2024年6月24日に参加しました標記「駅ハイ」の後編をお届け致します。途中、中央区明石町の「築地外国人居留地」までをお伝えした前編はこちら👇ウインク

明石町を過ぎると佃大橋西詰めに辿り着きます。そしてこの近くには、残念ながら今はクローズしてしまいました、とってもうまいハムカツを提供して下さった「キッチントキワ」さんがあり、夜勤明けには早めのランチを頂くために足繁く通ったものでした。あの味は、もう残念ながら味わうことは出来ないのです泣さて、話を「駅ハイ」に戻し、今度は佃大橋は渡らずに、その手前側。隅田川右岸に整備されている「隅田川テラス」を歩きます走る人走る人走る人「隅田川テラス」と言うのは、隅田川総延長47㎞のうちの32㎞の両岸部に渡り整備された河岸で都心の貴重な水辺空間となっています。chuも、32㎞全てを歩いたことはありませんが、例えばやはり中央区新川にある永代橋付近、台東区浅草にある桜の名所でも知られる隅田公園、過去の「駅ハイ」でも幾度となく訪れている荒川区や足立区沿いの隅田川河岸には良く整備された歩道が設置されており、これらは全て「隅田川テラス」であり、知らず知らずのうちにそこそこの距離を歩いていたのですニコニコそして佃大橋から、次の勝鬨(かちどき)橋までが今回のルート。この辺りはもうホントに海に近く、つい数年前までは次に目指す勝鬨橋が隅田川最下流に架かる橋だったのですが、「東京オリンピック2020」に合わせて開通させた環状二号線の築地大橋が今では隅田川の最下流に架かる橋に。その先は海波波波しかし海と言っても大海原の海とは異なり、東京港の一画が隅田川の河口ですから壮大なイメージは残念ながら感じられませんニヤニヤ

「TOKYO CRUISE」の観光船が遡上していきます。松本零士さんがデザインされた「ヒミコ」と思われます。

佃大橋の下を潜り抜けようとしています。前に見えている高層ビルは佃島のマンション群です。佃島にも、過去の「駅ハイ」や、月島でのもんぢゃ帰りなどに何度も訪れていますウインクなおこの辺りは、東京メトロがまだ帝都高速度交通営団と呼ばれていた時代に開業した有楽町線の月島駅が開業する以前はホントに不便なエリアだったのですよ滝汗月島駅には今でこそ都営地下鉄大江戸線の駅も出来、連絡駅となりましたが当初、有楽町線だけの時、完成したのは1988年(昭和63年)のこと。今でこそ月島には「東京もんじゃストリート」なる街区が出来、観光客らが多数訪れる街並みになりましたが、月島にもんじゃのお店が急増するきっかけとなったのが有楽町線の開業であることは、今となってはあまり知られていない事。佃島や月島エリアは銀座や東京駅からは遠くはないものの、決して近いということはなく、長らく“陸の孤島”と揶揄されていた地域でしたので有楽町線開業の影響は、この辺りの都市化が急速に進むきっかけとなったのでした。今回の「駅ハイ」では佃島や月島エリアには行きませんでしたが、隅田川を挟んで対岸の左岸エリアを眺めつつ、昔の色々な記憶が蘇って来たのでしたニコニコ

こちらは隅田川右岸、chuが歩いているところですが天空を突くように聳え立つ高層ビルは「聖路加タワー」ビックリマーク「聖路加国際病院」が現在の建物になる以前、付近一帯の再開発計画の一環として建てられた48階建ての超高層ビル。ツインタワーとして建てられ途中に二つのビルを結ぶ空中回廊が設けられています。TV朝日系ドラマ「ドクターX2014」Versionでは国立高度医療センターの外観としてイメージされたものと思われますが、ここからはchuの推測になりますが番組制作会社が聖路加側に撮影協力を依頼したところあっさり拒否されて叫びしかしこのイメージで脚本などは進められていたため代わりとなる高層のツインタワービルを探していたところ、千葉市幕張新都心(JR京葉線「海浜幕張」駅周辺)にある「ワールドビジネスガーデン」ビルがその“代役”に選ばれ、しかし同所のツインタワーは互いに独立した二つのビルだったため、CGを使って空中回廊を書き加えたのでした爆笑しかしそうまでして苦労して外観を撮影しましたが、病院内部の撮影で実際に使われたのは先日、chuが緊急入院した千葉県松戸市にあります「千葉西総合病院」ビックリマークそしてなんと、米国で活躍していた、ピースの又吉さん演じる天才数学者のオペをするにあたり、事前の検査内容を確認するsceneになんと、同病院の三角和雄病院長が“エキストラ”として出演されていたのには驚きポーンそして大笑いしました爆  笑「ドクターX2014」は今ちょうど、abemaTVで放映されており、ホント、偶然に発見したのですチュー三角病院長が何故、エキストラとして御出演されたのかは分かりませんが、これも推測の域は出ませんが“院内での撮影を許可する代わりに私をチョイ役でいいから出演させてねウインク”なんて会話が交わされたのかどうかは定かではありませんニヤニヤですが三角和雄病院長、紛れもなき御本人が出演されていたことをchuは今回、初めて確認しましたグラサン

佃大橋から勝鬨橋の間の「隅田川テラス」を歩いています走る人走る人走る人二つの橋の間は850mでしたから10分ちょいで歩けます。がしかし、この時、容赦ない日差しがchuを直撃し次第に汗がにじみ出るようになりました。ですがこの時はまだ自身の体の異変には気付いていません真顔

視界の先に見えている橋が勝鬨橋です

そしてこの勝鬨橋、日本に現存する数少ない可動橋(跳開橋)です。可動橋とは👇の写真に加筆したように中間で道路が互いに跳ね上がる構造になっていて、水色で示した部分が航路となり大型の船が行き来出来るようになります。そして勝鬨橋が完成したのは開戦前夜の1940年(昭和15年)のこと。当時は、隅田川での水運は盛んだったことと、陸上交通はもちろん今ほど発達していなかったため、一日のうちに何度(1日5回、一回の可動につき20分程度)かの定期可動…即ち、道路を一時封鎖して橋を可動(跳開)させても陸上交通に特に支障は生じませんでした。その後、終戦を経ての戦後復旧期には陸上交通の急速な発展(モータリゼーション)期に入ったものの、1953年(昭和28年)頃までは勝鬨橋の可動は日常的に行われていたのですが、物資運送の主役は船から鉄道、自動車へと変わり船舶の通行量そのものが減少傾向にあったことと、高度経済成長時代への突入で道路交通量が増大したことで次第に跳開する回数は減少し、上流には先ほど近くを通った佃大橋が建設された1964年(昭和39年)以降、船舶通航の需要は乾倉庫(現:乾汽船)にほぼ限定され、年間での開閉回数は100回を下回るようになるなど、可動橋としての使命は失いつつありました。そして1967年(昭和42年)には通航のための最後の跳開が行われ、その後は年に一度ほど、機能が維持されているかどうかを試すための跳開がされていたのですが、その頃になると航行する大型船舶がなくなったことや、交通量の著しい増加などの理由で1970年(昭和45年)11月29日を最後に開閉が停止となり、1980年(昭和55年)には電力供給も停止され可動部がロックされたため今の状態では跳開することは出来なくなりました。なお近年、再び跳開させようとの市民運動や都・一部都議の動きがあるのですが機械部等の復旧に莫大な費用(東京都の試算では約10億円)がかかることや多数の道路交通量があることから、実現の目途は立っていないようです。そしてchuと勝鬨橋との関係で言えば、まだ学校に上がる前の、もの心がついたかつかないか…くらいの頃だったと思いますが、勝鬨橋が跳ね上がった景色をおぼろげながら覚えており、中央区新富町に親戚が居たため、そこに何度も遊びに行ったことがありましたから、恐らく跳開が正常に作動するかどうか、確認のために動かしていた頃、の事だったと思われますが、勝鬨橋の可動している姿は、確かにこの目で見ていたのでしたウインク

こちらは勝鬨橋の跳開している様子の写真(写真はお借りしました)。正面に東京タワー、築地市場も確認出来ますねウインクそして左端の超高層ビルはつい先年まで浜松町駅の西側にありました「世界貿易センター」ビルで竣工は1970年ですから定期的に可動していた頃の最晩年といった時期ではないかと推察されますニコニコ

そして当blog前編でも触れましたが、chuは日本橋の袂からクルーザーに乗り日本橋クルーズに参加しており、その時のblogがこちら👇ウインク東京港から日本橋に戻る際に勝鬨橋の真下を通過しているとても貴重な光景と写真ビックリマークと自負しておりますチュー

勝鬨橋と築地市場

跳開される部分の、橋のちょうど真ん中がこちら

可動させるための技師さんが詰めていた屯所!?爆笑

勝鬨橋の真下!!ギザギザかはっきりとわかりますねウインクここから橋は左右に跳開していったのですビックリマーク

以上、勝鬨橋の歴史と同橋にまつわるchu自身の幼いころの想い出などを綴らせて頂きましたウインクさて、お次は旧築地市場前に鎮座しております「波除神社」を訪れます走る人走る人走る人この社の起源は江戸時代の事。前編にて、明暦の大火を受け日本橋横山町に建立されていました西本願寺別院も被災したものの、幕府は被災地での区画整理を優先したため当地での再建は叶わず、八丁堀の沖合の海上を与えられたため、佃島の浄土真宗門徒らが海を埋め立てて陸地にした、それが「築地」(築いた土地、から)なんですよ、と説明させて頂きました。しかしそれは江戸初期の頃の話であり海上埋め立て土木の技術が確立されていたわけではありません。埋め立ての工事中であっても荒波を受けるたびにせっかく埋め立てた土地が侵食されるなど、工事は難航を極めていたそうです。しかしある日、光を放ち海面を漂う御神体が見つかり、1659年(万治2年)、社殿を建てて祀ったところ波が収まり、以後の工事が順調に進んだのだとかびっくりそれがこの「波除神社」の始まりですウインク

またこの場所は、後に完成した築地市場にも近かったことから、市場で売買されている魚介類などに感謝し、その霊を慰めるための塚や石碑も境内に置かれていますニコニコそしてこの「波除神社」、御利益は“災難を除き、波を乗り切る”ですウインク

神社の作法に則り参拝しますニコニコしかしなんでしょうか、「駅ハイ」のコース上にはやたらめったら神社が多い、てか多すぎますあせるあせるあせる「駅ハイ」に参加する都度、ルートとなっています社には参拝はするものの、あまりにも色々な神様に願い事を捧げるのはどーなのよえーと個人的には思っているのですが、ねニヤリま、何れにせよ「駅ハイ」参加には小銭を切らさぬよう、持参することが大切です爆笑

そしてこの後、旧築地市場の“場外”を通過するのですが、この頃になると額におびただしい汗が吹き出しましたゲローchuは普段、あまり汗をかく体質ではないのでこれはおかしい、明らかに体調に異変が生じているサインですあせるあせるあせるそれにしても旧場外は、平日だと言うのに凄い人だかりが出来ていまして、しかも聴こえてくる言葉は全てと言っていいほど外国語ガーンここに居る日本人は恐らく今回の「駅ハイ」参加者が通過しているだけかって感じ滝汗ですがそんなアウエー環境も何のその、普段のchuであれば真ん中を突き破って“大和魂ここにありビックリマーク”て感じで猛アピールをするところ、額から噴き出した汗が目に入って目がしょっぱい叫びそれに、うすめを開けて見た各商品群の販売価格が異様に高いあせるあせるあせる“あれ!?昔はこんなにしなかったでしょプンプン”的なものも多く、例えば焼きホタテはなんと一枚1000円パンチ!これ、どう見ても単なる観光地価格ぢゃなくて、明らかにインバウンドの外国人向けの価格帯です。日本人は、もう迂闊に築地市場の場外にすら立ち寄れなくなったんだなぁ、と実感しました。薄れゆく記憶の中で真顔

なんとかふらつきながらも“ここまで来たらゴールは近いゾ”と自分を奮い立たせて何んとか歩き続けるchu、麗しいですおねがい爆  笑そしてこちらは築地市場が豊洲に移転してしまい、“主(あるじ)なき後の観光施設の目玉に”って感じでオープンしました「築地魚河岸」ニコニコで、こちらの施設は実は公営ビックリマーク築地市場の豊洲移転に伴い、移転後も築地周辺の活気と賑わいを将来に向けて継承させようと、区が造った言わば箱もの口笛オープンは2018年で、オープンしたての頃はそれこそ日本のお客さん、しかも地方からいらした観光客ではなく、都内在住在勤者ら、近場の方が大挙しておしかけましてもちろんchuもその一人ウインクで、建物内にはフードコートも多数あり、来場者の多くを楽しませているのですが実はこの建物は豊洲市場の水産・青果の仲卸を母体とした小売店など入っている業務棟がメイン。但し一般の消費者もこちらで売買は出来るのですがそこはやはりプロ向けの仕様となっており、営業日は東京卸売市場の開場日・休場日に準じている他、開館時間は早朝の午前5時から午後3時までと、他の娯楽観光施設とは異なっている事が特徴ですウインク但し飲食店の一部店舗は夜間帯も営業しているお店もあるようですウインクで、この日のchuは、この時はフラフラ状態でしたので立ち寄らずら通過しましたショボーン今思うに、この辺りから熱中症の症状が顕著になったようなゲロー

 

次の立ち寄り!?見学スポットは「浜離宮前国鉄踏切跡」なのですが、そこに行くまではまだ距離があり、それ以上に“ドラマ”があります。こちらが旧築地市場の跡地で、再開発計画はすでに出来上がっていまして…

ここに5万人規模の多機能型のスタジアムが出来るんだとかびっくりすると“ライオンズ党”のchuとしては俄然、chu目しないわけには参りませんビックリマーク今シーズンはぶっちぎりの最下位を独走中で、球場に赴くことは勿論、今ではTV観戦すらしなくなってしまいましたが、実は「西武ライオンズ」は強いんですパンチ!常勝球団と呼ばれていた昭和の終わりから平成初期、それはそれは強かったビックリマークしかしFA制度が導入された後、一人、また一人と投打の主力選手が抜けていき、常勝球団ではなくなってきましたチーンまた観客動員数も、球団のテコ入れなど、ボールパーク化構想を進めたことで低調続きということはないのですが、やはり埼玉県所沢市という立地条件がFAを取得した選手に、もっと立地条件のいい場所でプレーをしてみたい、またお客さんも、もっと都心部から近い場所に球場があれば気軽に観戦に行けるのに、と選手とファンの両方から敬遠されているのが今の「西武ドーム」(ネーミングライツのため現在の名称は「ベルーナドーム」)の実態ショボーンとある主力選手の一人は、“土日のデーゲームで試合後、帰宅しようとすると球場から所沢市内にかけて道路各所は大渋滞(>_<)球場から都内の自宅まで3時間以上かかることはザラ”と忌み嫌われており、だったら球場の直ぐ近くに住めばいいぢゃないか、との声もありそうですが、プロ野球選手のシーズンの半分は遠征のため各地に出向きます。パ・リーグの場合は北広島市から福岡市という日本列島の北から南までまんべんなく球団が点在しているため、選手の移動は「千葉ロッテマリーンズ」との対戦以外のカードは新幹線か航空機の利用に。だとすると球場近くに住まわれた場合は新幹線が発着する東京駅や羽田空港まで出向くのも一苦労あせるあせるあせるまた観客目線で言えば、平日18時開始のナイターに間に合わせるためには遅くも17時過ぎには池袋駅に着いてなきゃなりませんが、17時って多くの会社の終業時間だとしても、なにも観戦しに来るお客さんが池袋に勤めている方ばかりぢゃないですし、そもそも定時きっかりに上がれる人なんてそんなにいませんよえーといった理由から、現在の「西武ドーム」の立地は選手から見ても、お客さんから見てもいいところは何一つないプンプン(ただ一つだけあるとすれば精々、所沢か、所沢以西の西武池袋線にお住まいの方、くらいではニヤリ現に武蔵村山市にお住まいのchuの知人も、直線距離は近いにもかかわらず公共交通機関が繋がっていないため大回りをしなきゃ辿り着けず気軽には行けないとこぼしておりましたからニヤリ)と言うことで、西武ライオンズ一筋50年以上のワタクシ(小学生時代から、ライオンズ前身の西鉄ライオンズからのファンです(^^)v)、ホーム球場をここ「築地球場」(仮称)にしてはどうかと思うのです。ここを本拠地とすれば選手は遠征の負担も激減しますしファンも観戦しやすいビックリマーク観客動員数も期待でき人気も出ることでFAによる選手の流出も減少と、一石二鳥ならぬ゛四鳥も五鳥もあるとはこのことだチューただ問題がないわけではなく、親会社が西武ホールディングである以上、球場は西武線沿線にしていなければ、定期券収入以外の“不定期券利用者”を獲得出来ませんから旅客収入は増えず、球団を保有するメリットはありません。弥縫策として、土曜休日のみを現行の西武ドームで試合を行い、平日ナイターは「築地球場」で行うという策もないではありません。だって元々、平日のナイターにはお客さんは入らないのですから…平日ナイターで観客が1万人を割り込むのは西武ドームをおいて他にありませんニヤリしかしそもそも、西武鉄道を中核とする西武ホールディングスは、かつてのカリスマ経営者であった堤義明さんが引っ張ってこられた頃とは企業集団としての力はまるで異なり、いまや東京西北部~埼玉県南西部を顧客とする企業グループに過ぎません。残念ながら「西武」には、もはやプロ野球球団を保有・運営し発展させていく力はないと言わざるを得ません。この際、ライオンズの名称とロゴを守ってくれる、伝統あるライオンズ球団を引き継いでくれる新進気鋭の企業に譲渡する、のがライオンズにとりベストなのでは、と最近負け続けているライオンズ戦を見ていて思う次第になりました真顔

そして「築地球場」の真ん前にはこちらの会社(「朝日新聞」東京本社)。ホントなら、「巨人VS西武」のセ・パ両リーグの盟主であった時代もあり、巨人が読売ですから対する横綱の朝日にも頑張っていだたきたいところなのですが…。朝日は現在、本業でもジリ貧が続いていますから、とてもとても新球団を持つこと等期待できませんショボーンしかし本社の真ん前に、ライバルの読売も出資する「築地球場」が完成したら、それはもう、“詰んだ”のではと言われても仕方ない状況ですチーン元々地力は極めて高い会社であるとchuは評価していますので、プロ野球球団を持ってお願いとまではお願いできませんが、かつてのオピニオンリーダーとしての立ち位置を取り戻して頂きたいものです真顔

しかし、かつてのスターと言われた身内の方からこんな内情を書かれてしまっては、その再建も茨の道と言わざるを得ませんショボーン

「吉田調書事件」の当事者となった元エース記者が目にした、崩壊する大新聞の中枢 登場人物すべて実名の内部告発ノンフィクション 地方支局から本社政治部に異動した日、政治部長が言った言葉は「権力と付き合え」だった。経世会、宏池会と清和会の自民党内覇権争い、政権交代などを通して永田町と政治家の裏側を目の当たりにする。東日本大震災と原発事故で、「新聞報道の限界」をつくづく思い知らされた。2014年、朝日新聞を次々と大トラブルが襲う。「慰安婦報道取り消し」が炎上し、福島原発事故の吉田調書を入手・公開したスクープが大バッシングを浴びる。そして「池上コラム掲載拒否」騒動が勃発。ネット世論に加え、時の安倍政権も「朝日新聞バッシング」に加担し、とどめを刺された。著者は「吉田調書報道」の担当デスクとして、スクープの栄誉から「捏造の当事者」にまっさかさまに転落する。吉田調書報道は、けっして捏造などではなかった。しかし会社は「記事取り消し」を決め、捏造だとするバッシングをむしろ追認してしまう。そして、待っていたのは「現場の記者の処分」。このときに「朝日新聞は死んだ」と、著者は書く。戦後、日本の政治報道やオピニオンを先導し続けてきた朝日新聞政治部。その最後の栄光と滅びゆく日々が、登場人物すべて実名で生々しく描かれる。【目次】(抜粋) ◆第一章 新聞記者とは? 記者人生を決める「サツ回り」 刑事ドラマ好きの県警本部長 ◆第二章 政治部で見た権力の裏側 政治記者は「権力者と付き合え」 清和会のコンプレックス 小渕恵三首相の「沈黙の10秒」 古賀誠の番記者掌握術 朝日新聞政治部の「両雄」 ◆第三章 調査報道への挑戦 虚偽メモ事件 社会部とは違う「調査報道」を生み出せ! 社会部出身デスクとの対立 ◆第四章 政権交代と東日本大震災 内閣官房長官の絶大な権力 小沢一郎はなぜ総理になれなかったのか 原発事故が突きつけた政治部の限界 ◆第五章 躍進する特別報道部 福島原発の「被曝隠し」 「手抜き除染」報道と特別報道部の全盛期 ◆第六章「吉田調書」で間違えたこと 吉田調書取材班の結成 吉田調書報道の「小さなほころび」 危機管理の失敗 動き始めた安倍政権 「池上コラム問題」はなぜ起きたのか 衝撃の木村社長会見 ◆第七章 終わりのはじまり バッシングの嵐と記者処分 ツイッター騒動と「言論弾圧」 東京五輪スポンサー

“ペンは剣(権力)より強し”の矜持を取り戻してくださいビックリマーク保身に走っちゃダメなんですよ、マスメディアはパンチ!

さて、築地市場は移転してしまいましたが、“築地市場”名の駅は残るグラサン都営大江戸線、は本来であれば1970年代前半には完成していた鉄道路線でしたが遅れに遅れ、全線開業はしたのは2000年の12月の事。しかも工事費を節約するためにトンネルの掘削断面を小さくしたため、導入された車両は他の地下鉄や地上を走る鉄道車両よりも小さめのミニ地下鉄(東京メトロ銀座線と同程度の大きさ)。さらに都営地下鉄は他の鉄道との接続駅も少ない上に都心の主要部からは微妙に離れた場所に線路が敷設されているため大江戸線の営業は赤字を計上しており、大江戸線開業時に東京都知事を務めていた石原慎太郎氏をして“赤字を垂れ流す放蕩息子”と揶揄された程の鉄道。しかし「築地球場」へのアクセスは現在、この大江戸線の「築地市場駅」のみと、5万人規模の収容が可能な多機能型グランドが出来たとして、そのアクセスは脆弱との指摘は正鵠を得ています。ま、日比谷線の築地、東銀座各駅や、JR新橋駅にも歩けない範囲ではないものの、15分以上はかかりますから、試合やイベントが終わり5万人の来場者がいっぺんに出てきたら現状ではとても対応できないでしょう叫び新たなる交通アクセスの構築が急務です真顔

そして本人(chu)、熱中症とは気づかぬまま、次のスポットへと汗をダラダラさせながらも進みます。ここまできたらもう、“行軍”という言葉の方が当てはまりそう滝汗そして辿り着いたのが「浜離宮前国鉄踏切跡」。これは何時ぞやの「駅ハイ」時にもカメラしておりまして爆笑昔、存在していた国鉄汐留駅と築地市場を結んでいた貨物船の踏切の跡ですニコニコなんでも最盛期には1日に150輛もの貨車がここを行き交ったそうです。銀座地区に残る唯一の踏切、ということで廃止を惜しむ地元の方々の声を受けこの踏切信号機は保存されることに決まったのでした拍手拍手拍手

そしていよいよ残すところは最後の一つ…新橋駅寄りのJR線ガード下から始まる「日比谷OKUROJI」へと向かうのですが、途中、昭和通りを超える「蓬莱橋」交差点には横断歩道はなく歩道橋しかない滝汗この“アップダウン”グラサンが致命的となり、何とか歩道橋で反対側に渡り切ったのですが、ここで遂にダウン叫びドクロあぁ、なさけなや、ですえーんしかしちょうど、歩道橋の橋脚がいい椅子替わりになったのと、日差しが遮られていましたのでここでしばし休憩しました。時間にして30分くらいだったでしょうか、幸い目の前にはコンビニもありましたので水分調達にも不安はなくラストポイントに行くパワーが復活しましたクラッカー合格で、漸く最後のスポットである「日比谷OKUROJI」に到着ビックリマーク何時ぞやの「駅ハイ」でもここはコースになっていましたので2度目の訪問ですウインクここは“日比谷の奥にひそむ、通な大人の通り道”をコンセプトにした飲食、ファッション、雑貨など、大人のこだわりのショップが集まった“ガード下”の商店街ウインク完成は2020年9月でしたからchuが都心部に通勤していた頃はまだ完成していませんでしたねキョロキョロただ同じ“ガード下の商店街”でも、やはりJR山手&京浜東北線のガード下にあります上野~御徒町間の「アメ横商店街」とは雰囲気は真逆爆  笑けどchuは、断然、アメ横商店街に軍配を挙げちゃいますけどねニヤニヤ

これにてやっと、本日訪れるスポットを全て達成合格クラッカー途中、熱中症に罹りながらも無事、ゴールの有楽町に辿り着けたことに感謝ですチュー有楽町駅に向かう途中のこちらはお馴染み都心のど真ん中の町中華「謝謝」ビックリマーク霞が関勤務時代の、ワタクシの定番店チューただ美味いんだけど、炒飯を頼むと炒飯スープぢゃなくて定食用の味噌汁を出して来るところは大減点でしたねえー

有楽町駅です!!ゴール合格クラッカーお疲れさまでした照れ

そして地元に戻って来て、こちらはお疲れさん会場の松戸駅西口の真ん前にあります「大都会」ビックリマーク以前、高田の純ちゃんが「じゅん散歩」でわが故郷、松戸市を訪れた際、松戸駅前を歩いていた時に“駅前に「大都会」って名前のお店がある場所って、だいたい、田舎なんだよね”と仰っていましたが、正に松戸は垢抜けない田舎でして見事に言い当てられちゃいましたニヤニヤ

こんなラインナップですウインク

以上、6月24日に参加しました「駅からハイキング」の様子を2回にわたりお届け致しました。御精読、有難うございましたウインク

「駅ハイ」秋季リーグ🥎の再開は10月の予定ですウインク

 

【おまけ】永いこと足踏み状態でしたがやっと松戸市の人口が50万人に達しました。タワマン一つない50万人都市、恐らく日本国内でここだけです