松平家ゆかりの信光明寺一誉上人が、将軍拝賀のため江戸へ向かう途中、病に倒れた。天満宮へ病気回復を祈願したところ病はたちどころに癒え、将軍家への拝謁を無事済ませることができた。感謝するため、帰途、鎌倉・荏柄山天満宮を参拝し、分霊を頂いて岩津山に祀る。こうして宝暦9年(1759)、岡崎市岩津山山頂に祠が建立され、岩津天神が創建された。

△絵葉書 岩津天神(眼下には矢作川の流れ)

△現・中部電力パワーグリッド送電線路(岩津天神境内から)


△岩津天神(岡崎市岩津町東山)

 

この岩津天神の近く、二畳ヶ滝に設けられているのが中部電力・岩津発電所。中部電力では最古の水力発電所となる。額田郡日影村(現岡崎市)の郡界川の豊富な水量と二畳ヶ滝の落差(20㍍)を利用した発電所である。

建設したのは当時岡崎町内で呉服商を営んでいた杉浦銀蔵氏、旅館丸藤の田中功平氏、醤油醸造の近藤重三郎氏の三名で、熱海電燈技師であった大岡正氏の協力を得て、明治29年に岡崎電燈合資会社を設立。明治30年7月8日に開業した。

△中部電力 岩津発電所

その後、「岡崎電燈」では旺盛な電力需要に対応するため、矢作川上流部、現在の豊田市山間部に多くの水力発電所を設置、その電気は紡績工場が多く立地した岡崎市方面に送電された。このため、現在でも矢作川を見下ろす山々には多くの送電鉄塔が建っている。 
この絵葉書の発行年ははっきり分かっていて昭和2年である。当時の新愛知新聞社(中日新聞の前身)が新聞紙上で「愛知県下 新十名所」を募った際に発行された絵葉書で、絵葉書に写る送電線は当時の岡崎電燈の送電線の姿である。現在は中部電力パワーグリッドに移管されているが、眼下に見える岡崎市の「八帖変電所」へと繋がっていく。

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名古屋に初めて電気を灯したのは、名古屋市に本社を構えた名古屋電燈株式会社であった。

明治21年10月より名古屋市南長島町(現・中部電力でんきの科学館)で本社および電灯中央局(火力発電所)の建設が進められ、明治22年11月3日に直流式の発電所(発電機25kW×4)が完成、明治23年1月10日に南桑名町の千歳座にて名古屋電燈開業式が執り行われた。

 

その後、名古屋電燈では供給力不足と石炭価格の高騰問題に悩まされる。そこで長良川での水利権を譲り受け、明治41年6月に岐阜県武儀郡洲原村立花(現・美濃市)で「長良川発電所」(出力4,200kW)の建設に着手、明治43年3月15日より発電を開始した。 下の絵葉書は、「名古屋電燈」が自ら発電所完成時に発行した「長良川発電所  竣工記念絵葉書」である。

△長良川 水力電気事業実況 絵葉書帖 表紙 名古屋電燈株式会社

△絵葉書 名古屋電燈 長良川水力電気工事「発電所全景」(明治43年刊) 
△中部電力 長良川発電所 全景
△長良川発電所 正面玄関(美濃市立花)
△絵葉書 名古屋電燈 長良川水力電気工事「発電所」(射水管)(明治43年刊) 

△長良川発電所 水圧鉄管

△絵葉書 名古屋電燈 長良川水力電気工事「児玉変圧配電所」(名古屋市西区児玉) 

 

 

発電所建設は、当時、名古屋市鶴舞公園で開催される第十回関西府県連合共進会(博覧会)の開幕に間に合わせることが至上命題となっていた。

これはパビリオンで電飾が予定されていたためで、開幕前夜の3月15日午後7時にようやく点燈、関係者一同が思わず万歳したと云う。共進会は3月16日から6月13日までの90日間に、入場者263万人を数えて大成功をおさめた。

△絵葉書 第十回関西府県連合大共進会「イルミネーション」(名古屋市鶴舞公園)

 

名古屋電燈は共進会の機械館において、長良川発電所の模型や電燈球、扇風機などを展示した。当時名古屋市内で唄われた俗謡に、「清き長良の水上 築き上げたる発電所 あれが名古屋の夜を照らす 粋な明かりの元かいな」とある。 

△清流・長良川と赤レンガの発電所
△岐阜県から伊勢湾に流れ下る長良川

 

この赤レンガの長良川発電所は、平成12年に登録有形文化財に登録、平成13年には発電所関連施設も登録有形文化財に登録、さらに平成19年度に近代化産業遺産に認定された。

 

〔追伸〕先般、オークションで、名古屋電燈・長良川発電所の新たなシリーズを発見入手した。説明書きによると、岐阜県武儀郡上有知町(こうずち)の地元・山岡商店が建設工事中に発行したもので、『長良川水力電気工事 絵はがき(八枚壹組)』という題名となっている。つまり名古屋電燈株式会社が発行したものではない。一般に知られている冒頭の絵葉書シリーズは長良川発電所竣工時に名古屋電燈が自ら発行したものであり、これは新たな発見と言える。

△長良川水力電気工事 絵はがき表紙

△絵葉書 「山上ヨリ見タル長良川水力発電所」

△絵葉書 「長良川水力電気 第二制水門」

 

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面白い絵葉書を入手した。

平成29年の電気事業法改正により、公益事業たる電気事業制度の抜本的な改革を行うためと謳った「発送配電」の水平分離が決まる。これを受け令和2年4月1日、名古屋に本社を置く中部電力㈱では、中部電力ホールディングス、JERA(発電)、中部電力パワーグリッド(送配電)、中部電力ミライズ(電力販売)に分社化された。

△名古屋市東区東新町 中部電力本店

 

これら発送配電の分離と電力取引市場の導入により新電力の参入を促すのが目的であったが、大手電力での老朽火力の休廃止に伴う需給逼迫、加えてウクライナ侵攻に伴う原油価格の高騰とそれによる電力取引市場の価格急騰等により新たな電力制度は岐路に立たされている。

しかし今回の電力改革は導入前から一部関係者により懸念が示されていた。それは戦前同じく「発送配電」の分離が実施され、電力危機が訪れた事があったためだ。

△絵葉書 中部配電 サービスカー

 

昭和11年3月に戦時下で電力国家管理案が示され、昭和14年4月1日に全国の発電所と送電設備を一括保有する国管理の「日本発送電㈱」が発足。続いて昭和17年4月1日には全国を九つの区域に分けた配電会社が誕生、名古屋市を中心に「中部配電㈱」が発足する。

しかし発電会社と配電販売会社を分けたため需給調整が上手くいかず慢性的な電力不足に陥った。絵葉書は頻発する停電を周知するためのサービスカーである。

戦後、これらの反省を踏まえ、「発送配電」一貫経営の垂直統合を再び行うこととなり、昭和26年5月1日に中部電力㈱が誕生した筈だったが…。

 

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「岡崎電燈」は、愛知県岡崎町(岡崎市)の杉浦銀蔵、田中功平、近藤重三郎の三氏により、明治30年7月に愛知県額田郡日影村(岡崎市日影町)を流れる巴川の支流・郡界川の二畳ケ滝の落差を利用した岩津水力発電所(当初50kW)を建設し、開業する。

岩津発電所から杉浦社長宅(籠田町)まで約16km送電され、当時の岡崎町籠田、連尺、伝馬など1,300戸に配電されたと云う。

開業式は、明治30年7月25日に岡崎町六地蔵の宝来座にて盛大に執り行われたが、この時に披露された内務大臣・品川弥二郎の祝辞が名古屋市の「でんきの科学館」に収蔵されている。

 

さて、岡崎電燈は順調な業績を重ねて、岡崎町では岡崎銀行をしのぐ大企業へと発展していく。明治44年には「東大見水力発電所」(水力500kW)、大正3年に「賀茂水力発電所」(水力450kW)を相次いで新設するも、冬季渇水期の電力不足への補給電源確保や旺盛な電力需要に対応する必要が出てきたため、大正12年に碧海郡大浜町(碧南市)に「大浜火力発電所」を建設した。出力は4,000kWであった。

△絵葉書 岡崎電燈 大浜火力発電所

△発電所建屋と煙突が残る大浜火力跡
 

この大浜町には、江戸廻船の基地であった大浜湊(大浜港)があり、古くから海運で栄えた。大浜は三河湾では一番賑やかな湊町で、大浜街道の起点でもあった。江戸時代、大浜の湊からは酒、みりん、米、塩、瓦、材木などが江戸へ。大豆、干鰯(肥料)などが江戸から運び込まれた。幕末には三河海岸部に「五箇所湊」が選定され、大浜湊はその第一の湊となった。昭和に入ってからは漁港としても、県下一の漁獲量を誇っていた。この港を基盤として町は栄えた。醸造業も盛んで、慶応2年には大浜村に味噌・溜屋が9軒あった。昭和初期には30軒以上となった。塩田も文禄年間からあり、明治17年の大浜の製塩業者は200戸を越えていた。大浜街道は大浜塩を信州へ運ぶ重要な街道であった。

△大浜地区では古い町並みが残る
 

岡崎電燈では、燃料となる石炭の陸揚げに必要な機能を当時備えていた大浜港の近くに、石炭火力である「大浜火力発電所」を建設した。その後、昭和2年には6,000kW増設されて、計10,000kWとなっている。この地には高さ53mの煙突が立っていたが、終戦間際の東南海地震・三河地震によって煙突上部が破損・倒壊している。

現在この大浜火力発電所は停止・廃止されているが、コンクリート造りの発電所建屋および煙突の胴体部は鋳造メーカーへ引き継がれており、現在は鋳造工場として利用されている。

△手前は中部電力パワーグリッド大浜変電所
 

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「熱田火力発電所」は、かつて名鉄・神宮前駅の東、新堀川沿いの名古屋市南区熱田東町(現・熱田区花表町)にあった。現在、ホームセンターと大型スーパーの敷地となっている場所である。

 

熱田火力発電所は、名古屋電燈株式会社により大正4年9月に1号機(3,000kW)が完成し、その後、2号機(大正6年11月、4,000kW)、3号機(大正7年6月、3,000kW)まで増設され、総出力は10,000kWを誇った。また、熱田火力2号機の完成により、老朽化していた水主町発電所(旧第三発電所)は大正7年3月に廃止されている。

△絵葉書 名古屋電燈 熱田発電所
△跡地にホームセンターとスーパー
△すぐ脇を名鉄が走る
 

調査研究によると、当時、名古屋市内に電力供給していた名古屋電燈株式会社では、明治43年に長良川水力発電所(美濃市、出力4,200kW)、明治44年に木曽川水力発電所(八百津町、出力7,500kW)と次々と完成させていた。

とくに木曽川発電所では2,500kWの発電機4台を備えていたが、そのうちの1台は緊急時のバックアップ予備機に回されており、緊急時以外は運転ができない状態であった。発電単価が安い水力発電機4台をフル稼働させるため、緊急時用と渇水期対策としてこの熱田火力を完成させたと伝わっている。

△絵葉書 愛知電気鉄道(開業記念) 天白川橋梁
 

さらに明治末頃から、「愛知電気鉄道」(名鉄の前身)によって神宮前と知多半島の電気鉄道の敷設が進められており、大正2年8月31日には神宮前~常滑間29.5 kmで全線開通した。このため、名古屋電燈の大口需要家となった愛知電気鉄道に対して安定的に電力供給を行うため、熱田火力の建設が進められたという事情もあったようだ。

 

以上のように、熱田火力の建設は、①既存の水主町発電所の老朽化への対応、②愛知電気鉄道への電力供給、③水力予備機の有効活用、という3点の理由であったと云われている。熱田火力は水力発電の渇水期や故障時に対応する「補給火力」として位置付けられて建設されたことが判る。このあたりの事情を調査された研究者にはこの場で感謝申し上げたい。

△絵葉書 名古屋電燈 熱田発電所 汽缶室、配電盤

 

そういえば思い出した。平成の初め頃、この地には住宅展示場があり、赤く塗られた煙突がシンボルで「赤い煙突の住宅展示場」と謳っていた記憶があり、もしかしてあれは熱田火力発電所の煙突だったのかも…。 Wikipediaをみると、『中京テレビハウジングプラザ神宮(名古屋市熱田区花表町)(平成17年閉鎖)。現在、DCM21熱田店に姿を変えている。ハウジングプラザ神宮には赤い煙突が目印として立っていた』とある。

 

〔追伸〕「中部産業遺産研究会」様より貴重な情報を頂きました。いつもありがとうございます。以下掲載させていただきます。

■熱田火力は、名鉄神宮前駅の東、新堀川沿いにあり、遠くからもその威容が望まれた。出力1万kWで中部地方では 当時最大の発電所であった。建設時は、水力発電所を補完する補給火力と位置づけられたが、第1次大戦ブームの さなかの大正4年に運転を開始し、電力供給に大きく貢献した。その後の水力火力併用運転の橋渡しになった。また、同発電所内で、電気製鉄用の試験炉の試作が行なわれ、電気製鋼所(現大同特殊鋼)の創設に重要な役割を果たした。

■新堀川新開橋の南右岸に、写真のようなコンクリートブロックの遺構がある。名古屋電灯の建設した熱田火力 発電所唯一の遺構、取水口跡である。

■この遺構は、平成22 年、中部産業遺産研究会のパネル展に際して、会員の調査によって明らかにされた。熱田火力は既に 撤去され、また昭和 54年まで残っていた 建物と煙突も撤去さ れた。その跡地は現在アオキスーパー(熱田区花表町)と なっている。

△新堀川に残されている取水口跡

△火力発電のしくみ(冷却は通常海水で行うが、新堀川の河川水で行っていた)

 


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