月ごと酔夢譚5月

梅雨の来ぬ前に


月末が近づくと1ヶ月を振り返り、この雑文のテーマをあれこれ考える。

今月はGWを自宅で過ごしたが、中旬、陽気が良くなってくると家に籠りきりでは、身体のためにも景気のためにも良くないような、なぜかそんな罪悪感が湧いてきて、とにかく外出せねばと、まず、半年ぶりに映画を観に行った。映画はシニア料金になってから、年間に20本くらいは観ていたが、このところご無沙汰である。出掛けるのが億劫になったのか、どうしても観たい映画が少なくなったのか。

アカデミー主演男優賞を3回も獲ったダニエル・デイ=ルイス主演『リンカーン』はどうしても観ておきたかった。アメリカ南北戦争の時代、奴隷制度廃止のための憲法修正条項を可決させるための議会工作の息詰まるシーンに2時間半が短く感じられた。スピルバーグ監督が健在なのが何よりもうれしい。およそ20年前、ワシントンDCを訪れたとき、弟の案内で、当時のまま残された、リンカーンが狙撃された劇場、臨終を迎えたベッドなど見学したことを思い出した。像があるポトマック河沿いに建つ大聖堂も立派な建物で、訪れる人も多かった。アメリカ人が彼を敬慕する理由もこの映画を観ると理解できる。

映画を観る機会が減った分、観劇が多くなった。毎年、5月は国立劇場で前進座の歌舞伎公演を楽しむ。今年は『元禄忠臣蔵・御浜御殿綱豊卿』(真山青果作)『一本刀土俵入』(長谷川伸作)で、徳川綱豊役の嵐圭史の迫真の演技が印象的だった。座の重鎮中村梅之助が数日前、楽屋で転倒し、出演できなくなったのが残念。83歳の高齢だから、舞台は今回観られるのが最後かと思っていたがそれも叶わなかった。

美術館巡りも気分が乗ると腰が軽くなる。

名古屋では壱千九百年祭の熱田神宮を参詣した帰り、徳川美術館に寄った。ここは始めてである。企画展「漆の美」で日本工芸、特に螺鈿の技巧の凄さには感嘆した。

「水彩画・みずゑの魅力展」(平塚美術館)は昔、憧れた画家の作品が並び、懐かしさもあって時間をかけて鑑賞した。好企画に賛辞を贈りたい。

「山口晃展」(そごう美術館)は、平成の絵師ともいうべき彼のワンダーランドを楽しんだ。江戸時代に彼が生まれていたなら北斎を凌いだか、などと他愛の無い空想が浮かんだ。

「牧野邦夫・写実の精髄展」(練馬区立美術館)は開催されることをポスターやチラシで知っていたもののこの画家について何も知らなかったので出掛ける予定はなかった。しかし牧野信一研究家を自称する熊谷氏に、透谷祭であったとき薦められ、予定が空白だった月末近くの日、出かけた。幼少のころ栄町に住み、小田原ゆかりの芸術家と聞くとつい、見逃せないと思ってしまう。小田原にこんな鬼才が住んでいたのか。市に美術館があったら市民に見る機会が与えられたのにとつくづく思う。

展覧会で圧巻だったのは「井上ひさし展」(神奈川県立近代文学館)。50年にわたって文学界の第一人者であり続けたこの作家の創作秘密の一部を知ることができ、半月過ぎても満足感の余韻が残っている。展示は3部構成で、ユートピアへの旅として『吉里吉里人』の創作資料が第2部の主な展示だった。この小説がどうやって生まれたのか。東北の一小村の、わずか2日間のできごとがどうして2500枚の長編になるのか。そんな秘密を知りたかったので興味深々。

家の書架に1981年、日本SF大賞、読売文学賞を受賞した当時、出版されたハードカバーの同書がある。かつては私にとって通勤電車が書斎だったから、この本は厚さが5センチもあって、持ち歩きにくく、しかも2段組のため、ずっと開くことがなかった。

でもいつかは読んでおきたい。そこで文庫本を手に入れた。これならバックに入れて出掛けるときに携行すればいい。しかし、それがダメなことに気がついた。時々、読んでいて思わず吹き出してしまうからだ。電車の中でヘンな人と思われるのはかまわないものの、やはり寝床でニヤニヤしながら読むほうがよさそうだ。一向にページは進まないが、急ぐことも無い。ライフワークとして楽しもう。

この展覧会では、彼の父と母の写真が母子の書簡とともに、いくつか展示されていた。34歳の若さで亡くなった父修吉の小説を読んだことがあるが、これがどうして井上靖の作品を抑えてサンデー毎日大衆小説1位になったのかわからなかった。井上ひさしには多分、父より母マスの文才としての遺伝子が継がれているのだろう。夫亡き後、3人の子供を養護施設に入れて働き、それぞれ大学に入れたマスは、生活力だけでなく、文章にも長けて、自らの半生を『人生ガタゴト列車に乗って』に表し、劇にもなった。先々月、浜木綿子主演の舞台を観て、彼女がいなければ井上ひさしという平成の大作家は生まれなかったのだと思った。そして彼女が小田原出身だったことを思い出した。数日後、“寄り合い処こうづ”の小泉氏と飲む機会があり、母マスの出自を訊ねたところ、仕事柄、さすがに詳しく、永い間のわだかまりが解けた。

5月はウォークの季節だ。下諏訪から出発した甲州街道もいよいよ都心へ向かう。今月は日野から調布までを歩いた。途中、雨に降られ、飛び込んだ食堂の天丼セットについてきた蕎麦が実に旨かった。また食べたいが、場所が分倍河原では訪れる機会はもう無いだろう。あの味を忘れないためここに記録しておく。

一九悠会のウォークは河口湖周辺の散策。癒しの里・根場へ向かう途中、足和田村を抜けるが、ここはかつて民宿『山彦』を定宿にして毎年、西湖マラソンに参加していたのでとても懐かしい。車窓から民宿の建物が見えた。前夜から泊まり、仲間とつい飲みすぎ、何度も二日酔い状態で大会を走ったのを思い出す。あのころは周辺にいろいろな観光スポットがあるのを当時はまったく知らなかった。

恒例の“健康ウオーキングの会”では信州の赤沢自然休養林を歩いた。宿泊は思い出深い昼神温泉。昨年の清風宛の前の河を挟んだ反対側奥のホテル。夕食のあと、二次会にも付き合わず就寝。おかげで朝から絶好調。伊勢神宮の遷宮にも使われたという木曽ヒノキの森林を楽しく歩いた。この会は今回が第14回目で、最初の頃は皆50歳代だったが、仲間の健脚ぶりは衰えていない。最高齢は83歳。元気さをあやかりたい。

5月は祭りの月だ。毎年、5日は松原神社の大祭で、近くの友人宅で飲みながら御輿の宮入りを楽しんだが、震災以後は集まりも自然消滅。代わりに三社祭りに行った。浅草神社の境内で、被災地・石巻の酒を売っていた。立ち飲みでぐっと一杯。旨かった。

今日は月末ではないが、明日は友人と仙台から気仙沼に行くので取り急ぎこの文をまとめる。気仙沼といえば、牡蠣の養殖家畠山重篤氏の講演を今日、市民会館で聴いたばかりだ。同年とも思えぬ気迫に、養殖施設を壊滅されながら、あの震災にもめげない復興に賭ける執念を感じた。なんとか東北を支援したいが、できることとして思いつくのはせいぜい地元の銘酒を飲むことぐらい。

明日は言い訳をしながら飲み過ぎないようにしたい。

5月30日(克)

★ 5月は末日に旅行に出掛けるので前日にこの雑文を書き上げ、一応誤字・脱字の有無を見直し、このページにコピーしようとしたがこれまでの画面と異なっていて操作の方法がわからず、送信を諦めた。後日、殿塚会長にお会いしたので尋ねたところ、早速ご教示頂き、送信できるようになった。でも、1年は続けようと始めたのが3年過ぎ、今年いっぱいは頑張ろうと思っていたところ、送信できなくなり、そろそろ潮時かなと感じた。5月は折角草稿をまとめてあったので送信してお別れとしたい。

このページを開いていただいた方にお礼を申しあげます。さようなら

月ごと酔夢譚4月



   鶴嘴を絵筆に持ち替えて



お世辞にも上手いとはいえない絵が、練達した技法を駆使した画家たちの作品に並んで展示されていて、ひときわ強く印象に残ったが、描いた人物の名前は記憶していなかった。2009年秋、わざわざ目黒区美術館へ「文化資源としての〈炭鉱〉展」を見に出掛けたのは、社会の動きに関心を持ち始めた10代のころ、新聞紙上に炭鉱のニュースが出ない日は無く、それらの記事と荒木榮の一連の歌を聴いたり、土門拳写真集『筑豊のこどもたち』や針生一郎の三池闘争ルポルタージュを読んで、世の中のひずみの底辺で暮らす人たちの存在に、自分の境遇と照らし合わせて連帯感を持ったことを思い出したからである。

過酷な坑内労働、頻繁に起きたガス爆発、そして出水事故などに加えて、閉山に向けての人員整理に伴う労働争議など、遠く離れた北海道や九州でのできごととはいえ、炭鉱に関するニュースは胸を痛める事実の連続だった。石炭産業は戦後の経済復興を支えたのに、坑夫たちは暗い坑道の天井の穴から、目くるめく世の中をきっと眩しそうに眺めていたに違いない。炭鉱はまた、いろいろなドラマの舞台になったが、美術の分野でも多くの画家たちがテーマとして取り上げ、真正面から取り組んだ。そんな時代に活躍した画家や彫刻家の作品が見られる企画展だということで、作品よりも作家たちに懐かしさがあった。昨今、メディアの情報に踊らされて、名画などという絵ばかり追いかけてきた眼には、50年前、激動の時代の底辺で、人が生きていることを対極の視点から凝視してきた一連の画家の絵が、美術と社会との結びつきを考える端緒を拓いてくれたという意義は大きかった。しばし青春時代を懐古し、かつて畏敬した画家に邂逅した充実感を味わったあと、会場の一角で冒頭の絵に出合ったのだ。画家の名は記憶に留めなかったが絵は鮮明に脳裏に焼きついた。その絵が2011年5月、ユネスコの世界記憶遺産に登録されたとのニュースが流れ、作者の山本作兵衛さんの名が脚光を浴びることになった。そのような世界遺産があることをほとんどの人が知らなかったのは、日本では初めての登録だったからである。筑豊炭鉱の史跡をユネスコの世界遺産に登録申請した際、炭鉱夫の生活を描いた作兵衛さんの絵が参考資料として添付され、そちらが絶賛され、登録の対象になったという。作者は親子2代の炭坑夫で、60歳を過ぎ、ヤマの閉山で失職したあと、宿直警備員として再雇用され、深夜の時間、炭鉱の記録を残そうと思い立ち、文章を書き始めたという。郷土の歴史を語り継ぐべき長男を戦争で亡くし、孫へ伝えるための手段だったが、文字は読まれず処分されてしまう不安があって、絵なら残るかも知れないと思ったという。鶴嘴(ツルハシ)を絵筆に持ち替えたのだ。子供のころ、絵を描くことが好きだったことが幸いだった。還暦を迎えるまで絵を描くことを封印してきたことが、彼にとって子供のころの稚拙な描法が温存された。成人になっても描き続けていたなら、絵はどんどん上手くなって、味わいのあるこれらの作品は無かったろう。坑内は光の無い世界だからと、最初は墨だけで書いたようだが、インパクトを持たせるため色彩をつけるようにアドバイスされて絵の具を使うようになった。そして千点を超える絵が生まれた。

世界記憶遺産登録のニュースを知り、もう一度、あの絵を見たいと思ったが、残念ながら遠い九州・田川市に行かなければ見られない。再度見る機会はないと諦めていたら、彼の画文集『炭鉱に生きる・地の底の人生記録』(講談社)が発刊されたので早速、書店で取り寄せた。第1刷は45年前で、当時のものの新装版だった。

エネルギーが石炭から石油に急速に変わった昭和の半ば、東京タワーが完成した。今年、開業55周年記念事業として、特設会場で「山本作兵衛展」が開催されるという嬉しいニュースに接した。作品の多くが孫の手元に残ったのだ。人柄が滲み出るような絵を見ていると、作兵衛さんに再会したような嬉しさが込みあげてくるようだった。

 5月1日には天皇陛下が作品を鑑賞されるとの新聞報道に、もし、作兵衛さんが生きていたら、自分の孤独な画業が世界に認められたことに、好きな焼酎を手に、相好を崩して喜んだだろうなとつくづく思った。(克)

月ごと酔夢譚3月

水仙と大人のメルヘン

水仙を見る度、この花を愛した作家を思い浮かべる。昭和55年、食道癌により、54歳の若さで亡くなった立原正秋のことである。

この年、私はまだ、30代の半ばだった。だから彼の死には衝撃を受けたものの、享年の年齢には特段の感慨は無かった。今、自分がその年齢をはるかに超えて生きてみると、50歳代前半で生涯を閉じたのは、あまりにも早すぎたとつくづく思うようになった。

彼の作品を初めて読んだのは、読売新聞に連載された『冬の旅』で15歳の頃であった。主人公の母の生家が小田原の板橋だったのが強く印象に残り、作家に興味を抱き、ご当地ソングを聴くような想いで、次々と湘南を舞台にした作品を読んだのを覚えている。『舞いの家』という小説もやはり板橋にある架空の能楽堂や城山競技場が出てくる。  

闘病生活中、病院のベットの上で書かれ、絶筆となった新聞小説『その年の冬』も、主人公は小田原・南町に住む開業医の息子だった。

直子という女性が、主人公に水仙を贈る場面がある。それから連載中、立原邸にも水仙が山のようにファンから届いたというから驚く。

この小説の挿絵は湯河原町福浦に住んでいた日本画家・高木義夫が描いていた。後に湯河原の町立図書館で行われた挿絵原画展を見た記憶があるが、残念だが手元には記録となるものがいっさい無い。

そんなことに思いを馳せ、本棚からこの小説を抜き出してみると、表紙の装幀はやはり、この画家による水仙の花の絵だった。

因みに『その年の冬』にはお堀端通りの蕎麦屋が書かれている。主人公がその店の蕎麦湯を飲みたくてふらりと寄る場面がある。この当時、お堀端通りには蕎麦屋は「田毎」の1軒だけだった。立原正秋も小田原に取材に来て立ち寄り、道路に面した店の一角で先代の主人が打つ蕎麦を食べたのだろう。主人の相沢さんは文芸や演劇に詳しく、客が絶えた時刻、話が弾み、いろいろなことを教えてもらった記憶がある。古い店の面影とともに懐かしい。

立原正秋は鎌倉に住み、古典芸能に造詣が深く、中世の古美術に明るく、酒を愛し、無類の食通だった。この作家が描く世界の主人公は垢抜けていて格好が良く、私にとって常に憧れの対象だった。まさに大人のメルヘンだったと思う。何よりも端正な文体が好きだった。

作家の命日は8月12日だが、その死を悼んでファンが集う「水仙忌」は、毎年、水仙が咲く3月の第2日曜日に、墓がある瑞泉寺で行われる。これは熱心なファンや研究者が作る“正秋会”が主宰する集まりだから、会員でない私には参加資格が無いが、墓参だったら問題ないだろうから、1度訪れてみようとかねがね思っていた。今年も家の周りに水仙が咲き始めたのをみて、「今度の日曜日に瑞泉寺に水仙を見に行かないか」と妻に言ったら同意した。私はこれまで鎌倉には数十回訪れているが、駅と雪ノ下の近代美術館の間を往復するばかりだった。いわば点と線の町だったが、ウォークの会に参加してから観光スポットを歩くようになって、古都が面へと広がった。

次に鎌倉に行く機会があったら、瑞泉寺にまで足を延ばそうといつも考えていたから、鶴岡八幡宮からの道に迷わぬよう、市内の案内図を用意し、当日を楽しみにしていた。ところがこの日、朝から風が強く、花粉症の諸症状を想像すると途端に出掛ける気持ちが萎えてしまった。

翌日の新聞に、例年どおり「水仙忌」が、娘で作家になった立原幹さんを交え、行われたことが載っていた。よし、来年は何とか参加しよう。

それまでに立原文学の魅力をもう一度、堪能しておこう。そして主人公になった気分に陶酔してみたい。(克)