5月のとあるよく晴れた平日、ブロ友さん(「ゆるゆるポタめぐり」のあいあいさん)の外房サイクリングの記事に触発されてお出かけしましたプチドライブ、山武市蓮沼海岸スタートしたchu一行は一宮町の釣ヶ崎海岸、いすみ市の太東岬、釣師海岸まで辿り着いたところまでお届けしております👇
そしてここからが本日最後の行程に御宿町にやって来ました
最初の訪問地は「日西墨三国交通発祥記念碑」のあるこちら👇
詳細はリンクしました👆に書かれていますので重複を避けます。ま、とにかく御宿は日本、スペイン、メキシコの交流が始まるきっかけとなった町なのです時はまだ江戸幕府の初期、救出された乗組員らは2代将軍・秀忠に謁見、さらに駿府にて隠居、と言いつつも幕政に多大なる影響力を及ぼしていた家康にも謁見。その後家康は、外交顧問として従えていたい英国人航海士の三浦按針(本名はウィリアム・アダムス)に造船を命じ、乗組員らは無事、メキシコに帰国できたのでありました。その後、メキシコから御礼の特使が来日、またそれを受けて日本側からは仙台藩伊達氏家臣の支倉常長が「慶長使節団」として渡欧。日本と欧州の交流が始まるきっかけとなりましたまだ小うるさく、鎖国が絶対となる前の出来事でした
英語とスペイン語で書かれた説明文。上段の英語で書かれた部分であれば、お時間を頂ければ辞書を片手に何とか翻訳することは出来ると思いますが下段のスペイン語部分は全く以って、分かりません
こちらが「日西墨三国交通発祥記念碑」 建設は1928年(昭和3年)ですからもう歴史の重みも付いてきました
視界の先は中編で御紹介しました「釣師海岸」から続く断崖絶壁の海岸線その沖合で遭難したのがフィリピン諸島長官のドン・ロドリゴ総督を乗せたスペインの艦船「サンフランシス号」だったのです
こちらは日本メキシコ交流400周年記念式典及びサン・フランシスコ号漂着記念祭に際し新たに完成したオブジェ。メキシコ政府から贈られたものでメキシコ彫刻界の巨匠ラファエル・ゲレロさんによる作品でその名を「抱擁」。遭難した船から何とか逃れた船員たちの身体は冷え切っていたと言われており、岩和田漁村(御宿町でサンフランシス号が遭難した一番近くにありました漁港)の海女たちは、直接、異人の身体に抱き着き自身の体温で温めたそうです。そうした事実を基に、日本とメキシコとの相互協力と友好の証をイメージし、造られた作品なお除幕式は2009年9月26日に執り行われました
こちらは1978年(昭和53年)、国賓として来日されたメキシコのロペスボルティーニョ大統領がこの地を訪れ町民の大観衆に熱烈歓迎を受けたことを記念して造られた記念碑
さて、記念塔を後にしたchu一行は御宿町を出てお隣の勝浦市へ勝浦は、chuの社会人1年目、こちらにS野先輩が赴任していましたので金曜深夜に先輩宅にお邪魔しひとしきりした後は翌日早朝から一緒に🏄したものでしたまたS野先輩は勝浦市内の飲食店にも精通していましたから、夜はとびっきり新鮮な魚介類を提供してくれる“地元のお店”。これ、とっても大事なところで勝浦は観光地ですから観光客を相手にする“観光地価格”のお店が多いのですが、そうではない、地元客を対象とした新鮮な魚介類を提供してくれるお店が存在します。しかしこうしたお店は地元の方でなければ分かりませんから、勝浦市民ではないchuが見つけきれることはなく、S野先輩にお世話になったものでしたS野先輩、考えるところもあってか早期退職されましたが、その後も御自身が卒業された西池袋にありますRK大学で専門講座を履修されるなど老いて(おっと、それほど老いているわけではありません)なお、意欲満々よくスキーもご一緒させていだたきました本当にありがとうございましたここ暫くお会いする機会もないのですがお元気であることとお慶び申し上げますと、“勝浦の想い出”に浸っておりましたがchuが向かいましたのは「八幡岬公園」です
そしてこの「八幡岬公園、今では眼下に雄大な太平洋を望む風光明媚な地として知られていますが実はここはお城の跡地そうです、ここには「勝浦城」なるお城があったのでしたその勝浦城とは室町時代より3代続いた勝浦城主、正木氏の居住跡地。ですので城としての歴史はそう長くはありませんでしたしかしこの勝浦城こそ、後の水戸徳川家や紀州徳川家へとつながる大きな「源」となったのです
「八幡岬公園」の一番奥にあります展望広場にやって来ました北東から真南にかけて海に囲まれている景勝地東屋と、左奥には何やら、像がありますね
「八幡岬公園」展望広場の最東端に建つ「お万の方」の像 お万は最初に正木勝浦城主となつた正木時忠の五男、正木頼忠の娘。
戦国時代ですので正木氏の主君は入れ替わりも激しかったのですが、最終的には北条氏の系列に属していたため北条氏が豊臣秀吉により滅ぼされると、次に徳川家康公の家臣である本田忠勝らにより攻撃を受けることとなります。その後、お万が13歳の時、
城攻めから逃れるために、勝浦城内にありました神社の背後となる断崖の脇にあった松の木に白い布を結び付け、海面まで40mはあろうかと言う断崖を、その白布をロープ代わりにして岩を伝い降ります。またその時お万は母親と幼い弟二人を無事、海面まで降ろすことに成功。その後、海面に潜んでいました小舟に乗り込み、一旦、南側の和田浦方面に逃れた後、小田原に居住。母親が再婚したこともあり伊豆修善寺、河津の地を転々とするもやがて沼津で徳川家康公に見初められ側室となったのでしたまたこちらに建つ「お万の方」像は後に日蓮宗の僧侶である日遠に帰依するのですが、「養珠院於萬」と称されるようになられた時の姿“40mもの断崖絶壁を白布を垂らしそれを伝って海面に逃れる”というまるで物語の様な話ではありますが、これはれっきとした史実なのですなお「お万の方」は当時としてはとても長寿の76歳にて天命を全うしているのですが、ここ勝浦に縁があったのは勝浦城を脱する13歳までのこと。一生涯としての繋がりとしては17歳で家康公の側室となられた後の方が時間としても、また家康公の跡継ぎを残した事実としても“功績”としてはより大きいのですが、しかしやはり攻撃を受け、城が炎で燃え尽くされる中、白布を伝って命からがら脱出した“お万の布ざらし”がなければ後の世の中は大きく変わっていたのですからやはり勝浦における「お万の方」の存在はひと際大きいことは確かなのでありますなお、拙blog「新緑の下、山梨・富士・静岡を往くその5」
で触れました“お万違いの”「お万の方」(「どうする家康」第19回「お手付きしてどうする!」の「お万の方」とは全く別の「お万」なのですよ、ということを今回のblogで証明させて頂きました)
「養珠院於萬」の方の生涯はこちらに詳細に記されています。なお「お万の方」につき調べて見ますと、家康公の正室でありました「築山殿」の待女として仕えていました「お万の方」(「どうする家康」内の“お手付きしてどうする”で登場した「お万の方」)と混同して紹介されている公式Webページも散見されました。
「八幡岬公園」から北東約1㎞の場所に建つ勝浦灯台 公園から灯台と、視界の先も勝浦市部原のサーフポイントと御宿町のBeach(海水浴場)を除き、前回御紹介しました「釣師海岸」までこのように断崖絶壁の海岸線が続きます
「お万の方」が白布を松の木に結び付け、それを伝って辿り降りた海岸。ここで小舟に乗り換えて和田町へと逃れたのでした
展望広場南端に建つ卒塔婆…
拡大してみました…これが何を意味するのでしょうか
こちらは2019年に「八幡岬公園」周辺を訪れた様子をUpさせて頂きました拙blog👇そして、この時よりも10年近く、と書きましたが5年くらい前だったと思いますが八幡岬公園を訪れた際に本当に体験しました“恐怖体験”を紹介していますのでクソ暑い真夏の夜、“ひんやりしたいなぁ”と思われた方は宜しかったから御一読くださいね
こちらは展望広場から眺めた南西で鴨川方面。しかし本日の外房プチドライブはここ「八幡岬公園」が最終ポイントでした
海上にポッカリと浮かんでいるかのような、旧遠見岬神社 海の鳥居。そして現遠見岬(とみさき)神社は勝浦漁港の裏手にあります現役の社
沖合を漁船が通ると波が押し寄せます
しかし鳥居は難無く波をやり過ごしますさすが勝浦の総鎮守
波が過ぎてしまうとまた静かな海に戻るのです
本日、早朝より旅の友でした外房の海これにて見納めです
JR外房線の勝浦駅にやって来ました。先代の山口市長さん時代、国際武道大の誘致やら駅ビル改修など千葉県南部随一と言っていいほどの大型開発案件が溢れていましたが前記、S野先輩はこれらの案件に深くコミットされ大活躍をされていましたね
駅前ロータリーですが閑古鳥が鳴いていました
勝浦駅周辺の観光マップです👇
そして勝浦駅前にはこんなにも立派な観光案内所があるのですが…“無人案内所”でした
そして今回の勝浦編では「八幡岬公園」まで一気に来てしまいましたが、官軍塚、勝浦灯台周辺など、風光明媚な見どころはなのですまたこのコースは「関東ふれあいの道 №18荒磯の道」としても紹介されていますコース長は8.8㎞ですから日頃より「駅からハイキング」で鍛えていますchuにとりましてはお茶の子さいさいの距離なのですが…実際に歩いたことは、ありません
こちらは外房線勝浦駅周辺が伏線になったことの記念碑 まだ新しいですね。と言っても外房線全線が複線化されたということではなく、ここ勝浦までが国鉄時代からの複線化計画の終点地点。ですので勝浦~安房鴨川間はこの先も未来永劫、単線です因みに見るからに高そうな赤御影石で出来た石碑、最初っから受注工事代金に見積もり計上されていて、ン百万はくだらない予算が付けられていたはずです
こちらは勝浦が発祥のB級グルメの代表作、勝浦タンタンメンマップ御存知のように勝浦は漁師町、で海女さんは季節に関係なく海中に潜るのですが、海から上がり冷え切った身体を暖めるために考案されたのが「勝浦タンタンメン」ですが勝浦タンタンメンは普通の街中華で提供される担々麺のスープがゴマ油ベースであるのに対し醤油をベースとしたラー油が基本。食べてみればその違いはすぐに分かりますマップは👇にリンクしましたページから、「正規取扱店」のタグをクリックするとこちらで紹介されていますお店の一覧表が出てきますので、さらに個別の店名を選択するとそれぞれのお店の特徴、場所、営業時間などが分かります
こちらは今回ではないのですが、“勝浦タンタンメン発祥の店”として知られている「江ざわ」さんにて食した時のものを御紹介させて頂きます
駅構内に置いてありました自由ピアノどなたでも弾くことが出来るのですが、なにせJR線の利用者は少ないですから(756人/日)、駅利用者以外の方が弾きに来て下さらないとピアノが可哀そうだったりして
勝浦駅からの運賃表 おぉchu宅最寄り駅の東松戸駅までは1690円ですま、自動券売機で購入出来るってことは、思ったよりも近い距離なのかも知れませんね
改札口 自動改札機やSuicaも使えます ローカルな駅なんですがね
発車時刻表です👇上りの東京方面は特急は東京行きですが、それ以外だと上総一ノ宮行きが多く、同駅で横須賀線直通の快速電車に接続するか、或いは普通電車の千葉行きとなります。また安房鴨川方面の下り線は、夕方以降の遅い時間帯は安房鴨川止まりが多いのですが昼間帯でしたら内房線に直通する木更津行きが多いようです(昔は、内房線と外房線のそれぞれの基点駅である安房鴨川駅を境にした運用だったのですが今は内房線と外房線との直通運転がなされているようです。但し1時間に1本程度。時間帯によりましては特急以外だと2時間に1本の運行となりますから、ま、ローカル線ですね)
ふぅ~ 5月の夏日にお出かけしましたプチ外房ドライブの旅、ブロ友のあいあいさんの「ゆるゆるポタめぐり」に誘われてお出かけしたのですが、chuが掲載を始めるまでの2か月間に、既にあいあいさんは安房小湊まで到着しちゃってましたchuの遅筆ぶりが浮き彫りになりましたと同時に、あいあいさんの行動力に大声援を贈らせて頂きます最後にあいあいさんの安房小湊までの🚴行脚の御様子をお続けし、外房プチドライブ、幕を下ろさせて頂きます。御通読有難うございましたまた、今回のプチドライブ(ワタクシはなので楽をさせて頂いちゃいましたが)に駆り立てて下さいましたあいあいさんに改めて御礼申し上げますそして次は安房鴨川、千葉県最南端の旧白浜町の野島崎、そして館山から内房線に沿って北上という旅になりますまだまだ先は長いですが、また最近の暑さはハンパありませんどうぞ気候&体調などとご相談の上、チャレンジいただきたく宜しくお願い申し上げます
【おまけ】今回、最後に訪れました勝浦市。太平洋に面した港町なのですが実は昨今、“100年間猛暑を記録したことがない街”として俄かに避暑地としての人気が高まっているようですなぜ勝浦が猛暑日を記録しないのか、には町が面している勝浦湾の構造などが影響を与えていると言われています👇
東京からも近く、移住の問い合わせが増えてきているそうでして、ま、移住まではいかなくとも、“首都圏に近い避暑地”として故郷、千葉県の街が注目を集めるのは嬉しいですね