8月

お盆を過ぎて、妻の実家で法事があった。五十回忌だという。

妻は故人の曾孫に当たるらしい。私も参席することにして妻の田舎を訪れた。私の目的は機会をとらえた観光である。まず世界文化遺産に登録された平泉をもう一度見たかった。以前行ったときは、拝観料が勿体ないと金色堂に入らなかったが、世界文化遺産ときき、気が咎めていた。あのときは庭園にも関心が薄く、毛越寺にも寄らなかったので今回はコースに入れた。中尊寺は参詣客で賑わっていた。タクシー会社の事務員さんの話では、震災後、観光客は激減したが、世界文化遺産登録後は急回復したらしい。

都から離れた東北の一地方に、このような文化を拓いた奥州藤原家について知りたい気もするが、残念ながらもう私の脳力に余力はない。

一関から古川に戻り、陸羽東線に乗り換え、新庄から奥羽本線の横堀へ。このコースは初めてだが、駅弁を食べながら見る車窓の田園風景には癒された。

翌日、法事を済ませ、夜遅くまで妻の兄弟、甥達と口角泡を飛ばせて時評を語った。尤もあの泡はビールの泡だった。

そして帰路、私たち夫婦は角館を観光することに。帰りの特急券を湯沢駅で買おうとしたが指定が取れず、少々慌てた。切符など当日買えばいいと甘く見ていたことを猛省。

角館は町並みも素晴らしいが、美術史上に名を残す2名の画家を輩出している。小田野直武と平福百穂である。また新潮社を創立した佐藤義亮もここで生まれた。記念館がある。

平賀源内に学んで司馬江漢らとともに日本に洋画を導入した小田野直武の資料は、以前、武家屋敷の青柳家で見たことがある。だが町並みの外れにある平福百穂美術館は始めてだ。

彼は郷土の誇りなのだろう。平福百穂美術館の建物は日本画壇の巨匠に相応しい立派な佇まいだった。残念ながら代表作の展示はなかったが、訪れたことで満足した。駅に近かったので新潮社文学館にも寄ってみた。


妻の田舎は、もともと少なかった近所の商店も閉じ、惣菜や生活必需品を町から売りに来たクルマも来なくなり、路線バスは廃止され、小学校は廃校になっていた。視野に広がる緑も休耕田の雑草だった。身を粉にして人材を育てた老人はやがて棄民となり、市町村が投入した子供への教育費は、なんら地域に還元されないまま、都会に住民税として収奪され、都会だけがぶくぶく太っていく。財政が潤沢な東京は、またオリンピックを招致するという。朝日新聞の土曜be版によると、これに対する批判的意見が意外にも79%だったという。この数値を見て、あの震災と原発は、東北の人々の犠牲を強いて奢り昂ぶった人の心を冷やす役割を果たしたのだろうか、とつくづく考えた。(克)

7月

子供のころ、挿絵画家に憧れた。あまり体力を使わず、好きな絵を描いて暮らせるならこんないい職業はないと思った。しかし、当時活躍していた中原淳一や蕗谷虹児の華麗な絵を見ているととてもこんな上手く描けないと夢を簡単に諦めてしまった。その蕗谷虹児の名を久しぶりに思い出させたのは、小田原周辺の文芸愛好家が仲間向けに発行している「文芸西さがみ」の誌上である。シルバー大学の授業で、郷土にゆかりの文芸家への関心が高まり、会員になって送っていただいている。その中で郷土の詩人が作詩した歌を楽しむ催しの案内があり、蕗谷虹児の『花嫁人形』が入っていた。どうして新発田市出身の彼が西さがみと関係あるのかと調べてみると戦時中、山北町に疎開していたことがわかった。酒匂川で鮎が釣れるので選んだらしい。ここが気に入って戦後も9年間住んだという。だから私が子供のころ、その才能を羨望の眼で見ていたのは山北時代の作品だったのかもしれない。しばらくしてタウン情報誌に中川温泉に彼の常設展示ギャラリーができたとのニュースが載った。いつか訪れたいと切り抜いておいた。なかなか行く機会がなかったが、先月、ハイキングが丹沢湖だったので帰りに寄ってみようと考えた。しかし、バーベキューが楽しくて、ついビールを飲みすぎ、やむを得ず出直すことにした。

以前古書店で偶然手に入れた阿刀田高著『夢の宴』を読んだ。この文庫に(私の蕗谷虹児伝)というサブタイトルがなかったら買うことはなかったろう。しばらく書架で埃を被っていたが、電車で出掛けたときの退屈しのぎに読み始めたら実に面白かった。

詳しく書けないが、繊細な画風からは想像もできない破天荒な人生だったことに驚いた。

読み進んでいるとき、横浜そごうで蕗谷虹児展が行われるのを知った。不思議な因縁である。早速出掛けてみると会場は、多分、少女時代を彼の挿絵や雑誌の表紙に見とれて過ごしたと思しき女性客で賑わっていた。彼が挿絵を描くと小説は読まれ、表紙を飾ると雑誌は売れたという超人気画家の数百点の原画、本格的な画家を目指して描いた日本画、パリ時代の滞欧作など蕗谷虹児ワンダーランドをたっぷり楽しんだ。中には中川温泉“蒼の山荘”にある作品も展示されていた。

詩人でもあった彼は『花嫁人形』のほか、沢山の詩や童謡を遺したが、山北地区にある高校、中学、小学校の校歌、校章、校旗も手掛けている。小説では山北での生活はほとんど触れられていない。戦前が波乱万丈だったから、山北での生活があまりにも安穏で阿刀田高も筆が進まなかったのだろう。晩年は中伊豆で暮らした。修善寺からタクシーで数分の温泉場だというから、以前、仲間と訪れた新井旅館の近くだったのかも知れない。(克)

6月

 待ち望んだ定年退職を迎え、何の気兼ねもなくスケッチ旅行や美術館めぐりができる喜びに浸った。読書三昧の日々も可能だった。この頃を機に、読書感想、旅の思い出、展覧会の印象などを毎月、エッセイに書きとどめておこうと思いついた。既に7年が経過し、そんな雑文が100篇近く溜まった。半分ぐらいに達したとき、これを本にして自費出版したくなった。最低の数量で印刷すればいい。費用も日頃節約すれば何とかなる。押し付ければ義理で買ってくれそうな友人・知人も何人かいる。もちろん利益は考えられないから、余ればこれまで世話になった方に進呈すれば在庫の処分もできるだろう。しかし、そこでハタと考えた。いくらただで差し上げるといっても「そんなの要らない」と言われたらどうしよう。まさか棄てるわけにもいかない。我が家にはダンボールを積んどくスペースはない。葬式のときに故人の記念ですと香典返しの中に紛れ込ます手もあるなと思ったりもした。だが年金生活者にどれだけ会葬者がいるか、などと思い巡らすとそれも断念するしかない。これからもエッセイと称する雑文だけが虚しく残ることになるだろう。

 始めて書いたエッセイは「無言館を訪ねて」だった。学徒出陣を強いられた東京美術学校の画学生を中心に、戦地で亡くなった画家の卵の遺作を集めた信州・上田の美術館がテーマだ。シルバー大学の仲間との二回を含め、ここには何回も訪れている。だが第2展示館が増築されてからはまだだ。今年は9月早々に行く予定だ。塩田平と独鈷山の風景もゆっくり楽しみたい。別所温泉の外湯も魅力だ。旅はひとりに限る。

今月、100周年を迎えた横浜の赤レンガ倉庫1号館で、無言館貯蔵作品「祈りの絵展」が催され、上田では観られなかった作品がいくつも並んでいた。生きていたなら戦後の美術界で傑作を生んだはずの、天賦の才能を感じさせる作品もあったのは発見である。

無言館館長の窪島氏がフロアにいた。少し話したかったが椅子にもたれ、疲れているようだったので、遠慮した。彼の近著を欲しかったが売り切れていた。

その翌日、新宿武蔵野館でドキュメンタリー映画『無言館』を観た。地味な作品なのに前列の数席しか空席がなかったのは意外だった。

さて、My月新聞は月末発信だが、明日は五十三次の岡崎から宮まで歩くので繰り上げた。来月は山北ゆかりの画家蕗谷虹児を取り上げてみたい。先日、中川温泉に行った際、「蒼の山荘」内の彼の美術館に寄りたかったが、帰りのバスの都合で諦めた。そごう横浜で始まった展覧会は見逃せない。阿刀田高の小説「夢の宴・私の蕗谷虹児伝」をようやく読み終えた。記憶があるうちに彼について、懲りずにエッセイを書こう。(克)