10月12日に上京した際の、現役時代には通い慣れた都心部を散策した記録をお届けしています。今日は3回シリーズの最終回!後編になります(^^)/中編はこちら👇
JR総武線と中央線の分岐駅である御茶ノ水駅聖橋口からの眺め 二つの高層ビルが目に入ります左側がSola city 右側がWATERRASタワーレジデンス
ここには元々は日立製作所の本社屋がありましたが2006年に東京駅の丸の内口前に移転、てか同社の本社は元々は丸の内の新丸ビルでしたから丸の内に戻るのは原点回帰。その跡地は再開発エリアとなり、2013年に開業したのが「Sola city」です
こちらは聖橋。神田川を跨ぐ橋で対岸は文京区、手前が千代田区です
橋の上を歩いているだけでは気付きませんが、お茶の水駅の西側にある、やはり神田川を跨ぐ御茶ノ水橋から聖橋を撮影すると立派なアーチ構造であることが分かります(写真はお借りしました)
また東京メトロ丸の内線がひょっこり地上に現れて鉄橋で神田川を跨ぎますそして橋の中ほどから御茶ノ水駅を撮影する際にJR中央線と総武線、そして東京メトロ丸の内線のそれぞれの車両を同時に一枚のフレームに入れることが出来ますので撮り鉄にとりましてはとても人気のあるスポットchuにも少しだけ撮り鉄の血はありそうですが丸の内線が現れたところをしただけで撤収ですので鉄分が濃いい方との差は大きいの
先程のSola cityのところまで戻り中央線に沿った坂を下ります。淡路坂と言う坂です
淡路坂を下りきったところが昌平橋 見えている鉄道は総武線。かなり高い所を走っていますが写真の右奥は秋葉原駅。その謎は後でご説明します
昌平橋を越えてなお、JR中央線に沿って神田駅方面に足を進めますそしてchuが歩いている道は「御成道」。「御成道」とは江戸時代、徳川将軍が日光東照宮に向かう際に通る道筋のことですですので「御成道」は日光街道への接続部まで幾本もありますが、この場所の「御成道」は将軍が上野寛永寺に行く時にも使われていましたから、他の「御成道」に比べて使用頻度がとても高かった道なのです
JR中央線の線路はこのようなレンガ造りの上を通る高架線となっています。そして今では高架下に幾つかのテナントが出店していますが平成の中ごろまでは何もない、ただのレンガ造りの高架線の土台に過ぎませんでした
そして写真の位置は御茶ノ水駅と神田駅とのちょうど中間地点。ここには今は無き「万世橋」という駅があったのでした。しかし御茶ノ水駅と、後から出来た駅ですが神田駅との駅間距離は1㎞も離れていません。途中、交通体系の変遷も要因なのですが二つの駅の中間地点にありました「万世橋」駅は両駅から500mも満たない至近の場所に位置していたためやがて廃止の憂き目にあったのでした
しかし、駅舎は取り払われたもののプラットホームは撤去されなかったため、中央線の神田~お茶の水間には島式のホーム跡が残っていたのです。万世橋駅が廃止されたのは1943年(昭和18年)のこと。しかし昭和末期(1989年)でも剥き出しのコンクリートは放置された、と言ってもいいような状態で残されていたのですが…それが“激変わり”したのが2013年。駅の廃止から70年を経て旧万世橋駅は劇的な生まれ変わりを果たしたのでした
これらの施設は70年もの間、放置され続けていました旧プラットホームをベースとして造られたもの
島式ホームの上に建てられた全面ガラス張りの流線型の構造物で、御茶ノ水駅寄りには👆のような喫茶店が、そして神田駅寄りには無料の展望休憩室があります
そして旧駅名板も復活
御覧のようにここが島式ホームであることがお分かり頂けると存じます。こちらが神田駅寄りの、無料の展望休憩室から見た様子。プラットホームの上に建てられた建物ですから前後に長く、しかし幅は狭い
こんな感じで中央線快速電車が行き来します。左側を走る電車は上りで全て東京駅行き。右側を走る電車は下り線。行先は様々です
鐡道にさほど御関心がない方でも、ここから眺められるsceneは熱量が上がるものと思われます
旧万世橋駅から外に出るためのコンコース レトロ感たっぷりです
そしてこの場所にはchuが小学生の頃、「交通博物館」がありました。恐らく平成初期まではあったと思います。しかし多分、旧万世橋駅が整備され始めた頃の2010年前後に閉鎖されてしまいましたその後、「鉄道博物館」と名を変えた施設は埼玉県の大宮市に移転してしまいました以後、chuが行くことはありません。だって大宮って凄く遠くってイメージがありますからね
【御参考】昔、この地にありました「交通博物館」です👇(写真はお借りしました)
こちらは神田川を跨ぐ中央通りにかかる、駅名にもなっていました万世橋
万世橋の中央部分から後ろを振り返ると高架ガードを疾走する上りの中央快速線。次は神田駅、その次が終点の東京駅です
こちらは万世橋の中央部分から旧万世橋駅の下部に当たるレンガ状の構造物。しかし現在は再開発されて飲食店のテナントが入店しています。川面は神田川です
中央通りを少しだけ北に進むと、秋葉原駅前。写真は総武線の高架ガードです。が、高架線ですが随分と高い場所にそーなんです、実はこの高さを持つ高架線は秋葉原駅の3階部分。JR山手・京浜東北線と交差する総武線が通る秋葉原駅は三層構造で、1階部が切符売り場と改札口や自由通路があり、2階部分に山手・京浜東北線のホームが、3階部分に相対片側式の総武線ホームがあります。そして御茶ノ水駅から淡路坂を下って来たのですが、総武線は御茶ノ水駅を出るとほんの少しだけ角度を上げて秋葉原駅の3階部分に到達するのですが、御茶ノ水駅と秋葉原駅の高低差、淡路坂を歩いて下って来たこの高低差こそ、都心部における武蔵野台地と下町エリアとを分ける境界線なのでした
3階部分を走る総武線。ぐっと見上げたところを走っています
秋葉原駅の北側にある中央通りと神田明神下へ繋がる道の交差点。ここは2008年6月8日、ホコ天中の人ごみの中に車で突っ込みたくさんの人を牽いた後、降りて来た男は付近の人にナイフを振りかざし多くの死傷者を出した「秋葉原無差別殺傷事件」の現場(現在は「ビッグカメラ」になっていますが当時は「Sofmap」でした)
事件直後には犠牲者を悼む献花台が設置され、秋葉原を散策することも多かったchuも駆けつけ献花をさせて頂きました。この時の実行犯・KTは2022年、最高刑を執行されましたが、この手の犯罪は未然に防ぎようがない形態の犯罪で、凶悪事件も米国型になって来たと認めざるを得ない事件として注目を集めました。事件から既に15年が経過しましたが被害に遭われた方々のご冥福をお祈りいたします。
中央通りを北に進むとドン・キホーテが入るビルの上層階には「AKB48劇場」AKB48、最初の頃のメンバーは前田あっちゃん、さっしーなど“会えるアイドル”としてここからAKB旋風が大ブレークしていったのでした
中央通りと蔵前橋通りとが交差する外神田5丁目交差点。東京メトロ銀座線の末広町駅はこの真下です
さて、ずっと歩いてきたので少々疲れたのと🚻休憩 は、通過していくエレベーターがまる見えのガラス扉(シースルーエレベーター)と、エレベーターの現在の位置が時計の様な表示板で示されているレトロ感たっぷりの老舗の百貨店「松坂屋」そのお礼と言ってはなんですが、謹んでリンクを貼らせて頂きPRさせて頂きます
御徒町 chuは頻繁に訪れてますから読めますが、“書いて”と言ったら直ぐには書けないかもそして「おかちまち」の語源は、ここに「御徒(おかち)」と呼ばれた武士が集団で住んでいたからです。その御徒とは将軍や大名が外出する際に行列の先を歩いて先導した武士の役職で、江戸幕府では将軍に直接面会することのない御目見得(おめみえ)以下と呼ばれる、武士の階級では一般には“下級武士”と称された御家人たちが務めていたました。その御徒が住んでいたことから御徒町と呼ばれるようになり、正式には明治期になりこの一帯に「下谷御徒町」という地名になったのです
そして“chuの心のふるさと”大好きなアメ横(あと、浅草も大好きです)年の瀬を迎え、またコロナも「5類感染症」に指定替えされたことからこの今年の年末はコロナ以前の人出に戻る事でしょう活気が戻ってくるのは嬉しいことです
ごった返す人の波を見下ろすような高台にあるのは「摩利支天徳大寺〔日蓮宗 妙宣山 德大寺〕」
お買い物に夢中になっている時だと、参拝もせずスルーしちゃうことが多いお寺さんです
この日は時間に余裕もありましたので(てか、後は帰るだけですから)じっくりと参拝させて頂きました
本尊は大曼茶羅。開運摩利支天を祀ることから下や摩利支天と呼ばれているのですが徳大寺に奉置される摩利支天像の姿は、左手をかかげ、右手に剣を持ち、走るイノシシの上に立つもので元来は厄を除き運を開く勝利の守護神です。そのため武士や芸道者から多く信仰を集めたそうで武人の誉れ高い神を祀る寺として人気があった寺院。またこの摩利支天像は明治期以降でも関東大震災や東京大空襲などの災厄でも焼失を免れており、現在でも厄を祓う守護神として幅広く信仰されているのです
普段は不義理にしていることが殆どでしたのでこの日は時間をかけてゆっくりとお詣りをさせて頂きました
アメ横に来たのなら必ず立ち寄る「ロンドンスポーツ」、“通称「ロンスポ」”は、むしろ都内勤務を離れた今ではここを目的に上京することもあるほどですスポーツ用品のみならずスポーツファッションやグッズも豊富でとてもわくわくウキウキするお店上野界隈にはこの本店の他に3店舗ほどあります。が、スキー用品は上野のロンスポでは取り扱いはなく、中編で御紹介しました神田神保町のスポーツ用品街の中にある「ロンドンスポーツ神田店」がスキー、スノボ用品専門店として機能しています
さて、「アメ横」散策を終え、本日の“中秋の都心さんぽ”もいよいよ終盤。そして今回のコースはchuのテッパンコースまだ余力があればここから浅草まで歩くのですが、今回はここまで
京成上野駅は“上野の山”の地下にあります。そして写真のこんもりとした、鬱蒼とした木々に覆われた場所には西郷隆盛の銅像があるのですが、これは明治になり新政府軍が戊辰戦争の功労者としてその業績を称えるために設置したもの。しかし徳川幕府を支えた側からみれば奸賊薩長のトップの人物ですから、なんでこんな奴の銅像を歴代の徳川将軍が護った上野寛永寺の境内に建てなきゃならんのだという思いでいっぱいです
JR山手、京浜東北、上野東京ライン、常磐の各線路が通る上野駅の大ガード下です。新橋から銀座を経て神田、秋葉原、御徒町、末広町と続いてきたこの基幹道路は「中央通り」と呼ばれていますが、“中央通り”と呼ばれるのはここまでで、この先は日光街道(国道4号線)と名称を変えます
上野駅、はかつて近代的な高層駅舎への建て替え計画もありましたが、いつの間にかに沙汰闇になり古式騒然とした戦前時代の姿、そのままの上野駅です現在の上野駅は1932年(昭和7年)築。外観はほとんど変わっていませんが中は多少は整備はされているのですがいかんせん古い東京、新宿、池袋とは比べるべくもなく、北千住や品川にも大きく後れを取っていますそんな上野駅ですがバブル期にはこのような建て替え計画があったのでした👇
上野駅のメインコンコース 確かに天井は高くて気持ちは良いのですがね
常磐線の改札 👇の発車時刻を見て下さい。表示されている17時20分までの約50分間の間に発車する快速電車は僅か6本。それに右側の特急列車が2本ですが、chuの住む松戸に特急は停車しませんから乗れませんつまり夕方のそこそこの多客時間帯なのですが運転間隔は平均すると10分間隔。山手線に接する各駅から放射状に離れていく路線には反時計回りで見ていきますとここ上野駅(正確にはお隣の日暮里駅からですが)からの常磐快速線、田端駅からの京浜東北線、池袋駅での埼京線、新宿駅での中央線、品川駅での京浜東北線、そして秋葉原駅での総武線がありますが、こんなにも間隔の開く路線は他にありません同じ千葉県内に行く秋葉原駅での総武線・千葉方面に行く電車は4分間隔、田端からあの埼玉の田舎、おっと失礼、遠く離れた大宮辺りまで行く京浜東北線の電車も4分間隔、そして埼京線利用の池袋からでも9本(約7分間隔)はありますし、さらに新宿湘南ラインも利用出来ますから本数はもっと増えます(16時~17時台で比較しました)ですのでJR東日本は常磐快速線をして沿線住民に対していかに不便を強いているのかがとてもよく分かる写真です東京都心部を起点とする路線で常磐快速線の不便度は正に突出しているのです
上野東京ラインが開通したことで、常磐線の多くの電車は品川始発になりました。ですがこの日は歩き疲れたので座って行こうと、上野駅始発の電車を待ちました
【おまけ】
そして帰宅…上野から快速電車で最速15分の松戸駅ですが、隣接する東京都葛飾区から川を一つ渡った場所にある千葉県。つい先ほどまでは都心部を散策していましたが、わが故郷に帰還したら…やはり田舎くさい駅前だなぁですがchuの生まれ故郷ですから、そして現役中は地方勤務時以外はずっとここに住みつつ都心部まで通勤していましたし、そして今は日中の殆どを松戸市内の在勤在住にて過ごしていますから嫌いぢゃありませんむしろ好きですので松戸の発展を願ってやまないのです
今回にて10月12日に散策しました「中秋の都心さんぽ」、終了です。御精読、有難うございましたそして次回からいよいよ“大河ドラマ”(並み)のblogが始まります。なんとか年内に連載開始出来そうでホッとしました何しろ2023年7月末からの旅行記なのですから