業界を取り巻く環境はなかなかに厳しいものがありまして…と言っても、
こうしたことは押し並べてどこの業界にもいえることではなかろうかと。


さりながら、そこここの論調を見るにつけ風当たりの強い業界にあって仕事をしている者にとっては
(と、その業界を詳らかにしとりませんが、それはご想像にお任せするとしまして)
「このままではいけんね」という思いは強く持っているわけです。


そうした今日この頃にあって、
先日CSの日本映画専門チャンネルで見た「社長洋行記」、「続・社長洋行記」に
「こんな時代もあったんだろうね…」と思ったりもしたのでありますよ。


社長洋行記 正・続篇 [DVD]/森繁久弥,小林桂樹,加東大介


これまで一度も見たことのなかった森繁久弥主演の社長シリーズですけれど、
時代の空気がほのぼのとしていたなぁと思いますですね。


「釣りバカ日誌」の浜ちゃんのような社員はもはや身の置き所が無いものと思われますが、
今回の映画の中では社長(森繁久弥)、営業部長(加東大介)、営業課長(三木のり平)、

秘書課長(小林桂樹)がうちそろってのお気楽ぶりと言いすぎながらも、

少なくとも何かにつけ宴会をセッティングしたがる営業課長は
(当然に社費で飲むことを当て込んでるんですが)浜ちゃんの天然よりは自覚的である分、

たちが悪いような。


それでも、課長という管理職になれたということになってるわけですから、

これもまた時代なのかもと。


ただし、おちゃらけぶりにも憎めないところがあるとすれば、

実は客受けのいい優秀?セールスマンとして営業課長には実は打ってつけだったのかもしれません。

たぶん今のご時勢ではおよそ通用しないタイプとは思いますが。


とまあ、無理に昔のコメディ映画(喜劇というべきですかね)を

ビジネスシーンの現状と引き比べてばかりいても詮無いことですので、

そうした点から離れてしまうと、映画としては面白かったなとは言えそうです。


何よりも芸達者な人たちがそれぞれにのびのびと演じているように思われます。
三木のり平と森繁久弥のたばこの取り合い、

商談で渡航した香港 で社長、営業部長、秘書課長がそれぞれに出会う同一の若い女性とのやりとり、

堅実そうでいながら惚れっぽさ全開の秘書課長の分かりやす過ぎる言動、

かの女性が日本に来ると聞いて思わず「本当か?」を「ほんこんか?」と言い間違う社長の慌てぶり。


加えて香港での取引先との怪しい仲介者となって登場するフランキー堺の怪演も目が離せないですし、
どこにもかしこにもアドリブが満載されているようでもあり、実は計算しつくされているようでもあり。


演じられている役柄や設定が「こんな会社もこんな社員もいるはずないよ」というものながら、
そうした演技をしている人たちというのが、実に演技巧者であって、

かなり演技を叩き上げてきた人たちなのだろうと思ったりもしたのでありますよ。


それに比べると、昨今の映画・ドラマでは

結構安上がりな(素人に毛が生えたと言っては何ですが)人たちが
堂々と登場してきているようですけれど、話題先行なのか、人気先行なのかどうか…。


「社長洋行記」の配役の厚みはそういうところとは違うように思えるわけでして、
こうしたあたりでも「こんな時代もあったんだぁね」と。


ところで、「社長洋行記」は香港に商談に赴いた社長一行が

どたばたするしてまだ何の仕事もしてないうちに社長が病気で急遽帰国することになり、

啓徳空港(当時)を飛行機が飛び立つところで終ってしまいました。


同行していた営業部長と秘書課長は香港に置き去りで「この終わりはなかろうに」と思ったところが、
「続・社長洋行記」ではまるで1週間後の連続ドラマのように始まるのですよ。


調べてみると、「社長洋行記」が1962年4月の公開、「続・社長洋行記」が1962年6月の公開。
たったの2カ月後に続編が見られたのですな。それも映画で。


この感覚は今はもうなかろうなと思うにつけ、
またしても「こんな時代だったんだねえ」と思ってしまいましたですよ。
「いつか笑って話せる」ようになった過去のことになったということでありますね。

いかに面白かったとはいえ、ひとつの展覧会のことを4回も書くかいね…という気もしますが、
最後になりますのでご容赦くださいませ。


さまざまな展示がある中で「森」をイメージさせる作品がいくつかありましたので、
これらをひと括りにしてお話してみようかと思うのでありますよ。


ひとつはバルトロメウス・トラウベックというアーティストの「Years」という作品です。

何と樹木の輪切りをレコード盤のように見立て、

その年輪を蓄音器状の装置で読ませて音化するというもの。


もちろん蓄音器といっても年輪をレコード針で再生できるはずがありませんから、

光学的に解析しているのでしょう。


そして、これのデモが会場のヘッドフォンで聴けるのでして、

人が何らか規則的に作曲したものとは全く異質なのに、
突拍子もない音楽とならないばかりか、深く神秘的な、

そして何やら原初的な音楽だなと思ってしまうのですね。



自然から遠い存在になってしまっている人間には

聴けない音に出くわしたような気がしたものです。
全ての音盤が同じ音楽を奏でることは全くないという点で、

これもひとつの偶然の音楽でありましょうか。


蓄音器と言えば、
大友良英リミテッド・アンサンブルズの「With “without records”」という作品が思い出されます。
これは説明してもうまく伝わるかが自信のないところですので、ちと画像に頼ることにしようと
今一度「アートと音楽」展 のフライヤーを持ってきました。


「アートと音楽」展@東京都現代美術館


同展総合プロデューサーの坂本龍一さんのちょうど真上にある写真。
これは韓国での展示風景ということですので、

東京都現代美術館の展示とは同じではありませんが、
想像する助けにはなるのではないかと。


広く高さもたっぷりの展示空間をいっぱいに使って、
あちこち(高さもまちまち)に壊れた電蓄が置かれていると思っていただければ。


鑑賞者はこの壊れた電蓄の間をそぞろ歩くわけですけれど、
時折どこかしらの電蓄に電気が通い、がさごそを音を立てているのが聴こえてくるという。
歩きまわるにつれ、「あっちから、おや、こっちから…」と。


電蓄の壊れ方は一様ではありませんから、聴こえるがさごそ音も一様ではないのでして、
ぱっと見では同じような電蓄が、高いの低いのはありますが並んでいる中で、
実はそれぞれに個性的な音を発している。


これはもう、一見どの木も同じように見える雑木林を散策していると、
どこからともなくいろいろな小鳥の異なる鳴き声が聞こえてくるにも等しい感覚といいましょうか。


そして、あたかも「森の中の逍遥」という点では、さらに見た目とのギャップに驚かされるのが、
大西景太さんの作品「Forest and Trees」ではないかと。


こちらは作品タイトルからしても明らかに想像するところとぴたりくるわけですけれど、
見た目は非常に無機的なのですよね。


言わばスマートフォンのような映像が見られ、音も発するコンパクトな装置が林立していると
思っていただければ、よろしいかと。


先程の電蓄だって無機的ではありますが、
壊れているというところが無機さ加減の敷居を低めている気がするのでして、
それに比べるとこちらはスタイリッシュな洗練感が逆に無機的さを高めているわけですね。


それぞれの画面には極めて単純な図形が穏やかに変化していくような映像が

それぞれ異なって動画として流され、
同様にひとつひとつからひどく控えめな効果音のようなものが流されています。


やはり、その林立の中を歩きまわることによって、

近くからははっきりと遠くからはかすかにそれぞれの音が聞こえ、
動くことによって別の音が近づき、また遠ざかるということになるという。


視覚的なギャップと言いましたように、

この作品に関してはむしろ(映像には申し訳ないながら)目を閉じて動いて回ると
より「森の中の逍遥」感が増幅するような気がしますですね。


先程の「With “without records”」もこの「Forest and Trees」も

木々の間をさまようような…という点で似ているようでもあり、
実はさまよっている森自体が相互に異なるような違いは厳然としているような。


受け止め方は人それぞれを承知の上で言ってしまいますが、

現代アートの中でも今回の展示の多くのように

見る側聴く側に置いてけぼりを食わせない作品(本展にもそうでないものもありますが)からは
刺激を受けまくる楽しさ、ファイン・アートを見るのとは別の楽しさがありますですねえ。


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先日、地下鉄博物館 で見た「地下鉄誕生」展がずいぶんと小規模だったあまり、
ちと食い足りなさ感を埋めようと、図書館でロンドン の地下鉄に関する本でもと探しておりましたら、
「メトロ誕生」という1冊に出くわしました。


メトロ誕生―地下鉄を拓いた早川徳次と五島慶太の攻防/中村 建治

残念ながらロンドンでなくして東京の地下鉄が開業するまでを辿った本であったのですが、
東京の地下鉄も昨年末の12月30日に開通して85年を迎えたそうですから、
まあ「折りたるや良し」ということで読んでみたのでありますよ。


主役となるのは早川徳次という人で明治14年(1881年)、山梨の生まれ。
明治という時代の風潮でしょうか、「何かしら国のために役に立ちたい」と同時に
「でかいことをやって一旗挙げたい」と思う明治人のひとりであったわけですね、早川も。


政治を志して後藤新平の世話になり、後藤が総裁を務めた満鉄(南満州鉄道)に入社、
その後も後藤に付いて鉄道院に転ずるなどする中で

国家のインフラとして鉄道や流通に目を向けるようになると同郷の山梨出身で鉄道界の大立者である

根津嘉一郎(東武鉄道 社長、根津美術館収蔵品のコレクター)に目を掛けられ、
地方の小鉄道の立て直しを任されたりするようになります。


今では南海電鉄の一部となっている高野登山鉄道に赴任していたおりに、
大阪の港湾施設が新しく整備されたにも関わらず閑散としている様子を目にして、
「鉄道が乗り入れておれば、こんなことはあるまい」と考え、
一念発起して欧米の鉄道・港湾事情の視察に出掛けることに。


ところで、この渡航は一切私費で賄われたのだそうでして、例えば漱石 が国費留学であるが故に

国の目的と自己の目的のズレに悩む場面もあったようなこととは別に
私費なればこそ途中で目的が変わろうが誰に遠慮があるものではないのが早川の洋行。


実際、最初に訪れたロンドンで地下からの轟音が「地面の下を走る列車」によるものと知ってからは
地下鉄に魅入られたように「東京の交通事情の改善は地下鉄でこそ」と港湾事情などそっちのけ。
パリ でもニューヨーク でも、その思いは弥増すばかりであったとか。


1916年9月に帰朝するや直ちに「東京に地下鉄を!」と活動を開始するも、
「東京の町は埋め立て埋め立てでできていて元々は海、

そんなところに地下鉄が通せるはずがない」と危ぶむ声ばかりが聞かれて、まさに前途多難。


独自に調査をしながら多くの人たちを説き伏せて、

「東京地下鉄道」との会社組織が建ち上がったのが1920年。
計画を大幅に縮小してまずは浅草上野 間に初めての路線着工したのが、1925年。
そして、同区間に日本で、そして東洋で初めての地下鉄が開業したのは、

1927年12月30日でありました。


物珍しさも手伝って駅には乗客で溢れ返ったそうですけれど、
早川にすれば洋行から帰ってからというもの、まさに苦節11年、
感慨深い開業でしたでしょう。


東京地下鉄道では浅草・上野間を開業したのち、

そのまま神田、日本橋銀座 、新橋へと線路を伸ばします。


これはあたかも現在の東京メトロ・銀座線誕生の軌跡かと思うところですが、
当時の繁華街を縫っていく早川の構想からすれば、新橋のあとは品川方向に向かい、
京浜急行と直通して神奈川とも結ぶことを考えていたそうな。
(となると、新橋以降は今の都営地下鉄浅草線ですな)


…とここに登場するのが、
早川より1歳下でかつては鉄道行政に携わる役人であったのが鉄道会社に転じ、
後には東急グループの総帥となる五島慶太その人であります。


東京地下鉄道のようすを見れば、

別の地下鉄計画を目論む会社が出てきてもおかしくないわけでして、
そんな会社のひとつである東京高速鉄道の役員におさまった五島は

渋谷 から青山、赤坂、虎ノ門を結ぶ地下鉄を新橋まで持ってきて、

早川の路線との直通運転を画策するのですね。


東京高速鉄道の本来の路線認可は

虎ノ門から先日比谷公園の下を通って東京駅前に向かうものであったようで、
それを勝手に新橋までやってきて、元々品川へ向かいたい早川の通せんぼをするばかりか

直通させろとは早川には納得がいくはずもない。


五島が東京地下鉄道の株の買い占めに走ったりもしたために
この早川と五島の争いはどちらも引かずに国が介入して仲裁をすることになるという。


結果はといえば、今の東京メトロ銀座線を見れば明らかです。

銀座線は浅草と渋谷を結んでいるのですから。


しかも、このときに早川は東京地下鉄道から身を引く求められ、
やがて地下鉄は首都(当時は帝都)の大動脈たる乗り物は民営には任せられんと
帝都高速度営団という組織の運営とされて早川の作った会社も無くなってしまいます。


一方の五島は、東横線、小田急線、京王線、京急線など東京の私鉄を一手に握るほどになって

(後には解体されますが、こんなに持ってたから、東京急行電鉄=東急なんですな)
私鉄経営者として営団の理事として関与していったのだそうで。

企業人としては大成功を収めた五島ですけれど、
株式の買収で企業合併(吸収か)を繰り返した豪腕の経営者だけに
「ごとう慶太」の名前をもじって「強盗慶太」とまで言われていた五島。


一方で、自らの生涯も財産もつぎ込んで地下鉄開通を実現させながら、
自分の子供のような事業を取り上げられてしまった早川には、どうしたって判官贔屓が働きもしましょう。

地下鉄博物館でも早川が「地下鉄の父」として大いに称揚される一方、
五島の方は余り触れられていないような…。


地下鉄銀座線、新橋で大曲りする謎にはこうした事情があったのですなぁ…う~む。

東京都現代美術館で開催中の「アートと音楽」展にまつわる話を引っ張ってしまってますけれど、
「クリナメン」のことカンディンスキーのこと 、そしてようやくジョン・ケージ の登場と相成ります。


偶然性の音楽ということでは、

前回触れた武満徹作品にもまして一般的には有名なジョン・ケージでして、
「これだけで云々するのは、どうよ?」と思わなくないですが、
やはり「4分33秒」の話になってしまいますですねえ。


ピアノ作品らしくはありますけれど、要は何の楽器でも対応可能な、
そして全く楽器に触ったことのない人にも演奏(?)できてしまうという、奏者を選ばない曲。


何しろ「4分33秒」の間、奏者が何も音を出さないうちに
その空間で聞こえるであろう音を聴くという曲ですから。


しかしながら「4分33秒」は第1曲「33秒」、第2曲「2分40秒」、第3曲「1分20秒」という
3曲構成であって、展示されていた同曲のプログラム(初演時のもの?)には
各曲それぞれに「TACET(休止)」と記載されているという、実にテクニカルなことをしているという。


そして、この曲のことをもそっと深く考えてみようかという気にさせられるのは、
マノン・デ・ブールという人の映像作品「二度の4分33秒」を見ることを通してとなりましょうか。


演奏会場というよりは普通の家の広間のようなところで演奏された「4分33秒」を収録したものですが、
一度目はカメラがひたすら奏者に向けられており、二度目になると聴衆の側をカメラが動いていく

という形で二度の「4分33秒」が記録されているのですね。


コンサート・ホールのような遮音性はありませんから、
将棋の対局のときに使う時計のスイッチを押して演奏が始まると、
折しも荒天の戸外から雨の音やら風の音、そして通り過ぎる車の音などが聞こえてくるわけです。


むしろ室内ではこうした日常的な音を聞き逃さんとばかりの静けさが覆っていて、
聴衆側に向けられたカメラが拾うのも、じいっと奏者を見つめている人、目を閉じている人、
そしてあらぬ方向を見つめている人とさまざまなようすなのですね。


各人各様に「聴く」ことに集中しているのでありましょう。

ここでふと思うのは、「4分33秒」が演奏される際に作曲者のケージはこうした事態を
果たして想定したのだろうかということです。


初演にあたっては、

奏者が何も演奏しない空間の音を聴くということがびっくりものの衝撃的な発想であり、
ピアノのふたを閉じることで始まる演奏が「なんだ、こりゃ?!」と思われれば思われたなりの
さまざまな音、ささやきかわしやもぞもぞする音などが聴くべきものとして立ち上ったものと思われます。


ところが、ケージ「4分33秒」とは奏者が音を発しない曲であることが認知されてしまうと、
むしろそういう曲として楽器からではない音を聴くことを前提に集中して耳を傾ければ傾けるほど
何の音もしないことになってしまいますですね。


今回見た映像作品が撮られた場所では、戸外からの自然音や生活音が聞こえる環境でしたけれど、
もしコンサート・ホールでこれをやったら演奏中は限りなく無音に近づいてしまうのではないかと。


こうしたときに、ともすると人はあれこれの雑念といいますか、
いろんなことを頭の中では考えたりしてしまうようなところもありますが、
もしそうしたことは振り払って「聴くことに集中してもらわんとねぇ…」とケージが考えたとするとですね、
これはもはや「座禅」に近いもの、あるいはそのものなんじゃないでしょうか。


奏者の側に目を転ずると、

何も演奏せずに経過する時間の中で何度か譜めくりをするところが出てきます。


「4分33秒」という曲を聴くのでなしに、この映像作品を見る者にとっては
「いったい楽譜には何が書いてあるのか」

「何十秒か経ったら譜をめくるといった台本めいたことが書いてあるのか」と思ったり、

これは奏者のパフォーマンスなんだろうかと思ったり。
いわば雑念を持って?考えたりしてしまいますですね。


これではちいとも座禅の世界ではありませんけれど、Wikipediaを見ますと、

ジョン・ケージは「コロンビア大学で鈴木大拙に禅を2年間学び、東洋思想への関心も深める」

てなことが書かれておるとなれば、やっぱりコンパクトな座禅のお時間が「4分33秒」なのかも…

と思ったりするところでありますよ。


…とケージのことを書いて、ついでにもう一回だけ「アートと音楽」展のことを

書かせていただきたく思っているところです…。

久しぶりに「うなぎ でも食いにいくか」と、両親と話がまとまったものですから、
日本橋の名店・伊勢定に出かけたのですね。


昨年の日本橋 架橋100周年絡みでずいぶんと日本橋をアピールしたせいか、
「以前は、日本橋の上でポーズとって写真を撮ってる姿なんか見かけなかったものだが…」
と両親と話をするくらいに界隈が賑やかになりましたですねえ。


ところで出かけたのは鰻の専門店ですから、うな重の一点買いが本来かもですけれど、
お正月らしく賑やかな三段重ねのお重に入ったかさね弁当とやらを頼んでみたわけです。


一番下が小ぶりのうな重に黒豆と厚焼き玉子が添えてあり、中段がお造り、
上段には酒肴が四品ほど(といって、昼間から飲んではいませんが)、そして汁椀と香の物という内容。
がっつりうな重も捨てがたいですが、これはこれで大層な満足感が。


それぞれにおいしくいただいたわけですが、取り分けお造りの刺し身(鯛と寒ブリか)が

実にほどよい油ののり加減。
「そういえば、日本橋はその昔、魚河岸だったのだぁね」などと今ではあまり関係ないことながら、
刺し身の旨さにそんな妙な関連付けを思ったものでありますよ。


と、日本橋まで来たついでということで、

食後の腹ごなしがてらに三越の裏手まで出向いたのですね。
性格には三井本館の西側になりますが、ここにあるのがかの?日本銀行。
その分館の中にある日本銀行金融研究所貨幣博物館が目的地でありました。


常に機会あらば一度はと思っておりまして、先日も甲府城 のことを書いたときに

幕末の戦いで甲府城を落城させた官軍側の将が板垣退助であったことを知り、
板垣退助と言えば「おお、あの100円札にあったひげの人!」となるのではないでしょうか。
(もちろん使った記憶はごく僅かですけれど)


こうしたことからも、古い紙幣なども展示されているらしい貨幣博物館は急浮上していたのでして、
全くもって良いタイミングであったというわけです。


と、訪ねてみてまず思いましたのが、思ったよりも見学者が多いということ。
やはり日本橋界隈の散歩コースには案内されているポイントなのかもと思いましたですねえ。


常設展は日本の貨幣史。
当然、日本で最初の貨幣として名高い「和同開珎」(708年)に始まる皇朝銭十二種の展示から。
そして粗製乱造の故か、これら自国製貨幣の信用が凋落する中で、それならいっそと
大々的に中国銭(渡来銭)が流通するようになるのが12世紀から17世紀と長きに渡る。


そうした中にあって地域通貨も試みられるわけですが、
代表的なのが甲州武田氏の「甲州金」(紹介で武田信玄 はやはり勇猛な肖像画でありました)であり、
また伊勢国は日本最初の紙幣(山田羽書というらしい)が流通したりもしたそうです。


ですが、基本的には長らく中国銭が使われていたわけですが、
やはり国の事情で貨幣が粗製乱造に陥るのはどこにもあることなのか、
良銭と悪銭が同時に流通したりするものですから、
これを撰銭令によって価値基準を明確化したのが
織田信長 なのだそうで。


やがて徳川の世となり、江戸幕府成立の2年前(1601年)に徳川家康が全国通貨の統一を図り、
その後1670年には三貨制度と言われる通貨制度を確立していくことになります。


ちなみに三貨制度といいますのは、金・銀・銅それぞれによる貨幣を流通させた制度でして、
銅はいわゆる一文、二文…という単位「文」で呼ばれた銅銭ですね。
よく知られた「寛永通宝」がこれで、
銭形平次 が盗人に追い銭する(?)のも寛永通宝です。


で、ここで江戸時代のお金の単位を整理しておきたいんですが、
銅銭の「文」の他に「両」「分」「朱」があって、落語なんかを聞いていてもよく出てきます。


小判1枚が1両、これの四分の一が1分、さらに1分の十六分の一が1朱とされて、
それより小さな単位として先ほどの1文が出てくるのですが、
両、分、朱がかっちりとした制度で「一分金四枚で一両」てなふうに決まっていたのに対して、
文に関しては相場によって変動したんだそうです。


江戸中期までは一両は銭で4000文であったものが、後期ともなるとこれが一両=銭6500文となる。
幕府の台所事情が悪くなって、小判の金含有量が減るとかいったことでしょうか、
またしても粗製乱造傾向の現われのような相場になってくるのですね。


落語の「時そば 」では「いくらだい?」と問いかけに
「ニ八そばと申しまして、十六文で」(2×8=16)とそば屋が答える場面がありますけれど、
江戸後期のレートでは一両では約406杯のそばが食べられたという計算になるそうな。


ですから、当時のそば屋を今の(手打ち云々というのでなく)駅そばのようなものと考えると、
1杯500円として406杯分、500×406=203000円となりますから、1両はおよそ20万円ですかね。


やはり落語の「紺屋高尾 」では、

吉原の花魁・高尾太夫に惚れてしまった染物職人の久蔵が高尾太夫に会いたいあまり、

三年仕事に精だして貯めた金が9両、これに親方がくれた情けの1両を加えて10両持って

吉原へ出かけるというところがありますね。


1両が約20万なら、10両で約200万円。

吉原で太夫に一目会いたい。これが200万円だったということだったですなあ。


あんまり良い例えではなかったかもですが、

企画展の「おかね道中記-旅で使う貨幣-」の方を見てみると、

1泊2食の宿賃が200文だったそうな(それで晩飯にはうなぎが出たのだと!)。


これに対して「越すに越される大井川」の渡し賃は320文。

宿賃との比較で言うと、大井川を渡るのは

国内線の飛行機にでも乗るかのような感覚だったのかもですねえ。


ということで、あれやこれや思いを巡らしつつ見てきた展示ですが、

場所柄からどうしても「お江戸日本橋」的なものと結びつきがちだったのかも…。


「おかね道中記」@貨幣博物館