今週の木曜日(20151119日)に翻訳関連会社が東証マザーズに上場する。株式会社ロゼッタだ。自動翻訳などを中心に行うが、法人向けの翻訳も手掛ける。買収がらみの裏事情はさておき、IPOを直前にして、巷では「初値高騰が確定している案件」と話題。どういう形であれ、2020に向けての翻訳への市場の関心は高まっている。これに釣られるように(まあ、大株主でもあるのだがの)株式会社翻訳センターは、本日ストップ高。今後も、関連動向に注視したい。

と問われると、専門家らは口をそろえて「違います」と答えるに違いない。さて昨日の話を受け、今度は翻訳するということ、について考えてみたい。研究者や実務家で語り尽くされてきた事柄だと思うが、幾つかのTPR(Translation Process Research)の視点から整理してみたいと思う。
 と、そのまえに、まず翻訳を定義する場合に、広く引用されるローマン・ヤコブソンの記号論的区別をみておく。ヤコブソンによれば「翻訳」とは3種類ある。

(1)言語内翻訳 intra-lingual translation
(2)言語間翻訳 inter-lingual translation
(3)記号法間翻訳 inter-semiotic translation

説明すると、(1)の言語内翻訳は、同じ言語内での言い換えやパラフレーズなどである。たとえば、医者の難しい説明を、子供に分かるように親が「言い換える」という翻訳である。

(2)の言語間翻訳は、我々が関心のある「翻訳」であり、自然言語間の翻訳、すなわち英語から日本語に訳するというようなことである。

(3)の記号法間翻訳は、記号から記号への翻訳で、例えば、小説(という言語記号)を音符(楽譜)に書きかえるという事である。「漱石の作品をピアノで表現しました」的なものだ。また、メールの絵文字で表現する、という場合もこれに当たる。

さて、広義で「翻訳」というと、確かにこのような定義が考えられるし、ここでの定義が引かれるのは、我々の関心が「言語間翻訳」(翻訳プロパー)であるということを主張するためであることが多い。ただ、よく考えてみると、それ以外の定義も、実は、翻訳(というプロセス)に関係していることが分かる。
 例えば、「同じ釜の飯を食った」という表現を英語に翻訳するとして、「we used to eat rice from the same rice cooker」 と、とりあえず訳してから、「果たして通じるのだろうか」、と自問し、では意訳をして「we are best friends」と書き換えたとする。とすると、この書き換えは、(1)の「言語内翻訳」とはならないだろうか。
 また字幕翻訳などで、マッチョな男性が激しく怒った表情で発せられた台詞に「・・・だぜ」のように、役割語的なものを(原文には無いのに)付加したとすると、これは、ある種の「記号法間翻訳」ともいえる。

 実際には、このようにテクストの置かれた文脈の中にある様々な記号体系の中で言語化する・しない(翻訳)の選択が行われている。
さて、翻訳プロセスでは、翻訳者が、最も頭を使っているのは、(1)の言語内翻訳に関わる点であることも指摘されている。言語内翻訳という言い方だと語弊があるかもしれないが、要は「目標言語側」に関することで悩んでいる場合がほとんどなのだ。つまり、「この言い方ではしっくりこないんだよなぁ」ということで、何度も、訳文を書き直したり、調べ物をしたりする。この「訳語に関わる思考」は、訳出行為の90%以上を占めるとも言われる(Yamada, 2010, 2011等を参照)。逆の言い方をすると、原文が理解できないとか、原文がどういう意味でこれを言おうとしているのか、というのを思考している時間(工数)は10%以下になる。もちろん、場合によっては、原文が曖昧だったり、難解な場合もあるので、原文理解に時間を要する場面もあるだろう。が、えてして、上記の数字は、それほど間違っている数字とも言えない。特に、プロではない翻訳者(素人や学生)にいたっては、半分くらいの時間や労力を原文理解に費やしているからである。

 さて、では、次の冒頭の質問。

『英語が分かることと、翻訳ができることは違うのですか?』

と問われると、専門家らは口をそろえて「違います」と答えるに違いない。では何が違うのか、というと、そのヒントが上にあるわけだ。

つまり、翻訳という行為は、それがプロのように、なればなるほど目標言語側に関した思考や労力を使っていることになるので、翻訳という行為は、かなり「目標依存(target-oriented, target-driven)」な行為であるといえる。逆の言い方をすると、原文を理解できただけでは、あまり意味がない。だって、プロは、原文理解のための労力は、翻訳プロセスの中の10%くらいしか使っていないのだから、ということが言えないだろうか、ということだ。(このように書くと、批判を受けそうだが、別の言い方をすれば、原文と訳文と、中間言語的(高橋さきのさんの言葉)や、脱言語的sense(セレス小ビッチ)、Mentalise、などあるが(またこれは別の機会で触れるが)、とにかく、それらの間を激しく頭の中で何度も行き来しているのは事実で、そして、それは、すべて「訳すため」である。つまり、target-drivenであることには変わりない。そして、そのプロセスは、「言語内翻訳」に重点が置かれた、と換言できないだろうか、ということ。逆に言えば、「英語が分かること」と「翻訳すること」というのは、「言語内翻訳」という点から、説明可能ではないか、という、提案(ボヤキ)なのである。

 ということで、本当は一番書きたかった、プロフェッショナル性、テクノロジー、「翻訳の定義」については、また後日。
そもそも「言語を理解する」とは、どういうことなのか?根本的には、たぶん、いまだに、ちゃんと解明されていない。思いつきをメモっておく。

翻訳するための言語理解とは?

「翻訳するための言語理解」としては、翻訳(通訳)研究からも、幾つかの心的モデルが提案されている。古典ではセレスコビッチの「脱言語化(de-verbalization)が有名。通訳翻訳のプロセスにおいて、訳者は、原文の言語(形式・情報)から言語では表せない(脱言語化した)表象、すなわち<意味> (<sense>を得て、この「イメージ」のようなもの(<sense>)を、目標言語で再表現(re-verbalization)する。いわゆる三角モデルと言われるものである。ここでは、訳すとは、言語→言語への形式的な(水平的な)転移(transfer)ではなく、頭の中で一度、脱言語されたSenseを別の言葉で再表現することになる。この理論を継承する研究に、船山・石塚などの「概念化(CC = Conceptual Complex)がある。

 この理論が言わんとする事には共感できる。たぶん、大雑把な部分では的を射ているのだろう、ただ研究的には、<sense>の記述・測定・確認方法が不在(ほぼ不可能)であるという点を中心に批判されてきた。<sense>の記述に至っては、脱言語化されたものを、言語以外のもので記述できるのか、という矛盾に陥る。

 この手前で逃げてしまう理論は、チョムスキアン的な考えである。いわゆるLF(Logical Form)を形成してしまえば、言語機能(計算システム)の役割は終わりとしてしまうというものだ。脳みその中で、左脳が言語理解を、右脳が<sense>を理解しているのだとすれば、生成文法の役割はLFを右脳への「インターフェース」として表示するまでしかない。その後は、右脳で何とかすればいいだろう、と責任逃れをしている。という意味では、LF表示までの言語理論では、言語を「理解した」と説明できない。
 翻訳するとは、一回、右脳に行ってから、また左脳にもどって別言語として言語計算機に投射されるのだと仮定すると、まあ、我々の関心は、では、その<sense>をどう理解しているのか、ということになるのだが、そうなると、またもやトートロジーになってしまう。

今日のところは、この辺にしよう・・・


全然参加者が集まらず、困っております。研究のための「実験」と聞くと確かに気が進まないかもしれませんが、プロの翻訳者の方々でご協力を頂けるかたを募集しております。何卒、ご協力を頂ければ幸いです。以下に詳細があります。

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【アイトラッキングを使った翻訳(訳出)プロセスの実験について】
【概要】
翻訳研究のプロセス研究のためのデータを収集しています。
【募集要項】
プロの翻訳者(経験2年以上または相当)の翻訳者で、都内に出向いて3時間ほど翻訳をして頂ける、という実験に参加できる方。
【言語】
英→日 翻訳(日がL1であることが望ましい)
【実験場所】
国立情報学研究所
http://www.nii.ac.jp/about/access/
【募集人数】
20~30名
【実施時期】
11月20日以降 ~ 12月中旬
*詳細の日時は、各参加者毎に調整します。
【謝礼】
6,000円(交通費込)
【実験概要】
新聞記事的な内容の翻訳
 ・普通に翻訳する:
 ・音声認識ソフトを使って翻訳する:
 ・ポストエディットをする
上記3種類の方法で翻訳をしてもらいます。各方法で、2つの記事を訳します。
(つまり合計6つの記事を訳す。各記事は150 ワード程度)
添付資料も参照
注:当方で用意をしたPCを使って翻訳する。辞書やウェブ検索はできません。
この点については非日常的な状況となります。
【実験目的】
訳出プロセスのデータ構築
【主催】
コペンハーゲンビジネススクール(CBS)Michael Carl氏、国立情報研究所、情報通信研究機構
注:
個々人の品質データなどを分析するものではありません。
実験データは、ウェブ上で研究用として公開されますが、個人情報、個人を特定できる情報は一切含まれません。
【お申し込み方法】
ご興味のある方は、まずFaceBookのメッセージ(山田優:翻訳研究者)でご連絡ください。
https://www.facebook.com/ts.researcher/
その後の日程調整、当日のやり取りは、Michael Carl氏と直接「英語」で行ってもらいます。
【問合せ先】
関西大学 山田優(翻訳研究者)



デモクラシー・ナウ!(http://democracynow.jp)で学生を対象とした字幕コンテストを行っている。神戸市外国語大学の長沼美香子先生らが主宰する。
 最近は、字幕翻訳需要の高まっているように感じる。また教育・研究面においても字幕翻訳は非常に高まってきている。この流れを受けて、筆者の学部のゼミと翻訳クラスでも、本コンテストに応募すべく準備をしている。応募期限は今月末なので、もう少し時間があるが、まだまだ苦戦中だ。結果がどうなるか、楽しみだ。
 審査基準は、最終プロダクト(完成字幕)だけではなく、粗訳も審査対象となる。作業のプロセス重視というわけだ。筆者のクラスでは、実際にsrtファイルに落とし、映像を見ながら字幕を出して作業ができる環境を整えているのだが、その一生懸命な姿が審査員に伝わってくれることを願いたい。
 まだ時間があるので、ご興味のある方は参加ください(でも、本当はライバルの数は増やしたくない)。



ポストエディットとは、機械翻訳の結果を人間(の翻訳者)が修正をすることである。すでに周知されていると思うし、またこの是非をめぐる議論も様々ある。この問題について日本で研究しているのは立見みどりさんと筆者くらいだろうか(立見さん談)。国内ではあまりリスペクトされない分野のようなので、そういうことになってしまっているが、研究者が少ないことによる弊害は多い。他国の研究からはだいぶ遅れてしまったような気がする。無論、研究の質というより、数や検証規模において、それを痛感する。一方で、機械翻訳開発の含む自然言語処理研究においては、日本は世界をリードしているといえる。そう考えると、なんとも、もどかしい。
 と、ぼやいている場合ではなく、そろそろ、本格的に、そちら側、すなわち純・理系の方々との融合・協力・共同研究が必要だと感じ、アクションを起こし始めたいと思っている。まあ、これまでも、断片的には接点はあったが、もうちょっと本腰を入れようというわけだ。
 
 さて、話が逸れたが、議題をポストエディットに戻すと、その「是非」、というか「機械翻訳+ポストエディットというのは役に立つのか」、という疑問(疑念)、換言すれば「翻訳者要らずの時代は訪れるのか?」ということが叫ばれるなかで、だいたい現状(2014年くらいまでの状況に関する)一定の回答については、諸々の場で語り尽くしてきたつもりだ。

 概ね、プロ翻訳者の井口耕二さんが言われるとおり、機械翻訳のポストエディットにおいては、プロの翻訳者(上級レベル)に取って代わるものではない。これは、統計的機械翻訳であってもコーパスのサイズに比して品質が上がると信じられていた神話が崩壊したことと合致する。どのみち、現状のアプローチによるMTもPEも、上級クラス以上のプロ翻訳者のレベルには、すぐには到達できないということだ(この点は、NICTの隅田先生によれば、折込済み・・・)。
 しかし、中級クラス以下の翻訳者のレベルとなると、これはやや懐疑的。つまり、翻訳の目的や用途によっては、ポストエディットで足りてしまう場面が増えるは容易に想像できる。他の業種の仕事についても、人工知能に10年後は仕事を奪われるという危機感があることを思えば、その流れがこちらにも影響するのは仕方がない。
 ただ、なにをもって「中級」の翻訳品質と定義するのかも不明だし、人間翻訳者は不要になると考えるのは、いささか短絡的。グローバル化に伴う翻訳需要は増加傾向にあるし、逆に、機械翻訳やポストエディットの出現により、翻訳品質全般の意識も高まっている。それに、他分野における人工知能(ディープラーニング)の応用に比べると、機械翻訳への応用は始まったばかりだ。とは言え、だから安心だ、というわけでもなさそうではある・・

 もう1点。井口耕二さんの主張でいうところの、そもそもポストエディット(や翻訳メモリなどの支援ツール)をすると、翻訳者として「上級・一流」になれなくなってしまうのではないか(筆が荒れてしまうのではないか、)という点。これも、事実だ。少なくとも、外国語の初期学習者の訳出プロセスとポストエディットのそれとが似ている。素人であればあるほど機械翻訳からの恩恵を受けると言うわけだ(詳しくは、下記の『誰がポストエディターになるのか』を参照)。

 以上、なんとなく書いたが、そういえば、JTFの翻訳ジャーナル web (2015/11/06)で第16回日本通訳翻訳学会の報告がまとめられており、「翻訳テクノロジーを学ぶ」をピックアップして頂いた。こちらのEラーニングサイトで、ポストエディットについて講義を流しているので、ご覧いただければ嬉しい。

それと、過去にまとめた日本語で読めるポストエディットに関する論考・論文は以下にある。

山田 2010, 2011, 2013
立見 2012

昨日、TILT(外国語教育における翻訳)について少し紹介した。大雑把にTILTとは、これまでの外国語教育は「モノリンガリズム」が支配的で、「英語は英語で学ぶのがよし」とされてきた。日本の状況は若干異なるのだが、最近はたしかにその傾向が強い。しかし、TILTの著者であるGuy Cook氏はモノリンガリズムをよしとする科学的根拠の希薄な事実を指摘し、バイリンガルの外国語教育のクラスルームと「翻訳」の使用を推奨する。つまり外国語教育における「翻訳」の復権を主張するのだ。

 これはこれで一定の説得力を持つ論である。実際に、かなり大御所の翻訳研究者達にも影響を与えている。Kerr, 2014, Laviosa, 2014, またPym & KirstenMalmkjær, 2013などが、Translation vs. Language Learningについて論じているのだ。

 ただ、ここで注意したいのは、TILTとは外国語教育(EFLSLA)に立脚した理論であり、翻訳研究者や翻訳実務者からみると少し違和感がある。というのも、「翻訳」という営為は外国語学習のツールであるとは考えていないからだ。別の言い方をすると、教育の目標として、「英語を学ぶために翻訳(演習)を使う」というゴール設定(これは英語を学ぶことが目標)と、「英語を学んで翻訳家になる」という目標とでは異なるのだ。昨日のモヤモヤ感の原因の1つはこの辺りにある。

 ということで、筆者の(大学)教育活動のひとつに、立教大学の武田珂代子教授と行う「翻訳通訳リテラシー教育(TIリテラシー教育)」がある(JSPS 科研費 26370712)。これは上でいう後者に近いものだが、必ずしもプロ翻訳者・通訳者の養成を目標とせず、教養としての翻訳通訳教育という考え方に基づいている。

 実社会では、翻訳通訳という職業や営為は、それほど正しく理解されていない。また、普通では気づかないような所にも通訳や翻訳というものは浸透しているもので、グローバルコミュニケーションを支えている営為である。このような側面を認識・理解する力、すなわち「翻訳通訳リテラシー」を涵養するのが、この活動の目標である。プロの実務家の人たちに、直接関係するところでは翻訳・通訳サービスの「ユーザー(クライアント)教育・啓蒙」ということにもなろう。

 詳細は、下記のHPを参照。

http://www2.rikkyo.ac.jp/web/tiedu/index.html

外国語教育における「翻訳」、Translation in Language Teaching (TILT)。手強い。これについて考え悩む日々。さっきも、大学院の授業を終えてきたばかりだが、モヤモヤが残る。TIリテラシー教育や翻訳テクノロジー教育とも関連するのだが、手強い。そもそも「教育」に関する研究というのは、難しい。

 

先月、筆者の紀要論文がでた。その冒頭を引用しておく。これについては、また後日、続きを書くことにする。乞うご期待。

 

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 翻訳の使用は外国語教育に適さないのか。この疑問に対する学術的議論が、最近、活発化してきているようである。Guy Cook2010)のTranslation in Language Teaching(日本語訳:『訳の効用』1斉藤兆史・北数史)が契機となり、外国語教育における「翻訳の復権・復活」を謳った書籍や論文が増えていることがある(Kerr, 2014, Laviosa, 2014, 辰己, 2014など)。また(日本の)大学・大学院における翻訳通訳の授業が増えてきているという事実もある(染谷, 2010)。1997年から2005年の8年間で通訳関連の授業を開設する大学・大学院の数はおよそ5倍に増えた(ibid.)。さらに、実務翻訳や産業翻訳において翻訳の需要が拡大し、それに伴い国際規格ISO171002014年から導入され、この中に翻訳者の資格の記述が含まれ、プロの翻訳者になるためには翻訳の大学の学位を所有し2年以上の実務経験を有することなどが定められている。この動向も相まって大学における翻訳教育が見直されている(武田・山田・辛島, 2014なども参照)。

 一方で、日本の語学教育や外国語教育においては、翻訳のコースが増えてきているとは言っても、語学のクラスでの「訳」の使用はあまり積極的に受け入れられていない。外国語教育における「訳」は無視されて続けてきた(Cook, 2012)。そうだとすると、本来は、語学教育と翻訳教育とは、あまり接点を持たないものなのであろうか。

 本稿の目的は、Cook2010)の議論を中心に据え、外国語教育における「訳」の効用を再考する。具体的には、外国語教育と第二言語習得論(SLA)の歴史を振り返るなかで見えてくる鍵概念——言語は潜在意識・無意識に習得される——という命題をめぐる教授法のあり方に対し、翻訳規範(Translation Norms)という概念を重ねてみる。そして翻訳規範をメタ言語能力と捉え、その涵養と外国語教育(とりわけ日本の大学の英語教育・教授法)の目指す方向性との共通点を再考する。

http://www.kansai-u.ac.jp/fl/publication/pdf_department/13/107yamada.pdf

オリンピックに向けた自動通訳の国家プロジェクト

NICTの隅田先生が、今週末に立教大学で公演をされます。隅田先生は2020に向け重要な機械翻訳の国家プロジェクトをリードしておられます。

以下お知らせです。

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立教大学異文化コミュニケーション学部主催2015年連続講演会「通訳翻訳と異文化コミュニケーション」第4回「オリンピックに向けた自動通訳の国家プロジェクト」を下記の要領で開催します。

2020年東京オリンピック・パラリンピックに向け、自動通訳システムを実装する国家プロジェクトが進行中です。今回は、それを率いる隅田英一郎氏(NICT)に

アプリの実演を含めながら自動通訳技術の現在と近未来について講演していただきます。

事前申込、参加費不要です。皆さまのご参加をお待ちしております。

日時: 2015年11月7日(土)13:30~15:00

場所: 立教大学池袋キャンパスマキムホール3階M301

http://www.rikkyo.ac.jp/access/ikebukuro/campusmap/


講演者:隅田英一郎氏(情報通通信研究開発機構(NICT)ユニバーサルコミュニケーション研究所・他言語翻訳研究室室長)

演題:2020年オリンピック・パラリンピックは自動通訳国家プロジェクトの檜舞台!

※ 転送、転載大歓迎です。

【添付ファイル】

 * OlympicsMT_flyer.pdf


http://www.mlist.ne.jp/archive/attach/jaits/4510dbc3972528956a64c8fcfcc6de87/524/

New Directions in Empirical Translation Process Research: Exploring the CRITT TPR-DB (New Frontiers in Translation Studies)

Copenhagen Business School (CBS)のMichael Carl他が編集した書。Carl氏とは、今、筆者も一緒に日本で翻訳者のデータ収集をしているのだが、本書はその研究の可能性と先行研究をまとめたものである。CBSといえば、Arnt Jakobsen先生(現在は名誉教授)が、CRITT(Center for Research and Innovation in Translation and Translation Technology)という研究機関を設立した。いまや訳出プロセス研究(TPR = Translation Process Research)においては事実上の標準となったキーストローク記録ツール(Translog)の開発、またアイトラッキング装置を訳出プロセス研究に応用した老舗であり、現在でも世界最高峰の研究を行っている。私の博論でもJakobsenの訳出プロセス分析の枠組みは多いに援用させてもらった。

 さて、翻訳研究をはじめ、現在の科学的実証研究では、データを収集して分析する方法は流行りになっている。いわゆる「ビックデータ」的な手法であるのだが、以前は、データ測定が難しかったり実験を行うのが困難だったという理由から「仮説形成(アブダクション)」に頼ることが多く(これは今でも行っていることであり、それを否定するものではないが)、ある種、優れた仮説形成ができること、すなわち「エレガント」なscientific guess ができることが研究者の重要な一面(技量)と考えられてきたように思われる。
 それが、最近では、とにかくデータありきのアプローチ、つまり「エレガント」ならぬ「エレファント」な手法(象のように大きな、肥大したデータ分析手法)が流行っているといえる。むろん、それゆえに、批判されることも多い。
 その意味では、本書のアプローチも後者に属し、同様の理由から批判されることもあるようだ。何を見たいのか・証明したいのか、というリサーチクエスチョンや仮説形成の前に、データありきで、「さて、データから何が見えるか探してみよう」的な研究態度に陥ることがあるのは否めない。
 ただ、どうだろう。すでに言語学的研究分野では、チョムスキアン的なアブダクション主義も批判されてきたわけだし、それ故に、トップダウン的な主観的分析手法(証明したい仮説を証明するためにデータを集める実証研究)も、それはそれで批判もされてきた。コーパス言語学も21世紀になった現在ではボトムアップ的分析を推奨している。という意味では、個人的には、本書の進む方向、New Direction in Empirical Translation Process Researchには期待しているし、ある程度は、これからの研究はそうあるべきであるとも思っている。
New Directions in Empirical Translation Process.../Springer
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