宝塚歌劇を始めて劇場で観劇したのが「風と共に去りぬ」だった。実はそれ以前にテレビドラマに出演していた遥くららを見てファンになり、その紹介記事で宝塚歌劇団に在団していることを知った。その結果そこでそれまでは何となく知っていただった宝塚についてより強い興味を持つようになり、偶々本屋で見つけた“歌劇”や“グラフ”を買うようになった。そんな折遥が「風共」でスカーレット役に抜擢されたと知り、是が非でも実際に観なくてはと心に決めたのだった。

 

 しかしながら先ずは予習のつもりで、先ず月組公演の「風共」から東京宝塚劇場へ見に行くことにした。二階席からだったが初めて劇場で見る生舞台、しかもそれが宝塚歌劇だったもので幕開きから強烈極まりなくひたすら圧倒されてしまった。そして舞台の幕も下り席を立って階段まで来てふと我に返って周囲を見れば、二階から一階まで見渡す限りほぼ女性、当時は未だ男性客は殆どおらず、子供からお年寄りまであらゆる年代のひたすら女性の波に恐怖すら感じてしまったのだった。しかし次の星組公演こそが本来の目的である遥くららが出演する舞台、何とか勇気を振り絞って再び東宝劇場へと向かった。

 

 月組「風共」は榛名バトラー対順スカーレット、実力者同士がガップリ四つで組んでの大相撲だったが、星組は鳳が舞台の中心として全体をコントロールし、未だ若い遥スカーレットを時に弄び、時に包み込むように、彼女の特徴である包容力の大きな演技でバトラーを演じ、遥も背伸びした感はあったものの精一杯の演技で応えていた。ただしスカーレットⅡを演じた玉梓真紀の方が貫録が出てしまったのは、当然のことながらキャリアの差によるものだったろう。配役を見たときは逆ではないかと思った奈緒ひろきのメラニーと清純派だった衣通月子のベルも、充実した演技で退団の花道を飾った。月組と星組のどちらかではなく、それぞれの組の特徴が表れた舞台となっていた。

 

 この「風共」から鳳と遥のコンビが始まったとずっと思っていたのだが、実はこの時は未だあくまで“男役”遥くららがトップ鳳蘭の相手役を務めた(「エリザベート」で“男役”凪七瑠海が瀬奈じゅんの相手役を務めたのと同じ状況)とのことだったそうで、公演終了後に改めて劇団から娘役転向と鳳の相手役就任のオファーがあったそう。だから正式には次の公演1977年(S52年)「テームズの霧に別れを」から、改めてコンビがスタートしたということになる。翌1978年(S53年)「誰が為に鐘は鳴る」をでは、鳳の大きな演技と、髪を短く切ったマリアカットの遥との良いコンビネーションを見せた。

 

 鳳・遥コンビは芝居では息の合ったところを見せたが、ショーとなるとやはり鳳の独壇場だった。「テームズ」と併演された「セ・マニフィーク」(主題歌は今や鳳のテーマソングとなったやつ)や1978年(S53年)「セ・シャルマン」といった鳳のリサイタルのようなレビューが上演され、たしか「マニフィーク」だったと思うが、鳳がサロメに扮する場面で芝居とは対照的な妖艶なサロメで魅せたのが未だに印象に残っている。1978年布施明が大劇場でコンサートを催したが、その際にゲストとして登場して共演したこともあった。1979年(S54年)年頭のコンサートでは、ほとんど丸坊主か角刈りかというくらいのベリーショートで登場した。

 

 コンサートのバックダンサーとして既に退団していた奈緒ひろきが、お揃いのようなベリーショートで出てきたのにも驚かされた。奈緒は入団当初は男役だったそうで、短髪は昔取った杵柄というところだったのかもしれない。また1978年当時研4の娘役愛田まちが、ミュージカル「アニー」初演の初代アニー役に選ばれるということもあった。

 

 当時鳳と榛名由梨・汀夏子・安奈淳の4人はベルばら四強と称されていたが、メインとなるファン層を見ると安奈が小中学生、汀が高大学生、榛名が20~30代層、鳳が熟女層と別れていたそう。この頃星組の布陣は、鳳に続き二番手に同期の但馬久美(後の参議院議員)、若手エースの峰さを理と続く布陣だった。1979年初頭に鳳の声楽専科への移動がアナウンスされた直後に、五木寛之著「朱鷺の墓」を舞台化した「白夜わが愛」での退団が発表となり、そして瀬戸内美八が月組から移動して次期トップとなることになった。

 

 現在専科は一つにまとまっているが、この当時は舞踊専科、演劇専科、声楽専科に分かれていた。かつては八千草薫や扇千景が所属していた映画専科があって、後にダンス専科が設定されたこともあった。当時の生徒3理事、踊りの神様天津乙女は舞踊専科、白バラのプリンス春日野八千代と神代錦は演劇専科に属しており、その他舞踊専科には梓真弓、三鷹恵子、松本悠里、城火呂絵らが、演劇専科には芝居の神様と言われた大路三千緒、沖ゆき子、美吉佐久子、天城月江、「ベルばら」のモンゼット夫人で悶絶していた水穂葉子(地方公演では侯爵と夫人の二役を演じたこともあったらしい)らが、そして声楽専科には銀あけみ、戦後復興期を彩ったスターも未だ何人か在籍していた時代だった。

 

 当時天津が劇団イベントの際に「大将となるにも」のジャン二等兵を、北原千琴や遥くららを相手役の花売り娘にして元気に演じていたのを覚えている。1980年在団のまま逝去されての葬儀の会場に白蛇が現れて、居合わせた会葬者を見渡すように鎌首をもたげた後に姿を消し、『エイコ先生が最後に会いに来てくれた!』と騒ぎになった。天津、春日野、神代の3理事全員が在団のまま逝去され、宝塚に生涯を捧げることとなった。つい先日100歳で天寿を全うされた大路は退団後にNHK「おしん」におしんの祖母役で出演したが、共演者から『今迄どこにこんな凄い役者が隠れていたのか!』と驚かれたとか。

 

 さて話を戻して、瀬戸内は「白夜」からの星組出演だったのだが、寸前まで月組東京公演に出演していたため「白夜」の稽古に参加できずフィナーレのみ登場となった。「白夜」では朱鷺色の着物姿で横笛を構えたヒロイン染乃役の遥の立ち姿の美しさが記憶に残るが、それ以外にも染乃を売り飛ばす“北前の徹”を演じた風美圭の、それまで上品でスッとした二枚目の印象の強かったイメージに反して、鋭い視線で冷徹な悪役を色気すら感じさせて魅せた演技や、風美と同期の洋ゆりの女郎の演技が思い出される。

 

 現在フィナーレの大羽根は宝塚レビューの象徴であり、特にトップスターは大羽根に加えて飾りの雉羽と後ろにたなびくナイアガラの組み合わせが定番となっているが、大きな背負い羽根が定着したのは70年代中頃のことだった。ただし当初は未だナイアガラはなく、鳳蘭が「白夜」のフィナーレで背負ったのが初登場だったと思うが、その時はナイアガラのみを背負って背中で白い羽がユラユラ揺れているのが印象に残っている。また現在トップのみが最後の銀橋ラインナップで全体を渡り切るが、当時はトップと娘役トップが中央で入れ替わって二人とも銀橋を渡り切っていた。トップだけが渡り切るようになったのは、背負う大羽根が巨大化したために交差が難しくなったからだろうか。

 上月晃の後の星組は鳳蘭と安奈淳の若い二人がWトップとなり、そこに娘役の大原ますみを加えてゴールデントリオと呼ばれて人気を呼んだ。「ベルサイユのばら」の上演希望がファンから劇団へ寄せられた際、このトリオ鳳フェルゼン、安奈オスカル、大原アントワネットでのキャスティング希望がほとんどだったとか。ただし公演記録を見ると、実質的には鳳が主演を務めたことが多かったようだ。1971年(S46年)「ノバ・ボサ・ノバ」は専科から真帆志ぶきが特出してソール役で主演し初上演されたが、この公演で鳳はオーロを、安奈はルーア神父を演じていた。又同年に上演された「星の牧場」で、主演の鳳は主人公モミイチの純朴さを表現するためにノーメイクの素顔で舞台に立ち、また同年に「我が愛は山の彼方に」が長谷川一夫演出で初演された。1973年(S49年)「ラ・ラ・ファンタシーク」では「愛の宝石」が歌われた。その後、安奈が1974年になって他組へ特別出演をすることが多くなる。

 

 SKD(松竹歌劇団)が歌舞伎に倣って幹部制を取っていたのに対して、基本的に宝塚ではスターシステムだったが現在ほど強固にシステム化されたピラミッド制ではなく、トップスターを頂点とした番手順も曖昧だった。そのためトップ以外の人や専科生が組公演の主演をしたり、所属する組以外の組に特出したりすることがよくあった。更には組合同公演や二組による連続公演も多くみられたが、これは衣装やセットを使いまわしすることで制作費を節約する目的もあったようだ。ただし公的には『好評により続演!』と称してはいたようだが。また現在のような娘役トップやトップコンビという概念もなく、ヒロインを演じる娘役はあくまでトップスターの“相手役”という位置付けだった。

 

 ということで、安奈淳は1974年(S49年)先ず雪組公演「ロマン・ロマンチック」に特出した後、星花合同公演「虞美人」の後半の花組主体の公演に項羽役で主演し、続いて次の花組公演「アン・ドウ・トロワ」にも特出主演した後、翌年1975年正式に花組へ組替となってトップに就任した。同年、安奈と入れ替わりに雪組から主演経験のあった順みつきが星組へ移動となり、鳳がヨーロッパ公演に出演した際に留守番役として1975年(S50年)「美しき青きドナウ」に主演する。

 

 この年9月から翌年1月にかけての長期にわたったヨーロッパ公演は、先ず当時のソビエト連邦、現在のロシアの5都市を巡演した後に、パリで1か月の公演を行うというものだった。鳳は国籍の関係でソ連に入国できずにパリ公演のみの出演となったが、この公演で一番話題を呼んだのが松本悠里の日舞だったようで、『オー!ジャパニーズ・ゲイシャ!』とその舞姿がパリ公演パンフレットの表紙を飾ったほどだった。この海外公演はかなり過酷なものであったのか、後に色々な生徒さんが『ホテルでお湯が出ずに、震えながら水のシャワーを使った…』、等の思い出を語る場面があったと記憶している。

 

 一方で「虞美人」の前半の星組主体公演で鳳が項羽を演じたが、虞姫の大原ますみはこれをもって退団し、以降鳳の相手役が定まらない状態がしばらく続くこととなる。この時期衣通月子や奈緒ひろきが相手役を務めることが多かったようだが、1974年(S49年)ブロードウェイ・ミュージカル「ブリガドーン」上演の際には、ヒロインに当時未だ研2だった四季乃花恵(娘はミュージカル女優笹本玲奈)と紫城いずみが抜擢されるも、相手役として定着するまでには至らなかった。1976年(S51年)「ベルサイユのばらⅢ」で鳳はフェルゼンを演じ、これが退団公演となった初風諄演じるアントワネットと相対することとなる。

 

 この公演ではオスカル役に先に演じた榛名由梨・安奈淳・汀夏子が特別出演し、さらに星組からは順みつきが演じた。当時順は最も男らしい男役といわれ、当初演出の植田紳爾はベルナールの出番を増やすのでどうかと順に持ち掛けたが、本人がどうしてもと強く希望したのでオスカル役となったそう。多分このことが、後の「風と共に去りぬ」初代スカーレット・オハラ役に繋がっていったのだろうか。順はこの「ベルばらⅢ」の後、すぐに月組へ移動となった。また、この頃星組の中堅を担っていた浦路夏子、三代まさる、牧原なおきが退団や組替となったため、雪組から上條あきらと花組から立ともみが組替で星組へやって来ることとなった。

 

 そして「ベルばら」に続く大作として企画された「風と共に去りぬ」で鳳蘭がレット・バトラーを演じることとなり、スカーレット・オハラ役に遥くららが鳳の相手役として抜擢される。当時遥は未だ研4の新人男役で、実は入団してから舞台に立つのはこれがわずか3度目だった。

 先ず話の始まりは1970年まで遡ることとする。ただし、この当時のことは直に見聞きしてはおらず、全て後で読んだり聞いたり調べたことになることを先ずお断りしておく。

 

 1960年代後半から70年にかけては、甲にしき、古城都、上月晃の同期3人が”3Kトリオ”と呼ばれて人気を博していた。花組は1970年に麻鳥千穂が退団して甲にしきがトップに就任したところで、相手役を竹生沙由里や後に上原まりが務め、代表作には「小さな花がひらいた」「この恋は雲の涯まで」などがあった。月組では古城都が1968年からトップを務めており相手役八汐路まりとともに「ウエストサイド物語」の初演に主演し、八汐路退団後は初風諄が相手役となって「霧深きエルベのほとり」を上演した。雪組では1962年以来真帆志ぶきがトップを務めており、「花のオランダ坂」「シャンゴ」やブロードウェイミュージカル「回転木馬」を加茂さくらや大原ますみを相手役として上演していた。星組では1965年から上月晃がトップとなって、1967年には宝塚初のブロードウェイミュージカル「オクラホマ!」に主演し、69年に声楽専科へ移動となるも専科から星組に特出して主演をしていた。

 

 但し当時の宝塚歌劇団は慢性的な観客の不入りに悩んでいて、生徒が開幕前に客席を覗いては『今日も看護婦さんの団体さんや…』とため息をついた、という話を聞いたことがある。客席の前半分は埋まっても後ろ半分は殆ど空席で、客席の白いシートカバーばかりが目立っていた状態を、現代の看護師さんと違い当時は白衣の天使と言われた看護婦に見立てた訳だった。高度成長期で一気にテレビが家庭に広まり、そして娯楽の多様化が進みこの頃OSKが松竹から近鉄傘下へ移るという事態も発生していた。宝塚歌劇団も野球の阪急ブレーブスと共に阪急のドラ娘・ドラ息子と呼ばれて、いつ切り売りされてもおかしくないと言われているような状態だった。

 

 このような状況下で1970年(S45年)歌劇団は先ず雪組と星組でそれまで組を支えていた主力の生徒に代わり、組毎に若いトップスターを2人据えるという思い切った対策を講じた。星組で主演経験もあった南原美佐保や雪組では真帆志ぶきと共に準トップ(又はサブ・トップと当時二番手を呼んでいた)を務めた牧美佐緒といったスターを専科へ移動させ、星組では上月の退団を受けて鳳蘭(当時研7)と安奈淳(当時研6)を、雪組では移動した真帆の後を郷ちぐさ(当時研8)と汀夏子(当時研7)という、それぞれ非常に若いWトップに託すことにしたのだ。その後月組は1973年に大滝子と榛名由梨が、花組は1974年に松あきらと瀬戸内美八が、それぞれWトップに就任することとなる。後に“若返り大騒動”と呼ばれるこの大人事移動は、平成の“新専科”騒ぎや天海祐希の研7でのトップ就任以上に衝撃的だったろう。

 

 この体制が整ったところから話を始めたいと思う。ただし通常宝塚について語る時は、花・月・雪・星・宙と組ができた順番になることが多いが、ここでは話の流れ上先ず星組からスタートすることとする。

 東京は有楽町、日比谷界隈は自分にとって非常に大きな意味を持っている。人生の多くの時間様々な場面をここで過ごし、様々なものを見て、様々な思いを重ねてきた。今は新しいビルが立ち並び、とうとうツインタワービルが建て替わることになって昔の面影は殆どなくなるけれど、自分の脳裏には未だ昔の街並みが鮮明に浮かび上がって来る。

 

 有楽町駅の方から歩いて来て晴海通りを横断しツインタワービルの角を曲がると、現在の日比谷シャンテ正面入口付近にあった日比谷映画の丸い建物が目に入る。その隣ゲームセンターの二階に有楽座があり、更にその隣の当時の東宝本社が入っていたビルには芸術座と千代田映画があって地下にはみゆき座、道路を挟んで帝国ホテルに対して東京宝塚劇場と日生劇場が並でいる。東宝劇場の上にはスカラ座と東宝名人会の寄席があったが、寄席の後に日劇が解体されて日劇ミュージックホールが移転してきた。これらの映画館や劇場で様々な映画や演劇を鑑賞し、それぞれに様々な思い出が残っている。小林一三が「日本のブロードウェイ」を目指した街並みは、当時本当に華やかなものだった。

 

 未だ建て替え前の東宝劇場だったころ、4階にあったスカラ座で映画を見ようとエレベーターに乗ったらば、丁度当時あったミュージックホールの踊り子さんと二人きりになってしまったことがある。別に舞台衣装だった訳ではないけれど、それでも醸し出される独特な色気に圧倒されて、まともに視線を向けることすらできなかった。

 

 また同じくスカラ座に映画「ミッション・インポッシブル」(1996年)の先行オールナイトを観に行った時のこと。開始の2時間以上前に到着したにもかかわらず、既に開場を待つ人の列が映画館からビルの階段を上から下まで降り、更に劇場前の道路の真ん中を帝国ホテル方面へ伸びる長蛇の列となっていた。映画待ちで並ぶ人々は、なぜ歩道ではなく道路の真ん中に並ばさせられているのかが理解できずに、何だか落ち着かない様子。そんな折から東宝劇場の宝塚の公演が終了し、楽屋待ちの宝塚ファンが道路挟んで歩道に並び始める。劇場側に並んだファンクラブはしゃがんでお目当てのスターを待つ体制に入り、左右から挟まれた形になった道路の中央で並ぶ人々は状況が理解できずざわつき始める。

 

 そこへ楽屋口から生徒さんが出て来るわけで、最初は下級生だからあまり声も上がらず静かに通り過ぎていくが、やがてスターさんが出て来るようになると、その歩みに合わせて掛け声やカメラフラッシュの波が追いかける。映画を待つ行列は混乱し、ショートカットを金髪に染めて愛想を振りまきながら歩き去る人を見ては、『何!何?あれは誰?一体何者?』とささやき合うのだった。更に夜の東京のど真ん中で起きているこの異様な状況の脇を、外国人観光客が『一体ここで何がおきているのか!』と驚愕の表情を浮かべて見回しながら帝国ホテルへと帰って行く、という何ともカオスな世界が繰り広げられたこともあった。

 

 日比谷の街には数えきれないほどの思い出があるけれど、その思い出の中心には東京宝塚劇場があり、宝塚歌劇がある。思い返せば偶々テレビで見た宝塚歌劇の舞台中継、それが宝塚歌劇という存在を意識した切掛けだった。そしてそのことが後年宝塚のみならずレビューやミュージカルそして演劇一般、更にはニューヨークやロンドンにまで及ぶパフォーミング・アート、舞台芸術全般そして映画に対する興味へと広がり、人生の方向性を形づける重要な要素の一つとなっていったのだった。その時テレビで見たのは1974年(S49年)に月組で上演された「インスピレーション」というショーで、専科から特別出演していた真帆志ぶきが退団予定だったことを何故か知っており、『この人が辞めたら、どうなってしまうのかなぁ・・・』と思ったことを朧気ながら覚えている。

 

 それ以来50年弱にわたって、つかず離れず宝塚を気にし続けて今日に至るのだが、その間色々と見聞きしてきたことも沢山あり、自分の思い出の整理もかねてまとめた文章にしておこうと思いこのブログを立ち上げる事にした。内容としては昭和時代の思い出が中心となるけれど、一応今日に至るまでのスターの動向やエピソード、噂話を思い出すままに書き連ねていきたいと思う。

 

 尚、文中生徒さんに対する敬称は省略することとし、もし事実と異なることがあれば思い違いか記憶違いによるものとして、ご承知置き願います