ストックホルムの王宮 探訪のすぐ後に登場させるのも妙なものですが、
江戸東京博物館で開催中の「二条城」展を見てきたものですから。


二条城展@江戸東京博物館


だいたい京都へは中学と高校、二度の修学旅行で行ったきりでして、
およそ有名な見学ポイントは見て回った中に二条城もあったのではと思うのですが、
鶯張りの廊下のことくらいしか覚えていないという。


その後まともに京都に行ったということがありませんので知識は皆無で、
それこそ二条城が何のためのものであったのかということも知らなかったのですね。
それが本展でもってようやく理解の糸口を得たということになりましょうか。


二条城の築城は1603年、まさに江戸幕府の幕開けの年であって、
征夷大将軍として東国から全国に号令を下す徳川家康が京に赴いた際の城館として
建てられたそうな。


当時の江戸の図面は江戸城があり、日本橋 があり、遠くに富士山 を加えればなおのこと
「ここは江戸です」と注釈を施さなくとも江戸であることが分かったわけですが、
京都においてもたくさん描かれた「洛中洛外図」で御所があり、二条城がありとすれば
「ああ、京の都ね」と分かったのかもしれません。


洛中洛外図屏風


そうした位置づけたればこそ、天皇がおいで御所との関係においても
大いに将軍の威信を示さねばならない運命を担っていたというべきなのでしょう、
城内には3,000面の障壁画があったといいますから、実に豪壮華美なものですね。


ただ先日ちらっと見た日光東照宮修復を扱ったTV番組でも言っていたのと同じように、
創建当初からこれだけの規模であったわけではなく、歴代将軍が折に触れて改修等を重ねる際に
自分の権威を示すがごとく力を入れた結果てなことはありましょうね。


こんなふうに、徳川幕府の西における権威の象徴のような二条城ですけれど、
どうも使われ方としては宝の持ち腐れ的であったような。


建てさせた家康はもちろん利用したものの、その後秀忠、家光 と来て、
1634年の家光上洛以降は、何と幕末も近い1863年に十四代将軍の家茂が入城するまで
230年間も将軍が入ることはなかったのだとか。


下種のかんぐり以外のナニモノでもないとは思いつつも、
数多の障壁画に取り囲まれた居室はいわばきんきらきんでさぞ居心地が悪かったのではないかと。

それを裏付けるように?将軍の居間であり寝室であった二の丸御殿の白書院二の間は
水墨画風の枯れた味わいに包まれている…と思いかけましたが、

おそらく当時は極彩色だったのかもですねえ。


まあ、こうした展覧会が開催されるということは、

おそらく二条城もまた修復の最中にあるのだろうかと二条城オフィシャル・サイトを見てみましたら、

第一期修理工事はやっているものの、見学できないわけではなさそう。


そうは言ってもそこここにシート被ってなんつう状況ですと興ざめですから、

いつ頃に完了するのかは分かりませんけれど、修理工事が全て終わりましたら
今度は鴬張りだけのうろ覚えにならないように訪ねてみるとしますかね、二条城を。


二条城展@江戸東京博物館


ちなみにHPで見てびっくりしましたが、二条城で結婚式ができるんですねぇ!

個人的にはおよそ関わりないことですが…。

ガムラ・スタンの路地 を抜けて港に面した広場に出たわけですが、
そこでお見かけした有名な王様グスタフ3世アドルフ王の像。

アップで見ると、こんな感じです。


グスタフ3世アドルフ王之像


そして、そこから振り返り見ますと、
スウェーデン王室の王宮がどどんと鎮座しておりました。
左手の坂道を上っていったところに見学者の入り口があるのですね。


ストックホルム王宮


まずは礼拝堂を覗かせてもらいましたが、思ったよりも質素な印象。
先に触れたグスタフ3世アドルフ王がつとに有名なのは三十年戦争(1618-48)への介入であって、
この戦争はカトリック同盟対プロテスタント連合といったところもあるわけですが、
プロテスタント側の雲行きが怪しくなるや、颯爽と駆けつけて敵を蹴散らし…といったイメージが
この王様にはあるように、質素な礼拝堂も新教を奉じたスウェーデンらしさなのかもしれません。


続いて地下の宝物庫のようなところに降りていきましたが、
狭く暗い石の階段を通り抜けるときには「うむむ、いかにもダンジョン」というふうで、
降りて見れば実際に地下牢だったんではなかろうかという冷ややかさを感じたのでありました。
ただし、並んでいる品々は古風ないぶし銀の様相を湛えておりましたですねえ。


8世紀から11世紀と言われるヴァイキングの時代を経てなお
統一国家的まとまりを欠いていたスウェーデンですけれど、
16世紀になって登場したグスタフ・ヴァーサ王がようやく国を纏め上げた。
ですから、ヴァーサ何々という王様ゆかりの地名やら何やらはそこここにあるわけで、
泊まっているホテルが面している
Vasa gatan という通りの名もやっぱりこの王様。


でもって、展示の中にはヴァーサ王の剣が置かれているのを見ますと、
長い歴史の流れを感じたりするわけでありますよ。
16世紀といえば、日本も信長、秀吉、家康によって

戦国の世から統一国家へという道をたどっていたとき。
「これが秀吉の使った刀ですかぁ、ほお~」というに似た感懐とでもいいましょうか。


というところで、ダンジョンを抜け出して

階上にある王族のお住まいだった部分におじゃまをします。


「だった」というのは、現在の王室が住まっているのは

ストックホルム郊外にあるドロットニングホルム宮殿であって、
ストックホルムの王宮では公開していない部分でもって執務にあたることがある

てな使いわけのようです。
英国王室のウィンザー城とバッキンガム宮殿みたいな関係でしょうかね。


さて王宮の中ですけれど基本的には質素な感じがして、こういってはなんですが、
やっぱりヨーロッパでも端の方なんだなぁという気がしてくるわけです。


それでも、ヨーロッパ中央の大国との対抗心からか、こんなにいろんなものがあるのですよと、
勲章やら衣服やら家具調度やらをふんだんに展示している。
これを見てると「やれやれ、王様も大変だぁね」と思わずにはいられないところですなぁ。


最終的には現国王カール16世グスタフ王の紹介で終わるようになってますけれど、
その即位前には現在にも繋がる王制廃止の議論もあったのだとか。


先王グスタフ6世アドルフ王はカール16世の祖父でして、
息子は1947年に不慮の事故で亡くなってしまい、残されたのはまだ赤ん坊のカールということに。
そのときにはグスタフ6世を最後の王様として共和政への移行がまじめに検討されたようです。


結果的には王権を限りなく縮小し、日本が天皇を象徴としたような存在として

存続が図れらることになったと言います。
もっとも、議論経過は日本の場合と著しく異なるものですけれど。


さりながら、グスタフ・ヴァーサ以来のスウェーデン王室が

ことここに至るまで磐石であったかといえば、そんなことはないのでして、

王朝の移り変わりもありましたし、危機的状況を乗り越えてたどりついたのですね。


そんな中で「え?」と思いますのは、
今に繋がるベルナドット朝の始祖カール14世ヨハン王が、

はっきり言ってスウェーデンとは縁もゆかりもない人物だということ。


ヨーロッパの王室で存続の危機にあたって、

他の国からいささかなりとも血のつながりのある人物をもってきて
王位継承者にするケースはままありますが、カール14世はどこぞの王族ですらなかったという。


経緯を記すと長くなるので端折りますが、カール14世の即位は1818年。
それに先立つ1810年に王位継承者として当時老齢だったカール13世の養子に迎えられたのですが、
どこから来たか?フランスから。どんな人物か?ナポレオン軍の元帥でしたけれど、出は庶民だそうな。


ちなみに奥さんもフランス人、

したがって次いで王位についた息子のオスカル1世も生粋のフランス人ではないかと。
それを迎えたスウェーデンの人たちの心境やいかにでありますねえ。


ナポレオンは一族を中心にいろんな場所の王様やら貴族やらに据えていって、
欧州大陸を我が物としていったわけで、そんな流れのひとつかなとも思われるところですけれど、
どうやらそう分かりやすい事情ではないような。


元々ベルナドッテとナポレオンはあまり馬が合わなかったようで、
ナポレオンがベルナドットをスウェーデンに送り出すにあたっては

「フランスのためによろしく」くらい言ったかと思いますが、
これに対してベルナドットは「私はスウェーデンに尽くします」てなことを言ったとか。


外国人だろうと庶民の出だろうと、

へたな王族の血のつながりよりも良い王様を選んだのかもしれませんですねえ。


…てなことを考えながら、王宮の数多の居室をめぐって歩いたのでありました。


ストックホルム王宮 広場側

二期会の公演でワーグナー の「パルジファル」を見てきたのですね。


とはいっても、実際に見たのは15日の土曜日なんですが、

印象(例によって極めて個人的というより、独創的な印象?)として

「え?!!!!」と思ってしまったものですから、すぐさま何かしらを書いてしまいますと、

もし日曜、月曜の公演をご覧になる方のお眼にでもとまろうものなら

大きな先入観を与えてしまいそうですので、控えておりました。


二期会公演「パルジファル」@東京文化会館


正直に申しまして、ワーグナーの「パルジファル」は見るのも聴くのも初めてでして、

白鳥 の騎士ローエングリン の父親がパルジファルではなかったか…くらいのことしか思いあたらず、

ストーリーも何も知らない状態で臨んだのですよ。


ですので、会場では早めに席についてせっせとプログラムのあらすじをたどっていたわけですが、

ざっくり言うとこんなお話。


キリスト磔刑の際に使われた聖槍、そしてそれによって生じた傷から流れた血を受けた聖杯という

二点の聖遺物を護る騎士団がスペインにありました…ですから、舞台はスペインです。


バリエーションの多い聖杯伝説ですが、例えばアーサー王伝説に取り込まれると

聖杯を探しだすという話になるわけですが、ここでは現に存在してそれを護っているという設定。


ところが、騎士団の仲間になりたいと申し出たクリングゾルに対して、

騎士団の長(王様と呼ばれてます)は拒絶し、あろうことかこれを恨みとしたクリングゾルは

魔法使いとなって騎士団に対抗するようになり、騎士団は壊滅の危機に。


そこに現れたのが、どこの馬の骨とも知れぬ若者。

自分の名前も素性も分からないという、いわば聖愚者(ユロージヴィ)にも比肩できるのかもですね。


結果的には彼こそはパルジファルであって、

その後も聖槍、聖杯を守り抜く「救世主」でなのであったというわけなのですよ。


…と、かいつまんで言ってしまうと身も蓋もない話ですけれど、

多分に解釈の余地の多いストーリーを持たせているのはひとえにワーグナーの音楽だろうと。

大作「ニーベルンクの指輪 」を経てたどりついた所はもはやオペラではないとも言えそうです。


淀みなく流れる音楽に乗せて歌われる歌唱は、

およそオペラで想像させる名人芸の発露とは言えないドラマの要素になってきている。

古えの大コメディアン古川ロッパが「歌は語れ、台詞は歌え」と言った辺りを彷彿とする

いわばひとつの境地にワーグナーは到達していたのもしれません。


ところで、このストーリーの結末のことであります。

先に解釈の余地が多いと言いましたけれど、そうでなくとも古典劇はもとよりオペラ一般に関して、

時代背景やら何やらを大幅にいじっての新演出が多々見受けられ、

玄人さんならその新趣向を楽しむこともできるのでしょうが、

素人筋には「え?」という演出がままある世界。


でもって、こたびの「パルジファル」はといえば、

救世主であることが自他ともに認められたパルジファルは

最後の最後で軍服を着て現れるのですね。


時折挿入された映像は最初のうち

ユロージヴィよろしくパルジファルが裸足で野原を歩いているらしいところを映し出していましたが、

やがてこれがブーツ履きになり、後には軍靴の行進といった映像になっていく。


もともと中世スペインが舞台設定であるものを、

幕開け早々からその服装から19世紀から20世紀初頭を想起させるのでして、

騎士団側が禁欲の側とすれば魔法使いクリングゾルの側は世俗、さらには堕落、退廃の世界で

世紀末 ともつながるものの、例えば映画「キャバレー」に描かれるような大戦間期のドイツを

思い描くこともできようかと。


そうなってくると、狂乱と退廃の世に対して救世主のごとく現れた者が

実は最初から自分の役割を知っていたというよりは流れの中で気付かされ、

結果的に従おうとする人々の前に軍服姿で現れる。


そして、流れているのはワーグナーの音楽であるとすれば、

もちろんよもやと思いつつも、ここでアドルフ・ヒトラー を思い出さないとすれば嘘になりますね。


…とまあ、こうした想像に我ながら愕然としたわけですが、

演出の真意のほどはあえてググッたりしていないので分かりません。


それでも、ここで触れた想起の要素はほんの一端であって、

他にも結びつかて考えてしまうところがあるとしたら、ひとりの妄想とばかりも言えないような。


ですが、大騒ぎにならないのはやっぱり思い過ごしでしかないのか、

これはこれでひとつの解釈であると割り切られているのか…。


初めて「パルジファル」を見て、ワーグナーが最後にたどりついた劇世界に凄さを感じる一方、

この演出(を受け止めた個人的見方としてですが)に衝撃を覚えたのでありました。

朝方にストックホルム中央駅近辺を散策 して、これはこれで味のあるところでしたけれど、
朝食後には駅のある側からひとつ橋を渡った先の小さな島、
このまたちょっと違う古さを感じさせる場所に出向いたのですね。


ガムラ・スタン(Gamla Stan)という音だけからすると
インドネシア語?(ガムランかと?!)と思ったりしてしまうのですが、
どうやらGamlaは古いという意味合いらしく、要するに旧市街といったふう。
これがガムラ・スタンでありました。


行き方は徒歩、地下鉄、バスとあるものの、
バス停がホテルから直近だものですからバスに乗って、
もうひとつ先まで行く島を抜けてしまうという停留所Kornhamnstorgで下車します。

奥の方から手前側にじわじわ攻めて行こうという作戦なのですね。


バス停の目の前は小さな広場(小さな広場って変な言葉ですね…)になってまして、
例によって(と言ってよいかと思いますが)銅像が建っています。


ガムラ・スタンのとある像


軍服姿や乗馬姿の歴史上の人物ではないところが、
ガムラ・スタンの古さを物語っているのでしょうか。


それにしても、古すぎかなと(なんとはなし「アバター 」を思い出したり)。

また銅像のすぐ近くにはこんなものも。


ガムラ・スタンの公衆電話ボックス


よく見ると「Telefon」と書かれてありますので、おそらくは公衆電話ボックス。
さすがに電話機自体は外されてもう無いのですけれど、
こうしたものをオブジェのように置いておくのもガムラ・スタンらしいところなんでしょうか。

そうなってくると、周りの建物もやっぱり今朝がた見て回った建物とはちと違うような。


ガムラ・スタンの建物


よく見ないとステーキハウスとは分からないお店構えも、
ちと印象が異なるというか、まあ観光客向けと言えないこともないですが…。


花いっぱいのステーキ・ハウス


とまれ、裏道に足を一歩踏み入れるとこんなふう。
狭い石畳の路地が続いているのですね。


ガムラ・スタンの裏路地


時折いささか開けたところに出ますけれど、
こうした空間はいかにも北欧のヴェニス と言われる由縁

かと(本当は水に囲まれてるってことでしょうけど)。


そんな開けたところの一つが鉄の広場(Järntorget)でありまして、
歴史的には船で運ばれる鉄の一時保管場所だったところと言います。

写真にある得体の知れないものは、計量器なのだそうですよ。


鉄の広場の計量器


さらに裏道をゆるゆる進んでいきます。
お?こりゃ、何だ?


ガムラ・スタン路地裏の謎


NHKの「世界ふれあい街歩きだったら、たぶんその建物の人とか通りすがりの人をとっつかまえて、
「これ、何ですかぁ?」と聞くところでしょうけれど、あいにくと全くひと通りがありません。


「馬の手綱でも結わいたものかな。それにしちゃあ、低いところにあるなぁ…」てなことを考えつつ、
進んで行きますと、今度は結構広いところに出ました。
シェップマン広場(Köpmantorget)またまた立派な像が建てられています。


シェップマン広場


前に回ってみると「Sankt Goran och Draken」と記された説明板があり、
思ったとおり、聖ゲオルギウスのドラゴン退治であったなと思いながら、
スウェーデン語の「och」はたぶん英語の「and」あたりかなと想像するわけです。


あんまり立派な像なので、正面からも撮っておきましょう。
しばらくだらだら坂を上ってきましたので、ここはちょうど崖のような地形。


Sankt Goran och Draken


前に回るというのは崖下に降りて上げるてなふうようになりますので、
背景左右の建物がまるで傾いでるよう見えますですねえ。


この崖下の道を進んでまた裏道に折れようとしますと、
お!道の先が明るい。


ガムラ・スタンの海へつづく道


辿っていくと海に出ました。
今まで空は狭い路地の上に細く区切られていただけでしたけれど、
こうして路地から出てみれば、なんと空の広いこと。


グスタフ3世アドルフ王の像


見えている像はおそらくスウェーデンの王様でいちばん有名な(日本の世界史教科書にも出ていた)
グスタフ3世アドルフ王(昔はグスタフ・アドルフとして出ていたような)であります。
そして、像のところから振り返るとスウェーデン王室の王宮が!というわけで、
これから王宮に向かうことにいたしましょう。

「モンサントの不自然な食べ物」というドキュメンタリー映画を見てきました。


モンサントの不自然な食べ物


モンサント社は本社を米国に置くバイオケミカルの多国籍企業で、
「世界の遺伝子組み換え市場の90%」を握っていると言われる巨大企業なわけです。


映画ではモンサント社の実態、すなわち食への影響、環境への影響等をおよそ顧みることなく
市場を独占していくあり方に対して、冷静にではありますが厳しい追及が見てとれるのですね。


モンサント社はヴェトナム戦争で使用された枯葉剤を供給した企業で、
そのノウハウを活かして?農薬生産に転じ、そしてその自社農薬には影響されないよう

遺伝子組み換えをした大豆やらトウモロコシやらの種子を扱う

といったふうにビジネスの方向を変えていったようです。


そして、農薬(自社のですが)が使えて作業の手間は減り、
しかもそれに影響されない上に収穫量も増える種子であることを謳い文句に
世界中の農業を牛耳るようになっていることが伝えられます。


モンサントの農薬を使えば、それに抵抗力があるとされるモンサントの種子をまかねばならない。
一度はまるとモンサント製品を使い続けなくてはならなくなってしまうといったビジネス姿勢もさりながら、
だいたいモンサントの種子から収穫した作物の安全性はどうなのか?にも警鐘を鳴らしているわけです。


もちろんこれだけ大々的に販売されているものに疑義を挟む余地があるのかとも思えますが、
さまざまな法規制を潜り抜けるための研究報告や調査結果は、関連する機関に必ずといっていいほど
同社の息掛かりの人物が要職にあり、報告や結果が杜撰な内容であってもまかり通るようになっている、
そして外部機関の研究者が検証して同社に否定的な結果が出ると、

その研究者に対しても圧力をかけてくる…といった様子が示されると、おやおや…と。


遺伝子組み換えによる産物を使った食品による人体被害が具体的に示されるわけではないものの、
例えばトウモロコシが最大の農産物であるメキシコでは遺伝子組み換えトウモロコシを規制していても、
隣国アメリカの遺伝子組み換えトウモロコシが自生種に受粉してしまうような形で

侵食が起こっているようでもあり、その結果として

自然にはあり得ないような実の付き方が起こってしまったりもしているとか。


タイトルにある「不自然な食べ物」というに相応しいような
自然でない出来の食品が生じているのだなと思うわけでありますね。


…と、こう見てくると「何て酷いことをするんだ、モンサントは」とどうしたって思う。
ただ、ちょっとだけ待てよと思いますのは、

(と、予めモンサントを擁護するつもりでないことだけは言っときますが)
いろいろ資料を示し、インタビューも重ね、

どうしたってモンサントに否定的な印象は堅固になるのも当然ながら、
どうしてもワンサイドな話だなということなのですよ。


先ほど言ったようなモンサント製品を使い続けるサイクルに陥ったインドの農家では、
使うようになる以前と比べて(常に費用が発生するわりに言われるほどの収量がなく)

自殺者が増加しているといった指摘も自殺の原因がモンサントとの関わりに行きつくとは

必ずしも言い切れないように見えましたし、
かつて枯葉剤を作っていたような企業だからと言っては、

あまりにも決めつけに過ぎるようにも思えます。


ただ、モンサント社に対して再三再四要請した直接インタビューには結局応じられなかったことや
映画の最後にあったモンサント社が取材を断る際の電話録音で聞かれる
「取材に応じてもこちらの利益にはなりませんし」的なひと言などを見ても、
およそ外向きの姿勢はなく、大事なのは自社利益と考えているだなと

思われても仕方のないところかなと。


日本にも日本モンサントという会社があって、
そこのHPには「『モンサントの不自然な食べ物』に対する見解」が掲載されていますので、
説明するつもりがなくはないのかな…と思ったりもしましたけれど、
あのページを見て「そうか、大丈夫なんだ」と思う人はまずいないと思われますね。

けむに巻こうとしてるんでないのと、むしろ思ってしまう。


そして、何よりモンサントが90%だからモンサントが悪い云々以上に、

残りの10%も含めて遺伝子組み換えというテク二カルなものが使われるのは、

こと人間が口にするものと直結する製品には時期尚早なのではなかろうかということ。


人工的にいじった結果が

「たぶん大丈夫」とか「さしあたり大丈夫」とか言うことでは了解しにくいですよね。

そんなことを思うにつけ、

モンサントに直接的に繋がりを持つ人たちは何を食べてるんだろうと思ってしまいましたですよ。