月ごと酔夢譚例外編

牡蠣礼賛



牡蠣が旨い時季になった。どのように調理しても旨いがやはり生が最高だ。安価で重宝である。

スーパーで牡蠣を見ると30年くらい前のことを必ず思い出す。地元で行われたマラソン大会に参加したときのこと、「帰ったら生牡蠣を食べたいので買っておいて欲しい」と母に頼んで出かけた。無事に完走して風呂で汗を流し、満足感に浸り、ビールの栓を抜いた。生の牡蠣にレモンを絞り、これをつまみにビールを飲んだ。そして食事をし、ごろりと横になった。しばらくすると胃がむかむかし始め、トイレで吐いた。それからというもの、何度も吐き、生の牡蠣に中ったときの怖さを知った。吐くものが無く血痰まで吐き、夜になってようやくおさまった。加熱用をどうやらそのままワンパック、生で食べてしまったらしい。生食用と加熱用とでは出荷段階で殺菌処理をするか、しないかで異なるなんて母も私も当時、知る由も無い。

そんな経験をしてもこの時季、生牡蠣を食べたくなる。津波で三陸沖の牡蠣養殖場が壊滅したニュースに、「あゝ、これから品薄になって価格も上がるのかなぁ」と心配したが、どうやら杞憂に終りホッとしている。

5月、保険の代理店を営む友人から、社員旅行で南三陸に行くので、同行しないかと誘いがあった。仙台でレンタカーを借り、被災地を巡るという。損害保険を営業するため地震と津波の恐ろしさを実際に見ておきたいとのこと。翌日、東京で観劇する予定があったので参加を迷ったが、コースに気仙沼が入っていたので、一緒のホテルには宿泊をせず、一ノ関に泊まるので、ここで別れることにして同行した。

こんなときでなければ気仙沼を訪れる機会などまず無いだろう。現地では津波で住宅地に打ち上げられた巨大な漁船第18共徳丸に唖然とするばかり。観光バスも何台かきて見学していたが、あの船体が陸にある限り、地元の人はいつも惨状を思い出さずにいられないだろうから、辛い思いをさせないよう解体もやむを得なかったのだろう。10月に解体されたニュースを新聞で知り、複雑な心境になった。

まったくの偶然だが出かける前日、小田原法人会の主催による畠山重篤氏の講演を聴く機会があった。氏は気仙沼唐桑地区舞根湾(もうねわん)で牡蠣の養殖を行っている傍ら、エッセイストとして多くの著作もある。最近では読売新聞書評欄でも健筆を振るっている。森の蓄えた地下水が海に注ぎ、海水を浄化してプランクトンが発生し、牡蠣の成育を援けているとの考えで、森を守るNPO法人「森は海の恋人」を立ち上げ、理事長を務めている。私と同年生まれだが、実に若々しい。明日に向かって生きる希望があるからだろう。

唐桑地区は海に突き出た半島にあるから、まともに津波の被害を受けている。

当然、氏の養殖場も壊滅したようだが、仲間との共同による懸命の努力で復興されつつあるようだ。氏の著作の中で「牡蠣礼賛」(文春新書)は楽しい一冊。世界中の牡蠣に関する薀蓄が述べられ、実に奥が深い食べ物であることがわかる。月にRが付く期間は食べないとする言い伝えも、元はヨーロッパヒラガキに限定して言われたこととこの本で知った。5月に取れるものはむしろうまみが凝縮され最高という。

その2週間後、妻の中学同窓会が松島で行われた。会場のホテルまで一人で行くのが不安そうだったので、観光を兼ねて一緒に行こうということになった。

以前、清水寺の参道にアテルィの碑があるのに驚いたことがあった。北国の原住民だった蝦夷頭領と京都古刹との因縁が結びつかず、興味が湧いて、いつか彼を書いた高橋克彦の小説「火怨」を読もうと手に入れたがまだ果たせていない。蝦夷征伐のため、坂上田村麻呂が陣を張ったという多賀城城址を訪れたかったので絶好の機会だった。現地ガイドの熱心な案内に満足して松島に向かった。ここではお決まりのコースで観光したが、五大堂の入り口近くの茶屋で焼き牡蠣を売っていた。早速食べたが薄い塩味で旨かった。

三陸が東の牡蠣の特産地なら西は広島だ。

昨年から今夏にかけて日本三景の天橋立、松島を訪れたから秋には宮島に行こうと決めていた。3つの地点は一直線で繋がるのも面白い。

宮島では弥山(みせん)に登ろうと、厳島神社を参拝してから紅葉谷公園に向かったが、紅葉時期の日曜日とあってロープウェイは一時間待ち。整理券を手に公園を散策したが、園内の紅葉に見とれて待ち時間がアッという間だった。

山を下り、桟橋に向かう途中、土産物店の隅で焼き牡蠣を売っていたので買い求めた。松島を思い出し、食べたかった。他の店は皆、客が長く列を成していたから諦めていたので嬉しかったが、小粒な身で2個400円。全然旨くなく、この粒ならスーパーでワンパック買えるのにと文句を言いながら食べた。前夜、広島の町で食べたお好み焼屋の牡蠣のスープはまぁまぁだったが、宮島のはひどい。

夜、尾道に泊まった。ホテルを出て尾道ラーメンの店に入った。

メニューに牡蠣のトッピングがあるのに気付き、お願いした。大振りの牡蠣が二つ、ラーメンに乗せられて出された。そのひとつを摘まんで口に入れた。クリーミーで濃厚な汁がいっぱいに口中に広がる。思わず旨いと叫びたくなる。テレビで芸能人が食べ物を食べたときの大げさなシーンのように。今度の旅行で牡蠣にも雲泥の差があることを知った。収穫である。

思えば旅をして、あのときのあれが旨かったという記憶が乏しいのは、元来、グルメではなく、食品の産地などに拘らないからだろう。還暦を過ぎて毎月、雑文を書いてきて、食べ物に関するものはほんの数編だけだ。テーマに挙げたのは蕎麦とレバーの生刺、ユッケ、鰻ぐらい。だから今回のテーマはいわば例外ともいえる。夏、家族で伊勢に行ったとき、連泊した鳥羽のホテルで出された伊勢海老のグラタンが、実はオマール海老を使っていたことがわかった、と最近になって娘が言っていたが、そのとき気づいた者など一人もいなかった。伊勢海老の殻に盛られて膳に乗っていたのでお品書きを信じ、伊勢海老と思い込み、贅沢な気分をしていたに過ぎない。

暮れになると築地に行く。“からすみ”を買ってきて、正月の来客には模造のものを出し、自分はホンモノをつまみに晩酌をしているが、これも同じ。

飲み屋でビールを頼むと銘柄を聞かれる。どうでもいいから早く出してといいたくなる。キリンとアサヒの違いなんてまるでわからない。

味覚なんてそんなものと思う。だから食品偽装が絶えないのだと思う。

そんな味に鈍感な自分が、あのラーメン屋の牡蠣はもう一度、食べたい。でも、牡蠣を食べに行くには尾道は遠すぎる。(克)

月ごと酔夢譚場外編

黄昏の神宮球場

中学生の頃、近所の八幡神社に街頭テレビが設置された。

いつものように夕食を済ませると、ナイター中継を見るため出掛けていった。子供のころから熱烈な巨人ファンで、川上選手の活躍に喝采をおくり、毎日の打率の動きに一喜一憂していた。

翌日、学校に行くと担任の山田先生から職員室に来るように言われた。前夜に神社でテレビを見ていたらしいが、期末テストの期間中は家で試験勉強をしなさい、と注意された。神社の近くに住んでいた高橋先生が、学校の帰りに自転車で通りがかり、テレビ観戦する大人の中に中学生が混じっていたのを発見し、担任に報告したのだ。そのとき、初めて中学ではテスト期間中は皆、家で勉強していることを知った。当時の白山中学は6つの小学校が学区で、1学年が600人近くも生徒がいて、テストの成績結果の上位者は廊下に貼りだされた。ベストテンのメンバーはいつも同じで、その中で多少、順位が入れ替わるだけだった。どう頑張ってもその中に食い込むことなど、夢の夢である。

成人になってわかったことだが、彼らとは頭脳の構造の差だけでなく、生活環境がまるで異なっていた。我が家では試験勉強をしろとも言われなかったし、第一、期末試験があることすら親は知らなかったのではないかと今では思う。

華やかなスター選手が多かった巨人軍で、一人風変わりな選手がいた。二塁手の土屋正孝選手だ。頭脳的な守備と勝負強い打撃でいぶし銀のような存在だったが、いつもポーカーフェィスで“眠狂四郎”とあだ名がついていた。

1961年、川上が監督になってから、その年、国鉄スワローズにトレードに出された。いわゆるそりが合わなかったのだ。

彼のファンだった私は巨人が嫌いになり、国鉄ファンになった。

移籍した年の土屋選手の活躍は目覚しかった。2年後の夏、初めて後楽園球場で巨人・国鉄戦を観戦したときも彼は大活躍し、大いに溜飲を下げたのを今でも忘れられない。その後、阪神に移籍し、現役を引退して、球界に名を見ることは無くなり、さびしい。

先日、一九悠会ウォークで信州を訪れたとき、あの土屋選手が松本深志高校の出身だったことを思い出した。開智学校に寄ったので両校の関連を調べてみたら、やはり、深志高校は開智学校から枝分かれしたものだった。

国鉄すなわち現在のヤクルトスワローズは、設立後18年間も、Bクラスを低迷していたが、広岡達朗監督になって3年目、念願の初優勝を遂げた。

その年の日本シリーズ阪急戦は今でも試合経過を覚えている。

その後のヤクルトは野村、若松監督指揮下でも優勝したが、大概、いつもBクラスだった。それでも東京に出かけると、試合がある日は帰りに神宮球場に回って外野スタンドで応援をした。だが、昨年も今年もとうとう一度も球場へは行かず、専ら場外での応援となった。今年はわずかにバレンティンと新人小川投手の活躍だけが救いのペナントレースだった。宮本慎也選手の引退にも落胆した。

今、日本シリーズの真っ最中。球団設立の年の楽天からは想像できない強いチームになった。「巨人をやっつける」と星野監督はペナントレース優勝したとき楽天ファンに宣言した。必ず約束を守るだろう。東北のため期待する。

かつての国鉄も金田投手が投げる試合以外は、まったく勝てなかった。稲尾や金田、そして田中将大は弱小球団の救世主だ。

きっと来季のヤクルトにもこのような大選手が現れて、神宮球場に足を運びたくなるようになれ、とひそかに祈る。(克)

れは明日から3日連休になる前日の9月20日、午後11時頃だった。テレビを見終わりそろそろ寝ようとソファーから立ちあがろうとしたが、なかなか立ち上がれず、やっと立ち上ったが転んでしまった。何かおかしいと思ったが、何とか寝床に入り寝た。午前3時頃に小便がしたくなり、起き上がろうとしたが起き上がれない。横で寝ている家内が異変に気付き、「救急車を呼ぼうか」と声をかけてきた「そうしてくれ」と私。玄関に置いてある椅子に腰をかけ待っていると約15分で到着。救急隊員が持参した袋にお尻を入れて(布担架)、赤ちゃんみたいに抱かれて救急車に移動し救急車に乗せられた。救急隊員に症状を告げると、脳梗塞と理解したらしい。東海大・大磯にと伝えたところ大磯に隊員が電話をしたが、大磯では対応できる医師が不在とのことで断られた。つぎに西湘病院に隊員が連絡したところ空きベッドが無いとのことで受け入れを拒否された。次に松田の病院に連絡したがここも空きベッドが無いとのことで拒否された。隊員が小田原市立病院に連絡して受け入れがOKとなった。
救急車が到着してから自宅を出発するまで約3~40分経過していたのではなかろうか。市民病院に着くとすぐにCTやMRI撮影となり、点滴をされ、601号室(4人部屋)に。後に分ったことだが601号室は緊急患者用にベッドを開けて受け入れ態勢している部屋だった。家内は部屋のべッドに私が落着いたのを見届けると帰宅した)病院に着くと発症からだいぶ時間が経過しているので、血栓を溶かすクスリは使えないとの話があった。どうなるか不安だらけだったが、この緊急時に入院に必要な品物を家内が、携えて来てくれて助かった。訊けばいつ入院してもよいように必要なモノをリュックに入れて置いたのでそれを持参した由。家内に感謝。気付けば、外はうっすら明るくなっていた。午前5時を回っていた。ウトウト眠る。起きて21日になった。昼頃に家内と横浜から娘が二人の孫を連れて見舞いにくる。ありがとう。世間では三日連休に突入。翌、22日(日)息子一家が国立から見舞に来た。ありがとう。クルマ椅子で面会場所に行く。右脚が思うように動かせずイライラするがいかんともし難い。601号室から611号室に移る。
入院をしていて気になることは一九悠会で11/21の「野田市を歩く」はだいぶ先なので多分大丈夫だろう。10/5に元会社の若手と鎌倉を歩くことになっていた。これは無理なので断る。移った部屋は二人用で、私しか入室していないので、部屋から携帯を使えるので便利だ。連休明けの9/24(火)からリハビリが始まる。24日、一緒に鎌倉を歩く予定だった若い社員6人が見舞に来る。
一九悠会のBさんに連絡すると当日午後Fさんと来院。お二人の暖かい見舞いに癒される。。
27日一九悠会のAさんが昨日の鎌倉ウオークで入院を知ったと来院。
止にする。一九悠会のAさんとSさんが鎌倉ウオークで知ったと来院。29日は元会社の元部下の6人(鎌倉を一緒に歩予定だった)来院。会社はアベノミクスの恩恵は見られないとのことで厳しいようだ。
同期仲間で京都・奈良旅行を11月中旬に予定していた同期仲間二人が来院。この旅行も中止とする。27土、28日と外泊許可をもらい久しぶりに帰宅して29日に病院に戻る。
30日一九悠会のSさん来院。Sさんは台風開けの18日が快晴になったので、自宅から金時山まで歩いた話。思ったより台風の影響で道に木が倒れていたりして、道に迷い。自分が何処にいるのか不明になったとのこと、家族が心配して捜索願いなどだされては大ごとだと思い携帯で連絡したが、圏外で連絡ができず、それなら連絡可能な場所までと上を目指して歩いた。連絡が可能な場所まで来てほっとした。あたりは暗くなっていてここで野宿することに決め、木株に寄りかかり、寝ようとしたがウマク寝むれない。とりあえず地面に寝ころんだ。
寒くて熟睡はできず朝を迎えたと言う面白くて興味深い話だった。この話をブログに記載するように薦めた。退院してパソコンを開くと金時山の顛末がブログに載っていた。
脳梗塞は一度発症すると、2,3回発症するとのこと、私の場合初回はH25年3月だった。あれから3年余が経過かした。有名人では歌手の西条秀樹さん当団地ではシルバー大学の先輩で、パターゴルフの仲間の荻野さん(2ヶ月でパターゴルフに復帰した。私はまだ歩行が覚束ないが、10/17木に退院した。今後はリハビリに専念して11/21の「野田市を歩く」に迷惑をかけることなく参加したいと考えている。
この場を借りてお見舞いいただいた一九悠会の皆様に厚くお礼申しあげます。ありがとうございました。