今朝の日経新聞に、「上原、14年後の男泣き」という素晴らしい記事が掲載されていたので、タイプしてみました。
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1999年、巨人のルーキーだった上原浩治は不本意な「歩かせ」を指示されて、涙を流した。ワールドシリーズでレッドソックスのクローザーとして流した涙の源流をたどっていくと、14年前のあの悔し涙にたどり着く。
大体大から巨人入りするときすでに、メジャー入りか、という話もあった。もともと海外志向はあったわけだが、それが決定的なものになったのはあの“事件”がきっかけではないか。
1999年10月5日。上原は新人選手としては20年ぶりとなる20勝をかけて、神宮のヤクルト戦の先発マウンドに上がった。すでに中日が優勝を決め、いわるゆ消化試合であるこの一戦の焦点は並外れた新人の快記録の行方のみだったが、ここで予期せぬ一幕があった。
快調にヤクルト打線を抑えてきた上原が、7回1死無走者からロベルト・ペタジーニにあっさりと四球を与えてしまう。目をつぶってでもストライクが取れそうな上原としては、ありえない四球だった。
ベンチの指示だった。本塁打王を狙う同僚の松井秀樹が、1本差でペタジーニに迫っていた。そのタイトル取りをアシストするためのベンチの配慮だった。もともとヤクルトサイドが松井との勝負を避けていたからでもあり、巨人ベンチとしてもやむを得ないものだった。
しかし、上原は「敗退行為」とも取られかねない四球を与えることに耐えられなかった。
日本球界では恒例だった「タイトル奪取のためなら何でもあり」の悪習に「ただ負けたくない気持ちだけでやってきた」という新人が巻き込まれた。くやしさのあまり、涙をぬぐった。
「大学でも敬遠をしたことはある。ただやっていい敬遠と・・・・・・」。これに続く「やってはいけない敬遠がある」の一言はぐっと飲み込んだ。そこまで話したら、首脳陣批判とされる恐れがあった。
実際のマウンドで涙を流しただけで「首脳陣批判にあたる」と指摘する声も評論家の中にはあった。上原という器に日本球界のフィールドは小さすぎることが、不幸にも1年目からはっきりしたのだった。一方の当事者である松井もいたたまれない思いだったはずだ。
*****中略*****
勝負したい相手と思い切り勝負できるような、自分が自分のままでいられるようなフィールドを上原は求めていた。
メジャーが理想の大地だったかどうかはわからない。練習や試合での球数制限はもともと少ないきゅうすうで打者を打ち取る上原にストレスにはならなかっただろうが、投球の組み立てはデータ主義によってベンチが決めるケースも少なくなく、不自由な側面もある。制球が良すぎて、死球の危険性もまずない上原には、遠慮なく踏み込んでくる。狙い球を絞られたら苦しい。09年に渡米して以来の苦労はそこにあったともいえる。
しかし、上原は小細工をせず、打者に危険なブラフ=脅しをかけることもない品の良さを保ちながら抑える技術をものにした。レッドソックスのクローザーの地位を勝ち取り「世界一」をつかんだとき、14年前の悔し涙が歓喜の涙に結実した。
1999年の一件の当事者となった上原、松井ともにメジャーに渡り、栄光をつかんだことになる。
日本の選手がメジャーの主力として貢献する姿を見るのは誇らしいが、多少複雑な思いにもとらわれる。プロ野球のフィールドがもう少し開かれたものであったなら、彼らは日本にいて、日本のファンを楽しませてくれただろうか、と。
醜いタイトル争いは今ではみられなくなったが、「やってはいけないこと」をやってきたことの傷跡はなお癒えず、我々は何かを失い続けているような気がする。