「いいように書いておいて」 | 置かれた場所で咲くんやで!元JW2世の前向き備忘録

私の仕事は文章を作る事専門ではないが、

合唱団やダンスや同窓会のお知らせその他、会社でも、

なんだかんだ

「いいように書いておいて」

と言われることが多い。

タダで使える広報担当である。


私の文章はどうやら、

「そこそこいい感じに綺麗にまとまっている」と言う特性があるらしい、と、

SNSが生まれてから気付くようになってきた。


いわゆる「バズらせる」能力はないのだけど、

発信したい人の意図をまぁまぁ正確に伝えること、

少しのウィットを混じえて、人を不快にさせない文章を書くことが苦にならず、ある程度の質と量を常にキープできると言う意味においては、私は社会でそこそこ評価されている、と、思う。



でも、「そこそこ」止まりなのだ。


本当に心から伝えたいことがあったり、

普通ではない事情が発生した時には、

私の言葉では不十分だ、と思われている事も察するようになった。


例えばレポートや論文を書く時。


「なんとなくいいように」まとめるのではなく、真実を端的に論理的に書かなければならない。

大抵再提出をくらうし、そもそもデータというものの取り扱いに慣れていなくて、まずもって正しい結論に至っていない事すらある、と言う…。


例えばプレスリリースや企業としての謝罪文を書く時。


顧客が本当に求めている事は何か?

本当に、一番伝えたいことが伝わっているか?

そこに辿り着かなければ、どれだけ体裁が整っていても、結局は集客に繋がらない。

前の会社で私が量産した沢山の広告記事、

数こそ沢山書いたものの、

言葉選びの拙い他の人が時々書く記事の方がアクセスが明らかに多くて凹んだ事もあった。

そして本当に大事な記事は任せてもらえなくて。

結局は都合のいい人材なんだよなー、と、

明らかな実力の差を見せつけられると結構落ち込んだものだ。



だいたい、たった140文字で世の中を揺るがすくらいバズらせられる時代に、

伝えたいことを伝えるための、

長々と「体裁の良い文章」など、

そんなに実は必要ではないのだろう。



結局のところ、長いJW生活で会得したのは、

誰の心も傷つけない代わりに誰の心にも届かない、当たり障りのない文章を書くことだったと言える。

割当て量産機、と言うのが早いのだろうか。

正直、途中でなんとか居眠りさせないクオリティの公開講演なら量産できる自信がある。笑


まぁ、体裁のいいだけのつまらん文章量産機になったのは、

ワードに出て来ていた鬱陶しいイルカのヘルプを鵜呑みにしていたせいもあると思うけどもね。笑





そういう密かなコンプレックスは、

自分が文章を書くこと自体を愛しているからこそ、

いつも心の底に眠っている。





でも、

ほんの時々、

ああ、これは、私の言いたいことをちゃんと余すことなく伝えられたなぁ、と思う時があって。


その一瞬に出会いたくて、

私は、ほんの少し心が折れつつも、

それでもずっと書き続けているのかもしれない。


本当に自分に必要なのは、

「伝えたい」と思う、

その気持ちの強さと、

必然性の強さなのかもしれない。




先日、普段私のSNSにいいねをくれる訳でもなく、コメントもしてこないけど、

ふらっとなんだかんだで一年に一回は会う友人と会った。


彼女はその時、

私が「宗教二世としての思い」を、

あまり強い言葉ではないけど漏らした投稿について、

ずっと考え続けている、と言った。

うちの可愛い娘ちゃんの成長記録(笑)よりもずっと、ずっと。


世の中にとって、

それが1番オリジナリティの強いコンテンツだから届きやすかった、と言うのもあると思う。


ただ、日常垂れ流しの投稿の中に、ふと混ぜた呟きが誰かの心深くに届いた事で、

私は未だに、やっぱり何かしらの形でJWの事を対外に発信したい気持ちが一番強いのだと、

客観的な目線で思い知ったのでした。






ちなみにここ最近で1番たくさん「いいね」を貰ったのは、

「年度代わりの4人分の書類書くのほんとにほんとにめんどくさい鬱陶しい」でした。

あれはほんとに心の底から出た叫びだったのだなぁと思う。あぁほんとにめんどくさい。。

予防接種とか検診とかも含めてマイナンバーカードピッてやったら全部終わるやつにしてほしい…。

デジタル庁仕事してー!!