ここのところお出かけを控えざるを得ないためえーん、久しぶりのblog更新になりますあせるあせるあせるさて今回は「駅からハイキング」首都圏版、2024年春季リーグの最終戦⚾“江戸文化の中心地、歴史ある中央区を歩く”と題して日本橋から銀座・築地と江戸情緒を色濃く残すエリアを通り抜けます。“伝統と歴史を今に伝え続ける中央区を巡りませんか”と誘われる今回の「駅ハイ」はJR東日本と中央区観光協会とのコラボ企画ビックリマーク中央区の観光協会が協賛しているためか、今回のルートは全て中央区内で距離は8.5㎞と他の「駅ハイ」と比べるとやや短め。ですがそのことが奏功するのは歩き終わってからわかるのでしたてへぺろなお今回の「駅ハイ」では当初、コース設定初日の6月21日(金)に出向く予定だったのですが梅雨の降り方とは思えぬザーザー降り雨雨雨ガーンそのため月曜以降へと仕切り直しとなりました。また「駅ハイ」に参加されていますブロ友さんは早々にblogを上梓されていましたので、拝読させて頂きコースをイメージしつつ参加することにしましたウインクそれでは今回のコース、はこちらです👇

スタート地点はJR総武快速線の「新日本橋」駅。総武線(快速、緩行線)は共に都心の東京駅や秋葉原駅から千葉県内に向かう路線ですが、千葉県に生まれ育ち、県内の複数の事業所でも勤務経験はあるものの、総武線を利用したことは殆どなく、今回の起点である「新日本橋」駅、は半世紀以上も生きて来たにも関わらず初めて降り立つ駅ですので冥途の土産にいい記念になりましたグラサン

(なお、同じ千葉県民でありながらchuの住む松戸市はJR常磐線を経由して上野、東京へ。千葉市、船橋市、市川市にお住まいの方は総武線を利用して秋葉原や東京、新宿へ向かわれますから千葉県民が東京都心に向かうルートは見事なまでに二分割されていて、二分されたそれぞれのエリアに住む千葉県民が千葉県内で交わることは、例えば「千葉マリンスタジアム」での野球観戦など、ある特定の目的を持った行動等を除けば殆どありません口笛)

地上に出て歩き始めるとここは「中央通り」

老舗百貨店の「三越伊勢丹」日本橋本店ビックリマーク伊勢丹と経営統合する前は「三越百貨店」で、その起源は古く1673年(延宝元年)。伊勢松坂の商人三井高利(1622 - 1694)が、日本橋に開いた呉服店が「越後屋」で大衆相手の店たな前さき売りの商法で繁盛し、江戸時代最大の呉服商と言われていたそうです。その後、230年の歳月を経て1904年(明治37年)、株式会社三越呉服店となったのですが「三越」の称号になったのは三井財閥の商業者である「三井家」の文字と創業当初の屋号でありました「越後屋」とを掛け合わせ「三越呉服店」に。そしてその後の日本初の百貨店へと発展を続けたのでしたニコニコですので「三越百貨店」も今回の「駅ハイけのテーマである“江戸文化の商業の中心”の一つであると言えますねウインク

こちらは「中央通り」に面した「三越日本橋店」のメインエントランスであるライオン口(ぐち)。

またこの建物自体も歴史的な価値は大でして、三越日本橋本店は一棟まるごと国の重要文化財に指定されている建物ですウインク(2枚上の写真は新館ですので重要文化財の建物ではありません)

日本橋に向かって歩きます走る人走る人走る人なお「日本橋」の頭上には「首都高速環状線」。この高速道路は1964年に開催された前々回の「東京オリンピック」に間に合わせるため急ピッチで工事が進められ、景観などを気にせず工事を進めた結果のもの。ですが近年になり昔の「日本橋」の風情が失われたと言われ始め、“「日本橋」に青空を取り戻そう”と、この部分の地下化工事が具体的に進められています。首都高速は完成から既に60年以上が経過し耐震上の問題も多いと聞きます。単に景観のみの問題ではなく、この先も安心・安全を担保していくためには東京都心部には前々回の「東京オリンピック」に合わせて突貫工事で仕上げた土木構造物も多い訳ですから朽ちていくインフラを整備するための公共工事は必要不可欠であると言えますねウインク

そしてこちらが日本全国津々浦々にある国道の総基点ビックリマークその所以は、江戸時代に遡り「五街道(東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道)」の起点となつたことからウインク

そしてこちらの「日本橋」(ああせるあせるあせる頭上の首都高速ぢゃないですよ)、建造は1911年(明治44年)。構造は石造二連アーチで国の重要文化財に指定されています。橋の上を歩いていますので橋全体の構造を写真に収めることが出来ず、残念ですショボーンなお、テレ朝50周年記念と銘打ちました木村拓哉さん主演のドラマ「Believe-君に架ける橋-」、終わっちゃいましたね。結論から言うと駄作でした。ストーリーの設定に無理があり過ぎたプンプンいくら数字(視聴率)が取れたからと言って、あれぢゃ、キムタクさんに申し訳ないよパンチ!(なおドラマの感想はあくまでもchuの独断と偏見によるものですので御了承くださいお願い)

なお過去の写真ですが、「日本橋」の袂からクルーズ船に乗ったことがありましたのでその時の写真からウインクそしてこの時(2014年12月)には、まだ訪れて下さる方が少なかった私のblogですが、「ぶらり日本橋クルーズ(^^♪」と題して8回シリーズにてお届けしています。文章や写真構成など、まだまだ全然拙くて正視に耐え得るものではないのですが滝汗日本橋から出発したクルーズ船、東京港に出て、コースを変えながら日本橋まで戻って来る様子をお伝えしていますニコニコ

次のポイントは「中央区観光情報センター」。国内外からの旅行者に中央区の魅力を発信する観光案内所で「京橋エドグラン」の地下一階にありますニコニコ多言語での対面案内や観光パンフ類も豊富な上、中央区のオリジナル商品も販売されており、ひと休みするのにはちょうどいいところでした。また今回の「駅ハイ」に合わせカプセルトイ(中央区ガチャ/1回300円)を購入した方には珪藻土のオリジナルコースターがプレゼントされるそうな。ですが今回の「駅ハイ」は既に土日が終わっての月曜日でしたから、“プレゼントは先着200名様限り”でしたので、もうダメだろうなと思って聞いてみたところ、まだ残っているとのことでしたので「中央区ガチャ」をやりましたウインク先に参加されていましたブロ友さんもこれにチャレンジされていて、珪藻土コースターをゲットされていましたのでchuも何とか、と思っていたのですが残っていてホント、ラッキーでした照れ

次のスポットは「銀座発祥の地」の碑。今では全国至る所にある銀座の地名ですが、ここ、中央区の銀座が本家本元ビックリマークで、地名である銀座の所以は江戸幕府が1612年(慶長17年)に銀貨金鋳造所を駿府城下(現在の静岡市)からこの地に移したことに由来しているそうです。江戸幕府の開闢が1603年(慶長8年)ですから、江戸幕府が発足したばかりのころに既に「銀座」はあったのですねウインクchuは“銀座は庭だ”と言えるほど頻繁に訪れていたわけではありませんし、ほれ、それこそ超一級の品物が揃うショップも多いのですから、そういうものとは無縁の生活をしていますから爆  笑銀座がなじみ深いわけではないのですが、それでも職場の帰りに散策ついでに立ち寄る…正確には通過しているのですがニヤニヤま、どこに何があるか程度の知識はありますのでやはり馴染みはある街、と言えそうですグラサン

そしてこちらは銀座四丁目。「服部セイコー」の建物でして正に銀座のシンボルでもあります。今回の「駅ハイ」テーマであります“江戸文化と商業の中心地”は銀座四丁目であり、四丁目と言えば「服部セイコー」なのでしたウインク

続いてのスポットは「歌舞伎座」一年を通じて歌舞伎を上演している専門の劇場ですがchuは今までに一度も観劇したことはありません滝汗しかし今では多くの歌舞伎役者さんが地上波のTVドラマにも御出演下さり、歌舞伎特有の“顔芸”を披露して下さる等、以前に比べて歌舞伎が身近に感じるようになったのは確かな事ウインク“歌舞伎なんて、自分には関係ない”なんてはなっから拒絶はせずに、もっと身近に感じるチャンス出たのですが、しかし残念なことにこの建物の地下には「木挽町広場」という歌舞伎関連のお土産物グッズが販売されているスポットが「駅ハイ」マップに紹介されていましたが今回はパスしちゃいましたあせるあせるあせる“行っておけば良かったなぁ”と少々後悔ショボーンなおこの「歌舞伎座」の建物は耐震性等を考慮し改修案が議論されていたのですが、「歌舞伎座」の建物は国の有形登録文化財に指定されていたことと、やはり銀座の主要なランドマークの一つであったことから昔の建物を保存し再生(ほれ、新築そっくりさんと同じ工法ですよウインク)、それと近代的な高層ビルを背後に建築し結合させたのが現在の「歌舞伎座」でして、この建物も「駅ハイ」テーマであります“江戸文化の中心地”と言うことが出来ますねニコニコ

お次のスポットは「築地本願寺」。chuが門徒として帰依している宗派の寺院ではありますが、同じ宗派と言えどもちこっと異なる、東京における「浄土真宗本願寺派」の寺院。本山は京都の「西本願寺」です。そしてchuはと言えば、同じく真宗門徒ではありますが「東本願寺」を本山とする「真宗大谷派」に属していまして、浄土真宗門徒が日々、勤業の際に唱える「正信偈」ではアクセントが異なったり、またその他、仏法の所作でも異なる点が幾つかござます。ですが今日は勤業をするためにこちらを訪れたのではなく、あくまでも「駅ハイ」の一環で訪れていますので小難しいことは言わず、立ち寄りましたからには素直にお詣りをすることに致しましようウインクだって、御本尊は同じ阿弥陀如来であり、また浄土真宗には幾つかの宗派に別れていますが宗祖が親鸞聖人であることに相違はないのですからねニコニコ

ところでこの「築地本願寺」は、まだ築地本願寺と言う名称になる以前の1617年(元和3年)に京都・西本願寺の別院として現在の日本橋横山町に建立されました。しかし江戸城の天守閣をもし焼き尽くした明暦の大火により本堂は焼失したのですが、幕府は火災後の区画整理を優先し、元の場所での寺院再建は許されず代替え地として八丁堀沖の海上が与えられました。そこで佃島の門徒らが中心となり本堂再建のために海を埋め立てて土地を築き1679年(延宝7年)に再建が適いました。なおこの時、八丁堀沖の海を埋め立てて土地を造成したことが後にこの地をして「築地」と呼ばれるようになったのですウインクなお現在の本堂が造られたのは1934年(昭和9年)のこと。古代インド様式をモチーフとしたこの建物は、当時の浄土真宗本願寺派の法主であった大谷光瑞さんと親交のあった東京帝国大学工学部・伊東忠太名誉教授による設計で当時の宗教施設としては珍しい鉄筋コンクリート造りで大理石の彫刻がふんだんに用いられ、そのスタイルは現在においても斬新かつ荘厳で銀座・築地エリアの街の代表的な顔にニコニコまたこの本堂は国の重要文化財にも指定されています。以上のように現在の本堂が造られたのは昭和期になってからの事ではありますが、今ではこのオリエンタル感漂う「築地本願寺」はやはり銀座エリアのランドマークになっていますし、元々の起源は江戸幕府が開闢してからのことですから「駅ハイ」テーマであります“江戸文化の中心”を成す一つのピースと言えましょうウインクなお現在の「築地本願寺」には2015年に銀行員・経営コンサルタント出身の安永雄玄さんが宗務長に就任し、他宗派信徒や訪日外国人などにも開かれた寺を目指す「寺と」プロジェクトが進められているそうです。また電話で相談を受け付けるコールセンターなどに加えて、2017年11月8日にはカフェなどが入るインフォメーションセンターと合同墓も開設されるなど、さらには著名人の葬儀などは宗派を問わず執り行なわれていたり(直ぐに思い出されるところではXジャパンのギタリスト、hideさんの葬儀はこちらで催されました)と、益々、“開かれた寺院”作りは加速されそうな雰囲気がしますニコニコなお「築地本願寺」は全国で唯一、「西本願寺」直轄の「浄土真宗本願寺派」のお寺と言うことになりますウインク

「築地本願寺」前の都道に架かる歩道橋。1995年3月20日、類を見ない凶悪犯罪である「地下鉄サリン事件」が発生し、東京メトロ日比谷線に仕掛けられたサリンの袋が破られ車内に猛毒のサリンが拡散、事件発生は通勤時間帯でしたので車内に居たたくさんの乗客はこの道路の真下に設置されている築地駅から新鮮な空気を求めに地上まで何とか這い上がり、この路上にてバタバタと倒れ込んだのでした。そうです、あの時、この場所は戦場と化していたのでした。

あの忌まわしい事件から既に29年が経過したと共に、類を見ない凶悪犯罪を企て、実行した者は、後に事件の全容解明に繋がる供述を唯一、自供した元医師の一人を除き残りの実行犯と首領は極刑に処せられました(元医師は無期懲役刑で今なお服役中)。しかしこの犯罪を惹起させたオウム真理教はなくなったものの(※宗教法人格がはく奪され破産に伴いオウム真理教は消滅)、未だその流れを汲むグループは堂々と活動を続けており法務省・公安調査庁からの観察処分を受けています。あれほど凶悪な事件を起こしたテロリスト集団でも実質的に根絶させることは出来ない(「破壊活動防止法」による解散請求を、公安審査委員会は“教団幹部が軒並み逮捕されたことにより将来における危険性はない”と、なんと棄却したのです)ほど、日本の民主主義は優れているのかも知れません(相当な皮肉で言っています)。そしてちょうどこのころ、5日前の3月15日にはchuが通勤で利用していた東京メトロ千代田線の霞ヶ関駅では、誰が設置したのか分からない装置から水が噴霧される事件がありました。後にそれはテロリストらによるサリン散布のテストだったことが判明しているのですが、当時、同駅を利用し霞が関に勤務していたchuは、あれがテストでなければサリンをそのまま受けていたことになり、いまこうして、ブログを綴ることは叶わなかったのかも知れないと思うと、地下鉄サリン事件は全く他人事ではなく(現に職務として、後に多くを費やすこととなりましたが)、犠牲者への哀悼の念、今も忘れることなく、築地を訪れると昨日のことのように思い出されるのです。さて、この地で哀悼の念を込め衷心からの合掌をした後に次のスポットへと進みます走る人走る人そしてこの辺りは銀座四丁目からの徒歩圏内ではあるものの、優雅で煌びやかな銀座の雰囲気はなくなり、ごく普通の市街地が続きます。そしてやってきましたのは「築地外国人居留地跡」の看板ニコニコ1858年(安政5年)ですから時は一気に幕末に。「日米通商条約」により開国を余儀なくされた幕府は外国人が住む場所(居留地)を提供することになり、そこで選ばれた地の一つがここ築地だったのでした。1869年(明治2年)に設けられた築地鉄砲洲(つきじてっぽうず)(現在の中央区明石町一帯)の外国人居留地は、東京開市に合わせて設けられた外国人の居住区域で、商館や商社も多く商業都市として繁栄した横浜と異なり、築地には公使館や領事館が置かれ、宣教師・医師・教師などの知識人たちが開いた西洋建築の教会や学校も数多く作られたのだそうです。青山(あおやま)学院や立教(りっきょう)学院、明治(めいじ)学院、女子聖(じょしせい)学院など、この場所を発祥の地とするキリスト教系の学校も数多く設立され、築地居留地は文教都市としての色合いが強かったそうです。なお築地の居留地は他の居留地と共に1899年(明治32年)に廃止され、現在ではその面影をも窺い知ることは出来ず、こちらの看板が残されているに過ぎません。ですが唯一、ここが外国人居住区としての名残があるとすれば現在もこの地に建つ「聖路加国際大学」がそれで、同大学の病院施設であります「聖路加国際病院」はキリスト教伝道の過程で設けられた病院が前身です。また先ほど、“築地には公使館や領事館が置かれ”と記しましたがなんと初代の「米国大使館」は1875年(明治8年)に、ここ築地に設置されたんですってびっくりその後、1890年(明治23年)に現在の赤坂に移転したのだとか。当時の築地には9か国もの公使館やキリスト教会が置かれていたそうで、最盛期には300人以上にも上る外国人が暮らしていたそうですニコニコ

さて、久々のblog執筆ですので少々疲れてきました爆笑最後にこちらの写真、朝一番からずっと探していた選挙看板が築地の旧外国人居留地エリアにてやっと発見ビックリマークしたのは7月7日執行予定の東京都知事選挙の候補者ポスターが掲示されている看板。何でも都知事選挙史上最多の候補者が乱立しているそうなのですが、話題になっているのがこちら👇本来であるならば自分の党が公認若しくは推薦している候補者のポスターを貼るべきところ、某政党は不特定者から幾ばくかの寄付金を徴してなんとこの「枠」を販売しているのだとかプンプンで、幾ばくかの寄付をした輩が好き勝手な構図のポスターを貼っているのだとかパンチ!選挙を所管する総務省や、今回の都知事選を所掌している都の選挙管理委員会からは“違反ではない”との判断が示されているもののこんな事が許されていいのでしょうかムキーそして、“ふざけたことしてんぢゃねーよ”とばかりに掲示板に貼りだされているポスターを破こうものなら、破った人は「公職選挙法」違反に問われ犯罪者となりますゲローそもそも公選法ではポスター貼りだし枠の売買などは想定していなかったから、からの今回の騒動ですが“悪法もまた「法」なりや”かの学説、通説、判例と、多岐にわたる意見が出来そうでして、法学部の大学1年生諸君らが学ぶ「法学概論」にも一石を投じそうな出来事と言えそうです。しかし都知事選挙は首長選挙ですから当選者は一人。そこに自分の党から複数の候補者を擁立すること自体が馬鹿げていますが、当然、当選などは視野には入れてはおらず、没収される供託金も馬鹿にはならない金額ですから、先の築地駅での地下鉄サリン事件を惹起させたオウム真理教も、その数年前の総選挙に多数の候補者を擁立し、一人の当選者も出せなかったことから“暴力革命”へと舵を切ったのですから、今回、こんなバカげた選挙戦を展開している某党については、公安は勿論ウオッチしていくものと思われますが私たち一般の市民も折に触れ、粒に観察していかなければならないかも知れません。

当初予定していた看板内の枠が足りなくなり、クリアファイルを手交され枠外に貼りだしている候補者の方、に同情票が集まるのではニヤニヤとのことですが、chuは東京メトロポリタン民ではありませんから、今回の選挙にはさしたる興味はないですね口笛ただ、そう遠くない将来に執行されるであろう国の体制を左右するであろうウェーヴが生じるか否か、という点での関心は、勿論ありますよニヤリ

後編に続きますウインク