グレート・ギャツビー
フィツジェラルド
野崎孝訳
遠い昔、どこかで耳にしながら聞き流していた音楽のリズム、忘れていた言葉の断片。---しかしそこから音は生れなかった。そしてぼくが思いだしそうになったものは、永久に他に伝わらぬままに終ったのである。(p182)
最高に繁栄していた1920年代のアメリカ、
きらびやかに躍動する東部に憧れて都会にやってきた青年、ニック。
そこは、頻繁にひらかれる豪華なパーティ、楽しむだけのお喋り、贅沢な暮らしに溢れていた。
ニックはそんな社会に憧れを持ちつつ
贅沢さの陰になにか空虚なものを感じ違和感を抱く。
ニックはあるとき、パーティで声をかけられる。その人こそ、隣の大邸宅の主人、ギャツビーだった。そしてニックは謎だった隣人、ギャツビーのことを知るようになる。
遠くからでもみえるギャツビーの大邸宅。最新の車やボート、その他家にあるすべてのもの。
ギャツビーが毎夜のようにひらく豪奢なパーティ。パーティに来た人物をすべて受け入れる姿勢。
それらすべてが5年前に恋した、ディズィという女性のためだというのだ。
きらびやかな暮らしぶりに瀟洒な邸宅
流行りの車や、きれいな花束、
彼女に言いよるたくさんの男たち。
ギャッツビーは5年前、彼女と彼女にまつわる全てに恋をした。
王女様のようなディズィに恋をした無一文の青年ギャツビー。
ディズィと結婚するため、ギャツビーは
わずか5年で財をなし
ディズィの近くへ帰って来る。
けれど、ディズィはすでに結婚していて…。
崩壊するこの時代を知ってる私たちは
この本に儚さと美しさを感じます。
ここは全て虚構にすぎないんじゃないかと感じる主人公の気持ちも、ギャツビーのディズィに対する一途さも、ディズィの語られない想いも。過ぎてしまえば曖昧な儚い記憶にすぎないから。
作者のフィッツジェラルドは、この本と同時代を生き、『こんな暮らしが永久に続くはずない』という疑念、一方妻のゼルダに膨大なお金をかけるという面を持っていました。
そしてそのリアルをニックとギャツビー氏に分けて託し、この本ではふたりから見れるようにしてあるらしいです。
でもこの小説はそれだけじゃなく、アメリカンドリームの崩壊の儚さとともに、誰でもない私たちの青春時代の儚さを伝えているように思えます。
ギャツビーの恋は虚構だったのか?
アメリカンドリームはただの夢にすぎなかったのか??
青春時代、失った時代というものは
とやかく綺麗に言われがちだし
幻のように思い出すものだけど、
確かに何かに焦ったり、苛立ったり、
ありえない夢をみたり。
ちいさな、たくさんのことを感じていたんだということを思い出させてくれる本です。
それにこんな時代のかんじ、
なんか好きなんですよね╰(*´︶`*)╯
今と違う生活様式とかにも単純に興味あるし
ドレスだったりパーティだったり
いろんなことが華やかだし…
映画もみたけど、映画のほうは華やかなかんじがより出てて素敵でした!!
でもなんか虚しいかんじとか、よくわからないけど好きです!!
いるよね!みたいなリアルな登場人物像も好き〜〜!
ではまたなにかすてきなの読んだら更新するね!!
そのこの読書感想文╰(*´︶`*)╯