先日見た昔の喜劇映画「社長洋行記 」(正・続)での洋行先は香港だったわけですが、
先頃また「香港クレージー作戦」(クレージー・キャッツの映画)というのを見ますと、
やっぱり香港


「社長洋行記」が1962年の作、「香港クレージー作戦」が1963年の作。
日本から観光目的での海外渡航が自由化されたのが1964年4月1日でしたから、
まさに自由化前夜に制作されたこれらの映画は

「夢の海外旅行」への気分を盛り立てるものではなかったかと。


そして、アメリカやヨーロッパがまだまだ果てしなく遠い場所だったとすれば、
香港はまさに「行けそうな外国」に思えたことでもありましょうか。


でもって、そうした時期に世界の空を制覇していたのが、
これらの映画でも主人公たちを香港まで運んだパンアメリカン航空(Pan Am)だったのですね。


思い出したみれば、個人的にも初めて香港に行ったときにに乗ったのも
サンフランシスコに行ったときに乗ったのもパンナムでありました。


ですが、その頃はもはやパンナムの命運は尽きかけていたわけで、
ほどなく(1985年)に太平洋線をユナイテッド航空に売り渡して、

日本の空港ではパンナムのブルーのマークを見ることはできなくなりましたから、
ある意味、貴重な体験であったとは言えそうです。


以前は仕事柄、渡航者個々のオーダーを受けて日程に従ってフライトをアレンジしていましたけれど、
北米・南米に行くような顧客のアレンジでは時折、予約端末の中に「PA」(パンナムのコード)を見かけ、
「まだあったんだ」と思ったりもしましたけれど、1991年12月、パンナムの翼は消えてなくなってしまったという。


というようなことをつらつらと思い出したりしたものですから、
パンナムの軌跡をトレースしてみようかと「消滅 空の帝国パンナムの興亡」という本を読んでみました。
著者は、日本人の採用としては二期生にあたるパンナムのスチュワーデスとして長らく乗務されたという方です。
(今では死語とも思われる「スチュワーデス」ですが、同書では多用されているもので)


消滅―空の帝国「パンナム」の興亡/高橋 文子


ライト兄弟 がフライヤー号による飛行実験を成功させたのが、1903年。
戦争が科学を後押しするのはよくあることながら、
1914年に始まった第一次世界大戦では航空機の技術革新が格段に進んだものと思われます。


フライヤー号には人ひとりが腹ばいで乗るという形だったものが、

あれよあれよという間に大型化も達成して、物を運ぶ、人を運ぶようになるのですね。


そうした中で1927年にパンナムは産声を上げ、

フロリダからキューバへ、南米へという路線でスタートします。
この頃の機材は飛行艇(「紅の豚」に登場するような)を使っていたようです。


そして、商売敵はやっぱり船だったわけでして、
明らかにスピードでは勝るものの、船と同じようなサービスができるのかという点は
乗客側にも判断材料になってたんじゃないでしょうか。


なるたけ豪華な設えで迎え、機内ではゆったりくつろいでもらい、
容姿端麗のスチュワーデスがフレンドリーなサービスを提供する。


接客する側のおもてなしの笑顔は心からのものでなくてはなりませんから、
仕事がきつく、給料が安くて作り笑顔でなんつうことのないよう、
パンナムは緩やかな労働条件、高賃金が約束されていたのだとか。


それがずうっと続けられるわけですが、
接遇という点では間違っていませんし、それが永続可能ならばすばらしいこと。
パンナムのOBOGは揃って今や消えて無くなってしまった会社を惜しみなく褒めたたえるのですね。


他社の乗務員から羨まれることに自己の満足感は高まりこそせよ、
反面「そんな会社で大丈夫?」と思われているなど全く気付きもしないという。
このあたり、将来の「消滅」の気配が感じられ、著者も言及はするものの、
やはり華やかなりし往時のことが思いだされるのか、記述はどうも遠い目でものを見るふうでもあります。


一方、社員待遇の良い空の帝国は、当然のごとく一番が大好きなわけでして、
1935年に世界で初めて太平洋を横断する航空便を飛ばす、
1937年にはやはり世界初の大西洋横断便を開設する、

1947年、世界初の世界一周路線就航、
1958年、アメリカで初めてのジェット旅客機(ボーイング707)が大西洋を横断する…

と航空路の開設や新型機の導入で先頭を行くのですね。


そうしたところから、ボーイング747(ジャンボジェット)という大型機の開発にあたっても、
一度に二十数機も発注し、生産ラインに困ったボーイングに製造工場までパンナムが提供したのだそうで。
後にボーイング747として旅客機になった機材はもともと軍用の輸送機として想定されたものの、
不採用になったのにパンナムが目を付けたらしい。


かつて日本にも大量飛来した爆撃機B29を原型とするボーイング377ストラトクルーザーを
大いに活用したパンナムらしいところなのかもしれません。


とまれ、大型機は何のためというに、実はストラトクルーザーがそうですが、
やっぱりゆったりした乗り心地のためというのが主目的ではなかったかなと。
ですから、ジャンボの導入にあたっても同じようなことが考えられていたのかも。


ところが、そんなゆったり感でいつまでも大きな飛行機を飛ばしていられる時代ではなくなってしまう。

オイル・ショックによる燃料の高騰があり、ディレギュレーション(規制緩和)で競争は激化し、

自らが導入に先鞭をつけた大型機747で空の旅が大衆化するにつれ、航空券の格安化に拍車がかかる。

とても世界一社員に優しい航空会社が生き残れる途はなかったような。


しかしまあ、大衆化された空に適合するサービスではなかったかもですが、

少なくとも心の底からの余裕を持った笑顔で、高い航空運賃を払える少ない顧客と相対するのは

どちらにとってもハッピーなことであって、こうした仕事が成り立つわけがないと思ってしまうのが

いささか現実的すぎて悲しくなるところかもです。


競争社会が加速度的に進む中に、とてもパンナムの居場所はなかったということなわけですけれど、

潰れてしまったことの否定的な面でない味方でもってパンナムを振り返ることも

もしかしたら必要なのかもしれんなぁと改めて思ったりもするところでありますよ。

荒川放水路の話 を書き出すときに、小中高と全ての校歌に荒川が出てくると言いましたけれど、
我ながら余計なことにメモリを使っているなと思いながらも、
小学校の校歌も1番だけですが何となく歌えてしまうのですね。


そうは言っても何十年も経っているものですから、
もしかしたら思い込み?ということもあろうかと調べてみることにしたわけでありますよ。


検索の窓に母校である小学校の正式名称を入力します。
「おお、公立の小学校でも今やホームページを作っているのだぁね」と、

まず世の移り変わりに思いを馳せる。

そして、いかにも手作り感たっぷりでかつ情報の少ないトップページで目に付いたのがアドレスです。

そうそう、通っていた頃とは今の校舎は全く違うところにあるんだったなぁと、またしみじみ。


子供がとっても多かった時代、

卒業してしばらくした頃に団塊ジュニア世代が学校に上がってきたからでしょうか、
母校の近くに小学校が新設されたのですが、

やがて子供の数が落ち着いてくると統合されることになったようですね。


で、たぶんですが、母校の方が建物として古いがために残すのは新設校の方となったのでは。
ただ、近隣の通学区域では個々の小学校に個別の名前がついているのではなく、

ナンバー・スクールのような形でしたから、名前の点では新設校の名称は消え、

母校の名前が残った…というようなことを、両親の家に行ったときに聞いたような。


場所が変わっても母校であった学校と全くおんなじ名称の公立校ですから、
校歌だって母校のものが受け継がれているのだろうなと、「校歌」のボタンをクリックしたわけです。


「え?!」
見たこともない言葉が連なっているのが目に飛び込んできて、愕然としました。


もっとも覚えている歌詞には今の風景とはおよそ異なる、

自分が通っていた頃でさえいささか時代遅れ感のある歌詞でしたから、
昔から住んでいる人はともかく、

昔は無かったマンションやら住宅やらに越してきた人たちから「何、これ?」と
代えられてしまったのかもしれんなぁ…とまあ、ここんところは仕方がないかと思ったんですが、
次に「歴史」のボタンを押して、先ほどの以上に愕然と!


平成12年開校?なんだ、こりゃ?!


先程から母校、母校と言っとりますが、あれこれの思い出のようなものは別として
公立の小学校にさほどの母校愛のようなものがあるわけでもない。
実際、卒業してから訪ねたことは一度か二度、

まして校舎が移ってしまってからは近づいたこともありません。


ではありますが、自分が通っていた小学校、

直接的には建物も場所も違いますが名前を受け継いでいる学校に

「平成12年より前には、この学校は無かったのですよ、断固として」みたいに
言い放たれた気分がしたわけなのですよ。


学校が変化していったのは諸般の事情がありましょうけれど、
せめて平成12年に新規開校する以前に何十年もあった前史にいささかも触れていないのは
どうしたことかと思いましたですね。


近隣はナンバー・スクールのようと言いましたけれど、
ちなみにひとつ番号が前の学校のHPを見ると明治24年(1891年)の開校とある。
そして、ひとつ後の学校のHPにも昭和5年(1930年)の開校と書かれている。
さらにその学校の開校にあたっては母校から児童が何十名も移ってきたことまで書いてありました。
もはや、他校の歴史の中にしか残されていないとは…。


たぶん同窓生の中でも「小学校だし、別にどうでもいいじゃん」という人はたくさんおりましょうね、きっと。
でも、そうでない人もいるような。


自分もたまたま興味つながりでHPを覗いたわけですが、

そうでもなければ知らないままで済んだ事実かもしれません。

同じように知らないままいる卒業生がたぁくさんいる中には、

見たらびっくり仰天する人もいるんじゃあないかなと。


歴史の中では、自分が通った学校が影も形も名前もそっくり無くなってしまっていることもありましょう。
そうした経験をされた方がおられたら比較にもなりませんが、
まだそこにあるのに「昔のことは知らんよ」という顔をされるのにはどうも「逆なで感」ありですなあ。


学校に行って尋ねてみるか、それとも役所がいいのか。
足元の歴史を大事にしない小学校がいったい何を教えていることやら…とは毒づき過ぎかもですが、
何とかしてもらいたいものだと思うところでありますよ。

たまたまではありますが、このところ泰西名画の展覧会ではなしに、
リアルタイムの創造物を扱う展覧会詣でが続いておりますが、ここでまたひとつ。
フィナーレ選抜奨励展@損保ジャパン東郷青児美術館であります。


フィナーレ選抜奨励展@損保ジャパン東郷青児美術館

同美術館を運営する損保ジャパン美術財団ではこれまで新人の登竜門的な展覧会を開催して
優秀作を表彰するということをしてきたそうで、その受賞作家12名の展覧会が同展なのですね。


フィナーレというのは、これまでとは違った新たな公募展を始めることになるので、
これまでの総決算、そこでこういうタイトルになったようです。


前に何度か表彰作の展示を見に行ったことがありましたので、
「最後」と言われるとついつい心惹かれることになるわけですが、
行こうかどうしようか、非常に迷うところがあったのですね。
非常に個人的な事情ではありますが…。


まずは、同展フライヤーの一部分、

12名の作家による今回の展示作(部分)が何となく分かると思いますが、
一番下の左から2番目をご覧ください。


フィナーレ選抜奨励展フライヤー(部分)


2010年の受賞作、杉本克哉さんの「distance/ヘイタイきても、トマトつぶれても…」という作品。
スーパーリアリズム っぽい、実に実にリアルな描写で「つぶれたトマト」が描かれております。


何を隠そうですね、トマトが苦手なのですよね。
大人になってからは我慢することも覚えましたし、

子供の頃ほどには「いっさい口にしない!」ということはなくなりましたが、
このつぶれた感じなどは、そこはかとない身の毛のよだち感を抱いてしまうところなのでして。


またずいぶんと前の思い出話になってしまいますが、
ラジオから流れた曲にぴくっとして、アルバム(
LPレコード の時代です)を買いたいなと思ったのですね。

どうやらプログレの有名なバンド「イエス」の曲であると分かったものの、

この曲が収録されたアルバムのタイトルにいやな予感が。


実際にレコード屋に行ってレコード・ジャケットを見たときの衝撃たるや。
アルバム・タイトルは「トーマト(Tormato)」。


ジャケット・カバーには見事にぐじゃりと潰れたトマトが写っておりましたですよ。
ついに買うことなく、帰途につきました。


と、そんなことを思い出させる作品が一枚あるというだけで、行こうかどうしようかとなる。
この辺り、分かる人にしか分かりますまい。
何かを好きにしても嫌いにしても、その理由は本人にしか得心がいかぬものでありましょう。


ですが、結局のところ行ってしまいました。
要注意作(作家が悪いわけではありませんが)があるという予備知識があって、
出会いがしらの衝撃は回避されているわけですから、何とかなろうと。


かなり前置きが長くなりましたが、結果的には面白かったかなと思いますね。
ここの美術財団から賞をもらっているという実績はあるものの、

必ずしも評価も定まっていないとなれば、
かなり自由な気持ちで見ることができます。


本当はこないだ音楽のことを「お好きなように聴けば 」云々と書いたと同様に、
美術作品も「お好きなように見れば」というだけのことなんですけどね。


ですから、受け止め方も好きなようにさせてもらいますけれど、
例えば矢元政行さんの「回旋塔」jという2002年の受賞作です。


上の画像では一番上の列の左から2番目、

といってもこの画像の中ではもっとも分かりにくいですね。

(作品は、矢元さんの所属団体である行動美術協会HP でどうぞ)


一見したところではブリューゲル の「バベルの塔」のような建物かと思いましたが、
そこに描き込まれた面相のはっきりしない小さな人物群のようすからは、
ヒエロニムス・ボス を思い出すという(ブリューゲルも似たを書いてますけれど)。


もっともボスは数々の異形を描き出していますが、

矢元作品は先程の行ったように面相のない没個性。
決して同じ土俵にないようでありながら、何やら「終末」っぽさで通じているのかもしれません。


ただ、その終末の到来は悪魔が押し寄せてくるとかそういうことでなく、
どこまでもどこまでも開発し人工物で覆っていってしまう、そんな世界。

他の作品も同様ですけれど、一本の木すら生えていない異様さ、

自然物の見られない異様さを見逃してはいけないのでしょうね。


目を引いたもう一つは、岩岡航路さんの「南島・鮫池・忍」(2006年受賞作)。
ちょうど矢元さんの真下の画像です。

(やはり作品は、岩岡さんの所属団体・国画会HP でどうぞ)


小笠原に取材した(住んでいる?)明るさは、似た空気でもあるのかスペインの日射し、
つまりは
サルヴァドール・ダリ を思い出すところでして、

この作品も自然の中に不自然におかれた窓枠がとてもシュール。

シュルレアリスム にはあれこれ独自というか独断の解釈を施す楽しみ(?)がありますが、同じ類ですね。


最後にもうひとつだけ、権藤信隆さんの作品のことも。
上の段の一番右はじに出ている「現」が2004年の受賞作ですけれど、
先ほどの岩岡さんがダリならば、こちらは
ポール・デルヴォー ではなかろうかと。

(これまた作品は、権藤さんの所属する独立美術協会HP でどうぞ)


何も女性の胸のはだけた姿が描かれているからということでなく、
他の作品を見ても描きこまれるものがおよそ決まっているという点と

その組み合わせで見せる不可思議において。


展示の中では受賞作よりも

(2012年作とありましたので近作なのでしょう)「Le scelte future」という作品が、
「歴史」の詰った匣を開けてしまった瞬間を見るような面白さがありましたですね。


12人のうち3人しか触れないのは片手落ちではありますけれど、それぞれに面白かったなと。

以前は新聞の告知を見て画廊に足を運んだりしたこともありましたが、

やっぱり本当は見て買うという人のための場所かと思うと、いささか敷居が高いような。

その点、こうした展覧会は今まで知らなかった方々の近作をのんびり見られるのがいいですなぁ。

(でも、そろそろ泰西名画も見たくなってきましたですねえ)

先日聴いた読響の演奏会 で世界初演された

レイフ・セーゲルスタムの交響曲第252番のことはまた後で…としましたけれど、
その新作シンフォニーに付けられたタイトルというのが

「ヒッグス粒子に乗って惑星ケプラー22bへ」というもの。


その後に演奏されたシベリウス の交響曲第2番でのフル・オーケストラが貧弱に見えるほど、
ステージ上に所狭しと楽器が置かれるという大編成でありました。


もっとも左右両サイドそれぞれにグランド・ピアノとピアノとハープが置かれ、
最後列にはパーカッションの棚卸しで普段倉庫にしまいこまれたものまで出してきたかのよう。
スライド・ホイッスル、フレクサトーン、ラットルと言われてもいったいどんな楽器であったのだろうかと。


そうした賑賑しい編成で奏でられる音世界はと言いますと、
タイトルからの推測で「宇宙」をイメージすると

「確かに宇宙と言った時にはこんなような音を思うかもね…」というふう。

ひと言ではテルミンのような…と言ってしまえるかもですが、こうした音のイメージは
たぶんにSF映画の音楽に影響されての思い込みでありましょうね。


ところで、こうした話をするのにいささかの時間を要したのはですね、
そもそも「ヒッグス粒子」が分からない…、「惑星ケプラー22b」が分からない…ということは
タイトルに込められた曲への思いも分からないことになり、

「宇宙っぽい雰囲気」というだけではあんまりかなと思い、
調べてみようと思ったというわけでありますよ。


ではありますが、最初に言ってしまいますけれど、どうにも分からないものは分からないですなぁ、

特に「ヒッグス粒子」が。

1964年にイギリスのピーター・ヒッグス博士が

「物質に質量を与える素粒子があるはずだ」と言ったので名前のついた「ヒッグス粒子」。


宇宙はビッグバン で始まるわけですが、

このときに「時間」と「空間」が生まれ、同時にたくさんの素粒子が誕生したそうな。
「物質を形づくる素粒子」とか「力を伝える素粒子」とか、

そうした性質を持つ素粒子がこれまでに発見されているようなのですが、
「物質に質量を与える素粒子」はどうにも見つからなかった。


発見したから「あった!」と発表するものと文系頭は思ってしまいますが、
さまざまな事柄を突き詰めて考えると理論上「物質に質量を与える素粒子」があるはずだということを

ヒッグス博士が提唱し、探し続けられてきたということでしょうか。


しかしながら、何とはなし「ヒッグス粒子」の名前だけは知っているというのは、
去年2012年の7月にスイスにあるCERNの実験施設で

「ヒッグス粒子らしき新素粒子が99%以上の確実さで見つかった」と
発表されたあたりから話題になったため、漏れ聞いたというところでしょうか。


で、「ヒッグス粒子」が理論上無くてはどうしてダメなのかですが、
ビッグバンで様々な素粒子が誕生したと言いましたけれど、

それぞれの素粒子は光速で勝手に飛び回っているだけだったと。


そこに「物質に質量を与える素粒子」が登場したとして、

個々の素粒子にひっついたとすると質量ができるわけですから、
要するに個々の素粒子はでぶって?動きが鈍くなる。


そうすると、動きが鈍いだけに寄り集まってしまう可能性もあり、
そこから何らかの形を持ったものが宇宙空間に生まれてきた…となるんだそうですよ。


ですから、もしヒッグス粒子が無いとしたならば、未だに宇宙空間には素粒子が飛び回るだけで、
星々も生物も何もないということになっていたかもしれないというのですね。


では、今度は「惑星ケプラー22b」です。
アメリカの宇宙探査計画で飛ばされたケプラー探査機により
白鳥座にこれまで知られなかった恒星が発見され、「ケプラー22」と名付けられます。


そして、その恒星ケプラー22を周回する惑星もまた新たに発見され、

これが惑星ケプラー22bと命名されたという。


おそらくケプラー探査機が見つけた恒星でケプラー22はたぶん22番目とかいうことなのでしょう、
それ以外にもたくさんの未発見だった星の存在を確認しているようです。


が、取り分けこの恒星と惑星がクローズアップされているのは、
ケプラー22は恒星として太陽に近いタイプのものなのだそうで、
そういう恒星を周回する惑星が見つかったのは初めてと、ここがポイントのようです。


ここでまた素人考えを挟みますが、

太陽に近いタイプの恒星を周回する惑星が初めて見つかったとなると、
その惑星ケプラー22bというのは「もしかして、地球みたい??」という可能性を

考えてしまいますですね(クローズアップされる本当の理由はこちらかもですが)。


ですが、これ以上のことは分からない…って、

個人的にでなくって、ケプラー探査機にも分からない。


最初はボイジャーが土星に近づいたりしたように、

ケプラー探査機もずいぶん遠くまで行ったんだぁねぇ…と思いかけましたが、
白鳥座は地球から近い星でも11光年余り離れているという。


となれば、光の速さで11年かかるわけですね。
2009年に打ち上げられたケプラー探査機がそんなところまで行けようはずもない…

と「なんでだ?」状態になりかけたものの、
ケプラー探査機というのは要するにでっかい望遠鏡みたいなものなんだそうですよ。
地球からは見えにくいから宇宙の方に望遠鏡を飛ばしてしまえ!てなことでしょうかね。


…ということで、ヒッグス粒子と惑星ケプラー22bをそれぞれにさらっと調べてみたわけですが、
ここでまたセーゲルスタムの「ヒッグス粒子に乗って惑星ケプラー22bへ」というタイトルに戻ってみると、
もしかしたら地球にも似た環境があるかもしれない惑星に、

それがあることが生物の誕生にもつながりうる素粒子に乗って行く…。


もうみなまで言いますまい。

たぶん、ここまでお読みになられた方は同じようなことを思いついているのではないかと。

ただし、作曲者セーゲルスタムの本意は分かりませんですけれどね。

子供の頃の昔話 めいたことをしたりしますと、どうしたって荒川を思い出すことになるのですね。
小学校、中学校、高校と全ての校歌に荒川が出てくるという土地柄で育ったものですから、
荒川では釣りをしたり、凧を揚げたり、はたまた堤防上の道では冬のマラソン大会みたいなことを
させられたりと、あれこれあれこれあったわけです。


ただ、荒川は荒川でも最下流の地域だもので、土手という言葉はぴんとこない。
土手と言えば、芝生かなんかに覆われて、いろんな草が生え、いろんな虫もおり、
なるほど土でできてるんだなという場所のように思われます。


されど最下流域ともなりますと、もはやほとんど海と変わりがなくなっていて、
潮の満ち干ははっきりと表れますし、普段から波が寄せますし、

川の出口というより海の入り口ですかね。


そういう場所だからなのかは分かりませんけれど、

土を盛って(それこそ土留め して)では足らないのか、
完全にコンクリートで固めたいかにも人工物の堤防がずうっと続いているという。


もそっと上流にはあるらしい河川敷なんつうものもありませんし、
流量が少ないと川のそこここに中の島が出来るようなこともなく、

とにかく滔々と水が流れていっている、そういうのが川だとばかり思っていたわけです。


それが去年のいつ頃だったか、職場の同僚がTVで見たとして
「荒川ってのは、人工のものだったのだねえ」と話しているのを聞いたのですね。


あれだけの幅(個人的に知ってる辺りではどうやら500m余らしい)のある川を掘った?
「そんなバカな?!」と思ったものの、確かに単に荒川と言わずして「荒川放水路」というのかが、
その由縁であったと初めて気付いたのでありますよ。


まあ、そのときから気にはなっていたんですが、ここのところの思い出話ついでに探してみますと
図書館で「荒川放水路物語」とまさしくピンポイントでヒットする本が見つかったものですから、
読んでみたという次第。


著者は足立区の小学校で教員をしていたという方ですが、
足立区の南側に沿うように荒川が流れていることもあって、
社会の授業でしょうか、「荒川は人工の川です」と言うと児童は誰も信用しなかったそうなのですね。


そういうことがあって、荒川放水路の開削が歴史に埋もれつつあるのではと
川岸周辺の旧家を訪ねては話を聞くなどして情報を得、1990年頃に本にまとめたようです。
それにしても本当に荒川放水路は人が掘った川だったのですねえ。


元々の荒川本流は今の隅田川でありました。
江戸の町に流れ込むにあたって、

正式名称の荒川は「大川」とか「隅田川」と言い慣わされていたのかもです。


「荒川」という名前からして氾濫を繰り返した暴れ川であったと想像されますが、
江戸の町中にその名は似つかわしくないといいますか、縁起でもないといいますか(これは推測)。


そうは言っても、江戸市中も度々洪水に見舞われていたのは事実のようで、
これが明治になると「帝都・東京を守る治水」が必要てなことになってくるわけですね。

放水路開削の工事を当時の内務省が管轄し、土地の買収やら測量やらを始めたのが

明治44年(1911年)。

それ以前にも案としてはあったようですが、川の無かったところに川を掘るわけですから、
その立ち退きを迫られるような場所に該当しそうだというような地域では

こぞって大反対の陳情をしていたと。


ですが、それも明治40年、明治43年(着手の前年)と続いた大洪水に

もはや見過ごしにはできんとなったのでしょう。


JR京浜東北線が赤羽を過ぎると鉄橋を超えて埼玉県に入りますが、工事区間はここから始まります。
ここにある岩淵水門でもって、隅田川(本来の荒川)がオーバーフローしないように流量を制限し、
ほとんどは新しく開削する放水路に流し込もうという作戦。


岩淵水門で隅田川を分けた後、放水路は東から南東、そして南へとカーブしながら、
中川が海に注ぐ下流域に並行して開削していきますが、距離にして24km、幅は最大で500m余り、
文明開化の明治ならでは土運びには軽便鉄道(小型の蒸気機関車)なども使われたものの、
人海戦術であったろうとは思われますね。


用地買収の難航、工事現場での犠牲などなどさまざまに難問山積であったそうですが、
自然の川のように蛇行するでもなくおよそ無駄なく開削を進める中では、
ひとつの村が放水路によって分断されるようなこともあり、こうしたことへの抵抗も大きかったようですね。


足立区が荒川より北にあるかと思うと南側に飛び地があり、
江戸川区も荒川より東にあるかと思うと西側に飛び地があるといったことを

かつて不思議に思っていたのですけれど、
元は自然の川の流れなどであっちの村、こっちの村とされていたのが、
藪から棒の放水路開削で切り離されてしまったというのが事実。
これもよおく考えれば、荒川放水路が人工の流路であるが由縁でありましょう。


しかしまあ、東京に川は多いですが、荒川(放水路)を流れる水というはたいへんな量ですね。
仮にこの放水路が無かったとしたら、隅田川沿いに川面間近に散策できる遊歩道など作れようもなく、
大雨でも降った翌朝には濁流となって隅田川にかかる橋々を揺るがせていくのでしょう。


もちろん、流域の浅草も両国も築地も、隣接する上野も錦糸町も銀座も

全ては水に浸かるようなことが繰り返されていたのかもしれませんですね。


ところで、川の氾濫への対処として流路を変えるという工事は昔から行われてきたそうですが、
結構びっくりしましたのが、利根川の話。


利根川と言えば、日本を代表する大河の一つとして
千葉県・茨城県の境を通り銚子で太平洋に注いでいる…と思うのが自然ですけれど、
この利根川もかつては江戸湾(東京湾)に流れて込んでいたのだそうな。


やはり江戸の水害対策だったのでしょう、

元々銚子へ注いでいた鬼怒川へと直結させる流路を開削して、
東京の遥か北を横断する川が利根川になっているのですね。
工事を行ったのは、寛永年間といいますから1600年代の前半でしょうか、
徳川の世の「プロジェクト×」だったかもしれませんですねえ。


今でも夏場の雨の多い時期になると、

関東平野の中央部などでには土手の決壊による出水騒ぎが報じられたりしますが、
川の流れというのはあるがままの自然のものではなく、

川と人間との格闘の結果ということなのですね。