『三国志演義』の成立において、龐統[ホウ統]に着目して人物像の変遷を確認しています。前回は龐統[ホウ統]の登場と、登場すると早々に赤壁の戦いで「連環の計」を成功させ、智謀を披露した龐統[ホウ統]を確認しました。今回は旧知だった周瑜の死における龐統[ホウ統]の姿を比較します。
3.周瑜の死
『三国志演義』では周瑜の死後、諸葛亮の前に姿を現し、劉備へのつながりができます。周瑜の死の前後に登場する点は共通しますが、『正史三国志』『三国志平話』それぞれ違った話になっています。
【正史】南郡の功曹になり、後に南郡太守になった周瑜が亡くなると、亡骸を呉に運んだ。
【平話】周瑜の旧友として登場し、死に立ち会って呪術で周瑜の将星を天に留める。亡骸を呉に運ぶ時、諸葛亮に会う。諸葛亮は周瑜が亡くなったことを知っていたが、龐統[ホウ統]が将星を留めたことを知る。
【演義】将星が地に落ちることで周瑜の死を知った諸葛亮は、弔問で呉を訪問する。龐統[ホウ統]は弔問を終えた諸葛亮の前に現れ、周瑜を死に追い込みながら弔問に来たのかと言い、剣を抜いて斬り殺そうとしたが、冗談だった。諸葛亮は龐統[ホウ統]に、劉備への紹介状を渡す。(第57回)
『正史三国志』での龐統[ホウ統]は周瑜の下にいて、亡骸を呉に運んだ記述が肉付けされることで、『三国志平話』で龐統[ホウ統]は周瑜の旧友で死に立ち会い、亡骸を呉に運んだことになったと考えられます。さらに、周瑜の将星にまつわる話と、龐統[ホウ統]が諸葛亮に会う場面が増えています。
続く『三国志平話』から『三国志演義』への推移では、龐統[ホウ統]に関して以下のような変化が見られます。
削除→周瑜の死に立ち会った、呪術で周瑜の死を隠した
継承しつつ変更→周瑜と旧知であった、龐統[ホウ統]と諸葛亮が会う
追加→周瑜の死は諸葛亮が原因と見破る、剣で斬る冗談を見せる、劉備への紹介状を受け取る
『正史三国志』で龐統[ホウ統]は周瑜に仕えて亡骸を呉に運んでいますが、『三国志演義』にその姿は見られません。『三国志平話』も含めた推移からは、以下のような点が考えられます。
・龐統[ホウ統]と周瑜の関係性を希薄にしている。劉備以外、誰にも仕えていないことにするためではないか。
・龐統[ホウ統]が将星を留める描写がなくなる。『三国志演義』が成立する際に進められた史実化の一環で、荒唐無稽な話として削られたのではないか。
・諸葛亮が周瑜を死に追い込んだこと(いわゆる「三気周瑜」)を、龐統[ホウ統]が見破っている。諸葛亮と並ぶ人材として描いたのではないか。
・剣で斬ろうとする冗談を見せている。龐統[ホウ統]は智謀が優れているだけではなく、軽妙な人物であると表現しているのではないか。
このように、諸葛亮の弔問後に少し顔を出しただけの場面ですが、龐統[ホウ統]の人物像を形作る複数の要素があるように見えます。
小結:周瑜との関係性を薄め、呪術を使う描写を削り、智謀だけではなく軽妙な姿を見せることで、龐統[ホウ統]の人物像を形成している。
「龐統[ホウ統]の人物像の描かれ方の変遷(三・龐統の仕官)」に続く
(関連ブログ)
「龐統[ホウ統]の人物像の描かれ方の変遷(一・鳳雛の登場)」前回
「龐統[ホウ統]の人物像の描かれ方の変遷(二・周瑜の死)」本ブログ
「龐統[ホウ統]の人物像の描かれ方の変遷(三・龐統の仕官)」次回(続き)
(※1)
各三国志の比較部分では、煩雑にならないよう以下のように表記します。
・『正史三国志』を【正史】と記します。内容は蜀書先主伝、蜀書龐統法正伝[蜀書ホウ統法正伝]の抜粋、要旨となります。
・『三国志平話』を【平話】と記します。
・『三国志演義』を【演義】と記します。カッコ内にいわゆる「毛宗崗本」における巻数を示します。