2014年宝塚が100周年を迎えた頃、当時のマスコミは柚希礼音のことを”宝塚のレジェンド”と呼んでいた。2009年に星組トップに就任しておよそ5年経った頃で、最近のトップ在任期間としては和央ようか以来の長さとなっていたからだろう。ただ”レジェンド”を本来の意味である”伝説的人物”と取るならば、”宝塚のレジェンド”は春日野八千代であるべきだし、マスコミの言う”レジェンド”を、”生きた伝説と言えるような偉大な功績をあげた人物”というようなニュアンスで捉えるならば、”レジェンド”と呼ぶべきは轟悠ではないかと当時思っていた。

 

 高嶺ふぶきの退団後2番手だった轟悠がこれまた順当に昇進してトップに就任し、同じく71期生で愛華みれ、真琴つばさ、稔幸と共に同時期の同期4人トップとなった。入団当初は月組配属だったが、新人公演でようやく役がつき始めようかというときに彗星の如く現れたのが2期下の天海祐希で、結果として天海に弾き飛ばされたかのように研4の時に雪組へ組替えとなったが、しかしそれ以降はとんとん拍子でスター路線を進む。翌1989年(H元年)「ベルサイユのばら」で新公主演を果たすとその後も主演を重ね、1993年に一路真輝がトップに就任すると高嶺ふぶきについで3番手となり、1996年(H8年)「エリザベート」でルキーニを演じ強烈な印象を残す。これが“ルキーニを演るとトップになる”というジンクスの始まりとなった。

 

 1997年(H9年)「真夜中のゴースト/レ・シェルバン」で大劇場披露となり、引き続き花總まりが相手役としてコンビを組んだが、花總は同年の香港公演出演後に1998年新たに設立された宙組へ移動となり、月影瞳が星組から移動して新たなコンビを組むこととなった。この宙組新設の際はかなり大きな組替えの移動が発生し、花總以外にも二番手だった和央ようかや寿つかさ、夢輝のあらが宙組へ、星奈優里は星組へ移動し稔幸とトップコンビを組むこととなった。また月影以外にも香寿たつき、汐風幸、壇れいが雪組へと移動となり、最終的に轟に次いで2番手香寿、3番手汐風という体制になった。

 

 1998年(H10年)「浅茅が宿」では、小姓を演じた貴城けいの妖しい美しさが印象に残っている。またこの新人公演で檀が研7にして初ヒロインに抜擢され、翌年月組に戻って真琴つばさの相手役となった。そして1999年(H11年)「ノバ・ボサ・ノバ」が上演された。「ノバ」はかつてテレビ「ザ・タカラヅカ」で観た安奈淳主演版の衝撃が忘れがたく、是非とも一度生の舞台で観たいと思っていた作品だが、実際に観たら期待以上の迫力に圧倒されてしまった。

 

 特にフィナーレの、大階段ではなく八百屋舞台で全員が踊りながら幕が下りる最後はあまりにも劇的で、見終わった後帰宅の道すがらでも「シナーマン」の音楽が頭の中で響き続けていたほどだった。轟のソール、香寿のオーロ、汐風のルーア神父とそれぞれ柄に合ったキャスティングになっていて、特に轟と香寿の歌唱はパワフルで聞き応えのあるものだった。そして汐風のルーアと未沙のえるのシスター・マーマも、惚けた良いコンビネーションを見せた。また、前述したように安蘭けい、朝海ひかる、成瀬こうきの同期3人で、マール/ブリーザ/メール夫人の三役をトリプル・キャストで分けあったのも面白かった。

 

 しかし翌2000年“新専科”騒動で香寿と汐風が、後に成瀬こうきも専科へ移動となり、香寿と汐風は専科からの特出という形で2000年(H12年)「凱旋門/デパートメント・ストア」が上演されることとなった。丁度この時期ドイツ・ベルリン公演と重なったため、大劇場公演の際は新人公演ではなく役替わり公演が行われ朝海ひかるが主演。朝海は唯一新公を主演せずにトップになった生徒だが、一応この役替わり公演で主演をして形を整えた格好になっている。

 

 そして2001年轟は雪組トップの座を退き専科へ移動し月影も退団となったのだが、この移動は『第二の春日野八千代に・・・』という劇団からの要請に応えてのことと聞いた。当時轟のニックネームに“トド(ちゃん)”もあったと記憶しているのだが、春日野先生から『 “トド”は品が無いから止めなさい』と言われて、それ以降使わなくなったそう。その後各組の大劇場公演や別箱公演に専科から主演し、劇団理事にも就任した。一時は各組新トップの2年目頃に専科から特出して主演というパターンが2009年頃まで続くこととなった。ただ最近はトップの在任期間が3年程度、大劇場公演5回というのがスタンダードという状況で、専科の理事に主演されると御贔屓の主演が1回減る形になってしまうことを嘆くファンの声があったことも確かだった。

 

 その後は年に2~3回程度各組の別箱や専科公演に主演することが続いた。この頃轟の相手役となった娘役は、2010年(H22年)「オネーギン」の舞羽美海や2013年(H25年)「南太平洋」の妃海風等、後に娘役トップとなると言われたこともあった。しかし先にやはり長らく理事をされた松本悠里とともに理事退任となり特別顧問となったが、松本に続いてとうとう2021年10月に38年目で退団との発表があった。

 

 戦後春日野八千代がいたから宝塚の男役の伝統が続いたと言われているように、轟が20世紀から21世紀へ新な伝統を繋いでいく存在になるのかと思っていたのだが、もはや“宝塚に生涯を捧げて”という時代ではないということか。だからこそ春日野を始めとして天津乙女や神代錦のように、宝塚で人生を全うすることを突き通した方々こそ“レジェンド=伝説的人物”と呼ぶのに相応しいと思う。一方で最近は元トップを含めた多くのOGがスタッフとして音楽学校や公演制作に係る機会が非常に多くなってきており、これからはそのようにして伝統が引き継がれていくことになるのだろう。

 一路の退団により二番手だった高嶺ふぶきが順当にトップに昇格し花總まりとコンビを組む。二番手に轟悠、三番手に和央ようかという体制となった。高嶺が入団した69期生は他にもトップになった麻路さき、久世星佳を始め、神奈美帆や現在も劇団で振付家として活躍する若央りさや海峡ひろき、出雲綾など優れた人材が豊富だった。

 

 高嶺は女役も違和感なくこなすほどの美貌で、茶色の瞳が特徴的だった。引き続き娘役トップを務める花總まりとコンビを組んで、1996年(H8年)「虹のナターシャ」でトップ披露したと思ったら、間にバウ公演を挟んで翌1997年(H9年)「仮面のロマネスク」でもう退団と、わずか1年弱のトップ在任期間で去ってしまうこととなった。退団公演となった「仮面」はラクロの「危険な関係」を柴田侑宏が脚色した作品で、トップとしては短い期間であったが高嶺の代表作となり、後年別箱や全国ツアーではあるが、何度か再演されている。

 

 原作は何度か映画化もされているが、有名なのは1988年のハリウッド版で、グレン・クローズとジョン・マルコビッチ出演で、アカデミー脚色賞と衣装デザイン賞も受賞した。出演陣の演技に美術・衣装も映えて非常に見ごたえのある作品となったが、敢えて難点を挙げるとすれば、クローズとマルコビッチの2人が美男美女と言うよりはどちらかといえば悪人顔で、2人が共に当代きっての名優であるがゆえに、更にクローズの前作があの「危険な情事」だったこともあって、いかにも企んでます感がでてしまい話の展開にカタストロフィーが今一つ感じられなかったことだった。

 

 一方1999年公開の「クルーエル・インテンションズ」では、舞台を現代のアメリカに置き換えての映画化となった。こちらは映画の出来は今一つだったものの、見た目可愛い一見能天気な典型的アメリカン・ティーンエイジャーの義姉弟が、危ない恋愛ゲームを仕掛けるという背徳感が新鮮だった。

 

 そして宝塚版の「仮面」については、「クルーエル」が「仮面」の2年後の公開なので後付けの感想になってしまうけれど。宝塚得意の19世紀フランスを背景にして、高嶺と花總という一際見目麗しいコンビが繰り広げる背徳の恋愛劇という、2本の映画の美味しいとこ取りのような印象の作品となった。

 

 トップ1公演での退団をよく“ワン切り”と呼ぶが、2公演での退団は“ハローグッバイ”と呼ぶと聞いた。同時期月組のトップとなった久世も大劇場3公演で退団となり、この頃からトップの回転率が速くなってきたように思う。そしてこの前久しぶりにネットニュースで名前を見たと思ったら、芸能界を引退して旅館の女将になったとか、しかも芸名も“たかね吹々己”になってるしと重ねて驚かされた。

 

 先に在団中の改名について記したが、高嶺のように元トップでも退団後に改名した人がいる。安奈淳は病気をした際に一時的に“安南潤”に変えたが後に元に戻した。絵麻緒ゆうは一旦“えまお”とした後“えまおゆう”となった。真矢みきは“ミキ”に、彩輝直は“なお”、大空祐飛は“ゆうひ”と呼び方はそのままに表記だけを変えた。やはり皆元宝塚トップという看板からは、あまり離れたくはないのだろう。ただし元月組トップの大滝子だけは違うようで、数度の改名を経た後最終的に“光原エミカ”として現在に至っている。

 

 一方で娘役トップは改名したり元に戻したり、コロコロと変えた人が目立つ。松あきらの相手役だった美雪花代は退団後“いわさきみゆき”とした後、数度の改名を重ねて結局元の芸名に戻した。風花舞は一時怪我で十分踊れなくなってしまい、そのままでは名前に相応しくないと本名の“宮崎優子”にしたが、怪我が癒えた後やはり元に戻した。千ほさちは“森ほさち”に変え、その後芸能界を引退。最近では夢咲ねねが一時本名の“赤根那奈”にしていたが、結局元に戻した。

 

 特に娘役の場合、芸能界に進む際に宝塚的夢々しい芸名が少々荷物になるのだろうか。元“千琴ひめか”は今ではむしろ元歌のお姉さん“はいだしょうこ”として知られ、元”羽桜しずく”は“中島亜梨沙”の名でNHK大河ドラマに出演した。元“月野姫花”は“藤岡沙也香”となったが、これは“大人向けビデオ”の女優さんに“月野姫”という方がいたからだろうと聞いた。ただし、退団後にむしろ宝塚的な風に改名した人もいる。小柳ルミ子は”夏川るみ”として初舞台のみ出演し、振付家の”麻咲梨乃”は在団中に”正規煌(まさきこう)”と名乗っていた。

 前述の通り入団した当初の芸名は一路“万輝”で、雪組配属後は新公で平みちの役を多く演じた。研4で麻実れいの退団公演「はばたけ黄金の翼よ」のヒロインのクラリーチェを演じ、その2年後1987年に肺に穴が開く自然気胸という病気で休演する。また身内の不祥事もあって、一時は進退について悩んだこともあったようで、芸名を“万輝”から“真輝”に改名した。

 

 杜の退団の後、やはり当然のごとくトップに就任し紫ともが引き続き相手役を務めてコンビを組み、2番手に高嶺ふぶき、3番手に轟悠という体制となった。一路と言えば高い歌唱力が一番の特徴だが、品の良い芸風で正統派二枚目男役の代表格ともいえるだろう。

 

 一路は「風と共に去りぬ」との縁が深く、先ず新人時代研3の時の1984年(S59年)麻実・遥コンビの「風共」新人公演で、アシュレーに抜擢された。次に平、杜に続く3番手時代1988年(S63年)「風共」で神奈美帆とWキャストでスカーレットⅠとⅡを演じたが、新公ではレット・バトラーで主演。1994年(H6年)「スカーレット編」ではスカーレット役で主演となったが、それまでの男役の演じるスカーレット像とは一線を画したより自然な演技で魅せたと思う。因みに新公を含めて、スカーレット、バトラー、アシュレーの主要3役を演じたことがあるのは一路だけだろう。

 

 「風共:スカーレット編」の前年1993年(H5年)「ブルボンの封印/コート・ダジュール」で紫ともが退団すると、その後に星組から花總まりが組替えとなりコンビを組むことになった。いよいよ花總女王伝説の幕開となる。花總は星組の紫苑ゆうトップ披露公演「白夜伝説」で演じた妖精ミーミル役で注目を集め、新公で連続して白城あやかの役を務めた後に1993年に雪組へ組替え、丁度ロンドン公演のために主力の一部が抜けていたこともあって、「風共」新公にて娘役ながら一路のスカーレット役で主演を果たして、1994年(H6年)「雪之丞変幻/サジタリウス」からコンビを組むこととなった。

 

 このコンビで1995年(H7年)「JFK」「あかねさす紫の花」を上演し、1996年(H8年)「エリザベート」が一路の退団公演となった。本来の主役タイトルロールのエリザベートを花總が演じ、一路が“死/トート”で主役となるという演出家小池修一郎の大胆な脚色は結構な議論を呼び、当初一路自身も不安を感じたそうだが「トートがいる限り絶対大丈夫」との言葉をもらって吹っ切れたそう。

 

 退団公演で“死神”役とはどんなものかという事前の声もあったものの、幕が開いた後は結果として大層な評判を呼び、各組で再演を繰り返して宝塚歌劇を代表する舞台の一つとなった。そしてこの「エリザ」を切っ掛けに、ウィーン・ミュージカルが日本で広く認知されることとなったが、作詞・作曲を手掛けたミヒャエル・クンツェとシルヴェスター・リーバイのコンビが、70年代ミュンヘン・ディスコ(後のユーロビートの先駆け)のヒット曲、シルヴァー・コンベンションの「フライ・ロビン・フライ」の作者と後で知って驚いた。

 

 一路が退団後に東宝版で今度はエリザベート役で長く主演を続けたことは周知のとおりだが、その後「ロミオとジュリエット」「1974」といった先ず宝塚で初演した後、外部で男女混合バージョンを上演するというビジネスモデルの先駆けとなった。

 

 また、後年ウィーンで「エリザベート」各国キャストの俳優を集めたコンサートが催された際に、白城あやかと共に日本から参加した一路はエリザベートとトート二役で歌を披露した。当初他のエリザベート女優達は皆見事なソプラノで歌っていたため結構引け目を感じたそうだが、トートの姿になってマントを翻しながら「愛と死の円舞曲」を披露すると、周囲のエリザベート女優さんから二役できるということに驚かれながらも羨ましがられる反応だったそう。

 1974年「ベルサイユのばら」の初演で大当たりをとった歌劇団は、1976年にかけて4組全てで上演した後に今度は地方公演(全国ツアー)に乗り出すこととなった。当然当時大ブームとなった舞台を、宝塚や東京まで来ることのできない地方の観客にお披露目するためであったが、同時に地方からの人材を掘り起こす切掛けにしたい、という思惑もあったと聞いた。

 

 そして思惑通り仙台で観た「ベルばら」にあこがれて音楽学校を受験した一人の少女が、その3年後に杜けあきとして宝塚歌劇の舞台に立つことになった。同期に芹香斗亜の母親となる白川亜樹がいる。雪組配属後1981年(S56年)「彷徨のレクイエム」の新公に研3で主演して以降ほとんどの新公で主演、研5でバウホール初主演とスター街道を順調に驀進。1986年(S61年)にはバウホールで、演出家小池修一郎の記念すべきデビュー作「ヴァレンチノ」に主演。ちなみにこの時振り付けを担当したのが宮本亮次、後の宮本亜門だった。そして1989年(H元年)平みちの退団を受けて当然のごとくトップに就任となった。元々雪組は日本物に優れたものがあったが、杜の時代くらいから特に「和物の雪組」という評判が高くなってきたように思う。

 

 相手役となったのは鮎ゆうき、当初は新進の男役として注目されて早くから新公で役がつき、1986年(S61年)「スカイ・ハイ・スカイ」で演じた空飛ぶことに憧れるペンギン坊やが、物凄く可愛いと評判になったこともあった。翌年TBSドラマ「あなたもスターになりますか」のヒロイン役で主演したのを切掛けに娘役に転向し、神奈美帆が平と同時退団した後に杜とコンビを組むことになった。

 

 元男役でテレビドラマ出演からトップ娘役と遥くららと似たような行程を歩んで来たように見えるが、決定的に違うことが一つ、それは相手役となるトップスターの身長。遥166cmに対して鳳蘭は170cmで、更に麻実れいは172cmあったので、二人が並んだ時の収まりは非常に良かった。一方鮎も166cmあったが、対する杜は165cmしかなく、その結果二人が並ぶ際には常に鮎が膝を折って身長を低くするという難行を強いられることになってしまった。しかし身長の問題はありながらも、このコンビの相性は悪くないように見えた。

 

 大劇場披露公演1989年(H元年)「ムッシュ・ド・巴里/ラパッション」の次に、同年平成版「ベルサイユのばら」アンドレとオスカル編で主人公としてのアンドレを演じ、二番手の一路真輝のオスカル、鮎のロザリーにフェルゼンが朝香じゅん、紫苑ゆう、麻路さきのトリプルキャストという配役で話題を呼ぶこととなった、この頃からダブル、トリプルキャストで客を呼ぶという手法が多用されるようになってきたと思う。そして三番手に高嶺ふぶきという体制になった。その後、鮎が1991年(H3年)「華麗なるギャッツビー」のデイジー役で退団するまでの約2年半にわたってコンビは続いた。

 

 鮎の退団により次に杜の相手役となったのが紫とも、彼女の身長は160cmで今度はまったく問題なし。紫は初舞台「風と共去りぬ」で急遽退団となった北原遥子の代役としてプロローグの歌手として抜擢され、その後配属された雪組で順調に役がつき一旦月組に組替えとなったが、再び雪組に戻り杜と組むことになった。そして宝塚大劇場建て替えのため、1992年(H4年)旧大劇場建最後の公演「忠臣蔵」をもって杜は退団となる。旧大劇場では過去の事故に絡んでの幽霊話が噂になっていたけれど、場所も変わった新劇場になってようよう成仏されたのだろうか。

 

 退団後の杜は翌年日生劇場で「ガイズ&ドールズ」にヒロインのサラ役で出演したのだが、主人公のスカイを演じたのが田原俊彦!何とも微妙なキャスティングで、何とも言えない舞台となったそうだ。

 平みちは研6の時、松あきらのトップ披露公演1978年(S53年)「エコーズ~絵光図」で、ダンスの名手室町あかねと組んで踊ったカマキリのダンスが評判を呼び注目された。これはカマキリのメス(室町)がオス(平)と愛を交わした後で、そのオスを食べてしまうという習性をダンスで表現したもので、そのセンセーショナルな内容と妖しいエロティズムを感じさせて絡み合うダンスが衝撃的だった。

 

 この頃時々この様な少々刺激的なダンスシーンが時々あって、やはり花組の1980年(S55年)「プレンティフル・ジョイ」の但馬久美が芯になったシーンで、男役が身体にフィットした衣装で縄を振り回しながら踊り、振り回した縄をその勢いで体に巻き付けて一瞬恍惚とした表情を見せる、という見方によっては少々際どいダンスもあったりした。とにかく、平はこのカマキリダンスを切っ掛けとして大きく注目を集めるようになり、翌年宝塚テレビロマン「はいからさんが通る」で伊集院少尉を演じることとなった。

 

 ただその名前を知った当初は、かつて劇団に平美千代という方がいてその方に因んだのか、平らな“道”をただただ進むということか、その由来は知らないけれど、何とも宝塚の男役らしからぬ芸名だなと思っていた。当時、芸名の名付け方に非常に大きな流行があって、それは“甲にしき”“郷ちぐさ”“順みつき”というように、姓は漢字一文字で名はひらがな三文字というパターン。この“漢字一文字姓+ひらがな三文字名”を数えたら全生徒の半分位になったのでは、というほどだった。しかも未だ世にいわゆるキラキラネームなどはなく、百人一首にルーツを持つ宝塚独特の芸名ワールドが独自の世界観を放っていた時代にあって、申し訳ないけれど“平みち”という芸名は宝塚歌劇の男役スターとしては余りにも地味に感じてしまったのだった。

 

 又、最近は少なくなったが、以前は芸名を改名する生徒が結構いた。寿ひづるから”ひずる”、一路万輝から”真輝”、美里景から”みさとけい”、明日香都はもともと”みやこ”だったが、ファンから『ひらがなでは弱い感じがする』と言われて漢字に変えたとか。汝鳥玲から”伶”、麻月鞠緒の元は”毬生”で、占いの先生にあまり良くないと言われてのことだったよう。このようなマイナーチェンジは数知れず。京三紗の元は”三紗子”で、鈴鹿照子も子を取って”照”となった。麗香龍という生徒は、姓と名をひっくり返して”龍麗香”となった。これらは元の芸名から大きく変わった訳ではないが、全面的に変えた人も結構いた。

 

 ”鯉のぼる”から一樹千尋、”園みはる”から星原美沙緒、”浦まつほ”から光あけみ、潮はるかの妹の潮あかりも元は”竹原小百合”等々、空タカ子から欧空マキと改名した人もいた。中でも一番衝撃的だったのは芦沙織から”帯刀ジョゼ”!!。何でも高名な先生が考えたのと聞いたが、当時は”安寿ミラ”と双璧をなす芸名と密かに思っていた。現雪組生の諏訪さきの母上はOGの諏訪アイだが、入団時の芸名は”志和杏子”だった。改名したわけではないが、遥くららは当初旧字体の”遙”だったはずだが、いつの間にか新字体の”遥”になっていた。

 

 とにかく前述の通り、1983年花組トップに就任するはずだった寿ひずるの寿退団のため、雪組から急遽高汐巴が花組へ移動してトップに就任し、花組から平が入れ替わりで雪組へ移動となった。移動後は麻実に次ぐ2番手として活躍し、麻実の退団後トップに昇格、1985年(S60年)「愛のカレードスコープ/アンド・ナウ!」が披露公演となった。平は古城都に似た顔立ちで、大地真央と同期の53期生。ニックネームの“モサク”は、動作が“モサッ”としているからと大地が命名したとか。ただし確かにダンスの切れは良かったが、それ以外は今一つ印象が薄い感じがした。二番手が杜けあきとなり、一路万輝が若手エースとして一気に駆け上がってきた。

 

 相手役はやはり花組から神奈美帆がやって来てコンビを組むことになった。このコンビで1986年(S61年)「大江山花伝」、「三つのワルツ」を上演したのだが、個人的にこの頃の雪組で一番印象に残っているのは平よりむしろ神奈の方だった。神奈は可憐な容姿の上とにかく何でもできる娘役で、ひたすら舞台上で周囲を圧倒する勢いで輝いていたように思う。1988年(S63年)「風と共に去りぬ」の再演では、一路真輝とダブルキャストではあったが純娘役として初めて大劇場でスカーレット・オハラを演じ、そして同年「たまゆらの記/ダイナモ」をもってコンビ同時退団となった。

 

 一方で「風共」の千秋楽に当時組長だった銀あけみが、脳疾患のために倒れて入院するという不幸な出来事が起きてしまった。銀は歌が上手くとても人望の厚い人柄だったと聞いていた。しばらくは回復を信じていたのであろう、組長の肩書はそのままに真咲佳子が組長代行となったが、翌年正式に組長就任した。それでも銀は雪組所属のままであったものの、その後回復の叶わぬまま5年後の1993年にお亡くなりになった。

 

 また真偽のほどは定かではないけれど平については少々不穏な噂も聞いていて、某OG振付家ともにある宗教団体絡みでトラブルになったとか。実際のところ、そのOG振付家はそれまでよく公演スタッフに名前が挙がっていたのだが、以降はまったく見なくなってしまった。