中国思想の書物は、いわゆる「漢文」で書かれています。
日本ではこれまで千年以上にわたり、
『論語』などを漢文として読み、
それを小さくは一人ひとりの日々の生活から、
大きくは国の政治にまで活用してきました。
外国の書物でありながら、
ほとんど自国の古典のように受容してきたと言えます。
ところが明治以降、西洋近代の文化や学問が
国家・社会の主流となると、漢文の素養は低落していきます。
今でも書店に行けば、中国思想に依拠したビジネス書や
生き方の指南書が売られていますが、
それらを読んだことがある人はごく一部にとどまるでしょう。
『論語』を全文読んだことがある人は決して多くはないと思います。
私自身は、前回書いたように、三国志という物語から
中国思想に関心を持ちました。
自分の人生や生き方を探る、いわば哲学的な関心で
中国思想に触れていたわけではありません。
また、学問というものの性質上、生き方などの個人的な問題を
持ち込むことは避けられる傾向があります。
学問というのは、誰の目から見ても否定できない知識の獲得を目的とし、
個々人の人生とは一応切り離されたものだからです。
そのようなわけで、私は少年時代から中国思想に
触れてきたとはいえ、その触れ方は、明治以前の日本人とは
まったく違っていたと言えます。