「岡崎電燈」は、愛知県岡崎町(岡崎市)の杉浦銀蔵、田中功平、近藤重三郎の三氏により、明治30年7月に愛知県額田郡日影村(岡崎市日影町)を流れる巴川の支流・郡界川の二畳ケ滝の落差を利用した岩津水力発電所(当初50kW)を建設し、開業する。

岩津発電所から杉浦社長宅(籠田町)まで約16km送電され、当時の岡崎町籠田、連尺、伝馬など1,300戸に配電されたと云う。

開業式は、明治30年7月25日に岡崎町六地蔵の宝来座にて盛大に執り行われたが、この時に披露された内務大臣・品川弥二郎の祝辞が名古屋市の「でんきの科学館」に収蔵されている。

 

さて、岡崎電燈は順調な業績を重ねて、岡崎町では岡崎銀行をしのぐ大企業へと発展していく。明治44年には「東大見水力発電所」(水力500kW)、大正3年に「賀茂水力発電所」(水力450kW)を相次いで新設するも、冬季渇水期の電力不足への補給電源確保や旺盛な電力需要に対応する必要が出てきたため、大正12年に碧海郡大浜町(碧南市)に「大浜火力発電所」を建設した。出力は4,000kWであった。

△絵葉書 岡崎電燈 大浜火力発電所

△発電所建屋と煙突が残る大浜火力跡
 

この大浜町には、江戸廻船の基地であった大浜湊(大浜港)があり、古くから海運で栄えた。大浜は三河湾では一番賑やかな湊町で、大浜街道の起点でもあった。江戸時代、大浜の湊からは酒、みりん、米、塩、瓦、材木などが江戸へ。大豆、干鰯(肥料)などが江戸から運び込まれた。幕末には三河海岸部に「五箇所湊」が選定され、大浜湊はその第一の湊となった。昭和に入ってからは漁港としても、県下一の漁獲量を誇っていた。この港を基盤として町は栄えた。醸造業も盛んで、慶応2年には大浜村に味噌・溜屋が9軒あった。昭和初期には30軒以上となった。塩田も文禄年間からあり、明治17年の大浜の製塩業者は200戸を越えていた。大浜街道は大浜塩を信州へ運ぶ重要な街道であった。

△大浜地区では古い町並みが残る
 

岡崎電燈では、燃料となる石炭の陸揚げに必要な機能を当時備えていた大浜港の近くに、石炭火力である「大浜火力発電所」を建設した。その後、昭和2年には6,000kW増設されて、計10,000kWとなっている。この地には高さ53mの煙突が立っていたが、終戦間際の東南海地震・三河地震によって煙突上部が破損・倒壊している。

現在この大浜火力発電所は停止・廃止されているが、コンクリート造りの発電所建屋および煙突の胴体部は鋳造メーカーへ引き継がれており、現在は鋳造工場として利用されている。

△手前は中部電力パワーグリッド大浜変電所
 

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