新橋で出たついでに汐留にある旧新橋停車場鉄道歴史展示室にちょこっと立ち寄ってみましたら、
「百年前の修学旅行 ハイカラさんと東京駅の時代」という企画展示があったのですね。
その展示によりますと、修学旅行のそもそもはこういうことになるようです。
「修学旅行のはじまりは、明治19(1886)年に東京高等師範学校が行なった房総方面12日間の長途遠足である」と一般的には言われている。
東京高師と言えば、後の東京教育大学、さらに今でいう筑波大学の前身でありますね。
ですので、年齢的には今の大学生くらいが出かけるもの、
それが修学旅行であったということになりましょうか。
展示では修学旅行の例として
奈良女子高等師範学校(現・奈良女子大学)のようすを伝える史料が多くありましたけれど、
この奈良女高師の修学旅行は先に触れた東京高師で修学旅行に参加した学生が
後に奈良女高師の教員となったところから授業に組み込まれていったのだとか。
当時は日帰り遠足をも修学旅行と呼んでいたらしく、
学年が上がるにつれ、移動距離や日数が伸びて行く傾向で、
在学4年間では10回余り実施されていたそうな。
今では修学旅行に日帰り遠足という感覚はおそらくないですよねえ。
そして、遠足と言えば小学校・中学校のもの(小学校だけ?)であって、
どうしても子供がおにぎりを持っていくものという気がしてしまうという。
そして、遠足という話がでるときには
「おやつは何百円まで(この何百円は世代によってずいぶん違うのでしょう、きっと)」といったこととか、
「バナナはおやつに入るんですか?」と聞く子供が必ずいるという都市伝説?や
学校に戻ってきて校庭に集合したときに先生が言う
「家に帰るまでが遠足です。みなさん気をつけて帰りましょう」
とのひと言を何かしらの集まりの解散時に受け狙いで真似をする…
てなことがあれこれ思い出されるわけです。
思い出しついでにですが、
昔の遠足は「遠い足」という文字通りに長い距離を歩くことが主眼だったような話を
両親から聞かされたことがありましたですね。もっぱら体力作りだったようで。
今や修学旅行は体力作りが目的ではなくって、
歴史に触れる、文化に触れるといった要素が専らかと思いますが、
展示にあった奈良女高師の修学旅行参加学生が書いた日記(?)を見ると、
確かにカルチャー・ショックを受けとる!と思われる記載が見られましたですね。
ちなみに、奈良女高師の修学旅行はなかなかの長丁場でありまして、
奈良を発った後、三重、愛知を経由して長野に入ります。善光寺あたりを見たのでしょう。
その後軽井沢
から碓氷峠を当時のアプト式のラックレール鉄道で越えて関東に入ります。
66.7パーミル(パーセントの100分の1でなくって、1000分の1)の勾配ですので、
1km進むうちに66.7m高くなるという計算になりますが、
ここが日本の鉄道で最も急勾配だったのだとか。
(このあたり、鉄道歴史展示室ならではかと)
長野新幹線はトンネルで過ぎてしまうため、ここの区間は廃止
になってしまってますけれど、
当時ここを通った女子学生はそれこそ生きた心地のしない峠越えだったようでして、
こんな狂歌が残されたそうでありますよ。
アプト式よしや歩みはおそくともあともどりせぬことぞうれしき
ところで、この一行はその後日光に向かいます。
東照宮を始めとする歴史文化遺産と、いろは坂を登れば大きな自然の景色をも堪能できる。
今も昔も、そして外国人にとっても日光は一大観光地なのでしょう。
こうしてあちこちを見て回りつつたどり着いた東京。
ここで奈良女高師の学生たちはカルチャー・ショックを受けることになるのですね。
丸の内を行き交う人ひとひと。
そして、その中でもやはり目につくのが東京の女学生の装い。
明治・大正の頃の奈良女高師の学生ともなればエリート中のエリートであったでしょうし、
当時としては装い的にもハイカラさんであったと想像されますが、
それが東京に来て「あらま!」と感じたことを書き残しているわけですね。
上には上があるものだ…と。
とまあ、そんなこんなの修学旅行は、奈良女高師の方々ばかりでなく当時の経験者には
さまざまな点で強い印象を残したのではと思うところですけれど、
いざ我が身を振り返ってみると(明治・大正でなく昭和の修学旅行ですが)どうにもこうにも印象が薄い。
京都・奈良には行ったけれど、どこを見たのかさえ判然としないという。
昔の学生酸と違って、ただ単に臨む姿勢がいい加減だったから…なのかもしれませんけれど。





















