松阪水力電気」は、当初、地元財界人の発案により計画されたものの、出資者の募集に手間取り、最後は大阪の才賀電機商会才賀籐吉が資金の半分を引き受けることによって、明治36年10月、ようやく会社設立に至った。

△絵葉書 松阪水力電気 開業祝賀会(明治39年11月4日)

 

△才賀籐吉

 

三重県環境生活部文化振興課歴史公文書班がネット上で掲載している「歴史の情報蔵」によると、「明治36年(1903)12月、松阪の白粉町に松阪水力電気株式会社が創立。櫛田川上流の多気郡津田村(現多気町)津留に堰堤を設け、やや下流の同村鍬形に発電所を置いた。堰堤から発電所までは「隧道二千六百十三尺及水路三百二十五尺落差三十三尺」で、蛇行する櫛田川の水流をトンネルを掘ってショートカットする形で導水した。発電機にはスイス製最新式を用い、県下の初期の水力発電所としてはかなり大規模で、「松阪市街に於ける点灯千五百に達するの外、余力を以て煙草精米機業等に応用し」たらしい。なお、導水トンネルは今も残存し、水路として立派に活躍しているという」『三重の水力発電』)」。

 

以上のように、同社は、三重県と奈良県境に源を発し伊勢湾に流れ込む、櫛田川中流部の三重県多気町鍬形地点で水力発電所の建設に着手、明治39年10月に「鍬形発電所」が完成する。出力は270kWで、発電された電気は3,500Vの配電線路によって約8km離れた松阪町(現・松阪市)まで送られた。

△絵葉書 松阪水力電気 鍬形発電所(明治39年10月完成)

 

松阪水力電気の「開業祝賀会」は、明治39年11月4日に松阪市内で挙行され、余興として芸者衆が呼ばれた。後日記念品として配られたのが一連の開業記念絵葉書である。

△絵葉書 松阪水力電気 開業祝賀会 余興(明治39年11月4日)

 

この鍬形発電所は、その後、三重合同電気、東邦電力、中部配電を経て昭和26年より中部電力に帰属していたが、水車の暴走事故で破損し、残念にも昭和36年12月に廃止された。廃止後、水利権および水路は三重県企業庁に移管され、発電所跡は沈砂池に利用されている。

△南勢水道沈砂池の様子
△沈砂池ゲート
△鍬形発電所の前を流れている櫛田川

 

この松阪水力電気の本社建物は、設立当時、松阪市白粉町に置かれたが、現在同地には松阪地区医師会の建物が建っている。

△松阪水力電気 本社

△松阪電気水力の跡地に建つ松阪地区医師会

 

 

さて、鍬形発電所があった三重県多気町に、令和3年、日本最大級の商業リゾート「VISON(ヴィソン)」がオープンしている。伊勢自動車道と紀勢自動車道をつなぐ「勢和多気JCT」を降り1分ほど進むと、東京ドーム24個分(約119ヘクタール)の広大な敷地を誇る商業リゾート施設が「VISON(ヴィソン)」だ。グルメや体験、温浴、宿泊などが楽しめる充実のスポットで、1日中満喫できる。伊勢神宮から車で約20分とアクセス良好で、お伊勢参りとセットで訪れるのもお薦めである。

 

 △VISON内にある長屋風の宿泊施設
△VISON内にあるホテル
 

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△絵葉書 広小路通(左は三井銀行、右は電気百貨店)

△広小路通(広小路桑名町交差点/名古屋市中区錦2丁目)

 

昭和7年7月、名古屋広小路通りに電気百貨店が出現する。絵葉書は現在の伏見交差点付近から栄方面を見た風景だが、右手のドームを冠した建物が東邦電力(株)が経営する電気百貨店である。「電気百貨店」では、ラジオや扇風機、アイロン、電熱ヒーターなど最新の家電製品が飾られ、我々がいま大型家電店に電化製品を見に行くような感覚で、当時の市民の人気スポットとなっていた。

 

△東邦電力 ラジオ 売出しチラシ

 

しかし、昭和20年の空襲によって焼失。その後、昭和61年7月に中部電力創立35周年を記念して、でんきの科学館がオープンし、現在子供たちの遠足や社会見学の場所としてにぎわっている。

△中部電力 でんきの科学館(名古屋市中区栄2丁目)

△でんきの科学館内にある「電気百貨店」の様子を伝えるパネル

△でんきの科学館内のでんき資料室

△電力の鬼と呼ばれた松永安左エ門


絵葉書左手のギリシャ神殿の円柱を彷彿とさせる建物は、昭和10年築の旧三井銀行名古屋支店の建物。重厚な新古典主義の銀行特有の建物となっていて、近代化遺産の建物が広小路通りから姿を消していくなかで、昭和初期の当時のまま今も勇姿を誇っている。

△三井住友銀行 名古屋支店

 

でんきの科学館の地にはもともと「名古屋電燈会社」の石炭火力発電所があった。明治16年、明治政府より旧藩士困窮を救うため、勧業資金10万円の貸与が決定。その資金の活用先について、喧々諤々議論の末、電燈事業の将来性に着目して、明治21年9月22日に名古屋電燈会社が設立された。資本金は7万5千円であった。さっそく市内・南長島町(長島町通り沿い)に火力発電所である電灯中央局が建設されることになった。現在の電気文化会館/でんきの科学館(名古屋市中区栄2丁目2番街区)がある場所で、明治22年12月15日に完成し、石炭を燃料とする25kWの発電機が四台置かれた。黒い煙を出す高さ25メートルの煙突がとても目立っていた、と云う。

△尾張名所図絵 「名古屋電燈会社」

 

 


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日英同盟は、明治35年1月にロンドンで調印された日英間の同盟協約。ロシア・フランス・ドイツの進出に警戒していたイギリスは、ロシアが義和団事件後も中国東北に軍を留め、朝鮮をも脅かす形勢に対し、従来の”栄光ある孤立”を捨て、ロシアに脅威を感じていた日本との間に同盟を締結した協約である。

 

絵葉書にある「日英水電」は、その名のとおり、明治35年の日英同盟締結の機運のなか、三井・三菱のトップや英国のチャーチル・シュルツら日英の財界人が発起人となった明治39年の「日英水力電気」設立が起源となっている。同社では、東京を中心とした半径150マイル内にある有望な水力発電地点を調査して、静岡県大井川水系の三地点で水利権を獲得するが、英国側が一転、慎重姿勢を示したため事業化に至らなかった。

 

このため、日本側の発起人が創立委員となって、明治43年に社名を改めて「日英水電」とし、資本金125万円で設立された。社長には伯爵の樺山愛輔が就き、本社を東京市麹町区内幸町に置き、前者から大井川・牛の頸地点等の水利権を買い取って事業をスタートさせる。

△絵葉書 日英水電 堰堤 通船路

 

△日英水電 小山発電所跡 案内板

 

「日英水電」では、明治44年3月に静岡県上川根村奥泉字小山(牛の頸)で小山発電所の建設に着手し、つづいて同年6月に浜松電燈を、12月に島田電燈を買収した。買収された浜松電燈は、地元有志により明治35年9月に浜松町伝馬町で創立され、浜松停車場の南の砂山町に石炭火力発電所(235kW)を設置し、明治37年1月から営業を開始していた。しかしながら、明治末頃、浜松地方に於いては紡績業や木材加工業などが盛んとなり、小型火力機しか有しない浜松電燈では常に電力不足状態が続いていて、地元実業家の中には不満が高まり廉価で大規模な水力開発が待たれていた。こうした状況の中で、電力の販売先を探していた日英水電により、電力不足に陥っていた浜松電燈の買収が行われた訳である。

△絵葉書 日英水電 送電線

△大井川と放水路口

 

小山発電所は明治45年6月に完成し、発電された電力(1,400kw)は35kV特別高圧送電線にのせられて、金谷で分岐されて、島田、浜松変電所へと振り分けられた。

当初、浜松支店は火力発電所があった砂山町に置かれたが、大正2年に伝馬町の商工会議所ビル南側に新設された。その後も、浜松を中心とした遠州地方一帯は紡績業の発展に支えられ電力需要が急伸したため、「日英水電」では電源の拡充に迫られて、遠く愛知県奥三河の矢作川水系に電源を求め、大正5年に「巴川発電所」(1,500kW)を、大正9年には「白瀬発電所」(1,119kW)を完成させ、遠く浜松まで送電した。

 


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「岡崎電燈」に関しては研究者のご尽力により、設立の経緯がかなり詳細に判明している。感謝申し上げつつ、僭越ながら本稿において「岡崎電燈」を極簡単にご紹介したい。

 

明治28年夏、前年に電燈が灯った豊橋から岡崎へ来た者が東海道岡崎宿の「丸藤旅館」へ投宿したことから「岡崎電燈」の物語は始まる。宿泊客は旧知の旅館の主人・田中功平に「岡崎にも電燈を点けては如何か」という話をした。田中は電燈開業に大変興味をもったという。ただちに、織物業を営む杉浦銀蔵や味噌醤油屋の近藤重三郎に相談を持ち掛けている。その年の9月には、豊橋電気や熱海電燈の技師を務めた大岡正が岡崎へやって来たことから事業化が一気に進んだ。

明治29年7月、「岡崎電燈合資会社」が設立され、発電所の設計・監督を大岡に嘱託する。同年10月には逓信大臣の許可が下り、額田郡日影村(岡崎市日影町)の郡界川二畳ヶ滝の落差を利用した水力発電所建設に着手。難工事の末、明治30年7月1日に、第一発電所(現・岩津発電所)が完成した。出力は50kW、岡崎中心部まで電圧二千V16kmの線路が敷設された。発電した電気は、郡界川沿いにあったガラ紡の工場や岡崎町八帖など岡崎中心部へ送電された。開業式は、明治30年7月25日に岡崎町の宝来座にて盛大に執り行われた。この開業式では内務大臣で子爵・品川彌二郎の祝辞が披露されているが、この祝辞巻物が現在、名古屋市の「でんきの科学館」に展示されている。そのなかで、「殊に数百年来、有名なる三河木綿の造職に力を入れ…」とあり、政府として殖産興業を期待しているのが分かる。

△絵葉書 岡崎電燈 第三発電所 全景

△中部電力・加茂発電所と巴川
 

さて、上の絵葉書は「岡崎電燈株式会社 第三発電所」であり、現在は中部電力に属す「賀茂発電所」である。岡崎電燈自らが発行した絵葉書は種類が少なく、たいへん貴重なものとなる。この岡崎電燈では旺盛な電力需要に応じるため、「第二発電所」(現・東大見発電所)に続いて、大正3月6月に東加茂郡金沢村(現・豊田市足助地区)の巴川と神越川の合流地点に設けたのが「第三発電所」である。観光地で有名な「香嵐渓」の上流部に当たり、出力は520kWであった。

△中部電力 加茂発電所 入口

△連系鉄塔と発電所建屋
 
 

ちなみに巴川が作り出す渓谷、香嵐渓(こうらんけい)は、紅葉やカタクリの花などが有名で、香積寺の三栄和尚が、江戸時代の寛永11年に植樹したことがはじまりとされ、現在では全国有数の紅葉の名所として約4000本のもみじが彩りを見せ、紅葉の名所として高い人気を誇っている。昭和5年、大阪毎日新聞の本山彦一社長により、香積寺の「香」、巴川をわたる爽涼とした嵐気の「嵐」から“香嵐渓”と名付けられたと云う。

△香嵐渓入口

△香嵐渓を流れ下る巴川

△巴川に掛かる待月橋
△暑い日はカキ氷でも
 

また、足助川をはさんで、かつての宿場を思わせる古い町並みの散策もできる。この「足助の町並み」は、愛知県で初めての国の「重要伝統的建造物群保存地区(通称:重伝建)」に選定された。尾張・三河から信州を結ぶ伊那街道(中馬街道)の重要な中継地にあたり、物資運搬や庶民通行の要所として栄えた商家町。重要な交易物であった塩はここで詰め替えられ、「足助塩」「足助直し」と呼ばれた。

△足助の古い町並み
 

さて、岡崎電燈の話に戻るが、岡崎電燈ではさらなる需要増に対応するため、大正8年には第四発電所(現・足助発電所)、大正15年に第五発電所(現・百月発電所)を完成させるが、いずれも大規模改修により、当時の建屋は残されていない。しかしながら、中部電力の電力史料館には、賀茂発電所の水車・発電機(大正3年製)が電力遺産として保存されている。

△写真 「岡崎電燈 第四発電所」

△現在は、中部電力 足助発電所

 

△写真 「岡崎電燈 挙母変電所」(現・中部電力 西町変電所)

 

 

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松平家ゆかりの信光明寺一誉上人が、将軍拝賀のため江戸へ向かう途中、病に倒れた。天満宮へ病気回復を祈願したところ病はたちどころに癒え、将軍家への拝謁を無事済ませることができた。感謝するため、帰途、鎌倉・荏柄山天満宮を参拝し、分霊を頂いて岩津山に祀る。こうして宝暦9年(1759)、岡崎市岩津山山頂に祠が建立され、岩津天神が創建された。

△絵葉書 岩津天神(眼下には矢作川の流れ)

△現・中部電力パワーグリッド送電線路(岩津天神境内から)


△岩津天神(岡崎市岩津町東山)

 

この岩津天神の近く、二畳ヶ滝に設けられているのが中部電力・岩津発電所。中部電力では最古の水力発電所となる。額田郡日影村(現岡崎市)の郡界川の豊富な水量と二畳ヶ滝の落差(20㍍)を利用した発電所である。

建設したのは当時岡崎町内で呉服商を営んでいた杉浦銀蔵氏、旅館丸藤の田中功平氏、醤油醸造の近藤重三郎氏の三名で、熱海電燈技師であった大岡正氏の協力を得て、明治29年に岡崎電燈合資会社を設立。明治30年7月8日に開業した。

△中部電力 岩津発電所

その後、「岡崎電燈」では旺盛な電力需要に対応するため、矢作川上流部、現在の豊田市山間部に多くの水力発電所を設置、その電気は紡績工場が多く立地した岡崎市方面に送電された。このため、現在でも矢作川を見下ろす山々には多くの送電鉄塔が建っている。 
この絵葉書の発行年ははっきり分かっていて昭和2年である。当時の新愛知新聞社(中日新聞の前身)が新聞紙上で「愛知県下 新十名所」を募った際に発行された絵葉書で、絵葉書に写る送電線は当時の岡崎電燈の送電線の姿である。現在は中部電力パワーグリッドに移管されているが、眼下に見える岡崎市の「八帖変電所」へと繋がっていく。

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