平みちは研6の時、松あきらのトップ披露公演1978年(S53年)「エコーズ~絵光図」で、ダンスの名手室町あかねと組んで踊ったカマキリのダンスが評判を呼び注目された。これはカマキリのメス(室町)がオス(平)と愛を交わした後で、そのオスを食べてしまうという習性をダンスで表現したもので、そのセンセーショナルな内容と妖しいエロティズムを感じさせて絡み合うダンスが衝撃的だった。

 

 この頃時々この様な少々刺激的なダンスシーンが時々あって、やはり花組の1980年(S55年)「プレンティフル・ジョイ」の但馬久美が芯になったシーンで、男役が身体にフィットした衣装で縄を振り回しながら踊り、振り回した縄をその勢いで体に巻き付けて一瞬恍惚とした表情を見せる、という見方によっては少々際どいダンスもあったりした。とにかく、平はこのカマキリダンスを切っ掛けとして大きく注目を集めるようになり、翌年宝塚テレビロマン「はいからさんが通る」で伊集院少尉を演じることとなった。

 

 ただその名前を知った当初は、かつて劇団に平美千代という方がいてその方に因んだのか、平らな“道”をただただ進むということか、その由来は知らないけれど、何とも宝塚の男役らしからぬ芸名だなと思っていた。当時、芸名の名付け方に非常に大きな流行があって、それは“甲にしき”“郷ちぐさ”“順みつき”というように、姓は漢字一文字で名はひらがな三文字というパターン。この“漢字一文字姓+ひらがな三文字名”を数えたら全生徒の半分位になったのでは、というほどだった。しかも未だ世にいわゆるキラキラネームなどはなく、百人一首にルーツを持つ宝塚独特の芸名ワールドが独自の世界観を放っていた時代にあって、申し訳ないけれど“平みち”という芸名は宝塚歌劇の男役スターとしては余りにも地味に感じてしまったのだった。

 

 又、最近は少なくなったが、以前は芸名を改名する生徒が結構いた。寿ひづるから”ひずる”、一路万輝から”真輝”、美里景から”みさとけい”、明日香都はもともと”みやこ”だったが、ファンから『ひらがなでは弱い感じがする』と言われて漢字に変えたとか。汝鳥玲から”伶”、麻月鞠緒の元は”毬生”で、占いの先生にあまり良くないと言われてのことだったよう。このようなマイナーチェンジは数知れず。京三紗の元は”三紗子”で、鈴鹿照子も子を取って”照”となった。麗香龍という生徒は、姓と名をひっくり返して”龍麗香”となった。これらは元の芸名から大きく変わった訳ではないが、全面的に変えた人も結構いた。

 

 ”鯉のぼる”から一樹千尋、”園みはる”から星原美沙緒、”浦まつほ”から光あけみ、潮はるかの妹の潮あかりも元は”竹原小百合”等々、空タカ子から欧空マキと改名した人もいた。中でも一番衝撃的だったのは芦沙織から”帯刀ジョゼ”!!。何でも高名な先生が考えたのと聞いたが、当時は”安寿ミラ”と双璧をなす芸名と密かに思っていた。現雪組生の諏訪さきの母上はOGの諏訪アイだが、入団時の芸名は”志和杏子”だった。改名したわけではないが、遥くららは当初旧字体の”遙”だったはずだが、いつの間にか新字体の”遥”になっていた。

 

 とにかく前述の通り、1983年花組トップに就任するはずだった寿ひずるの寿退団のため、雪組から急遽高汐巴が花組へ移動してトップに就任し、花組から平が入れ替わりで雪組へ移動となった。移動後は麻実に次ぐ2番手として活躍し、麻実の退団後トップに昇格、1985年(S60年)「愛のカレードスコープ/アンド・ナウ!」が披露公演となった。平は古城都に似た顔立ちで、大地真央と同期の53期生。ニックネームの“モサク”は、動作が“モサッ”としているからと大地が命名したとか。ただし確かにダンスの切れは良かったが、それ以外は今一つ印象が薄い感じがした。二番手が杜けあきとなり、一路万輝が若手エースとして一気に駆け上がってきた。

 

 相手役はやはり花組から神奈美帆がやって来てコンビを組むことになった。このコンビで1986年(S61年)「大江山花伝」、「三つのワルツ」を上演したのだが、個人的にこの頃の雪組で一番印象に残っているのは平よりむしろ神奈の方だった。神奈は可憐な容姿の上とにかく何でもできる娘役で、ひたすら舞台上で周囲を圧倒する勢いで輝いていたように思う。1988年(S63年)「風と共に去りぬ」の再演では、一路真輝とダブルキャストではあったが純娘役として初めて大劇場でスカーレット・オハラを演じ、そして同年「たまゆらの記/ダイナモ」をもってコンビ同時退団となった。

 

 一方で「風共」の千秋楽に当時組長だった銀あけみが、脳疾患のために倒れて入院するという不幸な出来事が起きてしまった。銀は歌が上手くとても人望の厚い人柄だったと聞いていた。しばらくは回復を信じていたのであろう、組長の肩書はそのままに真咲佳子が組長代行となったが、翌年正式に組長就任した。それでも銀は雪組所属のままであったものの、その後回復の叶わぬまま5年後の1993年にお亡くなりになった。

 

 また真偽のほどは定かではないけれど平については少々不穏な噂も聞いていて、某OG振付家ともにある宗教団体絡みでトラブルになったとか。実際のところ、そのOG振付家はそれまでよく公演スタッフに名前が挙がっていたのだが、以降はまったく見なくなってしまった。