新橋で出たついでに汐留にある旧新橋停車場鉄道歴史展示室にちょこっと立ち寄ってみましたら、
「百年前の修学旅行 ハイカラさんと東京駅の時代」という企画展示があったのですね。


「百年前の修学旅行 ハイカラさんと東京駅の時代」@旧新橋停車場鉄道歴史展示室


その展示によりますと、修学旅行のそもそもはこういうことになるようです。

「修学旅行のはじまりは、明治19(1886)年に東京高等師範学校が行なった房総方面12日間の長途遠足である」と一般的には言われている。

東京高師と言えば、後の東京教育大学、さらに今でいう筑波大学の前身でありますね。
ですので、年齢的には今の大学生くらいが出かけるもの、

それが修学旅行であったということになりましょうか。


展示では修学旅行の例として
奈良女子高等師範学校(現・奈良女子大学)のようすを伝える史料が多くありましたけれど、
この奈良女高師の修学旅行は先に触れた東京高師で修学旅行に参加した学生が
後に奈良女高師の教員となったところから授業に組み込まれていったのだとか。


当時は日帰り遠足をも修学旅行と呼んでいたらしく、
学年が上がるにつれ、移動距離や日数が伸びて行く傾向で、

在学4年間では10回余り実施されていたそうな。


今では修学旅行に日帰り遠足という感覚はおそらくないですよねえ。
そして、遠足と言えば小学校・中学校のもの(小学校だけ?)であって、
どうしても子供がおにぎりを持っていくものという気がしてしまうという。


そして、遠足という話がでるときには
「おやつは何百円まで(この何百円は世代によってずいぶん違うのでしょう、きっと)」といったこととか、
「バナナはおやつに入るんですか?」と聞く子供が必ずいるという都市伝説?や
学校に戻ってきて校庭に集合したときに先生が言う

「家に帰るまでが遠足です。みなさん気をつけて帰りましょう」
とのひと言を何かしらの集まりの解散時に受け狙いで真似をする…

てなことがあれこれ思い出されるわけです。


思い出しついでにですが、

昔の遠足は「遠い足」という文字通りに長い距離を歩くことが主眼だったような話を
両親から聞かされたことがありましたですね。もっぱら体力作りだったようで。


今や修学旅行は体力作りが目的ではなくって、

歴史に触れる、文化に触れるといった要素が専らかと思いますが、
展示にあった奈良女高師の修学旅行参加学生が書いた日記(?)を見ると、
確かにカルチャー・ショックを受けとる!と思われる記載が見られましたですね。


ちなみに、奈良女高師の修学旅行はなかなかの長丁場でありまして、
奈良を発った後、三重、愛知を経由して長野に入ります。善光寺あたりを見たのでしょう。


その後軽井沢 から碓氷峠を当時のアプト式のラックレール鉄道で越えて関東に入ります。
66.7パーミル(パーセントの100分の1でなくって、1000分の1)の勾配ですので、
1km進むうちに66.7m高くなるという計算になりますが、

ここが日本の鉄道で最も急勾配だったのだとか。

(このあたり、鉄道歴史展示室ならではかと)


長野新幹線はトンネルで過ぎてしまうため、ここの区間は廃止 になってしまってますけれど、
当時ここを通った女子学生はそれこそ生きた心地のしない峠越えだったようでして、
こんな狂歌が残されたそうでありますよ。

アプト式よしや歩みはおそくともあともどりせぬことぞうれしき

ところで、この一行はその後日光に向かいます。
東照宮を始めとする歴史文化遺産と、いろは坂を登れば大きな自然の景色をも堪能できる。
今も昔も、そして外国人にとっても日光は一大観光地なのでしょう。


こうしてあちこちを見て回りつつたどり着いた東京。
ここで奈良女高師の学生たちはカルチャー・ショックを受けることになるのですね。


丸の内を行き交う人ひとひと。

そして、その中でもやはり目につくのが東京の女学生の装い。
明治・大正の頃の奈良女高師の学生ともなればエリート中のエリートであったでしょうし、
当時としては装い的にもハイカラさんであったと想像されますが、
それが東京に来て「あらま!」と感じたことを書き残しているわけですね。

上には上があるものだ…と。


とまあ、そんなこんなの修学旅行は、奈良女高師の方々ばかりでなく当時の経験者には
さまざまな点で強い印象を残したのではと思うところですけれど、
いざ我が身を振り返ってみると(明治・大正でなく昭和の修学旅行ですが)どうにもこうにも印象が薄い。


京都・奈良には行ったけれど、どこを見たのかさえ判然としないという。
昔の学生酸と違って、ただ単に臨む姿勢がいい加減だったから…なのかもしれませんけれど。

さて、ヘルシンキに到着して早々の遠出であったアイノラ 往復を終えて、

街中に繰り出すこととなりました。
旅もすでに終盤に来ておりますので、見ておくべきは逃さずにというところでありますね。


ということで早速に出かけたのは

Ateneum(アテネウム)と名付けられたフィンランドの国立美術館です。


ホテルを出て中央駅方向に歩き出して最初の大きな交差点を右に折れてみれば、

左手にはまず中央駅がどぉーんと。


ヘルシンキ中央駅


そして反対側右手にはアテネウムの建物があるというわけで、
こう言ってはなんですが駅前美術館ということになろうかと。


アテネウム美術館


ストックホルム でもトゥルク でも同様でしたけれど、

自分の国の画家たちの作品を展示しているのは当然のこと。


それでも国立美術館ならではの著名作家作品もあれこれあろうと思われるわけでして、
それらをほどほどにバランスよく見られるとありがたいところなのですね。


が、折しもHelene Schjerfbeck(ヘレネ・シェルフベックと読んだらいいでしょうか)という

フィンランド画家の回顧展を開催中で、しかもその規模が大きく、ガイドブックに

「フィンランド人画家のほか、ゴッホやゴーギャンなど海外の有名画家の作品を展示」と

紹介されているような作品はどうやらお蔵入りか貸出中なのではと思われたのでありましたよ。


ということで、思い切りフィンランド絵画を見てみよぉ!ということですが、

まずは何といってもこの一枚。「アテネウムの真珠」と言われておるそうです。


ヘレネ・シェルフベック「The convalescent」


なんでも1889年のパリ万博 (エッフェル塔が作られたときですね)で銅賞を受賞した作品で、

アテネウムの人気ナンバー1とあって、図録の表紙を飾っているという。


でもって、これがヘレネ・シェルフベックの作品だそうで、

タイトルが「The convalescent」(病み上がりってなところでしょうか)。


いやあ、愛らしいですよね。

寝込んでた名残りのシーツを巻き付けちゃってますけれど、

自分としては「もう治ったもん!」てなふうに置き出しちゃってる場面かなぁと。


ちなみにこの絵はシェルフベックがイギリスのセント・アイヴス滞在中に描かれたそうですが、

セント・アイヴスといえばひと頃芸術家コロニーのようになっていて、

そこに集った画家たちが素人画家アルフレッド・ウォリス を見出したのでしたっけ。


ヘレネ・シェルフベック「Mother and child」


こちらはまたシェルフべックの「Mother and child」という作品。

母親が子供をやさしくもしっかりと抱いている場面ですけれど、

実物で見るとさらにじんわり、その慈しみが感じられるのですね。


ところでこうした2枚を見てくると、

シェルフベックの作品傾向を限定してしまいそうになるものの、

その実このような作品もあるという。


ヘレネ・シェルフベック「Wounded warrior in the snow」


傷ついた兵士が一人、雪の中に取り残される。

仲間たちと思しき一団はすでに遠ざかり、小さな人影となってわずかに見えるのみ。


後で別のところで触れようと思いますけれど、

フィンランド絵画には(目についた限りですが)戦争を題材としたものが多いような。

大国の狭間にあった国の歴史を考えるとき、そうしたことになるのでしょうか。


傷ついた対象を描いたという点でアテネウムでもう一つ目を惹くのは、

Hugo Simberg(ヒューゴ・シンベリ)の作品ではないかと。


ヒューゴ・シンベリ「The wounded angel」


なんとまあ、傷ついているのは天使ではありませんか。

結構インパクトが強いなと思うわけですが、

やはりアテネウム作品の人気投票では上位に入るようです。


が、図録に曰く作品を読み解く糸口は無く、見る者の数だけ解釈がある…

てなことが書かれておりました。


ですので、これに勇を鼓して勝手なことを言いだすことにしますが、

まず傷ついた天使はフィンランドという国でありましょう。


描かれたのは1903年ですからまさにロシアではニコライ2世の専制下であって、

ロシア皇帝を大公にいただくフィンランド大公国としては圧政に拉がれていたのではないかと。


担架を担いでいるのが子供たちだというのも印象的で、

将来にも渡る憂いを感じさせるところは前を歩く押し黙った少年に顕著です。


一方で、後ろの少年はこちらを睨み据えているように見えますが、

その顔つきは「お前のせいだ!」とでも言わんばかり。


子供たちからすれば、絵を見る者がだれであれ、

自分たちの将来を傷つけているのは、見ているあなたがたですよと。

それがロシア側からやってきた為政者たちならなおのこと、

フィンランドの上層階級、知識人階級にも訴えかけずにはおけないというふうに。


フィンランドの歴史がらみになると、どうしても悪者側に立たせざるを得ないロシアですが、

アテネウムではロシアの逸品を見ることもできるのでして、

先日東京で回顧展のあったイリヤ・レーピン 、その肖像画作品でありますよ。


イリヤ・レーピン「Professor Ivanov」



イリヤ・レーピン「Portrait of Jelizaveta Zvantseva」


ある者は思い悩み、ある者は憂い顔。

ロシアで肖像画が描かれるような層の悩みや憂いがフィンランドの国情に係わるものであったら、

歴史はまた違った現在を作り出していたかもしれないですよね。

アテネウムで思うそんなあれこれなのでありました。

実はアイノラ へ向かうバスに乗りこもうとしたときに、
何やらドライバーさんに尋ねている日本人女性がいたのですね。


やりとりは英語のようでしたので、日本人という確証が得られたわけではないものの、
見間違えるとすれば中国か韓国の方となりましょうが、女性のひとり旅というのは
およそ両国には見られず、ほぼ日本人であることが間違いないと思われたわけです。


そして、ヤルヴェンパーまでの沿線にまだまだ知らない観光名所があるのならいざしらず、
たぶん行き先はアイノラであろうと思っていたのですね。


すると、その女性は案の定アイノラのバス停で下車して、ドライバーが指し示した方へ歩き出す。
予めあれこれの検索で仕入れたところをその場所に照らしてみると、どうしても向かう先には
シベリウスの住まいであろうと。


遅れてゆるゆると、まるで後をついていくがごとく歩いていきましたが、

(ついていかないとたどり着けないわけですが…)
10時の開館ちょっと前なために門扉が閉まっていたために、

ここで先ほどの女性と鉢合わせとなりました。


先ほどまでの推測がありましたので端から日本語で話しかけましたが、
シベリウスに興味がおありなのだとか。

そりゃあそうですよね、アイノラ訪問はたっぷり半日を潰すことになりますし、
他の観光地をさておいてここへ来るということは、ある程度の思いが必要でしょうから。


アイノラの敷地内を見て回っていると、森の中で再び出くわしましたので
「そっち行くと、『かもめ食堂』のみたいなきのこが生えてましたよ」とか声を交わして、

すれ違ったりしとりました。


アイノラのきのこ


ただ、往路同様にバスの本数が限られているということは

自ずと帰りのバスが決まってくるわけでして、

停留所でのバス待ちでまた一緒になるわけですね。


そのときに彼女曰く「蚊に刺されませんでした?」と。
まあ、木立の中を歩いてきたのですから蚊くらいはいたでしょうけれど、
不思議とこちらにはその兆候がない(日本ではよくぼこぼこにされるんですが…)。


てなことで、帰りのバスでは今回の旅やこれまでの旅のあれこれを語り合って1時間、
ヘルシンキまで帰ってきたのですけれど、何だってこの話かと言いますとですね、

「蚊」でありますよ。


もうすでに2カ月近く前の話になってしまいますのに未だにバルト海紀行を書いとりますが、
スウェーデンのことを書いているときには「ニルスのふしぎな旅 」やら何やらを読んでいたように
フィンランドに話が移ってからもフィンランドに関わる本を読んだりしているわけです。


フィンランド 森と街に出会う旅/鈴木 緑


そうした中で「フィンランド 森と街に出会う旅」という本を読んでいるときに、
著者がフィンランドに蚊に刺されたその後のこととして、
「日本のキンカンもムヒも効かなかった」「数年たっても後が残っていて痒みがぶり返す」と、
こんなふうに書かかれていたのですよ。


日本の蚊には慣れている日本人も、

たぶん種類が違うフィンランドの蚊にはこうも悩まされるものかと、
アイノラの彼女もいまだに痒みで悩まされたりしていなければよいが…と思ったり。


ところで、本書の別のところには冬場に結氷する湖の部分には、こんなことが書かれていました。

足元の氷が割れたら、人の助けをアテにしたらいけないらしい。…普通の人はいつも救助に行ける装備がをしている訳ではないから、助けたいのだが助けられないというのが実情だろう。…冷徹なようだが、氷の上を歩くときはあくまで自己責任で、という決まりを覚えていたほうが良い。

これはこれで、シベリウスの住まいを見て回ったあとに、
バス停近くの森の中に建物が点在している学校だか病院だか高齢者施設だかの敷地を

ちょっと抜けさせてもらって見に行った湖(Tuusulanjärvi)のことを思い出したのでして、

あそこもきっと冬には結氷するんかなぁ…と。


ちなみに「Tuusulanjärvi(トゥースランヤルヴィ)」はトゥースラ湖ということですので、

「järvi」は湖の意。


エストニア出身の指揮者パーヴォ・ヤルヴィ(Paavo Järvi)は「湖」という名字だったのですねえ。
フィンランド語とエストニア語は近しい関係と言うものの、

エストニア語として別の意味があれば別ですが。


…とそれはともかくとして、

結氷した湖を歩いていて万一氷が割れてはまり込んでしまったときには
仮に人の姿が見えたとしても助けてもらえると思ってはいけない、

そもそも一歩踏み出すことからして自己責任とのこと。


ノルウェー映画「孤島の王 」のラストを思い出したりしますが、
助けにいって犠牲者が増えることになっては元も子もないということになりましょうか。


自己責任なんつう言葉はよく聞きますが、ここのは極めて重たいなあと思いますね。

そして、この自己責任という意識が極めて日本人は薄くなってる気がするなあとも。
少しでも危うい要素があるとそれに対策を施さない方が悪いというように、

他者の責任を問う姿勢ばかりが目につくような。


それと引き比べてはなんですけれど、雪解けの頃になるとヘルシンキの大通りを歩いていても
突然どさっと雪の塊がビルの上から落ちてくることがあるそうなんですが、

このことに対する本書の著者の感想は日本人らしいところなのかもしれんなぁと思えたり。


つまり歩道に雪が落ちてくるのが分かっていて事前に防ぐことをしないことが疑問であり、
「ビルの管理者はどう考えているのかをただしたい気持ちになる」と言っているのですね。


たぶん、たぶんですが、フィンランド人にしてみれば、

雪解け時期に上から雪が落ちてくるのは分かりきったことで、
ビルの壁面からなるべく離れて歩くのが常識ですといったことなのかもしれません。


それを知らない旅行者なんかはどうなっちゃうの?
「郷に入らば郷に従え」とはよく言ったものだなと思ったりもしますが、
フィンランド人が構わな過ぎるとしても、日本人の方は構いすぎる面があったりしないですかね…。

フィンランドの人びとにとってシベリウス の交響詩「フィンランディア」が特別なものであるように
チェコ の人びとにとってはスメタナ 作曲の交響詩「我が祖国」もまた特別なものでありましょうね。


「フィンランディア」が単品であるのに対して、「我が祖国」はコース・メニュー。
チェコという国を思わせる6つの要素をそれぞれ6つの交響詩として、
全体を「我が祖国」と呼んでいるわけですけれど、その中の2曲目が超有名曲ですね。


かつては「モルダウ」という名称で親しまれた曲ですけれど、
今では「モルダウ(ヴルタヴァ)」とか、もっとストレートに「ヴルタヴァ」とか呼ばれていたりします。


チェコを貫流するヴルタヴァ川が山肌を伝うかのような小さな流れから

滔々と流れる川に至る描写、途中途中の沿岸で見られるであろう風景の描写、

これらを織り交ぜながらチェコの首都プラハに流れ込むまでを音楽でたどる作品。

(プラハに着いて終わりだったとは知らなかった…)


かつて広く言い慣わされた「モルダウ」はこのヴルタヴァ川のドイツ語名でして、
そこにはチェコが長らくオーストリア・ハプスブルク 帝国の支配下にあって
ドイツ語の使用が強いられたことを思い起こさせる呼び名であることから、
チェコ語本来の名称である「ヴルタヴァ」が遅まきながら使われるようになってきたのでしょう。


インドのボンベイがムンバイに、マドラスがチェンナイに
その呼び名が改められたことと同じようなことでありましょうか。


ところで唐突にスメタナの「モルダウ(ヴルタヴァ)」の話になりましたのは、
つい先日、小林研一郎 指揮による読響の演奏会で生演奏を聴く機会があったからなのですね。


Chain reaction of curiosity


もっとも当日のプログラムからすれば「モルダウ(ヴルタヴァ)」の後に、
米元響子さんのソロ(ざらっとした音色がくせになるかも)による

モーツァルト のヴァイオリン協奏曲第4番、そしてメインは

バルトーク の「管弦楽のための協奏曲」が演奏されましたので、

語りどころは多々あるものの前座的位置づけ(失礼!)の「モルダウ(ヴルタヴァ)」に

「お!」と思ったものですから。


さきほどこの曲の豊かな描写性に触れましたけれど、
水量の豊かさを思わせる流れるような有名なメロディや岸辺から望める農民たちの踊り、
そして激しさを増して奔流となったようすなどなど時折場面転換が起こる曲であるわけですが、
この場面転換が唐突でなく、あざとくもなく実に巧いと思ったわけです。


毎年行われる「プラハの春」音楽祭では、

スメタナ「我が祖国」の全曲演奏で開幕することで有名ですけれど、
指揮者の小林研一郎さんは東洋人で初めてその指揮を任されたことのある方なのだとか。

それだけに「モルダウ(ヴルタヴァ)」ひとつとっても自家薬籠中の物となっているのかもと思ったり。


そんなことを思いつつも音の流れに身を委ねておりますと、いよいよ曲は大詰め。
ヴルタヴァ川はプラハに流れ込んでいき、音はだんだんと静まっていく…。
と、最後の最後にフォルテッシモの強打で和音が二つ、ジャン!ジャン!で締めくくり。
ここで「?!」です。


こう言ってはなんですけれどそもそもこの曲の終り方は、

お笑いコントなんかでさんざん頓珍漢をした挙句、
最後に「んなことあるかい!」と相方を手の甲で軽くはたいて「チャン、チャン!」と閉めるときの、
あの「チャン、チャン!」にそっくり、というかそのものに思えるのですよ。


ですから、主たる部分のメロディにいい心持ちで耳を傾けていても、
うっかり最後まで聴き入ってしまうと、この「ジャン、ジャン!」をしっかりと聴いてしまうことになり、
気分としては「ほわっほわっほわっ、ほわわわわぁ~ん!」(ミュートを効かしたトランペットの音)と

なってしまうものですから、常々「うむむぅ…」と思っていたわけです。


ところが普通の「ジャン、ジャン!」は

後の和音が高く響く(だから、コントの「チャン、チャン!」に似る)のですが、
先日聴いた演奏では後ろのジャンが低音部に軸足を置いたのか、むしろ下がって聴こえたという。


これはかなり耳からウロコものでありまして、実にお終いとして収まりがいいように思えたのですよ。
ですから終わった瞬間に「?!」だったわけですけれど、こうした演奏って聴いたことがない。


演奏会が先週の土曜日だったのに今ごろになってこれを書いておりますのは、
しばらくYoutubeや手持ちのCDであれこれの「モルダウ(ヴルタヴァ)」を聴いてたせいなんですが、
差し当たり10種類くらい聴いたでしょうか、全て一様に後の和音が高く響くものばかり。
こうなると、聴き間違いだったのかなと思えてくるところです。


ですが、「収まりのよい終わり方」に思えたものに比べて、

普通の演奏はなぜコント的「チャン、チャン!」なのか。
というより、なぜスメタナはこう演奏するのが普通になるように書いたのか。


ここを気にしてみますと、

実は「モルダウ(ヴルタヴァ)」は全6曲のまとまりの中の2曲目だということが肝心なような。


スメタナが「我が祖国」として構想した6曲の交響詩のうちで、
ことさら第2曲だけが単独で取り上げられることを想定していたのか、

あるいはいなかったのかは不明ながら、スメタナ自身、この第2曲には

「うまいことまとまりのついた曲が書けた」と思っていたかもしれないわけで、
そうなるとあまりにちゃんとした終わり感と付けてしまうのが良いのかどうか、悩ましかったのでは。
全曲としてはまだ半分にも到達してないわけですし。


てなことを考えると、普通に演奏される場合の「ジャン、ジャン!」は
言ってみればキートン山田口調の「後半へつづくぅ~」みたいな意味合いなのではないかと。


そうではありながらも、改めて「モルダウ(ヴルタヴァ)」を単品提供しようという場合に、
全曲演奏には必要な「ジャン、ジャン!」をどう違和感なく料理するかとなれば、
今回聴いた(あるいは聴いたと思っている)やり方というのは、

「かなり閉まり感、あるよねぇ」となるような気がするわけです。


だいたい何種類か聴いた「モルダウ(ヴルタヴァ)」の演奏が全曲版から切り出したものなのか、
それとも単体で演奏されたものなのかが不明ではあるのですけれど、
もっともっとあれこれ聴いてみれば、いつかは幻の終わり方に出くわすことができるでありましょうか…。

ヘルシンキまでやってきて取るものも取りあえず
出かけた先が「ここかい?」と思われる方がおいでになろうかと。


ヘルシンキの街歩きもさておいて、そそくさと向かったのは長距離バスターミナル。
鉄道のヘルシンキ駅の前にもバスターミナルは広がっているのですが、
こちらはどうやら市街地を回る比較的近距離のバスが集まっているようす。


これとは別に、もそっと長距離を走るのがKamppiというところに集まって
ターミナルを形成しているというわけです。


ここでJärvenpää(ヤルヴェンパー)方面に向かうバスに乗り、出かける先は「Ainola」でありますよ。
乗ったのは8時50分発。日に何本もありませんから、出かける際は要注意です。


トゥルクのシベリウス博物館 でシベリウスの葬儀のニュース映像を見たときに、
ヘルシンキ大聖堂から棺を運ぶ沿道に人がずらりと並んでしまったという、
あのアイノラであります。作曲家シベリウスの住まいがあったところ。


もともと地名ではなくって、シベリウスの奥さんの名前アイノに肖っての命名だそうですが、
バス停のしっかり「Ainola」になっているという。


アイノラ バス停


とまれ、バスに揺られること1時間ほどで到着したアイノラはすっかり田舎の佇まいでありました。
バス停から歩く、日本で言えば田んぼの畦道といっては言いすぎでしょうけれど、
車の通らない道から見渡す景色はこんなふうですし。


アイノラへの道沿い

写真の左手に見える木立ちのあたりが
シベリウスの住んだ家のある敷地ということで、ほどなく入り口に到着。


アイノラ入り口


入ってすぐ右手の建物の中に受付がありますので、
入場料を払って敷地内の案内図(英語)を受け取り、後はご自由にどうぞと。


ちなみにこの受付の建物には小さなカフェとショップ(そしてトイレ)だけです。

案内図を見ると3分の2以上は木立ちで、
その中にいくつかの建物が点在しているといったふう。


見もののメインである母屋は後回しにして、まずは庭先に歩を進めてみましたところ、

きれいに手入れがされておりますねえ。

シベリウスの遺徳というべきでありましょうか。


アイノラの庭①


アイノラの庭②


そんな庭を抜けていくと古びた小屋が見えてくるのですが、
これがシベリウス家のサウナ・ハウスでして、何でも妻のアイノがデザインしたのだとか。


アイノラのサウナ・ハウス

当時、作曲が不振に陥っていたシベリウスは都会の喧騒を離れたこの地で

改めて母国フィンランドの自然に触れて息を吹き返したのか、
番号付きは全部で7曲ある交響曲の第3番以降を、シベリウスはここで作曲するのですね。


第1番、第2番はとても聴きやすい作品ながら、

先人の作りだした枠を出るものではないと言われる一方で、
第3番以降は内省性が増し、時に研ぎ澄まされた静謐さを醸すよう曲とされますけれど、
シベリウス本人の自己批判性の厳しさばかりでなく、

取り巻く自然に大いに触発されたものと思えるわけです。


アイノラの白樺

敷地の多くは木立ちに覆われた森をそのまま残していて、

その深奥部の松の根元には椅子がおかれ、シベリウスはよくそこで考えに耽っていた…

てなことが受付でもらった案内図に書かれていました。


ちなみに、案内図で「ここだ!」と思しき場所には椅子は置いてないのですが、
案内図を見ながらふらふらしていると、見るからに敷地内の庭などの世話をしているふうなおばさんが
「その図の情報は古いから、そのとおりじゃないよ」と教えてくれたのですね。


例えばとして件の椅子の話になり、「しまってあるんだ」と言うもんですから、
「見せてもらえるんですか」と聞けば、付いて来いと案内されたのが

作業用具のたくさん入ったログハウス。
奥の扉を開けて「これだよ」と見せてくれたのが、この写真の椅子であります。


シベリウス愛用の椅子

暗いところを撮ったので、思い切り明るく補正してありますが、
それはともかく普段はしまわれていて見られないものを見られたと思うと、得した気がするものですよ。


それにしても、森の中にお気に入りの椅子を持ち出して考えを巡らすとは、何だか肖りたいような。
もっともシベリウス自身には作品を生み出す苦労もプレッシャーもあったかもでしょうけれど。


アイノラの母屋

というところで、母屋にやってきました。
アイノラはよく山荘とも言われるように決して豪華で広々というものではなく、
必要最小限プラスアルファくらいの感じ。


取り分け住環境には難儀している日本人からすれば、十二分以上ではないかと思われます。

母屋の入り口では日本語の解説シートを貸し出してくれて、


それを見ながらひと回りしたのですけれど、面白いなと思ったことを二つほど。

一つは名前のことでして、シベリウスのフルネームは「Jean Sibelius」と綴られて、
「ジャン・シベリウス」とか「ヤン・シベリウス」と言われますけれど、
本名はヨハン・ユリウス・クリスチャン・シベリウスだそうです。


同名のヨハンという伯父がおり、船長をしていて国際派であるが故に伯父さんは
「Johan」をフランス風に「Jean」と綴っていたそうな。


たぶんこれが粋でいなせな風に見えたのでしょう、
シベリウスはヘルシンキ音楽院で学んでいた頃にこの伯父の名刺を使っていたそうで、
後に作曲家として名が挙がるとすっかりこの名前で通るようになっていたのだとか。


そしてもう一つのエピソードとしては、
シベリウスもまた共感覚の持ち主ではなかろうかということですね。


母屋の食堂入り口の上には一枚の絵がかかっているのですけれど、
このオスカー・パルビアイネン作の「葬送行進」なる一枚を
シベリウスは「ニ長調」と名付けていたのだと言います。


解説シートに曰く「この絵の色彩が色々なメロディーに聴こえた」ようで、
シベリウスにすれば黄色がニ長調を意味するものだったそうな。
カンディンスキー は音を色彩に置き換えましたけれど、
シベリウスは色彩に音を聴いたのですね。


1904年に移り住んで以来、1957年に亡くなるまでの半世紀余、シベリウスはアイノラで過ごし、
先に書きましたようにヘルシンキ大聖堂での葬儀の後、遺骸はアイノラに運ばれ、
敷地内に埋葬されたのでありました。


今は、夫亡き後もアイノラで暮らして1969年に亡くなった妻アイノともども
木漏れ日の降り注ぐ墓碑の下で安らかに眠っていることでありましょう。

シベリウス墓所