高汐巴が舞台中央でゆらゆら揺れていた時に、瀬川佳英、幸和希らの先頭に立って踊っていたのが大浦みずきだった。大浦は研2で雪組配属直後に「ベルサイユのばら」新人公演でフェルゼン役に抜擢され、研6で星組に組替え後は新公で瀬戸内美八の役で主演を重ねた後に1983年に花組へ組替えとなっていた。しかし高汐の退団公演中に膝の怪我で休演となり、一時は再起不能、トップ披露を果たせず退団の噂すら耳にしたものの無事復活を遂げ、1988年(S63年)「キス・ミー・ケイト」で見事カムバックしトップ披露となった。
「キス・ミー」は若き日のボブ・フォッシーが出演したMGM映画版を映画「ザッツ・エンタテイメント」でチラリと見たことがあって、期待に胸を膨らませて劇場へと向かった。大浦のしなやかな踊りは勿論のこと、相手役となったひびき美都と息の合ったデュエットや瀬川佳英と真矢みきのギャングコンビによる“学ぼうシェイクスピア”、幸和希や安寿ミラらによる“Too Darn Hot”のナンバー等々どこを取っても極上の舞台だった。その中でも特に忘れがたく今も目に浮かぶのが、フィナーレの黒燕尾で大浦が逆三角形フォーメーションの先頭に立って大階段を降りてきた場面。そして表地の黒とは対照的に、鮮やかな様々な色の裏地をチラチラと見せながらの一糸乱れぬキレキレの群舞に目を奪われた。個人的には“ダンスの花組”はここから始まったと思っている。それまで全く宝塚に興味がなく、偶々連れられて観に行ったところこの黒燕尾にやられて大浦のファンになった男性もいた。
後年NYブロードウェイでその年トニー賞を受賞した「キス・ミー」を観たが、こちらはブロードウェイならではの重量感に満ちたパワフルな舞台に圧倒された。またロンドンではフォッシーが出演したMGM映画版をオリジナルの3Dバージョンで見ることができ、これら三種類の「キス・ミー」を鑑賞できたことは自分にとって非常に幸運な経験となった。映画版では“Too Darn Hot”をアン・ミラーが一人で歌っていたのに驚いた。
相手役としてコンビを組んだひびき美都は研10で当時としては異例の遅さだったが、大浦の膝の怪我の事もあってサポートができる相手役を、とのことで決まったと聞いた。そして二番手に朝香じゅんが来て、3番手格に瀬川と幸が並ぶ体制となったが、その下に続く若手が凄いことになっていた。先ず筆頭に来るのが66期安寿と67期真矢は当然として、以下当時の若手エース69期友麻夏希、71期愛華みれと真琴つばさ、72期紫吹淳と香寿たつき、73期姿月あさとと匠ひびき、74期汐風幸と初風緑、75期伊織直加、時期はずれるが77期の春野寿美礼も辛うじて大浦と重なる。後年の宝塚を支えることになる人材が、ひしめき合って競っていた時代だった。
この頃某銀行のPRモデルとなった汐風を新聞広告や、父上と共演したCMで見る機会が多かった。片岡孝夫(後の15代目仁左衛門)の娘という歌舞伎一家に生まれたという家庭環境を思えば、本人がどうしたというより周囲の忖度というか色々な大人の思惑があってのことだろうと想像できるのだが、ビジュアル的にはそれにしてもと言うのが当時の偽らざる思いだった。しかし、後年歌舞伎「冥途の飛脚」の宝塚版「心中・恋の大和路」で父親の当たり役だった忠兵衛を演じて評判を取るなど、七光りだけではなくそれなりに実力も伴っていた生徒ではあった。また何でも兄片岡孝太郎の結婚式の際には、タキシードの着こなし方を兄に指導したとか。
1988年の次作はNY公演の試作公演となった「宝塚をどり賛歌’88/フォーエバー・タカラヅカ!」で、「をどり賛歌」の“タカラヅカ、タカラヅカ!”と連呼する主題歌には少々戸惑いを感じてしまったが、2020年(R2年)月組公演「WELCOME TO TAKAWRAZUKA」の様に、和物レビューでタイトルに“宝塚”が入るとその主題歌では大抵“タカラヅカ!”と連呼する傾向にあるような気がする。一方で「フォーエバー」の主題歌が今も事あるごとに歌われ、TVCMにも使われた例の歌である。その後1989年(H元年)「会議は踊る/ザ・ゲーム」の後ぐらいから宝塚歌劇全般のチケット購入がだんだん難しくなってきたのだった。
そして1989年(H元年)NYラジオシティ・ミュージックホールにて、大浦主演でNY公演が行われた。宝塚でラインダンスを“ロケット”と呼ぶのは、有名なラジオシティ名物クリスマスイベントで披露されるラインダンスが“ロケット”と呼ばれたことに因んだとか。劇場入り口に久々”SOLD OUT”の表示が出たと話題になったり、当時のニューヨークタイムズ紙に『ジークフェルドに対する日本からの返事』との批評が出たと記憶している。ラジオシティには入ることはできなかったが、同じビル内にあった映画館のジークフェルト劇場で映画を観たことならある。退団後の1992年(H6年)には、卒業生でありながら現役生を率いて再度NY公演で主演を果たしたが、この時の公演場所はオフブロードウェイのジョイス劇場だった。チェルシー地区の8番街沿いにあったのを偶々通りかかった際に見つけたが、結構こじんまりとした劇場だったので意外に思ったのも思い出の一つ。
1990年(H2年)「ベルサイユのばら」は“踊るフェルゼン編”と呼ばれたが、この公演で初舞台を踏んだ76期生の純名里沙がいきなりフィナーレのエトワールとなって話題を呼んだ。そして1991年(H3年)「春の風を君に・・・/ザ・フラッシュ」で二番手だった朝香じゅんが退団する。朝香はトップになるのに相応しい人気と実力の持ち主だったが、ここで退団となってしまったのは、只々タイミングというか巡り合わせが悪かったとしかいいようがなかった。その結果二番手安寿ミラ、三番手真矢みきという体制になるが、次公演「ヴェネチアの紋章/ジャンクション24」が大浦とひびきの退団公演となった。大浦自身としては「チェーザレ・ボルジア」をやりたかったそうなのだが叶わず、結局1996年(H7年)に月組久世星佳主演で上演となった。この「ヴェネチア」新人公演で、真琴つばさもラストチャンスで主演を果たしていた。
大浦は“宝塚のフレッド・アステア”という呼び名にふさわしい洗練されたダンスが売り物で、ひびきと息の合ったデュエットダンスも素晴らしかった。またどの公演だったかは忘れたが、安寿と組んで踊ったタンゴも見事だった。映画「ザッツ・エンタテイメント」でアステアとジンジャー・ロジャースがコンビで主演した映画の一部は見ていたものの、後年改めてリバイバル上映された「コンチネンタル」「トップ・ハット」「有頂天時代」「躍らん哉」等を観たところ、確かにアステアの燕尾にシルクハットで踊る姿は大浦と重なるものがあって、あのキャッチフレーズも納得できるものだった。因みに「コンチネンタル」の原題は”The Gay Divorce”、これ直訳すると“陽気な離婚”と言う意味で、最近よく知られる”Gay”とは違う意味。
退団後も数々の舞台で活躍を重ねていたが、2009年に若くして病に倒れ帰らぬ人となってしまったのが非常に残念だった。しかし、現在上演中の花組公演「The Fascination!」やOGによる「花・月組100周年記念公演」で追悼シーンが設けられる等、今改めてその存在の大きさを感じている。