11月

 国内に居ながら古今東西の名画が鑑賞できるので、外国の美術館に行きたいと思わない。しかしセガンティ―二だけは別であった。スイスのサン・モリッツに建つこの画家の美術館だけは訪れたいと思ったのは、かつて渋谷の美術館でスイスにゆかりのある芸術家の展覧会を見たときだった。展示されていた彼の一点『アルプスの真昼』が強い印象が残った。現代のどんなに高度な印刷技術でもこのマチエールは表現できないだろうと感嘆したのを覚えている。だから彼の本物の作品が並ぶ美術館にだけは行きたいと思った。しかし、考えてみれば代表作は世界に散在してしまっているから、画業の全容を知るにはここだけ訪れてもあまり意味がないといえる。また100年近い歳月を経た美術館の建物は写真で見ても観光資源としても魅力的だが、個人では行けそうになく諦めるしかない。だから静岡で「セガンティ―二展」が開催されると聞き、楽しみにしていた。出掛ける予定を立てていたら東京に巡回するという。そこで損保ジャパン美術館での開催を待つことにして、会期の最初の日に早速出掛けた。丁度休日にあたり、この画家の人気の高さもあって会場は混んでいた。

 画家の生涯についてほとんど知らなかったが、独特な画法をどうやって身につけたか興味がわいた。イタリア北部の町で生まれた彼は幼くして両親を失い、窮乏生活を送る。彷徨の末、感化院で過ごしたこともあった。10代の頃、絵師の助手として弟子入りをして絵を学び、才能を開花させた。20歳の自画像があったが、すでに大家の趣が滲んでいる。このころの作品はアカデミックな暗い色調の絵である。確かな描写力が評価され展覧会の入賞者の常連となったが、ある画商との出会いが画風を変えさせた。当時のヨーロッパでの印象派の息吹が伝えられたのだ。結婚し、子供にも恵まれた画家はアルプスの麓の牧歌的風景を存分に描いた。そして分割主義という表現方法を編み出し、名声を得た。補色を並べて点描することによって個の色が反発しあい、光の眩しさを画面で表した。網膜で色が重なる新印象派の色彩とはあきらかに異なるもので、決して画集では味わえない。

 より光に満ちた地を求めて標高2731メートルのアルプス山麓に一家で移り住み、山小屋で翌年のパリ万博に展示する『生』『自然』『死』の3部作を制作中に急病に倒れて、帰らぬ人となってしまった。41歳の若さだった。

 大震災のあと、しばらく出掛ける気分が削がれ、美術展めぐりも選別した今年だったが、掉尾にセガンティ―二に出会えたことは幸せだった。(克)

10月

真鶴半島西側の海岸に下りる急坂の途中、画家高良真木の家がある。真木は精神科医学の泰斗といわれる高良武久の娘で、母親のとみは戦後、女性が参政権を得て、初めて行われた参議院選挙に立候補し当選した社会運動家である。父は南国的なこの地が気に入り、1959年に2千坪の土地を買い、家を建てた。坂の入り口には中川一政が住んでいた。真木は今年2月1日に80歳で死亡するまで約50年をここで過ごした。

 平塚市美術館が開館20年を迎え、湘南にゆかりがある画家を選んで記念展を企画し、女性版として、3人の画家を取り上げた。高良真木のほか、気鋭の現役画家2人の作品が並んでいる。学芸員が見学者に作品を解説するギャラリートークの日に合わせて出掛けた。人気画家の場合は聴講者がいっぱいだが、今回わずか4名だった。別にひとりの女性が紹介された。彼女は真木の姪ですと名乗った。するとあなたは留美子さんの娘さんですか、と訊ねたら「そうです」と答えた。真木の妹留美子はH氏賞を受けた詩人で、戦前戦後を、女性解放運動で波乱万丈の生涯を過ごした母親のとみに自叙伝『非戦を生きる』を書くよう薦めた人である。私にとっても貴重な蔵書の一冊だ。現在も健在で、世田谷区深沢に姪と一緒に暮らしているという。閑散とした館内だったから遠慮なく元気だったころの真木の日常を訊ねた。姪の美穂子さんも楽しそうに伯母の思い出を語ってくれた。彼女をモデルにスケッチした小品も並んでいた。担当した女性の学芸員は、この企画が持ち上がり、打ち合わせに何回も真鶴を訪れたらしい。展覧会をとても楽しみにしていたと今春の急逝を惜しんでいた。

私も彼女の絵を見る機会は生涯ないだろうと思っていたから嬉しかった。

晩年、手元の作品を全て平塚市美術館に寄贈したから実現した企画である。母親の血を引いて社会運動にも関心が高く、日中友好協会の西湘地区の中心的な活動家だったらしいが、父母は画家としてもっと制作に励むよう願っていたと現代画廊主・洲之内徹はエッセイ『気まぐれ美術館』の中で書いている。母とみから説得するよう頼まれたらしいが、毛沢東でも無理でしょうと結んでいる。絵の具を丹念に塗りこむ濃密な画風から、寡作はやむを得ないが、やはりもっと作品を残しておいて欲しかった。

急に思い立ち、秋晴れの日、高良家がある尻掛(しっかけ)海岸を歩いてみた。原生林の中の家は建替えられ『真鶴森の家』との標識があった。芸術家の創造の場として提供しているらしい。(克)

9月

 八海山山麓の町・浦佐で走遊会の集まりがあった。十数年前、尊徳マラソンで知り合った仲間である。土曜日に集合し、翌日、山岳耐久レースに参加するのが目的だ。軽く練習をした後、宿で酒盛りが始まり、お膳に地元銘酒の一升瓶が林立する。私と同世代なのにこの20年間にフルマラソンが今回100回目という猛者もいて、健脚自慢に花が咲く。私は数年前に高低差が激しいこのハーフマラソンコースに挑戦したことがあるが、今は平坦でも走れない。仲間はハーフを2周してフルマラソンを走るという。走る中毒患者のようだ。情けないがスタート地点で皆と別れ、ひとり上田に向かった。

塩田平の丘陵にある信濃デッサン館を以前訪れたとき、改装中だった。後日、所蔵する野田英夫の絵が、資金難のため売り出されるという新聞記事を読み、本当に改装しているのかと疑った。行くと、建物外観はもとのままだったものの、中は幾分展示スペースが広くなり、すっきり見やすくなっていた。私の目当ては22歳で夭折した天才画家村山槐多の作品だ。画家になることを父母に反対され、家出して京都から歩いて辿り着いたのがこの上田である。ここには早くから彼の才能を認めていた従兄弟の山本鼎がいた。鼎は槐多の父母に、夢をかなえさせてあげてと何度も手紙に書いている。

信濃デッサン館を出て、別館の2軒の槐多庵、少し離れた無言館、新しく建った傷ついた画布のドームと巡り、帰路、上田城公園の山本鼎記念館に寄った。美術史にいろいろな功績を残した画家である。創作版画の普及、農閑期の農民に工芸品制作指導、児童自由画運動推進などである。さくらクレパスの生みの親でもある。10代の頃、木版工房に弟子入りしてキリンビールのマークを木口版画で彫った。原画は高名な漆芸家だが、展示された当時の作品をみて高度な技術に感心した。以前訪れたときは槐多の従兄弟というだけで、人物そのものには関心が乏しかったが、その後、初めての詩集『邪宗門』を装丁したことが縁で、北原白秋の妹と結婚したことを知り、小田原とのゆかりを感じ、親しみを覚え、再訪したのだ。

鼎が結婚したのと、白秋が小田原に来たのが大正6・7年ころだったから、鼎も義兄を訪ねて小田原に来たことがあるのかしらん。(克)