取り壊しの運命にあったが、ある篤志家が買い取り、熱海市に寄贈され、かろうじて残された建築物である。日本の美術や建築を賞賛した建築家ブルーノ・タウトが和様建築の粋を採り入れて、日本で設計したもので、唯一、現在残っているという。ナチスから逃れ、日本に来て日本美術の美しさに感動し、『日本美の再発見』などを書いたドイツの建築家が、2・26事件などで軍靴の音が高くなりつつあった日本から、後ろ髪曳かれて去らざるを得なくなったときの心境はいかばかりだったか。

帰宅して一昨年11月の日経新聞記事の切抜き「タウトが見た日本画」(3回連載)を改めて読み、その慧眼を惜しんだ。

隣の海光町には岩波書店創業者・岩波茂雄が建てた「惜櫟荘(せきれきそう)」に人気作家・佐伯泰英が住んでいる。この作家の『居眠り磐音江戸双紙』シリーズは目下、妻がはまっている。昨年、旅行に出掛けるとき、車中で何か読む本がないかというので手持ちの一冊を本棚から抜き取って渡した。たちどころに読み終えて、このシリーズをもっと読みたいといい、自ら書店に行くようになった。彼の本は文庫本だけで4千万部出版されたというからよほど面白いのだろう。吉田五十八が設計した数奇屋造りこの建物も見たいが個人のものではそれは叶わない。

かつて御用邸があった熱海は、温泉と温暖な気候で、明治の頃から今日まで文人墨客が集い、文化的な情報もすこぶる豊穣だ。

今月のウオーキングは昨年歩いたこのコースだったので楽しみにしていたが悪天候で中止となってしまった。この日、外出も叶わず、所在無く、観光案内所でいただいた観光マップでゆかりの文人を追った。

先述した者以外に佐佐木信綱、徳富蘇峰、中村真一郎、杉本苑子、橋田須賀子、池田満寿夫と多い。

現役の著名人も、日曜日朝の番組『小さな旅』のテーマソングを作曲した大野雄二はローマ風呂で有名な大野屋の息子だし、女優の二宮さよ子の実家は人気の洋食屋など思いつく。それぞれにそれぞれの思い入れがあって関連のスポットを歩くのは考えただけでも楽しくなる。

今日は二月尽。坪内逍遥の命日である。この日は唯一、日曜日以外でも双柿舎が公開される。3月下旬並みの陽光に誘われ、水口町の双柿舎を訪れてみたくなり、伊東行きの電車に乗った。そして文豪が愛した起伏に富んだ陽のあたる坂道を歩き、庭の満開のアタミ桜を愛で、近代の文学と演劇界に残した足跡に畏敬の念を抱いた。満された気持ちになって、家に戻り、パソコンに向かった。だらだらした拙文を読み返して、ゆかりの文人の片鱗でも恵まれたらなとつくづく思う。(克)

月ごと酔夢譚1月

「こいつは春から」



吉祥寺の前進座劇場が隣接する病院に買収され、閉館されるという。もうこの通りを歩く機会がなくなるのかと、寂寞とした想いで井の頭通りを歩きながら、これまでに観た舞台の記憶がよぎった。早めに家を出たときは、開演までの時間、近くの井の頭公園を散策したことも懐かしい。

劇団のファィナル公演は『三人吉三巴白波』で、百両の金と家宝の短刀「庚申丸」を巡って三人の吉三郎が三国志演義のように義兄弟となって活躍する話。数多い河竹黙阿弥の作品の中でも人気が高い。登城人物の複雑な人間関係を理解するため、予めコクーン歌舞伎のDVDを見ておいたからストーリーの展開にもついていけて楽しく鑑賞できた。この劇場は500程度のどの席でも舞台が見易く、気に入っている。特に今回は、往来する役者の足の血管までくっきり見える花道に近い席で彼らの熱演を堪能した。

「月も朧に白魚の」で始まり「こいつぁは春から縁起がいいわえ」と締めくくるお嬢吉三の名科白も見事に決まって正月らしさを醸し出した。いくつかの新聞の劇評でも劇場の閉鎖を惜しむ声が載ったが、独自の上演拠点を失うことになる劇団員はファン以上に寂しかろうと思いを馳せた。何よりも30年前に前進座のため劇場を造ろうと呼びかけ、資金集めに奔走したという松本清張が生きていたらさぞ落胆するだろうなと思ったりもした。

劇場を売却せざる得なくなった事情は知る由も無いが、やはり財政上の理由なのか。これが劇場最後の舞台では決して、春から縁起がいいとはいえない複雑な気持ちだろう。

劇団員は看板俳優であっても劇場の近くの質素な共同住宅に住んでいる。創立者のひとり河原崎長十郎の姪の女優岩下志麻もそこで育ったらしい。新聞の対談で語っていた。あるとき、劇場の入り口でチケットを渡したとき、もぎりをしていた男性が藤川矢之輔だったので驚いて「御大が自らこのようなことをされるのですか」と思わず言ったことがあった。万事華やかな松竹歌舞伎と違った親しみが湧く劇団であり劇場だった。夏には公演のあと、駐車場で納涼大会が開かれ、ビールを飲みながら、若手の俳優と楽しく演劇談義に花を咲かせたことも懐かしい。

創立80周年記念パーテーが行われたのは2011年3月9日だった。友の会会員にも案内がきて、発起人のそうそうたる名前で興味がわき、会場の東京會舘にむかった。1000人を超える参加者で、舞台でしか見られなかった俳優を至近距離で接し、ミーハー的好奇心を充たせてくれた。もしあの催しか、震災のどちらかが2日ずれていたなら、日中から都内をふらふらしていた私は帰宅難民になっていただろうと時々思い返しては背筋を凍らす。

前進座を始めて観たのは落成して日が浅い小田原市民会館で、劇団創立35年記念公演の井上靖原作『天平の甍』だった。47年も経つ。あの頃は小田原でも色々な劇団が公演を行い、演劇に馴染むことができた。地方での公演が成功しなければ多くの関係者を抱えた劇団の維持も難しいだろうから、結局、中央に集中して地方に住むものは疎遠にならざるを得ない。

毎年正月、初詣と称して夫婦で関西方面に出掛けるが、今年は斑鳩の古寺を歩いた。『天平の甍』の主人公鑑真創建の唐招提寺にも寄ってみた。境内奥の和上御廟を参り、手を合わせながら、あの名作が何とか再演されないものかと思った。劇場は無くなっても若手の俳優たちは確実に育っているのだから、気鋭の熱演を是非観たい。私が元気なうちに。(克)

月々曼荼羅12月 ゆく年くる年、悼む年

キーボードを叩くと文字になり、文字を連ると言葉に、それを紡いでいくと文章になる。こんな摩訶不思議で便利な文明の利器が、もし無かったなら、決して日常雑事を記録しておこうなどとは思わなかったに相違ない。 

テレビを見ていてタレントの名前が浮かんでこない、あるいは以前に訪れた観光地の名称が思い出せない、そんな現象が還暦を迎えた頃から現れ始めた。老いによる一般的なことと理解はできても、自分が特に関心を寄せてきた美術や文学の分野で、同じことが起きてきたら悲しいと思い始めた。そこで感銘を受けた展覧会の印象や読書の読後感を記録することを自らに課すことにした。

それから約10年。1ヶ月に1編は日記帳ならぬ月記帳として書いてきたから、その数たるや優に100篇は超えている。この3年間に『一九悠会会員の日記帳』に寄せたものだけでも36篇に及ぶ。

飽き易い性格なのによく続いたと自分を褒めてやりたくなる。毎月、月末の夜、PC

に向かうことが苦にならなかったのが幸いだったといえる。これがもし、原稿用紙にペンで文字を埋めていく作業だったら3ヶ月で放り出していただろう。変換ミスという陥穽もいくつか犯したが、手書きであっても多分、同じことだったろう。

独りよがりな雑文だが、ウオーキングの仲間から「読んだよ」と声をかけられると、話題提供となって嬉しかった。還暦から、次の節目の古希を迎える来年になったら、記憶が薄らぐのは自然の現象と受け止め、気負って書いてきた、こんな雑文からそろそろ卒業するかと自問していたところだが、一九悠会会長から、来春に出す会報に、最近のものを転載しても良いかとの文書を頂き、これを機に関心を持たれる仲間がいるとなればもう少し続けてみようかなとも思った。

さて、今日は大晦日。いつもの月末は1ヶ月を省みて適当な話題を綴ってきたが、今夜は今年1年を回顧してみた。といっても特筆すべきことなど何も無い。ただ、年間を通じ“井上ひさしフェステバル77”で彼の作品を観られたことが何よりもこころに残った。天才的作家の生誕77年の喜寿を記念した企画だったが、自身は実現することを見ることなく惜しくも2年前亡くなってしまった。8つの舞台のうち、6つを楽しんだが、どれも熱気が籠っていて素晴らしかった。最後を飾る舞台は『組曲虐殺』。いつも観劇は一人で楽しんでいたが、妻にも一緒に行くか訊ねたら、行くと言う。

一癖も二癖もある井上ひさしの芝居だけに、妻にはすんなり楽しめるか、疑問があったが二人で天王洲銀河劇場に向かった。幕が開くと私より妻のほうが楽しんでいたようで安堵した。

特に今月、妻を誘ったのは理由がある。私たち夫婦は毎年、年末には新橋演舞場で行われる中村勘三郎と藤原直美の舞台を観るのをささやかな楽しみとしてきた。

二人の抱腹絶倒の演技は今でも時折思い出す。歌舞伎座の建て直しのため、同劇場が松竹歌舞伎公演で使えなくなってしまったため、年末はなにか物足りない気分だった。それに代わるが井上ひさし作品の観劇である。

来年は新歌舞伎座も竣工し、年忘れの舞台も復活するかと楽しみに思っていた。

それが師走になって、突然の訃報である。歌舞伎の世界では芸達者な役者はもちろん沢山いる。だが舞台に立つだけで輝く勘三郎のような役者は、私はほかに知らない。

だから彼の舞台は幕見席でも切符を手に入れるには長蛇になった。ようやく手に入れた切符を握り、歌舞伎座の4階までの急な階段を幾度駆け上がったか。懐かしい思い出である。

井上ひさしの舞台を楽しんだのと名優勘三郎の死を惜しむ寂寥の日々。地方に住む演劇ファンの屈折した1年となってしまった。

勘九郎の頃に出されたDVDセット『勘九郎箱』で不世出の役者の舞台を、悼みつつ楽しもうと思う。(克)