2018年1発目のブログです。
昨年の年末の事、
暮れの植木の手入れにバタバタとしていた頃、
遠くからクレーン車の長いブームが見えました。
嫌な予感がしました。
行ってみると、
大きなシイガシやユズリハなどが、かなり大きく剪定され、
常緑樹なのにこの姿・・・。
この現場は僕も関わっていたお客様のお宅。
20~30mはあったシイガシでしたが、駐車場にドングリが落ちて車が傷つく、
という苦情のための強剪定だということでした。
もう少し、枝や葉っぱを残してあげたら良かったのに、と思いました。
快晴の冬空には、何とも寒そうな感じがしました。
12月の下旬、埼玉県 県央地区、とある敷地内の屋敷林。
こちらも大きなシラカシとユズリハ。高さは20~30mクラス。
周囲からも見渡せる、立派なシラカシの大木。
屋敷林の生い茂る広い敷地内の一部は切り売りされ、今後一戸建ての住宅が建ち並ぶ。
賃貸のアパートも一棟建つようです。
同じ敷地内、古い蔵の横にある、シラカシとゆずの木。
そんな開発計画の際に、生い茂る大木をどうするか。
伐採するのか、残していくのか?
家主には、そんな選択が迫られます。
赤い印のついた、この境界杭で樹木の運命が決まります。
「境界から近いから、この木は伐採、残せない。」
「これも敷地内に落ち葉が入るから伐採、やむを得ない。」
この現場では、何本かは生き残る予定になりましたが、かなりの本数の大木が伐採されることになりました。
その土地を守ってきた大木たちは、
近隣の住民の苦情や今後の維持管理費の問題などで、やむなく伐採される運命に。
都市の中に残された大木を残していくには、多くの問題が立ちはだかります。
何とか救ってあげたい・・・。
最近は、樹木の調子が悪い、樹木を助けて欲しい、何とか残せないのか?
などと、多くの方々から相談を受けるようになりました。
大地の再生講座や、雑木の庭づくり、街路樹サミットなど、
今の様に木々の問題に関わり、樹木を大切にするようになったのには、僕自身、それなりの理由がありました。
その一つのきっかけとなった出来事を今回のブログでは紹介します。
少々長いですが、お時間の許す方は是非お読みください。
僕の住む寄居町は養蚕業が盛んな地域で、うちも養蚕農家でした。
しかしながら養蚕業が下降気味になる1960年代、
先代の祖父、正一郎が将来を見据え、植木栽培にシフトしていきます。
祖父が始めた中央園芸は、盆栽や植木鉢物など、園芸の生産、販売をやっておりました。
今から50年ほど前の事です。
僕は1973年生まれ、幼いころから、盆栽や植木鉢物に囲まれて育ちました。
写真は以前住んでいた民家、当時で築70年ほど。1990年頃の写真。
こちらは民家(母屋)から見た前庭付近。
家の前には盆栽棚があり、所狭しと盆栽が並べられていました。
正面に見える建物は物置です。
現在は僕が住む家を建てる時に、物置は解体しました。
盆栽や植木鉢物が売れていた時代。
寄居町用土地区は川口安行や大宮盆栽村のように、植木鉢物の一大産地となりました。
小学生の頃は、休みの日になると、植木の仕事の手伝いをよくやりました。
祖父や祖母のところで、一緒に植木を運んだり、畑に苗木を植えたり。
「大助、よく頑張ったな~」といっては、祖父からおこずかいをもらったり。
子供の頃は家業の手伝いをするのが、とても楽しかった記憶があります。
僕は次男だったこともあり、家業の植木屋を継ぐ気はなく、普通高校を出て、大学に進みました。
学校の勉強はあまり好きではありませんでしたが、日本地図や時刻表を見るのが大好きだったこともあり、大学は地理学専攻へ進学しました。
漠然と旅行会社で働いてみたいと思っていましたが、、就活をしていた1995年頃は、就職氷河期と呼ばれていた時代。
僕の勤務先は見つからず、実家の寄居町へ戻ることにしました。
特にやりたいこともなく、祖父と祖母の植木屋の仕事を手伝うことにしました。
写真は、祖父である押田正一郎(当時78歳) 1991年3月撮影。
フジの苗木を圃場に植えています。
空気と水の流れを意識しているわけでないと思いますが、畝を高く上げています。
起伏をつけて苗木を植えた方が、植物の成長は良いというのは感覚的にやっていたようです。
そのうちに縁があり、近くの造園屋さんで働くことになりました。
当時すでに80歳を超えていた祖父は、高齢のため畑仕事が次第にできなくなって、寝たきりになっていきました。
僕が造園屋さんの仕事から帰ると、寝たきりの祖父はベッドに横になりながら、僕が作業着で帰宅する姿をニヤニヤしながら見ていました。
祖父からもらった最後の給料袋。今でもとってありました。
なぜか名前が間違えています。名前は「大介」ではなく、正しくは押田大助です。
その後、祖父が亡くなり、3年後に祖母が亡くなり、造園屋さんで働いていた僕は、中央園芸を継ぐ決心をしました。
父親は中学校の教員でしたので、母親と僕で仕事をしました。
当時はガーデニングブームが起こり、今まで庭木として売れていた、黒松やサザンカ、キンモクセイ、モッコク、梅などの需要が減っていきます。
新しい時代になる予感がしました。
中央園芸として最初に取り掛かった仕事は、荒れてしまった植木畑(圃場)の整理をしようと思いました。
今後売れそうもない植木は処分し、これから売れそうなコニファーや流行りの株立ちの木々を仕入れ、畑に植えていこうと思いました。
僕はチェーンソーと2トンのユンボ(パワーショベル)で、畑にある古い木々を伐採、伐根し、片付けては、焼却し処分をしていました。
祖父や祖母が亡くなり、荒れ放題だった植木畑はみるみるきれいになりました。
直感的に使えそうな木は残しましたが、一度畑の植木をすべてをリセットしようという気持ちでしたので、
僕は手あたり次第、チェーンソーやユンボで伐採・伐根していきました。
そんな様子を見ていた母親は、後継者が出来たことを喜びながらも、次々に処分される木々を見ては、
「もったいない、かわいそう、まだ使える木もある・・・」と嘆いていました。
でも僕は、そんな事など聞かずに、
「時代は変わったんだ、これからは俺のやり方でやる!」
と、聞く耳がありませんでした。
数日すると、畑の片隅に、ボロボロになった植木が植えられていることに気が付きました。
母親が、「まだ使えそうだから・・・」
という事で、僕が伐採し、捨て場に積んで焼却処分する植木を引っ張り出し、畑の片隅に植えていました。
それを見つけた僕は、
「何やってんの、これじゃあ仕事がはかどらないよ!」
「これからは新しい植木じゃないと売れないよ!」
「こんな形の悪い(樹形の悪い)植木なんて、使えないから!」
母親に向かって声を上げました。
植えられていた木は、チェーンソーで切られ、重機で引っこ抜かれ、ボロボロになった植木。
梅の木や、サザンカ、ツゲ、片枝のハナミズキ・・・。
小さなツツジやクチナシ、アジサイなどは重機で半分踏みつけられていたものもありました。
確か1月か2月の良く晴れた午後、休憩しようと思った時、
僕の頭の中に昔の記憶が蘇りました。
それは、祖父や祖母がビニールハウスの中で椅子に腰掛け、
苗木を一本一本丁寧に植木鉢に入れている姿。
暖かいハウスの中は、子供の頃の僕の遊び場でもありました。
植木栽培の仕事は、種をまいたり、株分けした苗木を、毎日毎日世話をして大きく育て販売する仕事。
紛れもなく、僕が「いらない!」と思って次々に伐採してきた木々は、
祖父や祖母が大事に育ててきた物だという事に、ようやく気が付きました。
「自分は何てことをやっているんだ・・・」
写真は、ビニールハウスの中で福寿草を鉢入れしている祖父。
年末はお正月用の寄せ植えや福寿草が良く売れました。
(よくこんな写真が残っていました・・)
この時から、樹木を無意味に伐採する事はしなくなり、
樹木への愛情というものが、僕の中で芽生え始めました。
この後、20代後半で造園屋さんとして独立。
無意味に樹木を伐採したくない、樹木を助けたい・・・
という思いを持ち、中央園芸として仕事に打ち込みました。
しかしながら、与えらえる仕事とやりたい仕事との違いに葛藤の日々が続きました。
独立して10数年が経ち、
東日本大震災があり、雑木の庭づくりや大地の再生講座に出会いました。
ようやく、自分のそんな思いを形にすることができる様になっていきました。
2018年、今年も庭づくりが始まりました。
新築の建物にウッドデッキ。
夏は直射日光を遮るものがなく暑い。
木を植えたい、木陰が欲しいという依頼。
ここは、大きなコナラを中心に植栽をしていきます。
7~8mクラスの大きなコナラです。
デッキの前に枝を張り出すよう、コナラを植えていきます。
デッキの前と外周に中心に植栽をしました。
木々の間の広いスペースは、木漏れ日の差す気持の良い空間になることでしょう。
子供が庭に出るようになった!、との奥様の声。
本当に嬉しいです。
1月に入り、2件目の現場。
数年前に新築し、外構屋さんが庭を作ったが、今一つ。
モミジや梅は害虫が大量に発生し、
1本のモミジは枯れ、右側に植えられているハウチワカエデは夏に葉焼けを起こし、きれいにならない。
レンガで囲まれた植栽枡の中の木々の異変に気付き、通気を良くしたいという、リ・ガーデンの依頼。
ここは思い切って、レンガの土留めの半分を解体することに。
植栽枡の土の中30cmほど、厚いコンクリートがあり、通気を妨げていました。
もみの木の下にも、基礎コンクリートが。
まさに植木鉢の様です。
木々の下の土壌は固く転圧され、空気や水の抜けるところがありません。
土壌も通気不良のサインである、グレー色の土が出てきます。
悪い土壌が出てくると、以前なら土壌を入れ替えたりしていましたが、今は違います。
土壌内の通気を取り戻せば、自然と土壌は団粒化、再生されていくことがわかりました。
植栽枡の半分を解体し、敷地内に水脈を通し、通気を良くしていきます。
水脈の最後は、縦穴を深く大きく掘り、そこに繋げていきました。
解体したコンクリートガラもすべて処分するのではなく、土留めの一部として使います。
余った芝生もグランドカバーとして再利用。
あるものは、できるだけその現場で使い切ります。
最後に、粗腐葉土を敷き、全体をなじませる、「落ち葉仕上げ」。
表土の乾燥を防ぎ、多くの微生物が土壌を豊かにしていきます。
移植適期ではない冬期に掘り取りしたレモンの木は、寒さを防ぐために、わらを敷き、幹巻きをして、寒冷紗をかけてあげました。
滞っていた敷地内の通気を確保し、樹木が生き生きと成長できる環境を整えます。
敷地内の樹木を移植しながら、新たにコナラ、シラカシ、トネリコなど高木の木々を植えました。
畑で木々を無意味に伐採し、処分していた頃を思い返してみると、
今だったら、庭の中で生かす事ができるし、
山積みされた幹や枝葉は、焼却することなく、水脈整備の資材として、
他の木々や環境改善の役に立つよう、土に還すこともできる。
僕は、あの頃の思いがあったからこそ、
木々の痛みやメッセージを敏感に感じ取ることができる様になったのかと思っています。
数年前からは、植木の生産も再開しました。
今年もドングリを拾って、ポットに植えてあります。
ドングリを拾って植えたコナラの苗木も、4年ほどすると、4m以上になりました。
山採り樹木の代名詞のアオダモも、種を撒き、だんだん大きくなってきました。
いずれは、山採りの樹木に頼ることなく、すべて生産された樹木で庭を作れるようになりたいと思っています。
祖母が「担いできて植えた」というハクレンの木の花芽も膨らんできました。
そんなハクレンの木にぶら下げたブランコは、今は僕の二人の子供の遊び場になっています。
昔の母屋と前庭。
今は、母屋も変わり、前庭は雑木の庭のモデル庭園となりました。
時代は変わる。
でも、忘れてはいけないことがある。
お正月休みは、なぜか子供の頃を思い返していました。
今年の仕事初め。
社員一同、地元の神社でお参りをしました。
木々と人々が争うことなく、共に暮らしていける世界をつくる。
2018年、初心を忘れず、また新たな気持ちで中央園芸は始動いたします。
それでは本年もよろしくお願いいたします。
長いブログにお付き合いいただき、ありがとうございました!