もう一本、ハン・イェリ主演の文芸作品から、「春の夢」

 

南の方には近代的都会や漢江が見えるが、みすぼらしい下町が広がるソウル西部の水色(スセク)、春の始め。チョンボムは、工場前で社長の乗った車に向かって北朝鮮式の深いお辞儀を何度も繰り返している。1年働いたが馘首になり半年分しか給料を貰えていないので嘆願しているのだ。その惨めな姿を見ていたイクチュンとチョンビンは呆れ顔だ。三人は昼間というのに、イェリの営む粗末な酒場「故郷酒幕」に向かう。店の前では、病気で歩くことも喋ることも出来なくなったイェリの父親が車椅子で日向ぼっこだ。イェリは、文庫本の安寿吉(アン・スギル:現北朝鮮地域生まれの作家)「北間島(満州朝鮮族の居住地域)」を読んでいる。イクチュンは野花を渡し、チョンボムは野花の栞(シオリ)を文庫本に挟んでやり、チョンビンはこっそり安寿吉をスマホで調べ知ったかぶりをし、なんだかんだでイェリの気を引きたいのだ。こうして仲良し四人組のいつもと変わらぬ一日が過ぎていく…

 

この映画では役名がなく、全て俳優の名前を名乗ってたりします。中国延辺からの朝鮮族移民で「故郷酒幕(酒場)」を切り盛りするイェリに、ハン・イェリ、ヤクザ組織からも落ちこぼれたチンピラ、イクチュンに、大傑作「息もできない(原題:糞蝿)」での名演が光るヤン・イクチュン、脱北者で勤め先の工場を馘首になったチョンボムに、監督作もあるパク・チョンボム、イェリの家と店の大家の息子で癲癇持ちのチョンビンに、何度か観たはずのユン・ジョンビン、イェリに懐(ナツ)くいつもサッカーボールを蹴るか原付に乗っている少女チュヨンに、この後主演映画2本、『梨泰院クラス』ではトランスジェンダーのコック役を演じ天性の才能を見せつけることになるイ・ジュヨン。特別出演がめちゃめちゃ豪華で、チョンボムの元カノに、『美しき日々』からのファンで後述するように歌まで披露してくれる美形シン・ミナ、その連れに、キム・テウの実弟でニューロな役は抜群キム・テフン、ふらっと店に現れイェリが一目惚れする二枚目に、主演映画が目白押し大人気ユ・ヨンソク、チョンボムを馘首にした社長に、渋いキム・ウィソン。監督は、天安門事件で教授職を追われ映画監督になったという昔は苛烈な作品が多かったチャン・リュル(尚、ご本人はリュルではなくリュだと主張していて、エンドクレジットの英語表記もLuとなっています)。

 

(殆どが)モノクロで撮られるみすぼらしい下町の一角で、それぞれに厄介や過去を背負った貧しい四人が、酒を飲み、歌い、映画を観て、そして、じゃれ合い、助け合いながら過ごす日々を淡々と描くだけの映画ですが、これがツボにハマりました。観た後、ネットレビューを少し読みましたが「あの四人に加わりたい」という感想には共感します。前回書いた「最悪の一日」とは違う監督ですが、妙にホン・サンス的な匂いは共通してたりします。チャン・リュル監督は、朝鮮族ということからか、どの作品もエトランジェ(異邦人)の悲哀が常に背景にありますが、今回も朝鮮族の女性や脱北者、落ちこぼれヤクザ、といった何処か疎外された感のある登場人物を描きつつも、その柔らかさを感じる視線は心地よいと感じます。

 

個人的には五つ星作品ですが、ともかく、どう見ても観客を選ぶ映画だと思います。近づく時は、十分に熟考されることをお勧めします。余談ですが、作中四人が上岩洞(サンアムドン:水色(スセキ)の南隣)にある韓国映像資料院で無料の映画を観るシーンがありますが、上映されているのはチャン・リュル自身の2004年監督作品「唐詩(당시)」で、イクチュンが「退屈だ」と大声をあげてたしなめられるシーンがあり、笑えない楽屋落ちだったりします。

 

ちょっと備忘録。

・ジュヨンがいつも乗っている原付は、DAELIM HONDA(大林 ホンダ) citi100で、ホンダの技術供与の下で作られた韓国製のカブです。

・大好きなシン・ミナがチョンボムとの別れ際に歌うのは、このブログでも何度も登場した名優キム・チャンワンが二人の兄弟と作ったトリオバンド<サヌリム>の曲で「창문넘어 어렴풋이 옛생각이 나겠지요(窓越しにおぼろに昔が思い出されますね)」。韓国映画最高傑作「8月のクリスマス」でも使われていました。

・イェリが劇中、最初は中国語で、次に韓国語で詠じる漢詩は、李白の『静夜思』。「牀前 月光を看る/ 疑うらくは是 地上の霜かと / 頭を挙げて 山月を望み / 頭を低れて 故鄕を思う」。