月ごと酔夢譚論外編(闘病中の殿塚会長に捧げる)

古稀の恥は掻き捨て

ハイキング仲間の友人が「体力維持を図るため毎年、金時山に登っている」と言った。彼と私は同年生まれで、丁度1ヶ月、彼が先輩である。お互いに古稀を迎えた。金時山登山といっても多分、足柄峠まで車で行き、そこから頂上を目指しているのだろうと思った。それならば自分もどれだけ体力があるか、自宅から頂上まで歩いてみるかと、対抗意識を燃やして挑戦した。誕生日の9月3日、7時ごろ家を出て、栢山、開成町、南足柄と歩き、昼ごろ地蔵堂に到着。弁当を持たずに行ったので、茶屋で蕎麦を食べた。ここで少し時間を費やしてしまった。

午後、歩き始めてすぐに夕日の滝に着いたが、ここは久しぶりだったので少し寄り道をして滝壺の見えるところまで入り込んでしまった。茶屋の人の話では、頂上まで2時間、帰りは1時間かかるでしょうとのことだったので、山頂で休む時間を考えると、最終のバスに間に合わない可能性もあり、この日は途中で引き返した。この日は酷暑とも言うべき日で、何度、自動販売機で飲み物を買い求めたことか。

1回目に時間切れで断念した教訓から、次の14日には朝、1時間早く出かけ、弁当は持参することにした。大雄山の駅の近くでコンビニを探したが、見当たらず、売店でパンを買い、地蔵堂を目指した。低気圧の接近で夕刻から雨との予想だったが、山中では昼に降り始めてしまった。小雨だったので行ける所まで行こうと歩いた。前回折り返した地点を過ぎ、足柄峠の分岐まで登った。雨と汗であまりにも濡れてしまったので下着を着替え、山頂を目指そうとしたが、この日は夜、自治会の会合が急に入り、どうしても出席しなければならないので、やむを得ずまたも断念。

台風18号が過ぎて、秋晴れとなった18日、再々挑戦した。コンビニで買ったおにぎりをどこで食べたか、今は思い出せないから、多分、ろくに休憩もせずに歩いてしまったのだろう。それでも金時山山頂に着いたのは午後2時過ぎだった。仙石原や御殿場の町の眺望が素晴らしかった。

自宅から山頂へ、徒歩で制覇した満足感で、自分への褒美のつもりと金時茶屋に寄って缶ビールを飲んだ。時間的にも茶屋に客は少なく、金時娘の小見山妙子さんと茶屋を手伝う息子さんを交え、四方山話をした。

この茶屋を開いた彼女の父親は新田次郎が書いた小説『強力伝』のモデルで、小見山正という。ブルドーザーやヘリコプターがない時代、2932メートルの白馬岳山頂に重さ190キロの「風景指示盤」を背負って登った伝説の人。そのことに触れると、自分の父親の話題となったのが嬉しいらしく、この伝説が生まれた昭和16年当時のエピソードをいろいろ話してくれた。

3時近くになって山頂を下り、しばらくして猪鼻砦に着いた。ここから夕日の滝へ通じるコースを以前、歩いたことがある。登るときも山から下りてきたグループがその道に入っていくのを見た。迷わずこのわき道に進んだ。やがて登ってきたときの足柄峠ハイキングコースとの分岐の沢に着いて、もう少しだと気合を入れた。ところが分岐の地点が先日の台風により倒木等で塞がってしまっていた。標識もおかしな向きに曲がっていたように思えた。沢だから川に沿って歩けばどこかでコースに合流するだろうと高をくくっていたら完全に行く手が途切れてしまった。分岐まで引き返そうとしたが、このままでは大分帰宅が遅くなりそうなので、とりあえず電話だけはしておこうと思った。しかし「圏外」で繋がらない。山頂なら通話ができるかと近くの尾根を目指して道なき斜面をひたすら登った。やっと「圏外」の表示が消えたが、もはや自分がどこにいるかさえわからない。1時間もしないうちに日没となるだろうから、滑落するのを避けて尾根で野宿することにした。それが自分の命を守るのに最善の行動だった。電池が切れるのが怖いから携帯電話は翌朝の5時にどちらかがかけるようにしようと妻に伝えて、杉の根本に腰掛け、木に寄りかかって寝ようとしたが、寝心地が悪くてとても寝られない。仕方なく、半袖シャツのまま地表に寝転んだ。日没から翌朝5時まで、結局、一睡もできず過ごしてしまったが、ラジオのおかげで退屈はしなかった。ナイター放送、歌謡番組、ラジオ深夜便をスタートから最後まで聞いた。夏休みに家族で訪れた伊勢神宮の式年遷宮の話、久しぶりに聴くシャンソンの名曲、仲秋の名月に因んだ月の歌の特集、そして懐かしい広沢虎造の名調子“次郎長外伝”と実に充実した一夜だった。

リニア中央新幹線のニュースも聴いた。沢から尾根までかかった時間でリニアは東京と名古屋に着いてしまうのか。ぼんやり考えた。

冷気が背中を伝わってくる。小さなペットボトルの茶は大事に飲んだ。これでワンカップかポケット瓶があったらと何度思ったことか。

翌朝、日の出とともに行動開始。またしばらく「圏外」一帯を歩くので電話は通じないが心配しないように伝えて山を下りた。斜面を下るとき、体を支えようと木の枝を掴むと枯れていてボキッと折れる。何度もそんなことを繰り返した。川に沿って行けば夕日の滝に着くことだけは確実だ。ところが沢に下りて歩いていると幾つもの堰堤にぶつかった。すると歩けないから、迂回するためまた山の中腹まで上らなければならない。

2時間ほど山中をさまよい、やっとハイキングコースらしき道に出会った。地蔵堂までの道は踊りたくなるような気分で歩いた。

 地蔵堂でタクシーを呼んだ。これから登山をする時間に、山から下りてきた私に運転手は驚いた様子。「どうしたのか」と聞かれて「昨日、金時山に登って、帰りに道を間違えて山で寝た。古稀を迎えたので、体力を試そうと小田原の自宅から山頂まで歩いた」といった。座席から顔は見えなかったが、あきれていたに違いない。運転手は小田原の生まれで、井細田だという。私の生まれた家と500メートルも離れていない。丁度、この日、昔は八幡神社の大祭だったのを思い出し、子供のころの共通の話題で会話が弾んだ。

 こんな論外な、恥ずかしい体験を記録しておこうと思ったのは、実は漆黒の杉林と梢の先の月光に照らされた夜空のコントラストの幻想的な美の世界を飽かず眺めたのを忘れたくないからだ。野犬の群れが吼えて走り回のを遠く聴きながら、眼を閉じると映画「もののけ姫」のシーンが甦る。多分、宮崎駿監督も同じ体験をしたのだろうか、などと考えた。

先日、入院中の殿塚会長を見舞ったとき、この話をしたら、ぜひ、ブログに載せてみたらといわれ、書いてみる勇気が湧いた。(克)


月ごと酔夢譚番外編

8月の独り言

長い闘病生活の末、義兄が亡くなった。お盆の帰省客で混む時期だったが、運よく秋田新幹線の切符が手に入った。病から解放されて、穏やかな顔で寝かされた布団のよこに大きな賞状が入った額が置いてあった。地元の市会議員を数期務め、地方自治に貢献した功績を称えた黄綬褒章というものだった。

叙勲されたという知らせを受けた記憶がないから、祝賀するような集まりもなかったのだろう。健康だったら嬉しさも一入だったと故人を悼んだ。

褒章を伝える賞状にそのときの総理大臣の名が書かれている。墨痕鮮やかな署名に一瞬、誰なのかわからなかったが、太郎という字が読めて麻生さんだと気がついた。かつて漢字を読み間違えて失笑を買ったことがあったが、読めなくても書くほうは随分達筆なのだなと感心した。

通夜が始まるまですることもなく、居間で地元紙“秋田魁”を開いていたら半藤一利氏のコラムが目に入った。その日が終戦の日で、昭和の歴史について触れた内容だったが、冒頭に麻生氏の「憲法改正はナチスに学べ」説を強烈に批判していた。半藤氏は現代史の泰斗として、特に昭和史について鋭い批評を展開してきた言論人だから、自ら書くこと、話すことに言葉の重みも感じさせず、責任を持たない政治家の言動に心底、憤るのも理解できる。ましてや副総理という重職にある人物なのだ。私もあの発言が報道され、早速、ネットで読んでみた。ワイマール憲法云々はさすがに総理経験者としてドイツの憲法事情にまで詳しいのかと感心していたら、以後、マスメディから一斉に事実誤認を指摘され、ナチス礼賛ではないと弁解に追われる立場になってしまった。

私はむしろ、この発言の前段の部分に注目した。「現在、憲法改正に反対しているのは六十代以上の人で、若い人たちの多くは改正を望んでいる」と述べている。だからこれからの社会を担う若者のため、新しい憲法が必要であり、そのためにナチスを見習ったらどうかというのだ。

さる大学教授が、最近の大学生はかつて日本がアメリカと戦争をしていたことを知らない者が多い、と嘆くのをかつて新聞で読んだ。昭和の終りから平成にかけて生まれた子の親もまた戦後生まれなのだ。戦争を親子で語る機会など多分ないだろう。私も娘たちとそんな話題を話したことなど記憶にない。だからやがて訪れる憲法改正に向けてどんな意思表示をするのかまったくわからない。

娘を含めそのような若い世代が、自己の論理を形成しないまま、数の論理に流されてゆくのだろうと漠然とした危惧を感ずる。

子供のころ、母がヒットラーは偉い人だといっていた。どうして偉かったのかと訪ねたら、学校で習ったからといった。山峡の農村で育ち、戦後も歴史など学ぶ機会のなかった母は、生涯を閉じるまでホローコーストも知らず、ヒットラーは偉いと信じていたに違いない。一度植え込まれた歴史認識を変えるのは、至難なことかもしれない。同時に歴史認識を持たない世代の若者に、一方的な価値観を植え込むことは白地を染めるように易しいのも事実なのだ。そこでGHQは幾多の史実を教訓として、憲法改正に96条の足かせを嵌めた。改正発議に必要な両院議員の3分の2というハードルである。ハードルの高さは順当だが、現行の小選挙区制という選挙制度と、1票の格差放置、そして政治に対する無関心での低い投票率を考えるといつか越えられるだろう。

終戦の日として、靖国神社を参拝する若者にマスメディアがインタビューしていた。「太平洋戦争が自衛のための戦いと聞かされて、尊い犠牲となった英霊を敬うために来た」と答えていた。この日の境内の喧騒は、ドキュメンタリー映画『蟻の兵隊』の映像でしか知らないが、ラストシーンで主人公が「どうしてあの戦争を聖戦とするのか」と参拝者に問いかける画面が甦った。

8月を迎えると、6日、9日、15日と改めて我々の歴史認識が問われる映像が流れる。母の歴史認識を反面教師として、あの15年戦争の知らなかった真実をもっと知りたいと思い、この10年間、できる限りの映像を観てきたつもりである。今月も『風立ちぬ』『終戦のエンペラー』『少年H』と続けて観た。映画を通じて、戦後の世代では、体験で知りえない真実を後世に語ろうとする表現者が顕在することに充たされる思いがした。

日本がナチスに学ぶことがあったとしたら、終戦の年、4月のドイツの全面降伏ではなかったのではないか。同盟国を失えば、連合国の戦力が日本本土に集中することは必須であり、この時点で戦争終結に向かえば、沖縄の悲劇も、その後の空襲も、シベリア抑留も、何よりも原爆投下は免れたのではないか。

もし、ふたりの孫が成長して歴史に感心を持つようになったら、少年Hの視点で、歪められていない史実を伝えてあげたい。(克)