10月12日に上京した際のひと仕事終えた後、現役時代には通い慣れた都心部を散策した記録をお届けしています。今日は3回シリーズの真ん中で、中編をお届けします(^^)/前編はこちら👇
今年の紅葉(黄葉)鑑賞編でも訪れていました東京駅から皇居まで続いている「行幸通り」。訪れたのは10月中旬ですからイチョウはまだ青々としています。ここのイチョウが色付くのは11月25日過ぎですねそして紅葉編でも触れましたが、“Gメン75”の本部がありました旧東京海上ビル、この時、取り壊しが進んでいることを初めて知ったりです
東京海上日動社のHPによれば2021年の12月から仮本社への移転を始め、移転完了後には取り壊しに入っていたでしょうから、もう半年以上も前から取り壊しは進んでいたものと思われます。コロナ禍もあり、chuは上京する機会が激減した上、特別の用事はない丸の内界隈ですからこのことは全く知りませんでした
そしてやはり紅葉鑑賞編でも説明していましたが、この通りは普段は歩行者専用の道路。但し天皇陛下、皇后陛下らが地方へ行幸啓される際に皇居と東京駅との間を移動される時と、各国の駐日特命全権大使が天皇陛下に拝謁し信任状を奉呈する際に乗る馬車若しくは自動車のみ、ここを通ることが出来るのです。👇の交通標識はとても珍しい日本中探しても恐らくここにしかない標識です
真正面は東京駅丸の内口、しかもそのちょうど中央です背後には八重洲口北東に位置する超高層ビル群が建築中。東京TORCHと言う名前の、国内最高峰のビル、その完成は2028年3月末の予定しかし今年9月、付近の、やはり再開発による超高層ビル建設中における工事現場で重大労災事故が発生しましたからその二の舞は絶対に避けるべく、“安全は全てに優先する”の「安全第一」で工事をお願いしたいものであります
ここは大手町。前編で訪れていた霞が関が日本の中央省庁が連なる官庁街で、次に桜田門を潜った後に見えていたお濠沿いのビル群、“三菱村”は企業街、そして大手町というとメカバンクの本店や海外の証券会社の日本支社が集中する金融セクター。ま、日本のウォール街と言うと兜町を挙げる方も多いのですが、しかし大手町もその一翼を担う街です。
そしてこの後、久しぶりに「皇居東御苑」を訪れますこの日の当初の予定にはありませんでしたがあまりにも天気がなのでつい入苑は無料ですが月、金はお休みです(当日が休日の場合は変更あり。訪問をお考えの方は宮内庁のHPを御覧下さい)
皇居東御苑への出入口は大手門・平川門・北桔橋門の3つがありますが、chuは大手町にいましたのでそのまま大手門から入苑当然ですが荷物検査があります。危険物を持ち込むのはもちろん🆖アルコール類もダメです
大手門の説明👇江戸城の正門で諸大名はここから登城しました。門が二つあるのですが大きい方の門は太平洋戦争による戦災により焼失、そして復元されたのは1967年と言うことですからchuはこの世に生を受けていました当時は乳飲み子でしたから、皇居東御苑の大手門が復元された、なる、恐らく当時としては大ニュースだったと思われますがその頃のことは全く記憶にありませんですが戦争を知らないchu世代でありましても、戦争の爪痕は残っていたのだと思うと、二度と戦争をしてはならない、と再認識した次第ですまた周辺国をして悪戯に危機を煽るのも、良くないなぁ(DPRKは別ですが)
大手門から振り返った大手町のビル群 ここはやはりchu的には一番の金融セクターです
江戸城内にありました同心番所。同心とは警備詰め所のことで「同心」と呼ばれる武士が詰めていた建物です。登城者を監視していました。
こちらは百人番所。江戸城本丸に向かうこの通路を厳重警戒していた武士の詰め所 甲賀、伊賀、根来、二十五騎組という4組の鉄砲100人組が24時間体制で警戒に当たっていたそうです。各組は20人の与力と100人の同心で構成されていた計120人。なるほど、それだけの大人数を駐屯させるにはこの建物の大きさも納得です
こちらは大番所 やはり警備詰め所ではありますが位の高い武士の詰め所のようです。
こちらのだだっ広い空間は江戸城本丸跡そして現天皇陛下の即位にかかる建物は後にここで公開されました。chuも見てきましたよ2019年12月の事でした
そして本丸跡の北端にある石垣の台座こそ、江戸城の天守閣があったところ天守台と呼ばれています近づていみましょう
この天守台は日本最高といわれる高さ51mの江戸城の天守を支え、現在では東西約41m、南北約45m、高さ11mの石積みが残されていますですがその日本最大級の天守閣、何故ないの実は徳川300年の江戸幕府(実際には260年ですが)、その中心はこの江戸城だったのですが、その中央塔たる江戸城の天守閣が存在していたのは築城から僅か50年間のみ先日、最終回を迎えた大河ドラマ「どうする家康」の主人公、徳川家康により開かれた江戸幕府でしたが江戸城は家康が幕府を開いた直後の1607年に完成。しかし1657年に起きた明暦の大火で焼失当時は後に初代会津藩主となる保科正之公は幕閣の中でも重要なポストにあり、既に3代将軍、家光の時代になり幕政は安定してきており徳川政権は順調に軌道に乗り始めてはいたものの、必ずしも財政的に安泰か、というとそうではなかったようです。つまり天守閣とは単に威厳を示すためのもの。平静の世になり、そうなればシンボルに過ぎない天守閣は実務的には必要はなかったこと、等から正之公らが費用の嵩む天守閣再建に慎重論を張り、結局、江戸城の天守閣の再建は見送られたのでした。ですが時を越えての300数十年を数えた今、“有志”らによる江戸城天守閣再建の兆しは出ているようですが、果たしてどうなることか実際にこのような動きもあるようですから👇
江戸幕府の開闢中、天守閣があったのは僅か50年間で、明暦の大火での焼失後、幕府が崩壊した1867年(15代将軍・徳川慶喜公による大政奉還)までの210年間、江戸城には天守閣はなかったのでしたしかし、威厳を示すためのシンボルたる天守閣がなくても、天下泰平の世は続いていたのです。そしてこの間、4代将軍・家綱から14代将軍・家茂まで、名君もいれば愚君もいた徳川将軍家でしたが(最後の将軍、15代慶喜公は家康の生まれ変わりと言われた程の賢君でしたが征夷大将軍に就き、また、奸賊薩長に嵌められ大政奉還したときも、ずっと京都に居ましたから江戸城には将軍としては滞在していないのです)、それでも戦のない天下泰平を維持し続けてくれたことは、大いに評価すべきことと、“徳川贔屓”のchuは思っています
ここが天守台のてっぺん1600㎡、484坪 個人の戸建ての敷地であれば大邸宅の面積ですが、ここが日本最大級の天守閣が建っていた台座、としてはビックリするくらい、こじんまりとしています
ここでも来苑されている方は外人さんばかり東京都心の、旧江戸幕府の本丸でありながら日本人のchuは圧倒的なマイノリティだ
ちなみに先にリンクしました「江戸城天守を再建する会」が示して下さっている、再建を目指しいる往時の江戸城天守閣、は、こんな感じ👇(写真は同会のHPからお借りしました)なんか、姫路城の方が“映え”てるんぢゃないですか姫路にお住まいのブロ友さん、どうでしょうか
天守台を後にします
北桔橋門から出ました
道路を渡って北の丸公園へ こちらは24時間、出入り自由です毎年、観桜時に立ち寄ることが多かったのですが実はモミジがとても綺麗な区画があり、一昨年だったかな訪れました。都心の紅葉、ここも外せないスポットの一つです
吉田茂元総理の銅像 減らず口叩いている“キングメーカー”気取りのお孫さんを戒めて下さいよ
そして清水門から外に出るのですが、ここではその昔、時代劇のロケなどが行われていた場所です
清水門を出ると左手には“大きな玉ねぎ”(by サンプラザ中野くん)の日本武道館の屋根が見えます
お壁面が黒いビルは「東京地検特捜部」が入居している九段合同庁舎、通称・九段合庁です。任意の事情聴取が始まったとの報道ですが任意なの普通の刑事事件なら警察の事情聴取も最初は参考人(被疑者)の任意同行から始まりますが、そのまま逮捕に繋がるケースが殆どですからね。特捜部の取り調べが任意のままで逮捕に至らないのは嫌疑はあっても立証が難しいから…なのでしょうかところで元検事で特捜部出身の若狭勝さん、の解説はとってもわかりやすいですね
さらに神保町方面に進みますこちらは「学士会館」。国内にあります、7つのブロック(北海道~九州、但し四国は除く)を代表する各国立大学の枠を超えた同窓会組織で「学士会」という社団法人が運営している建物で、ホテルや宴会場、レストランなどがあります。そして重厚な外観のこの建物は登録有形文化財です
レストランは誰でも利用出来ます
神保町交差点 この界隈は学生時代には頻繁に訪れていましたからとても懐かしい
「書泉グランデ」この辺りでは「三省堂」と並ぶ書店の雄。かなり昔の事ですがこちらの店員さんは労働組合を作っていて、時折りストライキが行われたりピケッティングが行われていたりと、中々物騒な本屋さんでしたが、(なんでも極左の某セクトが入り込んでいたようです。あ、中核派ではありません)それはもう40年近くも前の事。今は“普通”の本屋さんになったようです
そして神田古書店街。古本屋さんがぎっしりと建ち並んでいる姿は40年前と些かの変化もありません。ところでこのエリアを“神田古書店街”と呼んでいますが実は神田駅は近くないのです不思議なネーミングだな、とずっと思ってました(いえ、遠くはないのですが御茶ノ水駅の方が全然近いんですよ)但し住居表示は千代田区の神田神保町(かんだじんぼうちょう)ですから、“神田古書店街”はありですが
👆と👇、の当たり具合をよぉく覚えておいてください。靖国通りに面し書店が建ち並んでいますが、晴天なのに日差しがないの
で、靖国通りを挟んだ反対側は日差しが燦燦と差し込んでいますなんでかってそれは神田古書店街に建ち並ぶ書店はおしなべて靖国通りの南側に位置し、お店の正面は全て北向き。だから日差しが当たらないのです。“え、なんで”ってご質問があろうかとそれは書店街の殆どが古本屋さん。そして各店舗では店の外にワゴンを置き、古本を山積にしています。売られているのは古本ですから色褪せているものが多く、さらに店内にある本も古本のみですから色褪せているのです。ですがそこに日が当たるとさらに商品(本)の劣化が進むため、神田古書店街の本屋さんは敢えて日当たりの悪い場所に店舗を構えているのでした
👇左側が靖国通りを挟んだ南側で店舗の入り口は北向き。日が全く当たていません。そして右側が靖国通りの北に位置し店舗の入り口は南に面していますから日当たりは抜群住所は同じ神田神保町ですが、靖国通りを挟んだ北側には古本屋は一軒もありません
神田古書店街、地図でお示しします👇(地図の原則通り、上が北です)
次、行きます明治大学を仰ぎ見て
三井住友海上の本社屋(いちばん右側の建物)。昔は“大正海上火災”という社名でした。その後、三井海上火災保険に名称変更(1991年)の後、住友海上火災保険と合併(2001年)し三井住友海上火災(株)になったようです。学生時代、この界隈を訪れていた時は大正海上火災でしたのでその時の印象が今も残っています
こちらは駿台予備校。chuは浪人経験はないのですが予備校の最老舗かつ最難関として承知してまして、東大を受験する浪人生がたくさん通っていた予備校。そして駿台予備校に入るためには試験があり、これまた極めて難しいそうなんです既にお亡くなりになりましたが政治家の与謝野馨さんの著書を読ませて頂いた折、与謝野さんは浪人生活を経て東大に進んだのですが現役での東大受験を失敗し、そのため駿台予備校に入ろうと思って試験を受けたらなんとこちらも不合格にしかしなんとか伝手を頼って“裏口入校”したんですって大学の裏口入学はですが、予備校の裏口入校なら、目くじら立てるほどぢゃないですよね
中編の最後はこの日のランチの御案内 御茶ノ水駅から徒歩2分の場所にある「中華やまだ」は知る人ぞ知る名店所謂、町中華で、こちらも“都心の街中華”しかもめちゃくちゃ旨い前編ではやはり都心の街中華として「謝謝」を紹介しましたが、味はダンチです「謝謝」に通っていたのは単に職場から近かったことと、夜、一杯飲み終わってののため勤務先の最寄り駅が霞が関駅でしたので、1時間の昼休みでは、わざわざ御茶ノ水まで来られないここに通うようになったのは、夜勤明けの散歩帰りの、ほんのたまたまの偶然だったのですが、やられちゃったのです
「中華やまだ」はDynamiteだ
何を頼んでも美味しいのですが、肉野菜炒め定食など絶品ですそれにスープも中華スープ
写真では伝わり難いのですが、もうめちゃくちゃ旨いんです
完食いやぁ、もうタマランチんですぅ 皆様も御茶ノ水を訪れた際にはぜひ
「中秋の都心さんぽ」次いよいよ最終回は、お茶の水から上野まで 後編に続きます