水野的氏による同時通訳理論の集大成の書である。おそらく翻訳通訳研究における通訳の認知的側面からの研究(主に、作動記憶の制限容量を考慮した訳出プロセスの研究)においては、世界的にも、これほどまでに網羅的かつ精緻化された研究は存在しない。
 同時通訳という行為は、聞きながら訳すことになるので、まるで綱渡りを渡っているかのような極限の緊張と認知的な負荷を強いられるわけである(綱渡り仮説)。その主原因は人間の脳内の「作動記憶の制限」と関係している。
 大雑把に言えば、人は言語を理解する時に、ある一定の「理解の単位」または「チャンク」をベースに暫定的な意味理解(意味構築)をしている。ダイナミックに進行する談話の同時通訳では、原発話がすぐに消えてしまったり、訳者の予想をはるかに越えるスピードで入力されたりするので、通訳者は、上手に「チャンク」を取り、すぐに「訳出(production)」する必要がある。そうしないと、作動記憶容量をオーバーしてしまい、同時通訳行為が、破綻してしまうことになってしまう。
 つまり、この「作動記憶」の制限(容量)をコントロールすることが、同時通訳を上手く行うための秘訣になるとも言えるのだ。そしてそれをコントロールする方法が、「訳出方略」となる。
 同研究は、究極的には人間の言語理解の根本のメカニズムに迫るものである。これまで言語研究は、談話の「時間的制約」を考慮してこなかった。このような研究は、長い目で見ると、人間の認知科学的なパラダイム転換へも寄与すると思われる。
 ちなみに余談だが、個人的なメールのやりとりの中で、「私もこのような書を、20年後には出版できるように頑張ります」と水野氏に伝えたところ、「3年でやってください」とのお叱りを受けた。どう考えても、3年では難しい・・・
 ただ、上手くいけば、2016年度から、同書内の仮説を、もう少し大規模なコーパスで検証できるような研究プロジェクトが始動しそうなので、仮説の追試結果を報告できるかもしれない。

翻訳研究とは何か?Translation Studies、トランスレーション・スタディーズ、翻訳学などと言われ、欧州ではそれなりに歴史のある学問分野として確立しているが、それでも、まだ50年とか60年とかくらいの若い学問分野である。「翻訳」や「通訳」そのものを学問の対象とする。
 この学問を極めたからと言って、「翻訳」や「通訳」が上手になる保証はない。しかし教育への応用や示唆もあり、超人的な翻訳者になれないとしても、一定のレベルまでは、安定的に向上が見込まれる可能性はある。また研究をするからには、それなりのことを理解しておかなければならないため、逆説的には、この研究分野に関与すれば、それなりに翻訳が上手になる可能性はある。
 しかしいずれにしても、「翻訳研究」の目的は、翻訳が上手にできるようになることでない。では何を目指しているのか?
 記述的研究、という少し怪しい言い方から説明すれば、「なぜ人はそのように翻訳をするのか」、という問への回答を認知的、言語学的、社会的、歴史的、実証的、データ・統計的、に解明/説明することかもしれない。
 例えば、Aさんがpenという単語を「ペン」と訳し、Bさんは同じ単語を「書くもの」と訳したとする。同じ原文、文脈、時代、性別、年齢、目的、想定対象読者、などの変数が同じだったのにもかかわらず、違う訳だったのだとすると、これは何故だろう、ということになる。
 無論、全ての条件が同じことはあまりないので、研究としては、例えば、古典的研究では、「通時的」に考察をして文脈との関係を見たりすることが多いのが、最近ではデータ的に、地域、世代などから分析することもある。ただ、こういうやり方ばかりしていると文脈を軽視していると、いつも批判を受ける。本当はそうではないのだが・・

 ということで、おそらく、これについてはまた詳しく、語っていくことになるだろうから、詳しくは「翻訳学入門「よくわかる翻訳通訳学」などの入門書を参考にしていただきたい。