そもそもといえば経済学の類いに何らの知識を持ち合わせてもいないのに…。
ではありますが、そういう前提であることを表明しておけば大きなお咎めを受けることもありますまい。


そもそも価値のないものとは「貨幣」、つまりお金のことを言っているのでして、
お金を使って何かしらの必要性を満たすものを手に入れることができるわけですが、
(そのものは何かしらの必要性を満たしうることを持って「価値がある」ことになる)
お金そのものでは何かしらの必要性を満たすことはできませんですね。


ところが、お金は「何かしらの必要性を満たしうるものを手に入れる」という必要性を満たしうるものとして
「価値がある」と思われているようなところがあるような気がしないでもない。


でも、その部分はそういう機能を持っているということであって、
銭湯の下足札とかとあんまり変わらない気がします。


ただ、銭湯の下足札と違うのは預けた下駄を取り出すというごくごく限定的な効果でなくして、
広い範囲でいろいろな品物・サービス等との交換が可能という点でしょうか。


子供の頃には駄菓子屋に出没しては(手持ちの範囲内ではありますが)
それこそさまざまな品物と交換可能な状態に気を良くしては買い食いし、
「お小遣いを無駄遣いしてはいけんよ」と言われたものでありますね。


ここでちと注意が必要なのは「無駄遣い」という言い方でしょうか。
お小遣い=お金を無駄に使ってはいけない、なんとなればお金は大事なものだからという
考えになってしまうかもしれないという点でです。


「無駄遣いはいけんよ」の本来の意図はお金の扱い方の問題ではなくって、
お金を使って手に入れる「何かしらの必要性を満たすもの」が適当・適切なものであるかどうか
という点にあるわけでして、「無駄遣いはいけん」のひと言でこうした背景を

子供に想像させるのは難しいような。


まあ、このことが一事が万事で、拝金主義の元凶であると言うつもりはありますが、
比喩的に「お金に価値がある」かのような言い回しが便利に使われているということはありますですね。


そこらへんに対する感覚にボタンが掛け違ったままになってしまうと
お金は価値のあるもので、大事にしなくてはならんとすれば、

それは数量が限定的であることからくるわけで、
たくさんあれば問題なしとの発想に結びつくこともあろうかと。


かつて利殖関係のセールス電話がかかってきたときに、まともに話(議論)をしたことがあります。
いつもなら「興味ありません」ガチャン!ということがもっぱらですが、
たまたま暇だったものですから話を聞いていると

「これこれ、こんなふうに貯蓄を増やせるんですよ!」と仰る。


「何でそんなに貯蓄が増えるといいんですか」と問いかけると
電話の向こうでは一瞬の絶句の後、「誰だってお金はたくさんあった方がいいでしょう」と。
これに対しても「なぜですか?」と聞くと、向こうから電話が切られてしまいました。


このときに「電話の途中で切られるのは、気分悪いものだな」と
主客転倒ながら少しばかり相手の気持ちも推し量ってみたものであります。


が、考え方の土俵が同じではありませんので、いくら話しても無駄なことで、
こうした電話にはどちらが先に切るにせよ、

双方にとってそれこそ時間の無駄遣いが防げるところではあります。


これも昔のことになりますが、カラーテレビにせよ全自動洗濯機にせよ、
手に入れるためにはせっせと貯金をしたり、
はたまた見通しが付く場合は月賦(今でいう割賦販売とかリボルビング払いとか)で

買ったりしたものです。


ところが、今では何が欲しい、何がしたいということもなしにせっせと貯蓄に励み、
残高が多いことそのものが満足感を生み出すことになってる場合あるようです。
何か違うんでないの…と思わずにはいられないような。

(本当のところは、何かどころじゃなくって「違う!」と言い切りたいところですが)

とまあ、つらつらとこうしたことを書くことになったきっかけはといえば、
「マイナーブラザーズ 史上最大の賭け」というコメ
ディ映画を見たからなのですね。
(ちなみに原題は「Brewster's Millions」)


マイナー・ブラザース 史上最大の賭け [DVD]/リチャード・プライアー,ジョン・キャンディ


一度も会ったことのない大叔父から

3億ドルの遺産を残されたモンティ・ブルースター(リチャード・プライヤー)。
ところが、これを相続するには遺言で条件が付けられていたのですが、
その条件とは「30日間で3,000万ドルを使い果たす」ということ。

無理だ思って3億ドルの相続を諦めるなら、100万ドルだけ渡すのでそれでおしまいと。


ここで100万ドルを受け取っては話が展開しないものですから、
3,000万ドルの散財に挑むことになります(散財する理由を誰にも言ってはならないことも条件)が、
大盤振る舞いを続けるモンティを周囲で諌める友人知人が出てきても、
黙ってとにかく札びらを切りまくるモンティ。


そうした様子がコメディなのだとは思いますけれど、
笑えません…「嗚呼、無情」と思うばかり。


制作が1985年のこの映画、日本公開は翌86年の2月だったそうです。
85年9月にプラザ合意があって、いざバブルへ!という状況にあった日本ではその当時、
この映画は文字通りのコメディとして大笑いで受け止められたのでありましょうか…。

今朝のことであります。


通勤途上のとある交差点に、青で渡れる時間の比較的短い信号があるのですね。
さほど長い横断距離ではないのですが、

渡りきった頃にはもう点滅(つまり黄の代わりですね)が始まってしまう。


渡れる時間が短いということは逆に渡れない時間も短めと思われますので、
(感覚的には待っている時間は長く感じますね)
個人的には走って渡ってしまうということはせずに、次を待つというようにしています。
(もっとも、ここで走ったりすることくらいしか運動不足解消の手段が無いかもですが)


と、今日もこの信号を渡り切ったあたりで(ということは、程なく信号は変わろうかという頃合いで)、
前方からこの信号を渡ろうという堅い決意の下?突進してくる男性会社員が一人。


折しも降りの強まった雨を避けるべく傘を前面に押し出して「いざいざいざ!」という勢いでしたけれど、
すれ違う間際に「おや、何か落ちた…」。


一瞬にしてすれ違い、すでに掛け去って行こうとする後ろ姿に
「落としましたよ!」とひと言かけたが、気付かない。
間髪入れず、もう一度「落ちましたよ!」と。


振り返った男性の顔には、これで信号が渡れなかった落胆がありありでしたが、
拾い上げたものを手渡すと「ありがとうございます」と言って、ゆっくり信号に向かっていきましたですよ。
落し物、それは果たして傘ぶくろ(何だか妙に体裁のいいもの)でありました。


ここでですね、何だってこうした情景描写をしたかと言いますと、
自分の発した言葉を思い起こして「おや?」と思ったからなんですね。


目の前で落し物があって、持ち主が去っていきそうな状態。
声をかけるこちらにあれこれ考える余裕もなく、叫んでいたという状況です。


ですが、一度目に「落としましたよ!」と言い、
二度目には「落ちましたよ!」と言っていたことが何だか不可解なんですよね。


落としていった人に対して掛ける言葉は「ちょいと、そこのあんた、落としたよ」ということで、
「落としましたよ!」は即座に出てきたものとしては、実に正しい。


ところが二度目の「落ちましたよ」というのは、
掛け去る人が穴か何かに落ちたわけではないので、考えてみれば変な言葉です。


落ちてしまった(落とされてしまった)傘ぶくろに対して、
「あ~あ、おまえ、落っこっちまったなぁ」というのなら、合っているわけですが。


ですから、二度言うのなら、
「落としましたよ」という言葉を繰り返して言ってもよかったのではないかとも思うのですよ。


しかし、「落としましたよ」が通じなかった。相手に意味あるものとして到達しなかった。
これはいささかなりとも言い換えをせねばと考えたんですかね(考える時間はなかったのですが)。

その言い換えが、文法的に合っていようがいまいがおかまいなし(何せ急いでますから)の
「落ちましたよ」だったのではないかと想像するわけです。


とっさの場合のことではありませんけれど、ひと固まりの言葉が相手に到達しないとすれば、
それを言い換えてみようということはままあるものと思いますが、
考える余裕もないような場面でこうした言い換えってなことが出てくることがあるんですなあ。


と、我がことながら妙に関してしとりますが、
書くことで話を大きくしてましっただけで、ただの偶然と言えないこともないですが(笑)。

昨晩ななかなかに過酷な(?)日曜出勤を終えて、
うすぼんやりとしながらETVの「らららクラシック」なる番組を見ておりました。


ピアニストごとの個性を初心者にも分かりやすいように類型化して

聴き比べてみるという番組でしたけれど、その番組の最後、

「では、どんなふうにピアノ曲を聴いていったらよいのでしょう、中村さん?」みたいな問いかけに
ゲスト出演されていたピアニストの中村紘子さんが言っておりましたですね。
「お好きなようにお聴きになればよいのでは…」てなふうに。


書き言葉にしてしまうといささか投げやりなようにも思えてしまうところながら、
その実は(番組で紹介されたように)ピアニストの個性も百人百様なのですから、
聴き手の側も感じたとおりに「聴く」ということでよいのではないかと仰ったものと解したのでありますよ。


もしかすると何の分野においてもかもしれませんが、
とかくクラシック音楽好きという方々の中では「これはいいけど、あれはだめ」みたいなことが
一刀両断的に語られるケースがあるように思われます。
作曲家や曲そのものに対しても、また演奏の違いに対しても。


こうしたことは、クラシック音楽を聴いてみようかなと思われる方、聴き始めてみたばかりの方、
ちと偉そうですがここでは初心者と言ってしまいますが、

そうした初心者の方々を遠ざける最高にして最強の武器になりましょうね。


適当な例えかどうかは別としてですが、
たまたま新橋駅の地下街を歩いていたとします(妙に具体的ですが)。


通行する人のさまたげにならぬよう、

CDラジカセから何やらの曲が小さく流れていることに気付いて耳を傾けてみると、
「おお、何だか素敵なメロディであるな」と思えた。


安売りCDのワゴン・セールであって、この先の聴いてみたいけれど足を止めている時間はない。
1枚500円くらいなものなら、買って帰ってゆっくり聴いてみよう。


…と、ここですでに

「だめ、だめ、そんなところでCDを買ったってろくな演奏じゃあない」という声が聴こえてきそう。
確かに個人的にもこうしたところでCDを買うことはありませんけれど、
買った当人にしてみれば「ろくな演奏じゃない」とダメだしされようがなんだろうが、
そこで耳にした曲(演奏)に心動かされて買ったわけですよね。


その人も、こうしたことがきっかけでこの曲を何度も聴いてみて、

今度は違う奏者による演奏も聴いてみて…となったときに、
「う~ん、後から聴いたのの方がいいね」と思うようになるかもしれない。


でも、初対面の印象は相当に強いと思われますので、

これを打ち破るほどに出会いがそののちにあるほどに
続けてクラシック音楽を聴き続けるかどうかはわかりませんですね。


ただ、聴き続ける可能性はあるわけで、
そうした可能性を持つ人に対しては可能性を長続きさせてやると

その人の音楽体験も広がりますですね。


先の中村さん発言はここら辺に依拠するものと思われます。
「好きなように聴けばいいんですよ」と。


ところで、先ほどのシチュエーションの別の展開として、
「素敵なメロディであるな」と思った後、店員に曲の名前だけを聞いて立ち去ったとします。
その人の頭の中では確か同僚のAはクラシック音楽に詳しかったはずだから、彼に聞いてみようと。


さて、会社の昼休みに早速Aさんに「○○という曲のCDを買いたいのだけれど」と尋ねてみます。
Aさんに自分のお気に入りの演奏があれば、それを薦めるかもしれませんし、
そうでなくても詳しいと尋ねてくれたからにはその期待に応えんとするために

いわゆる名演奏とされる定番を答えるかも。


ここで「気に入ったと思ったのなら、そのワゴン・セールで買えばよかったのに」と

答える人はまずいないような気がする一方で、そう答えられたとしたら、

何だか尋ねた甲斐がないと思って(Aさんからすれば、思われて)しまいそう。


ですが、先ほども言いましたようにファースト・インプレッションはなかなかに強烈であって、
それを気に入ったのならそこから入ることを良しとするのが、もしかしたら一番いいのかもしれません。


…とだんだん収束が付かなくなりそうになってきてますが、

「好きなように聴けばいいんだよ」と中村さんが仰ってくれたことで

何だかホッとした人も多々おいでなのでは。


今さらながらですが、個人的にもそうした思いがしたものでありますよ。
特にピアノ音楽初心者としましては。

刺激に溢れたアートは癖になる …というわけでもありませんけれど、
ファイン・アート系の大展覧会がこれから目白押し(グレコ展は始まったか…)になる間隙を縫って
見てきましたのは、「脳で視るアート」と題された中ザワヒデキ展@吉祥寺美術館であります。


「中ザワヒデキ展 脳で視るアート」@吉祥寺美術館


何でも中ザワさんは医学の道に進むか、美術の道を志すかという岐路に立ったときに
フライヤーにある視力検査表のような作品を作り上げたのだとか。
まあ、作品が気持ちを表したということになりましょうか。


そうはいってもやはり医学を学んだところから来る発想のなせるところなんですかね、
よくこんなことを考えるつくものだと思いますですね。


展示の最初を飾るカラフルな図形の絵。
「灰色絵画」と命名されておりましたが、
いわゆるグレーの印象は全くない明るさに満ち満ちた作品なのですね。


イエロー、シアン、マゼンタ(ざっくり言って、黄、青、赤ですが)という三原色だけを使って
画面いっぱいにモザイク状に方形が並んでいるという感じ。


具象物をぼかしてモザイク状に網を掛けたわけでもありませんし、
そもそも何かしらを表したいということでもないようです。


種明かし的に申し上げますと、先の三原色の使用を均等になるように画面を塗り込めたことで
これらが点描画のように混ぜ合わされて見たとすれば、灰色一色の画面になるではないかと。


だから「灰色絵画」なんですが、

画面の大きさ、また配された方形の大きさ(とても点描画の類ではない)からして、
視覚的な混色はおよそ期待できそうもない。


学芸員の方が20mくらい離れれば…みたいなことを言っておられましたが、
小さな小さな吉祥寺美術館では叶うべくもないという。


作者自身、遠く離れて見てもらおうと考えているのでもなく、
要は「情報を受け止めた脳の中で混色してください」となるのですね。

まさしく「脳で視るアート」ということになります。


しかし理論的には分かることながら、実際には脳の中での混色を知覚しようもないので、
それをその場でやってみようとすること自体がどうなのかと思いつつ、
やってみましたができませんでした…。


ところで、その脳を使うということでは「脳波ドローイング」という作品がまた
なんとも実験的、というより実験そのもののようにも思われます。


こちらは「脳で視る」ではなくって「脳で描く」ということ。
そりゃあ、何の作品にしても頭で考えたりしたことを、
多くの場合は腕・手(ストックホルムでは髪の毛でと言った作品も見ましたが)のような

デバイスを経由して作品化するわけですから、

そういう点では誰しもが脳で描いていることになりましょう。


が、ここでの「脳波ドローイング」は脳波測定によって得られる波形にアート的な図形を、
それこそ脳波によって、つまりは脳そのものによって描きださせようとするものなのですね。


公開制作「脳波ドローイング」@府中市美術館


かつて府中市美術館では公開制作として中ザワさんが実際に脳波測定の機械を付けて横たわり、
波形によるドローイングをして見せたそうでありますよ。
その中ザワさんの言。

数週間の修業を経て、ある程度、意のままに絵が描けるようになりました。

「意のままに」とは、はて?
一見したところでは数本の線が同時に波形を記録している検査結果にしか見えず、
よく見ると途中に大きな波が現れたりするのは、何かしらの動揺の後かと思うところですが、
そうした特別な波形をして「 」と言われればそう見えないこともない。


やがて、脳からの信号が単なる波形ではなく、
直接に見る側の視覚で捉えられる画像や映像となって示されるようなことがあるでしょうかね。
そうなったときに、先の「灰色絵画」あたりは脳の中で混色された灰色の画像として視覚化されるんでしょうか。


でも、三原色で構成された色彩を視覚的に捉えた信号を

脳で混色して灰色と受け止めているとの画像を、
その本人がまた視覚的に見るという堂々巡りのような状況を俄かにはイメージしにくいような。


とまれ、実験的な作品からまたしても刺激を得て帰ってきたのでありますよ。

1792年3月16日、スウェーデン の王都ストックホルム から程近い離宮ドロットニングホルムで
グスタフ3世王により仮面舞踏会が開催された。


と、煌びやかに着飾った王侯貴族が舞い踊るボール・ルームに鳴り響く一発の銃声。
凶弾に倒れたのはグスタフ3世王、狙い過たず国王の命を奪った犯人アンカーストレム伯爵であった。
しかし、この暗殺はかつて国王お忍びで訪ねた占い師ウルリカによって予て暗示されていたという…。


とまあ、やおら芝居がかった語り起こしでありますが、この部分に限っては史実のようでありますね。
が、これにひと味もふた味も付け加えられてオペラの台本になった。
そして、生まれたのがヴェルディ の作曲した歌劇「仮面舞踏会(Un ballo in maschera)」であります。


昨夏にストックホルムに出かけましたけれど、その絡みでスウェーデンの歴史などにも触れ、
こうした事件が起こり、そこを題材にしたオペラがヴェルディの「仮面舞踏会」であったと知るに及び、
どんなになってるのか見たいものだと思っていたわけです。


でもって、ふと気付いてみれば「METライブ 」で上映されているという。
これは見ておかねばと出向いた次第でありますよ。


ヴェルディの作品の中では上演される機会が比較的少ないようにも思われますが、
独唱、重唱、合唱がほとんど途切れなく続くかのような、実に歌に溢れた作品で、
音楽的な側面からは申し分なく酔えるところかもしれませんですね。


ご存知のように「METライブ」はニューヨーク のメトロポリタン歌劇場での公演を
ライブ収録(本来はライブ配信されるべきものですが)したものですので、
会場の様子なども映し出されますが、カーテンコールでのスタンディング・オベーションからしても、
充実の公演であったことが窺えるわけです。


実際、アンカーストレム役(バリトン)のディミトリ・ホヴォロストフスキーのたっぷりした歌いっぷりなど
「主役はだぁれ」と思ってしまうところがありました。


元々悪役系が似合いそうな容貌(失礼)ですから、
国王の忠臣であった前半から一転、国王への憎悪を抱いて凶行に及ぶあたりはピタリではないかと。


とまあ、見終わってみれば「面白かったな」と思ったのでありますが、
本当のところを言えば「台本がどうよ?」の感がかなり最初からあって、
ヴェルディの音楽に騙されて(?)最後には「面白かった」に落ち着くものの、
違和感といいましょうかね、それは最後まで熾き火のように残ったとはいえそうです。


先に、史実にひと味もふた味も付け加えてといいましたけれど、
本来的に極めて政治的な背景による暗殺であったものが、
妻アメーリアと国王との愛に気付いてしまったアンカーストレム伯が逆上のあまり、
政治的な暗殺計画を企てる一味の尖兵となって犯行に及ぶことになっているのですね。


これによってオペラらしい愛を高らかに謳いあげるといった要素が組み込まれることになりますが、
この辺がどうも「うむむ・・・」と。


史実と違うことだけをもって云々するのはないのですけれど、
国王と忠臣とその妻の三角関係(幕間のインタビュー映像でしきりにLove triangleと言ってました)が
ありそうもないことではなく(むしろ日常茶飯事だったかも)としても、
何だか国王が高らかに謳いあげるのが横恋慕だったりするあたり、

話が小さく、設定と不釣合いな気がするわけです。


一方で、愛の狭間で苦悩するアメーリア(ソンドラ・ラドヴァノフスキー)にしても、
苦悩の心情を吐露するアリアを聴いていて、こういっては何ですが要するに「さざんかの宿」的な
バックグラウンドだぁねぇと思うにつけ、やっぱりなんだかなと。
(ヴェルディの音楽にケチをつけているのではないのですが)


また、いささか重箱の隅をつつくようになりますが、

国王の逢引相手が自分の妻であったと知った時のこと。


アンカーストレムはすでに国王暗殺への加担を心に抱いたからこそ居合わせた暗殺グループに対して、
翌日自分の家に来いと申し出たと思われたわけですが、幕が変わって自宅で妻をなじっている場面。
ここでの妻とのやりとりから、本当に怒りを向ける先は国王であったと「この時」悟ったように
アンカーストレムは振舞うのですね。「うむむ」です。


細かいことを言えば他にも気になるところはあるのですけれど、
改めて知ったことには、この作品の初演当時は国王暗殺の話なだけに周辺事情への配慮から
主人公は新大陸アメリカ のボストン総督ということにされ、

長らくそうした設定で上演されてきたのだそうで。


それを王制というものにしがらみがなくなってきたせいか、
話の舞台をスウェーデンに戻して(ヴェルディが作った本来の形で)

上演されるようになったといいますが、
先ほど触れたような違和感はむしろボストン総督くらいのところならば、
受け入れやすいかなと思ったりしてしまいますですね。


またしてもああだこうだ言いましたけれど、
史実を元に作られたということにあまり関心を向けず、

ヴェルディの音楽に身を委ねる方向でかかれば満足度は弥増すところではありましょう。
ただ差し当たりは、しばらくCDで音楽を愉しむことにしたいと思う「仮面舞踏会」でありました。


と、書き終わってから、以前二期会の公演「仮面舞踏会 」を見ていたことが判明しました。

要するにすっかり忘れていたんですが、似たような突っ込みをしとりましたね。

「CDで聴くことにしたい」とは全くおんなじ書きよう。印象は変わっとらんなぁと。