紫苑ゆうは初めて歌劇誌上で初舞台生の顔写真を見た中からの初めてトップスター、つまり初めて初舞台からトップになるまでのその成長の過程を確認できた生徒だった。実は当時初舞台生の顔写真のみを見て将来スターになりそうな生徒を探してはマークしていて、紫苑らの64期生で一番気になったのは娘役の北いずみだったが、男役では郷真由加や柊和希(幸和希)の方が有望かなと思っていた。

 

 先に説明した「ザ・タカラヅカ」の後枠は、宝塚テレビロマンと言ってバウホールでTV用に収録して放送するという番組だった。その第1弾が花鳥いつき主演「はいからさんが通る」、第2弾が宝純子主演「ラブパック」、そして第3弾が「三銃士」だった。主演のダルタニアンは明都ゆたか、三銃士の一人アトスを演じたのが当時研3だった紫苑で、これが切っ掛けで人気に火がつくこととなった。因みにポルトスは夏美よう、アラミスは五月梨世が演じた。

 

 1988年(S63年)「華麗なるファンタジア」は、大劇場のみの上演だったが、紫苑演じるジャン・ジャック伯爵(JJ)が話題になったと記憶している。この舞台の原作は18世紀フランスの啓蒙思想家ヴォルテール作のピカレスク小説「カンディード」で、実は1977年(S42年)の花組公演「ル・ピエロ」も同じ小説を原作としたショーだった。結構な哲学的小説だと思うのだが、何で2度も宝塚で舞台化されたのか少々不思議。

 

 翌1987年(S62年)小池修一郎作・演出のバウ公演「蒼いくちづけ」に主演する。3番手時代ではあったが、紫苑の代表作としてあげられるだろう。これはその後「ポーの一族」に至るヴァンパイア物の起点となった作品で、この頃は毬藻えりとコンビを組むことが多かった。

 

 紫苑は正に宝塚の王道ノーブルタイプの男役を究めたような、堂々たる存在感を感じさせる人だった。日向薫の退団を受けてトップに就任し、「紫禁城」で相手役を務めた白城あやかと引き続きコンビを組んで1992年(H4年)「白夜伝説/ワンナイト・ミラージュ」大劇場披露となった。「白夜」で妖精ミーミルを演じて注目を集めたのが花總まりで、これが花總の“女王伝説”の源流となったと言えよう。

 

 翌1993年(H5年)新宝塚大劇場のこけら落し公演、「宝寿頌PARFUM DE PARIS」を任される。「PARFUM」ではデザイナー高田賢三による衣装も話題となったのだが、何だかやたら茄子紺にこだわっていたような。又これ以降宝塚の舞台化粧が、以前よりも自然なものになったそうだ。

 

 絶頂期の紫苑はとんでもなく忙しかったらしく、自分のことを“人間ローソン”と称したことがあった。つまり年中無休24時間営業ということ。当時専科だった麻月鞠緒は「宝寿頌」の出演が最後となり、翌年在団のままお亡くなりになってしまった。

 

 1994年(H6年)「うたかたの恋/パパラギ」の稽古中に紫苑はアキレス腱を断裂し、大劇場公演とその次の全国公演を全休となってしまう。「パパラギ」はサモア人の目から見たヨーロッパという演出家草野旦らしい変わったテーマのショーで、面白そうと思っていたのだが、怪我で休演というニュースはとても残念だった。大劇場は代役として二番手だった麻路さきが主演したが、何とか東京公演で舞台復帰を果たした。

 

 そして1994年(H6年)「カサノバ・夢のかたみ/ラ・カンタータ」をもって退団となった。退団後は一旦舞台からは離れたものの、現在は宝塚音楽学校の講師を務め、時折舞台に登場することもあるのは周知のこと。

 峰の後は2番手を務めていた日向薫がトップに就任。初舞台後は月組に配属されたが、研4で星組に組替えとなっていた。1988年(S63年)「炎のボレロ/TOO HOT」が披露公演となり、南風まいとコンビを組む。この時のショーで”TOO HOTの美女“という役で注目を浴びた、速水渓という男役の生徒がいた。未だ当時研3ながら170cmの長身と美貌が評判となったようだが、どうもその後が続かなかったらしく同年次の公演で退団してしまい、後年俳優の小倉久寛と結婚し美女と野獣カップルとして話題になった。

 

 その公演というのが1988年(S63年)「戦争と平和」で、これをもって榛名由梨(専科)、但馬久美(専科)、あずみれいかと南風まいが退団した。たしか大劇場公演の際に大階段が故障してフィナーレで使えず、全国ツアーのような数段の階段で対応した、というアクシデントが起きたと記憶している。

 

 南風の後に日向は毬藻えりとコンビを組み、二番手に紫苑ゆう、三番手に麻路さきと続く体制になった。日向はその長身を生かしての豪快な芸風だったイメージがある。天海祐希が入団した際に、ある記者が日向に『麻実れいの二代目みたいな子が入って来たよ』と話しかけたところ、『ターコさんの二代目は私です!』と返したとか。ただし、個人的には瀬戸内美八や峰さを理の下で活躍していた時の印象が強く、トップになってからはあまり強く記憶に残っていない。

 

 1989年(H元年)「ベルサイユのばら」では、それまでアントワネットのヘアスタイルが原作漫画に近い縦ロール主体だったのに対して、毬藻アントワネットが18世紀当時の実際に流行ったように大きく盛り上げて装飾する形に近いスタイルにしたのが印象に残っている。またこの頃の若手のエース格として大輝ゆうがいたが、研7でオスカル役(大劇場は涼風・一路・安寿と役替、東宝は新公)を演じてあっさり退団していまい、この後稔幸に新人公演の主役が回ってくるようになった。

 

 80年代の後半頃の星組は南風を筆頭にして、洲優花、花愛望都、久留実純、出雲綾等歌の上手い娘役が揃っていたが、毬藻はむしろダンスが得意だった。特に1990年(H2年)のショー「ジーザス・ディアマンテ」での“宝石を食う女”が印象に残っている。

 

 この日向・毬藻コンビは1991年(H3年)「紫禁城の落日」で同時退団するまで続いた。この「紫禁城」は言ってしまえば宝塚版「ラスト・エンペラー」で、日向が清王朝の最後の皇帝溥儀を、毬藻が皇后婉容を演じたのだが、政治色の濃いかなりな異色作だった。

 

 歴史上の実話に基づいているとは言え、婉容はアヘン中毒で死亡、巨大な日章旗の前で麻月鞠緒扮する吉岡中将が「海ゆかば」を歌う等、結構宝塚としては刺激的な要素が随分見られた。また紫苑が演じた溥儀の弟溥傑氏が観劇されたりと、色々と話題が尽きない作品だった。星組は近代史を題材にした政治色の強い異色作を上演することが多いのだが、「紫禁城」はその代表的な作品だった。

 瀬戸内の退団後は峰さを理が順当に次のトップとなった。1973年(S48年)「この恋は雲の涯まで」新人公演で主演した峰は、当時研2で新公主演最年小記録を達成し、主要な役を同期の寿ひづる、高汐巴と3人で演じた。以前は3人組をセット売りすることがあり、久慈あさみ・南悠子・淡島千景の東京出身3人を“三羽ガラス”。那智わたる・内重のぼる・藤里美保は3人の愛称から“マル・サチ・オソノ”。上月晃・甲にしき・古城都は3人頭文字から“3Kトリオ”。常花代・松あきら・景千舟は3人の一文字姓から“常・松・景トリオ”。峰・寿・高汐については“3バカトリオ”と呼んでいたという話を聞いたこともあるが、真偽のほどは定かではない。

 

 瀬戸内が大劇場公演をもって退団となったために、トップ披露公演は東宝劇場で1983年(S58年)「アルジェの男/ザ・ストーム」となり姿晴香が相手役を演じたが、彼女はこれをもって退団となった。当時コンビは同時退団ではなく、1作品でもずらして退団するというのが不文律となっていた。ということで、翌1984年(S59年)改めて大劇場で「祝いまんだら」を相手役に南風まいを迎えて上演した。ただしこの時併演のショー「プラス・ワン」の一部が余りにも陰々滅々としていたということで、またもや東上に際してはかなり内容の改訂が行われた。

 

 同年の次の公演「我が愛は山の彼方に」の再演で二番手だった山城はるかが退団し、二番手日向薫、同格に近い三番手紫苑ゆうという体制になる。一方で峰と南風のコンビは今一つ息が合わなかったようで、同公演のヒロイン万姫役に湖条れいかが抜擢され、以降南風とのWヒロイン体制が続くこととなった。この抜擢に誰よりも驚いていたのが湖条本人だったようで、姉の湖条千秋と『こんなことが起きるとは・・・』と話していたとか。

 

 南風はひまわりのような明るいキャラクターだったのに対して湖条は透明感のある清楚なイメージで、1985年(S60年)「哀しみのコルドバ」は峰の相手役として二人の対照的な個性を生かしつつ日向、紫苑の見せ場も作るという、その時の組の構成を生かした舞台を演出する柴田侑宏の職人技が光る作品となった。明石家さんまが当時湖条のファンだったそう。峰は日舞が得意で、端正で品格のある芸風だった印象があり、同年次作「西海に花散れど」はその資質に非常に合った作品だったと思う。翌1986年(S61年)「レビュー交響楽」で湖条は退団したが、その後はようやく峰・南風のコンビで落ち着くことになった。

 

 しかし、峰の一番代表作となるのは翌1987年(S62年)「紫子」ではないだろうか。峰が男女の双子を演じ、双子の兄を装って藩主となった紫子/峰が、自らの身代わりに風吹/日向を舞鶴姫/南風の寝所へ送り込んだ際の嫉妬に苦悶する表情、そして『風吹!私を抱けっ!!』との切ない叫びは観るものを圧倒した。

 

 そして同年次作の「別離の肖像」が峰の退団公演となった。80年代当時はトップの退団公演にオリジナルの1本立てを持ってくることが少なくなかったが、「別離」は第1部が日本物ショー、第2部がコメディ、第3部「みじかくも美しく燃え」の舞台化という構成で、実質3本立てのような作品となった。特にその第1部のショーで、佐渡おけさのボレロを荘厳に舞う姿が今も鮮明に思い出される。当時民謡がボレロになるという事が、自分にとってはとにかく衝撃的だった。

 

 この頃SKD(松竹歌劇団)に“峰かおり”という人がいたことは知っていたが、後から聞いたところでは同時期OSK日本歌劇団には“峰かおる”という方がいて、何でも三大“峰”と言われていたそうな…。

 

 峰と一緒に退団した三城礼という生徒がいた。1981年のNHK朝ドラ「虹を織る」は宝塚が舞台の物語となり、多くのOGや現役生が出演したのだが、三城は主演の紺野美沙子の同期生の役で出演していた。その後有望な若手として育っていったのだが、麻路さきが月組から来て連続して新人公演で主演すると、その陰に隠れてしまうような形になってしまい研7で退団してしまった。ところが近年になって思わぬところでその名前を再び耳にして驚くこととなった。

 

 また、この頃星組に風間イリヤという生徒もいて、姉はSKDの名ダンサー小川真理子で、風間も当初は月組で男役のダンサーとして切れのいいダンスを見せていた。星組に来てから芝居やショーで女役となる機会が多くなり、結局いつのまにか娘役に転向していたのだが、当時はこのようになし崩し的に転向する生徒が時々見られた。また桐生のぼるや雪組の明都ゆたかのように、男役としてそこそこキャリアを積んだ後に娘役へ転向した生徒も少なくはなかった。

 

 因みに、星組の娘役トップが姿晴香だった際に、同時期の雪組の遥くらら、花組の若葉ひろみ、月組の五條愛川と4組全ての娘役トップが、4人とも元男役から転向組だったという珍しい事態も発生していた。

 

 ここまでが事前に準備していた文章なのだが、先日惜しくも68歳の若さで逝去されたとのニュースが流れた。大浦みずきさんが亡くなられてからもう随分立つが、2年前の順みつきさんといい今回の峰さんといい、自分が一番宝塚歌劇を親しんでいた時代に活躍されていたスターさんの訃報を聞くのは本当に寂しい限り。違和感がありながら折からのコロナ禍で診察が遅れたとのこと、本当に残念です。

 

 改めて考えてみたら、グラフ誌を買い始めた頃に毎号裏表紙が未だ若手だった頃の峰さんの載った広告だったことを思い出した。稽古中という設定であろう黒いレオタード姿の峰が、化粧っ気のない未だあどけなさも残るような表情で真っ直ぐな視線を投げかけていた。あのままの真っ直ぐな視線でトップとなり、退団後も後輩の指導を続けていたのでしょう。ご冥福をお祈りいたします。

 鳳蘭退団後は瀬戸内美八がトップとなり、遥とコンビを組むことになった。但馬久美は花組へと移動となり峰さを理が二番手となる。大劇場披露公演はデュマの「モンテ・クリスト伯」を舞台化した1979年(S54年)「アンタレスの星」とショー「薔薇パニック」だったのだが、「パニック」という言葉が物騒だというので東京では「薔薇ファンタジア」に改題された。

 

 東上に際しての上演劇場は東宝劇場ではなく新宿歌舞伎町にあった新宿コマ劇場で、当時年に1回宝塚歌劇を上演していた。ただしこの劇場には大階段がなく、フィナーレはコマ劇場の名前の由来ともなったせり上がる3段の独楽のように回るセリで幕を下ろしていた。「薔薇」では萬あきらと立ともみのコンビによるカゲボウシの踊りを思い出す。同年バウホールで「心中・恋の大和路」を瀬戸内・遥のコンビにより初演後、遥はTBSドラマ「1年B組新八先生」に出演のため半年舞台を休み、その後麻実れいとコンビを組むために雪組へ移動となった。

 

 瀬戸内と次にコンビを組んだのが東千晃だった。彼女は入団時に星組だったが雪組に組替えとなり、汀夏子の相手役を何作か務めながらも再び星組へ組替えとなって遥に次ぐ立場にいた。1980年(S55年)「響け!わが歌」というコメディタッチの忍者劇が大劇場で上演されたが、これが東上に際して「美しき忍びの季節」と改題され、登場人物とキャスティングはそのままに内容は悲劇に改訂されて東京で上演されることとなった。また併演の「ファンシー・ゲーム」も「ニュー・ファンシー・ゲーム」となる。当時は東上に際して、大劇場公演から大きな改訂を施して東京へ持ってくるという事が時々見受けられた。

 

 瀬戸内は花組で研6の若手だった頃に1971年(S46年)「人魚姫」で初主演の王子様を演じたように、当初は白馬の王子様タイプの夢々しい男役だったのだが、経験を積んだ結果10年後の1981年(S56年)「海鳴りにもののふの詩が」では、堂々たるおっさん侍役で主演するまでになっていた。ところが次作1982年(S57年)「ミル星人パピーの冒険」では、タイトルからしてお子様向けファンタジーに一気に振り戻すという荒業を見せる。併演のショー「魅惑」が洒落た佳作に仕上がっていたために、そのギャップに余計戸惑ったものだった。

 

 ただしさすがにそのまま東京へ持ってくることは憚られたのか、東上に際しては演目を変更して「小さなが花がひらいた/魅惑」となり、「小さな」でおりつを演じた東はこれが退団公演となった。その後は花組から姿晴香が移動して瀬戸内とコンビを組むこととなった。姿は元々男役でそこそこの実績を残していたが研7で娘役に転向していた。同年瀬戸内と姿のコンビで「心中・恋の大和路」を再演する。

 

 瀬戸内は1983年(S58年) 「オルフェウスの窓」で退団となるが、この作品は「ベルばら」と同じ池田理代子の漫画を舞台化したもので、「イザーク編」として漫画で主人公だった男装の麗人ユリウスを峰さを理が演じ、ユリウスが慕うクラウス役に榛名由梨が専科から特出、瀬戸内はユリウスを愛するイザーク役で主演となった。これが当たれば「ベルばら」同様各組での続演を狙ったのかもしれないが、結局これ切りで終わってしまった。

 

 この公演は、先ず東宝劇場で初演した後に大劇場で上演するという変則公演となり、なんでも瀬戸内は大劇場千秋楽の翌日に渡米したとか。この「オルフェ」新人公演でユリウス役を演じたのが燁明、ジャニーズのマリウス葉の母である。

 前述の通り、遥くららこそが宝塚に深い興味を抱くに至った理由であり、一番思い入れの深いスターだった。基本的には男役トップスターの時代毎に思い出を書き連ねていくつもりなのだが、今回だけは特別編ということにしたい。また彼女がスターになった経緯も少々異色であり、その詳細について記することにする。

 

 遥は60期生として1974年(S49年)「虞美人」で初舞台を踏み、同期生には剣幸、大浦みずきがいる。元々甲にしきのファンで、当時としてはそこそこの身長166㎝あったので当初は男役としてのスタートし、芸名は作家矢代静一氏に名付けられた。入団時の成績はかなり下の方だったそうだが、初舞台後は剣らとともに“バンビーズ”に選抜されることとなった。

 

 当時関西テレビには宝塚の生徒主演のドラマ枠があり、衣通月子、松風都巳等が主演していた。他にもスタジオレビューや舞台中継をするバラエティ枠もあって、それが「ザ・タカラヅカ」という30分の番組だった。関東地方では週末の早朝5時30分から放送していて、必死になって早起きして見ていた。

 

 この「ザ・タカラヅカ」でアシスタントやバックダンサーを務めていたのがバンビーズで、毎年初舞台を終えた研一生から10人程度が選ばれて翌年までの1年間レギュラー出演していた。その間は舞台からは遠ざかることとなり嫌がる生徒もいたようだが、毎週テレビに露出することで顔と名前が早くに知られるという利点もあり、その後スターからトップにまでなる生徒も結構いた。剣以外にも男役では峰さを理、高汐巴、寿ひずる、日向薫、娘役では東千晃、秋篠美帆などがバンビーズ出身だった。

 

 こうして1年間バンビーズを務めることとなっただが、年季が明けて星組配属が決まったものの直ぐには舞台に戻ることにはならず、1975年(S50年)TBSのポーラテレビ小説「加奈子」のヒロインのオーデションを受けることになる。八千草薫に面差しの似た瓜実顔で、劇団にテレビ向きと思われたのかもしれない。ただ本人としてはあまりテレビに興味がなかったためオーデションの際も全く緊張せず、絣の着物のまま立膝をついて初舞台「虞美人」新人公演の兵士役の唯一の台詞『申し上げます!四方の兵…』と叫んだり、ジャズをスウィングしながら唄ったそう。

 

 ポーラテレビ小説とはNHKの朝ドラに対抗してTBSがお昼に毎日放送していたドラマで、岡江久美子、名取裕子、樋口可南子といった方々が出演していた。そのオーデションに合格した遥は、半年間ヒロイン“加奈子”役で主演することになる。この時に台詞を言うための気持ちの持って行き方等演技の基本となる部分を丁寧に教えてもらった、と述懐しているインタビューを読んだことがある。彼女の持ち味である自然な演技というのは、ここで学んだことが大きく影響していたのだろう。

 

 「加奈子」の撮影が終わったところで当然本人は舞台に戻るつもりでいたようだが、丁度星組公演とのタイミングがうまく合わずにそのままでは未だしばらく舞台には出演できないということで、引き続き1976年(S51年)春にTBSドラマ「美しき殺意」に主演することとなった。これは四谷怪談を現代に置き換えた復讐サスペンスドラマで、彼女はヒロインである美貌の人妻を演じた。ただしお岩様の様なお化けにはならない。この頃遥はこのまま劇団には戻らず、そのまま女優になるのかなと個人的に思っていた。

 

 周囲からも当然そのような声があったと思うのだが、本人の意志は固くようやく同年1976年(S51年)秋の星組公演「夕陽のジプシー」のガージョという少年役で、ようやく念願の舞台復帰を果たす。新人公演では当時の星組“御曹司”峰さを理が演じたカリア役が回って来たところをみると、劇団としても彼女に何らかの期待をもっていたと考えられる。本人としても『さあ、これから男役で頑張るぞ!』という気持ちだったそう。

 

 そして1977年(S52年)「風と共に去りぬ」が月組と星組での連続上演が決まり、遥はスカーレット・オハラ役に抜擢される。当時オーデションが行われたかどうか定かではないが、東京の放送局にいた時にスカーレット役決定を突然聞かされてとても驚いたと後で語っていた。この大抜擢は内部でかなり波乱を呼んだようで、当時の星組主力娘役2人衣通月子と奈緒ひろきが退団を発表することとなった。女性ばかりの集団だから色々な思惑が渦巻きあっただろうと想像できるが、稽古中は常に鳳が遥を傍に呼んで庇うようにしたために、目立った軋轢は起きなかったよう。

 

 ただ実質3度目の舞台でスカーレット役を演じるわけで、鳳が知人に舞台の感想を求めたところ『顔に花がある』と言われて安心したそうだ。とは言え、ファンの間では色々な声があったことは確かだった。そして、前述の通り公演終了後に改めて劇団から娘役転向と鳳の相手役就任のオファーを受けて、次の公演1977年(S52年)「テームズの霧に別れを/セ・マニフィーク」から、改めてコンビがスタートしたということになる。

 

 その後瀬戸内美八や麻実れいとコンビを組み娘役スターとして大きく花を咲かせ、最年少で殿堂入りまで果たすのだが、歌唱力の弱さが最後までついて回ることとなった。当時岸香織にこんなことを言われている。『モック(遥の愛称)殺すにゃ刃物はいらぬ、歌を3曲歌わせれば良い』。まあ岸本さんのことだから、あくまで冗談で悪意のあるものではなかったと思うけれど、ファンとしては彼女が歌いだすといつもヒヤヒヤしながら親戚のような気持になって見守ってしまう、というのが正直なところだった。

 

 それでも退団公演で再びスカーレットを演じた際は結構上手になったとの評判で、何でも有名な声楽家の先生についてずっと練習を重ねていたそうだ。最後は娘役ながらサヨナラショーまでやったのだから、相当の努力を重ねていたのだろう。後個人的に思う遥が達成したもう一つの偉業は、“くらら”が娘役の定番芸名の一つとなったこと。ただし最初は男役としての芸名だったけど…。他に近年生み出された定番芸名は、伝説の美少女“北原千琴”からの“千琴”ぐらいだろう。

 

 退団の翌年、1985年にミュージカル「ラ・カージュ・オ・フォール」の初演に、主人公カップルの息子のガールフレンド役で出演したので観に行った。遥としては余り為所のない役回りだったが、主役の片割れザザが鏡に向かって舞台化粧をしながら心の内を切々と歌い上げる見せ場、演じた某有名俳優の歌が余りにも余りにもだったので、『酷い…、酷すぎる…』との呟きと失笑が客席をさざ波の様に広がっていったのが思い出される。ある意味、凄いものを観てしまったのだった。

 

 1988年に新橋演舞場で「オセロ」デズデモーナを演じた時、とうとう念願かなって楽屋にお伺いしてご挨拶をさせてもらった。まさに天にも昇る思いで、一生の思い出となったことは言うまでもない。その後1990年代に入ってご結婚されて芸能界を引退されたことで、自分の青春時代に一区切りがつくこととなった。