瀬戸内の退団後は峰さを理が順当に次のトップとなった。1973年(S48年)「この恋は雲の涯まで」新人公演で主演した峰は、当時研2で新公主演最年小記録を達成し、主要な役を同期の寿ひづる、高汐巴と3人で演じた。以前は3人組をセット売りすることがあり、久慈あさみ・南悠子・淡島千景の東京出身3人を“三羽ガラス”。那智わたる・内重のぼる・藤里美保は3人の愛称から“マル・サチ・オソノ”。上月晃・甲にしき・古城都は3人頭文字から“3Kトリオ”。常花代・松あきら・景千舟は3人の一文字姓から“常・松・景トリオ”。峰・寿・高汐については“3バカトリオ”と呼んでいたという話を聞いたこともあるが、真偽のほどは定かではない。

 

 瀬戸内が大劇場公演をもって退団となったために、トップ披露公演は東宝劇場で1983年(S58年)「アルジェの男/ザ・ストーム」となり姿晴香が相手役を演じたが、彼女はこれをもって退団となった。当時コンビは同時退団ではなく、1作品でもずらして退団するというのが不文律となっていた。ということで、翌1984年(S59年)改めて大劇場で「祝いまんだら」を相手役に南風まいを迎えて上演した。ただしこの時併演のショー「プラス・ワン」の一部が余りにも陰々滅々としていたということで、またもや東上に際してはかなり内容の改訂が行われた。

 

 同年の次の公演「我が愛は山の彼方に」の再演で二番手だった山城はるかが退団し、二番手日向薫、同格に近い三番手紫苑ゆうという体制になる。一方で峰と南風のコンビは今一つ息が合わなかったようで、同公演のヒロイン万姫役に湖条れいかが抜擢され、以降南風とのWヒロイン体制が続くこととなった。この抜擢に誰よりも驚いていたのが湖条本人だったようで、姉の湖条千秋と『こんなことが起きるとは・・・』と話していたとか。

 

 南風はひまわりのような明るいキャラクターだったのに対して湖条は透明感のある清楚なイメージで、1985年(S60年)「哀しみのコルドバ」は峰の相手役として二人の対照的な個性を生かしつつ日向、紫苑の見せ場も作るという、その時の組の構成を生かした舞台を演出する柴田侑宏の職人技が光る作品となった。明石家さんまが当時湖条のファンだったそう。峰は日舞が得意で、端正で品格のある芸風だった印象があり、同年次作「西海に花散れど」はその資質に非常に合った作品だったと思う。翌1986年(S61年)「レビュー交響楽」で湖条は退団したが、その後はようやく峰・南風のコンビで落ち着くことになった。

 

 しかし、峰の一番代表作となるのは翌1987年(S62年)「紫子」ではないだろうか。峰が男女の双子を演じ、双子の兄を装って藩主となった紫子/峰が、自らの身代わりに風吹/日向を舞鶴姫/南風の寝所へ送り込んだ際の嫉妬に苦悶する表情、そして『風吹!私を抱けっ!!』との切ない叫びは観るものを圧倒した。

 

 そして同年次作の「別離の肖像」が峰の退団公演となった。80年代当時はトップの退団公演にオリジナルの1本立てを持ってくることが少なくなかったが、「別離」は第1部が日本物ショー、第2部がコメディ、第3部「みじかくも美しく燃え」の舞台化という構成で、実質3本立てのような作品となった。特にその第1部のショーで、佐渡おけさのボレロを荘厳に舞う姿が今も鮮明に思い出される。当時民謡がボレロになるという事が、自分にとってはとにかく衝撃的だった。

 

 この頃SKD(松竹歌劇団)に“峰かおり”という人がいたことは知っていたが、後から聞いたところでは同時期OSK日本歌劇団には“峰かおる”という方がいて、何でも三大“峰”と言われていたそうな…。

 

 峰と一緒に退団した三城礼という生徒がいた。1981年のNHK朝ドラ「虹を織る」は宝塚が舞台の物語となり、多くのOGや現役生が出演したのだが、三城は主演の紺野美沙子の同期生の役で出演していた。その後有望な若手として育っていったのだが、麻路さきが月組から来て連続して新人公演で主演すると、その陰に隠れてしまうような形になってしまい研7で退団してしまった。ところが近年になって思わぬところでその名前を再び耳にして驚くこととなった。

 

 また、この頃星組に風間イリヤという生徒もいて、姉はSKDの名ダンサー小川真理子で、風間も当初は月組で男役のダンサーとして切れのいいダンスを見せていた。星組に来てから芝居やショーで女役となる機会が多くなり、結局いつのまにか娘役に転向していたのだが、当時はこのようになし崩し的に転向する生徒が時々見られた。また桐生のぼるや雪組の明都ゆたかのように、男役としてそこそこキャリアを積んだ後に娘役へ転向した生徒も少なくはなかった。

 

 因みに、星組の娘役トップが姿晴香だった際に、同時期の雪組の遥くらら、花組の若葉ひろみ、月組の五條愛川と4組全ての娘役トップが、4人とも元男役から転向組だったという珍しい事態も発生していた。

 

 ここまでが事前に準備していた文章なのだが、先日惜しくも68歳の若さで逝去されたとのニュースが流れた。大浦みずきさんが亡くなられてからもう随分立つが、2年前の順みつきさんといい今回の峰さんといい、自分が一番宝塚歌劇を親しんでいた時代に活躍されていたスターさんの訃報を聞くのは本当に寂しい限り。違和感がありながら折からのコロナ禍で診察が遅れたとのこと、本当に残念です。

 

 改めて考えてみたら、グラフ誌を買い始めた頃に毎号裏表紙が未だ若手だった頃の峰さんの載った広告だったことを思い出した。稽古中という設定であろう黒いレオタード姿の峰が、化粧っ気のない未だあどけなさも残るような表情で真っ直ぐな視線を投げかけていた。あのままの真っ直ぐな視線でトップとなり、退団後も後輩の指導を続けていたのでしょう。ご冥福をお祈りいたします。