2026年6月10日から12日までの間、夜行1泊2日の行程でお出かけしました富山の旅の様子をお届け致していますウインク前回編では「五箇山」を成すもう一つの合掌集落である相倉(あいのくら)に向かう途中にある流刑小屋に立ち寄りました様子をお届けしました👇

菅沼を立つこと1時間、相倉集落に到着ですウインク

ところで菅沼では支払わなかった…もとい、早朝到着のため係りの方が不在で支払えなかった駐車場料金(保存協力金)ですが、今回はしっかりと支払いましたグラサンそして相倉の駐車料金も値上げされていきなり倍の1000円ですが、旅行前の見積もりでは菅沼と相倉の駐車料金各500円、二つ合わせて1000円でしたので、結局、目論見通りの支払いとなりました爆  笑

しかし今回のchu一行、途中「流刑小屋」の見学をしていたためこれだけ時間を要しましたが、途中、何処にも立ち寄らなければ両集落の間は15分程度で行き来することが出来ますニコニコこちらが菅沼と相倉、そして「五箇山」に唯一、現存している「流刑小屋」の位置関係です👇相倉は庄川の左岸部に位置しているのですが、集落全体は標高約400mの河岸段丘の中にあるためその標高差があることから庄川を直接眺められる場所はありませんニコニコ

相倉集落到着は9時30分ウインクしかし恐ろしい光景がガーン団体ツアーの大型バスが来ました叫びしかも外人さんのものゲロー“こりゃたまらん滝汗とにかく、相倉集落を一望出来るNiceViewスポットである展望台まで急がないとあせるあせるあせる”と歩き始めます。事前にYouTubeにて情報を得ていたのですが、展望台までは15分程度かかります。しかも“展望台”ですから当然、高台爆  笑すると、展望台への取り付け地点には貸出杖がありましたウインクですが実はこの写真は展望台から降りて来た時に発見したものニヤニヤ最初に展望台に向かう際には、“団体ツアー客が押し寄せて来る前に着かなきゃあせるあせるあせる”と、大急ぎで歩き始めていましたのでこのようなおもてなしがある事に気が付きませんでした爆  笑

展望台へのルートは最初の頃こそ緩やかな道でしたが…

次第に傾斜を増し、かつコースの端はスパッと切れ堕ちる箇所も出てくるなど、いくら先を急ぐからと言って、慎重に進まなければなりません叫び

そして高度をぐんぐんと上げてくるとこのように、次第に視界が開き始めてきましたウインク

麓からは15分ほどと聞いていましたが、全速力で登りましたので12分くらいだったと思いますウインク結果、息が切れましたあせるあせるあせる

そして到着ビックリマーク

ここからの景観も「とやまビューポイント」に指定されていましたウインクそして後ろを振り向くと、ゾロゾロと外国人の団体さんがやって来ました。どうやらアメリカ人の団体さんのようです。そして皆さん、グループごとでお話こそされていますが、どこかのC国人のように、バカでかい声をあげながら歩くのではなく、極めて紳士淑女の一団でしたニコニコん、そうですウインクこういう方たちが日本の良さを見るために訪れてくれるのなら歓迎ですウインクですので一概に“インバウンド外国人観光客は迷惑だパンチ!”と全否定するのも間違いだなキョロキョロと感じたchuでしたニコニコ

相倉集落にある合掌造りの建物群を俯瞰します照れこの相倉にあります合掌造りの建物の棟数は現在20棟と、9棟の菅沼集落の倍の数があります。ですので単に「五箇山」と言った場合、まず思い起こされるのは相倉の集落のようですニコニコ相倉集落の全容は細長い平坦地に屋敷地と耕作地が広がり、また傾斜地の一部にも茅場などの耕作地があるそうです。またここは、かつて五箇山でも最も養蚕の盛んな集落だったそうなのですが米の自給が進められ、養蚕も衰退をたどった1950年(昭和25年)頃に桑畑は水田へと開拓されたのだそうです。このような山間に広がる合掌造りの建物と田圃はこそニッポンの原風景の言えるでしようウインクそして先ほど来、後に迫って来ました外国人の団体ツアーの方々、ここからの景色を見て一様に“アメイジング”を連呼ニヤニヤそりゃそうでしょう、この景観こそまさにニッポンの原風景なのですからニコニコしかしこうしてインバウンド外国人観光客の方々に見つかってしまった以上、情報が拡散されるのは時間の問題ですニヤニヤ

またここは人形山の展望所にもなっていますニコニコ

なになに、人形山とは!?👉ある時、仲の良い姉妹のお母さんが病になり、娘たちは母親の回復を白山権現に祈願したのだそうです。すると権現様から湯治に通うようにとのお告げがあり、それを実践したところお母様の病が治癒したそうな。そのため御礼詣でのために山に入ったところにわかに天候が急変し吹雪に閉じ込められてしまったのだそうなガーンすると翌春、手をつないだ二人の姿が残雪となって現れ、村人の涙を誘ったのだとか。以来、毎年人形の形をした残雪が現れるようになったことから、人形山と呼ばれるようになったそうですニコニコ

しかし今回のツアーバスでいらしていたインバウンド外国人観光客の団体さん、観光のマナーが実に良くて嬉しくなりましたニコニコこれ、白川郷に大挙して押しかけてきている人たちと対局ですねウインクでもね…マナーある皆さんが“これこそニッポンの原風景です”と善意で情報発信をしてくれても、マナー無き外国人もその情報は見ちゃうわけでして、しかも①白川郷からとっても近い場所にあること②白川郷では失われつつあるニッポンの原風景があること の二つが合わさっちゃえば“絨毯爆撃”が繰り広げられるのも時間の問題ですゲローなので今年の1月に初めて雪景色の「五箇山」を訪れ、“これこそニッポンの原風景だ”とピーンひらめき電球ひらめき電球ひらめき電球ときて、なるべく早いうちに再訪しようと計画した今回の富山旅行だったのですが、さして間を置かずこうして訪れることが出来て本当に良かったです照れだって、来年になったら確実に今よりもインバウンド外国人観光客は訪れるでしょうから、そしてその人たちは必ずしも今回の団体さんように観光マナーを守る方たちばかりではないでしょうからえーなので「五箇山」を訪れるのであれば1分でも1秒でも早いうちにダッシュダッシュダッシュと、chuは皆さんにお訴えをしたいのでありましたウインク

ちなみに数々のツアーを企画している旅行大手の「阪急交通社」と「近畿日本ツーリスト」のサイトからも、ちょっと検索するだけで直ぐにヒットしちゃいます口笛つい最近までは「五箇山」はこの手のツアーに組み込まれる場所ではありませんでしたあせるあせるあせる

さて、展望台から降りてきましたchu一行は、今度は相倉の集落内を散策しますニコニコ走る人走る人走る人こちらは集落の入口に掲げられていました看板です。相倉集落は一般の観光地とは異なり人々が暮らされている、生活の場であります。“生きた世界遺産”と言われる所以なのですが、そのための注意書きです。ただ残念なことに案内は日本語のみショボーンC国語や、特に白川郷を訪れた時に感じたのですが、大声をあげながら散策する人たちは東南アジア方面からの観光客が多かったので、この手の看板は多言語化で案内する必要があるな真顔と感じたchuでしたウインク

集落内には一般車両は進入できません。ちゃんと駐車場に停めて駐車料金を支払いましょう爆笑

合掌造りの建物が見えて来ましたニコニコこれは民宿でしたねウインク

そして菅沼には2~3軒しか見られなかったお土産屋さんやお食事処ですが、相倉にはもっとたくさんありましたニコニコ

「五箇山」の説明です👉五箇山は庄川上流と支流である利賀川の深い谷間に点在する70の集落(現在は南砺市になりましたが、合併前は平村、上平村、利賀村だったそうです)の総称で、相倉はその集落のうちの一つです。また五箇山での人々の暮らしが資料の上から確認出来るのは浄土真宗が広まってきた15世紀末のころなのだとか。天文21年(1552年)に記された「五箇山十日講文書」には大部分の集落の名称が書き記されていて、相倉の名前も書かれていたそうです。合掌造りの建物は豪雪に耐えるため、60度正三角形に造られた急傾斜の屋根を有しており、屋根裏では蚕を飼っていたため切妻造りの明り取りを設け、また床下では鉄砲火薬の原料となる塩硝の土を培養していたため床が高い造りになっています。江戸時代の五箇山では養蚕、塩硝、紙すきが3大産業となっていたそうです。そしてこの辺りはお隣岐阜県の「白川郷」と同じですね。最も、富山県や岐阜県と言った県の区別は明治期以降の話ですから、江戸時代以前では山間に囲まれた豪雪地帯の厳しい自然環境の中で、生活のための生きる術を見つけながら暮らされていた歴史があったのでした。少ないながらも生産技術を伝承し、かつ厳しい自然に対応するために生まれた合掌造りの建物ですが、貴重な環境を守るために集落全域が文化財に指定され、ここで暮らされている住民の皆様も後世にこの姿を残すために保存の努力をされているのです照れなお文化財指定の経緯としては①昭和45年(1970年)12月に国史跡②平成6年(1994年)12月重要伝統的建造物群保存地区③平成7年(1995年)12月世界遺産 にそれぞれ指定、選定、登録されたのでありましたニコニコ

そして今の天皇陛下は皇太子時代に相倉に関する句を詠まれているのですが、こちらはその石碑ですニコニコ皇族の方と五箇山/相倉に係るお話につきましては後で詳述させて頂きますウインク

こちらは原始合掌造りの建物  原始時代の建物と同じ形をしていますびっくり

築造は江戸時代のもの。屋根だけが合掌造りの形をした建物ですが、これが合掌造り家屋の原型なのだそうです。この地方では、このような家屋は“ナマンダブツ建て”と呼ばれており、江戸時代には五箇山の農家の方の住居として各所に見られたそうなのですが、現在「五箇山」に残る原始合掌造りの建物はこの1棟のみに。そして何と驚くべきことに、昭和の初期までこの“家”には、お婆さんが一人暮らしをされていたそうですびっくりびっくりびっくりところで“ナマンダブツ建て”のナマンダブツとは「南無阿弥陀仏」のこと。そして南無阿弥陀仏は、浄土真宗の開祖であります親鸞聖人が説く念仏です。鎌倉時代のわりと早い頃、京都において法然上人の下で修業をしていた親鸞聖人は、とある出来事で後鳥羽上皇り怒りに触れ越後に流罪となるのですが、越後に向かう道中でも親鸞聖人を慕う民に教えを説き、そして現代でもこの地方には浄土真宗の門徒さんがとても多いのです。南無阿弥陀仏の念仏を唱える時、掌をピタリと合わせて拝むのですが(この仕草を真宗では「合掌」と言います)、その掌(合掌)の形と、この地方独特の建物の屋根の形とが似ていることから、ナマンダブツ建てと言われ始め、後に合掌造りと呼ばれるようになったのでしたウインク

いわゆる“猫の額ほど”の耕作地ですが、ここではコメ作りも行われていますニコニコただこの集落にお住まいの方の数は知れていますので、作ったお米を出荷して生計を立てる等の農業を生業として暮らす、というよりは自給自足に近い感覚かも知れませんニコニコ

こちらは天狗の足跡👇

「五箇山」相倉に伝わる天狗の伝説についてはこちらに説明されています👇

最後に集落内を散策走る人走る人走る人ここは最初に訪れました菅沼とは異なり、外国人さんの団体ツアーバスの他にもツアーバスが来ていたため、そこそこの人数の方とすれ違いました。しかし「白川郷」とは比べ物にならないほど人出は少なく、そのため比較的静かな中でのニッポンの原風景を堪能することが出来ました照れそして「白川郷」が何ゆえにあのように観光地化されてしまったのかと言うと、来訪者がとても多いのは勿論なのですが、集落内を散策しているインバウンド外国人観光客が大声で話す、叫びながら歩くからです絶望そしてその声の“出し主”は決まってC国人や、東南アジア諸国から来日している人たち真顔欧米系の観光客は、そのようなことはしません。また日本人の観光客も静かに散策しています。要は、人数ではなく、叫びながら歩くか否かにより、その観光地の静寂が保たれるのかそうでないのかの違いとなるのですニヤリ例えば平日朝の通勤時間帯の様子を思い浮かべてみて下さい。首都圏の主要ターミナル駅にはそれこそ一度に何万人もの人が集まり、移動しているのですが、そこは決して静寂ではないものの五月蠅くはありません。「白川郷」を始め国内各地のスポットには、例えば今まではそれほど目立った観光地ではなかった場所にも、ある日を境におびただしい数の人出が生じ、喧噪の場となることが珍しくないのですが、その理由は光の速さで伝わるSNS情報と、それを基に大挙して押し寄せるC国人や東南アジア系の方です。日本人や欧米からの観光客のように静かに…と言っても同行者との話し言葉程度であれば全然構わないのですが、なぜあんな大声を出して話さなきゃダメなのよえーという声の出し主が現れた場所では、もう古き良きニッポンの原風景は見られないし感じることも出来ないのです。その手のインバウンド外国人観光客が来て、喜んでいるのはボッタくりの商いで暴利を稼いでいます、例えば京都の「錦市場」の住人などの一部ぢゃないですかねニヤリ

さて、相倉の集落を一廻りも二廻りもしましたので少し休憩することにしましょうウインクこちらはお食事と、お土産処とを兼ねています「相倉屋」さんニコニコ

店内はこんな感じウインク畳の座敷部屋と、行灯にも似た電灯との調和が古き良きニッポンの風情を感じます照れ

お土産の購入前に少しお腹に入れることにしましたニコニコと言っても、“五箇山に来たらこれを食べてい”ってのは前から決めていましたがウインク

これです👇五箇山とうふチュー五箇山豆腐とは、五箇山の澄んだ水と地場の大豆を使用して作ったお豆腐です。その特徴としては。縄で縛っても形くずれしないのだそうで(写真は「越中とやま食の王国」サイトからお借りしました)

“寝るときに枕にした”や、“つまづいて生爪をはがした”など、五箇山豆腐の堅さを比喩する話は多くあるのだそうですニコニコこの堅さは大豆の栄養がギュッと詰まった証拠だそうで、刺身や冷奴、煮物に、田楽など多彩に楽しめるのだそうですウインクあ~こんな時、日本酒を飲みたくなるのはchuの常なのですが爆笑この先もまだ車を運転しますので飲めないのが残念なところ爆  笑

そして着皿ビックリマークこのお豆腐は見るからにして固そうですウインクこれを、お刺身を食べるようにしてわさび醤油を付けて食べるのですが、う~ん、とっても美味照れDynamiteだビックリマークラブ

お食事を出してくれました「相倉屋」の店主の女将、お店が暇だったこともあってか爆笑話しかけて来てくれたのですが、北陸地方、独特の語尾を延ばす言葉で“お客さん、どっから来たのぉ~ぉ”に、chuが千葉からです、と答えると目を丸くして“えぇ゛千葉あ~ぁ 千葉のどこね”と言うので、松戸市と言っても多分わからないと思ったのですが、“松戸です。ですが千葉と言っても千葉県の西の外れで、すぐ隣は東京なんですけど”と言うと、この女将さん、何と大学は千葉大学で千葉市内(轟町に住んでた、と爆笑てか轟町とか言われても普通の方はわかりませんがchuは千葉市内での勤務もありましたので知っていましたが)に住み、翌年には妹さんも千葉大生になり一緒に暮らしていたこと、卒業後はJAFに勤めていたこと、そしてもうだいぶ前のことになったけど、このお店(相倉屋)を継ぐため帰省したこと、学生時代の友人とは今でも繋がりがあり、千葉で暮らしていた時がとても懐かしいことなど、とうとうと話してくださいました爆笑そして実家はこの相倉集落だと言われたので、(この辺鄙な場所から…とは言いませんでしたがウインク)こうした地方から国立旧一期校に入られたのは凄いですねビックリマーク村が生んだ才媛だったのですねウインクと言ったらまんざらでもなさそうなお顔をされていました爆  笑ですがそもそも国立大学の中でもかなり難関なレベルにある千葉大に、塾や予備校通いも出来ない人里離れたこんな地方からストレートで入学するのはとても凄いことですウインクその後も話はとうとうと続き、大学生当時、五箇山と千葉との間を行き来するのは現在とは比べ物にならないほど時間を要したこと、今の時代にある北陸新幹線は開業していませんでしたので、金沢と上野を結ぶ夜行の急行で行き来していたことを、昔を懐かしむかのように語っていましたニコニコまた「五箇山」と皇室との関係につきましても詳細に語って下さいまして、それは昭和53年、今の天皇陛下がまだ学習院大学高等科3年生であられました時に所属されていました高校の「地理研究会」の課外活動の一環として五箇山を訪れ、その際には相倉の図書さん宅に宿泊される等、相倉との繋がりを教えてくれ、また昭和58年にはやはり学習院大学高等科に在籍されていた礼宮様(現在の秋篠宮様)も高等科の合宿で相倉にあるキャンプ場を訪れたところ、五箇山をいたくお気に入いになり、その後、御家族が増える(紀子様、眞子様、佳子様、悠仁様)と共に4度に渡り相倉を訪れられたり、と皇室に関するお話も続きました。そして天皇陛下と秋篠宮様、お二人の五箇山・相倉に対する思い入れはとても強く、天皇陛下が皇太子殿下の時代でありました平成3年の歌会始では、「五箇山を おとづれし日の夕餉時(ゆうげどき)森に響かう こきりこの唄」という句を御披露され、また秋篠宮様も平成15年の歌会始におきまして「暮らし映す 合掌造りの町並みを 見つつ歩めり 妹と吾子らと」(※妹(いも)=紀子様、吾子(あこ)=眞子様、佳子様)と謳われるほど、お二人の五箇山・相倉への思いは強く、またこのことを「五箇山」の、特に相倉集落の方々は大変誇りに思うと同時に皇室に対してなお一層の敬愛の念を抱くなど、思い入れが強いのだということを語ってくれましたニコニコ先にアップしました写真は、天皇陛下が皇太子時代の歌会始にて詠まれた句を紹介した石碑だったのですが、天皇陛下と秋篠宮様お二人の、「五箇山」相倉に対する思いを語る時の女将さんからも皇室を敬う様子がとても感じられ、chuも気持ちのいいひと時を過ごすことが出来たのでしたウインク

 

以上で今回の富山旅行の最大の目的でありました「五箇山」訪問の様子をお伝え終えましたウインクこの後も富山旅行の様子をお届けするblogを綴るのですが、相倉集落を後にしましたchu一行は砺波平野を一気に駆け下り日本海へと移動します。よって、旅の内容も様変わり=フェイズが変わりますのでここで富山旅行記は一旦お休みを頂き、旬ネタを挿入させて頂きたく思いますニコニコ