ということで、お次はCygnaeuksen Galleria から道沿いにほんの数軒先、
ほとんど目と鼻の先といったところにあるMannerheim Museo(マンネルヘイム博物館)に向かうことに。


Mannerheim Museo


今となっては全く恥ずかしながら…というべきお話ですけれど、
Cygnaeuksen GalleriaがThielska Galleriet のようなところかと思って出かけたのと同様に
こちらのMannerheim MuseoもやはりストックホルムのHallwylska Museet のようなところかと

思っていたのですね。


つまり、先ほどと反対に絵や彫刻といったものと家具調度が

邸宅して使われていたままのように配された場所といいますか。

確かにそうした側面は無きにしもあらずなんですが、


自由見学がダメらしく英語のガイドツアーで回っていく中で、
どうやらここは偉い軍人さんのお宅だったらしいと気付くわけです。
何しろ、軍服やら勲章やらがたくさんありますから。


その時は、このガイドツアーを担当された方の英語が、

これまでの旅の中でスウェーデンでもフィンランドでもちいとも聞いたことが無いほど

はっきりしない(つまりは訛っているというべきか)ものであったため、
「よく分からんなぁ」ということばかりが印象深く残ってしまったという。


同じグループに英語でもOKと参加したドイツ人カップルがいたのですが、
女性の方はガイドの語りに思い切り顔を曇らせたかと思うと

早々に聞くのをやめてしまったという様子をみても、
やはり分かりにくいことは確かであったような気がするわけです。


とまれ、ガイドの語るところはもっぱらマンネルヘイムという人物の業績であって、
「これはお門違いの場所に来てしまったか…」と思ったものでありますよ。


ですので帰国してからになりますけれど、

このマンネルヘイムという方のことを遅まきながら知っておこうと手に取ったのが、
「グスタフ・マンネルヘイム フィンランドの“白い将軍”」という一冊でありました。


グスタフ・マンネルヘイム―フィンランドの“白い将軍”/植村 英一

読んでみてびっくり仰天。
軍人として元帥にまで上り詰めたというだけでなく政治家としても、

特に第二次大戦時の終戦時の大統領としてフィンランドという国のありようを左右する局面に

立ち向かった人物であったことが分かりました。


いかにも激動期に生きた人らしく、その評価のされようは大きな幅があるようですけれど、
例えばWikipediaの記載のように「現在でもフィンランドで最も敬愛されている人物の1人」なのだとか。

そうした人の旧宅を訪ねて「美術品を見に来ました」とはやっぱりお門違いであったわけですね。


1867年生まれのマンネルヘイムは、歴史上で家督を継ぐべき長男に生まれなかった次男、三男が
軍人として一人立ちの人生を歩む例がまま見られるとおりに軍人の道を進んでいきます。


当時はロシア皇帝を大公にいただくフィンランド大公国ですから、

ロシア軍の中で身を立ててこそ軍人としての栄達があったというところでしょうか。


いわば属領あがりと目されながらも、マンネルヘイムはロシア皇帝直々の覚えもめでたく、
ロシア人に伍してキャリアを積んでいくのですね。


さりながら、皇帝に忠誠を近いながらも、

その皇帝が母国フィンランドに臨む姿勢は圧政以外の何物でもなく、
何とか皇帝専制ではなく立憲君主制への移行がなされないものかと考えていたようです。


そんな胸のうちは傍目には分かりませんから、いざロマノフ朝が革命に倒れた後
フィンランドに戻ったマンネルヘイムはロシア皇帝のために闘っていた軍人という僻目で

見られていたのだとか。まあ、むべなるかなではありますねえ。


されど、その後フィンランドを民主的な国として独立させるという目標のためにとった
その後の行動はフィンランドの人々の中に深く刻まれることになり、

それが今でも敬愛される由縁でありましょう。


しかし、フィンランドの外側から見ると

時に大きく異なる評価が与えられるのはいろいろな点があるのでしょうけれど、
例えば第二次大戦下にロシアのソビエト政権、ありていにいえばスターリン の領土的野心への対抗上

やむなくですがナチス・ドイツと手を結んだりしたことにもよるのかと思われます。


それであっても、決して日独伊三国同盟のような形はいくらヒトラー が望んでもかわしきりましたし、
また戦闘においてもスターリン・ロシアに押し込まれた国境線を旧に復すラインまでの闘いに終始して、
サンクト・ペテルブルクを攻める好機に見えたときに軍を進めようとはしなかったといいます。


…とまあ、マンネルヘイムがどんな人なのかを極めてざっくり見てきましたけれど、
こうしたことを先に知っていてマンネルヘイム博物館を訪ねていたら大きく見方も変わったろうと

思う一方で、なかなかこうしたことまで知った上で旅に出るということには、

現実はならんよなぁと思うのでありました。


ところでこのほど読んだ本ですけれど、

マンネルヘイムの生涯を辿ると言う点では他にはない一冊とは思いますが、
著者の思いは「こうした人物がいたことを考えても」というところから、
自分たちのの国は自分たちで守る…といった発想へのつながりをあとがきで開陳しているのですね。


この部分に関する個人的意見はここでは差し控えますけれど、
もしお読みになる方がおいでとしてそういう本だということだけは知っておいていいかもしれません。

言い忘れてましたけれど、先にストックホルム・カード の宣伝をしたからには
ヘルシンキ・カードのことにもやはり触れておきませんと片手落ちかと。
ウプサラ でもウプサラ・カードの一日券を使いましたけれど、忘れてました…)


ヘルシンキ・カード


機能としてはストックホルム・カードとほぼおなじ。
ヘルシンキ近辺の美術館・博物館等の施設に入場が無料になるですとか、
市内のトラムやバスがカードを見せるだけで乗れるとかいった特典になります。


ただ、ストックホルム・カードがプラスチック製で、例えば美術館への入場の際に提示すると
カード・リーダーを通して入場券と一緒に戻されるというふうでしたが、
ヘルシンキ・カードは紙製でありまして、受付で提示すると毎度係の人が台帳のようなものに
番号を転記するという、至ってマニュアルな対応。
こんなことからもスウェーデンとフィンランドの違いを思ったりしたのでありますよ。


さてそんなヘルシンキ・カードでありますが、すでにアイノラ からヘルシンキに帰り、
一旦ホテルに戻った際にホテルのレセプションで手に入れました。
ですから、すでに回ったアテネウム美術館ヘルシンキ市立博物館のオキーフ展 などは
早速にヘルシンキ・カードのお世話になっていたわけです。


そして、さらにどこぞへ参ろうかと思ったときに、
ヘルシンキ・カードが使える施設を紹介した小冊子を参照して「んじゃ、ここへ」と思ったのが、
ヘルシンキ市の南の方、Kaivopuistoというエリアにある2つの施設でありました。


なんでもこのカイヴォプイストという辺りは高級住宅街なのだそうで、
なるほど外国の大使館を見かけたりしたことからすれば、

東京で言えば広尾みたいなところなのかもです。


港を目の前にしたKauppatori(マーケット広場)からトラムにとって海沿いをしばし南下、
大きく右にカーブしたところの電停Kaivopuistoで下車しますと、
南側には単なるビルというより気のきいたマンションや瀟洒な邸宅が並び、

芝生の広がる公園(puistoは公園の意でありましたね)といった景色になります。


そこから上り坂になった細い道を右に回り込むように道なりにたどっていきますと、
まずはひとつめの目的地、Cygnaeuksen Galleria(これは読めない…)に到着となります。


Cygnaeuksen Galleria


展望台といっては大げさですけれど、個人の邸宅には珍しい塔付きであるのが特徴ですけれど、
残念ながらこの塔には登ってはいけないようで…。


とまれここにはギャラリーという名前がついていますから、
ストックホルムで訪ねた
Thielska Galleriet のようであればと期待していたのですね。


されど、建物としても見た目どおりにさほど大きくはないものですから、内容的にはかなり小規模。
もっとも、Thielska Gallerietが予想を大きく上回る内容だっただけに、

そう単純に比較してはかわいそうかもですが。


Cygnaeuksen Galleriaの展示室


ところで、その中身はといえば例えばこのような感じです。
いわゆる邸宅としての部屋の調度や装飾などなども含めて展示というのではなく、

ギャラリーに特化している印象です。


もっとも、階段上がってすぐのところには、関係者の家族の肖像画と思しきものがたくさん。
とにかく壁面はたくさんの絵画で埋められ、壁ごとにそれぞれまとめて絵を紹介する案内板が

立っているという形なのですね。


Ferdinand von Wright「A flying seagull」


先にヘルシンキの港でかもめが見られなかったものですから、

かもめの絵をついクローズアップしてしまいましたけれど、このギャラリーで注目の一点はといえば、

Albert Edelfelt(アルベルト・エーデルフェルト?) の「The burnt village」ではないかと。


Albert Edelfelt「The burnt village」



戦闘のとばっちりで焼かれてしまう村から逃れた家族。

我が家が蹂躙されるのを隠れた岩陰から覗き見る娘の嘆き、

後ろに隠れているのは、その娘の子供でしょうか、すっかり怯えています。

傍らでは娘の父親と思しき老人が茫然自失の態。

たぶん娘の夫は、いずことも知れぬ戦場にかり出されているのかもしれません。


アテネウム美術館 のことを書きましたときに、

フィンランド絵画には戦争を題材にした作品が多いような…と言いましたけれど、

これなども最たるもののひとつではないかと。


地続きで互いに国境を接する国々が多いヨーロッパでは戦争ともなれば地上戦であって、

フィンランドのみならずこうした光景が戦争の度ごとに見られたのではないかと思われます。

戦争が生む悲劇はフィンランド人にとって自国の歴史を振り返る中に見出せるのでしょうけれど、

「こうしたことを繰り返してはいけない」というメッセージは広く受け止められるものではないでしょうか。

モルグ街の殺人 」で推理小説なるジャンルを生み出したとされる作家エドガー・アラン・ポー
その作家自身が主人公になる映画ということらしいと知って、
「推理作家ポー 最期の五日間」を見てきたのでありますよ。


映画「推理作家ポー 最期の五日間」


ストーリーを全く知らずに出かけたのですけれど、邦題に「最期の五日間」とあるとおり
作家ポーが不慮の死を遂げる日までの最期の五日間を描き出したもの。


ポイントは自ずと彼がなぜ不慮の死を遂げることになってしまったのかというところでして、
今に至るも謎のままになっているこの点を完全にフィクションで固めて作り出した物語でありました。


謎解きや幻想的な物語を多様に紡ぎだしたポーですけれど、

自らの死の場面もまた相当にミステリアス。


早朝の公園で泥酔状態で発見され、そのまま病院に担ぎ込まれるも
ほどなく帰らぬ人となってしまうという状況もさりながら、

「レイノルズ・・・」という呟きを残して亡くなるあたり、
今わの際に及んでなおかつダイイング・メッセージで謎を残したふうにも思われてしまいます。


映画はポー作品から引用と思われる方法で起こる殺人事件で幕を開けます。
その後も一貫して何かしらポーの作品を想起させる方法で連続殺人が起こり、
そしてポー自身(ジョン・キューザック)に謎を解くよう挑戦を始めます。


どうしても犯人はポーとの直接対決を望むがゆえに作家が愛してやまないエミリーを攫い、
事件ごとに示す解決へのヒントを解くことがエミリー救出への近道だと唆すのですね。

犯人が一方的に始めたゲームに乗せられつつも、徐々に犯人への距離を詰めていくポー。


このあたりの距離感というのは、

犯人は実はポーの捕まえてほしいと思っているとしか言いようがないという。


極端なポー・フリークであればこそ

作家には犯人たる自分を上回る存在であってほしいとも思っているのではないですかね。

その意味では、最後の最後で犯人とポーは面と向かって妙に穏やかに話をするのが印象的です。


作家の側では「こいつが犯人だったのか」と思う一方で、
「こいつは自分自身の一面だったのかもしれん」と思ったでありましょうね。
裏返せば犯人の側にしても「おれはあんたで、あんたはおれだ」と言ったような。


殺人という残酷なことであるかどうかは別として、人間はいろんなこと想像することができますけれど、
そうした想像を全部実行することはありませんし、するはずもない。

ありきたりな言い方ですが、

理性といいますか、社会的規範をものさしにした判断といいますか、

そうしたものがありましょうから。


ただ、考える、想像することと実際に行動することは紙一重なのだろうと思ったりしてしますね。
ですから、映画でも小説でもですが残虐な事件や行為を扱ったものを見たり読んだりすることは
ある意味捌け口として「やらないということを後押しする材料」である同時に、
もしかすると刺激として「やるということを後押しする材料」にもなるのかもしれない。


それだけに想像力というのは大事ですよね。
瞬間的な衝動や一時的な快楽は人間であっても抗いがたいものがあるかもですが、
それによって結果どうなるという想像力が働かせられれば、
考えたことをそのまま実行することにはおそらくならないでしょう。
(そうしたことを考えるだけでも「悪」であるというような深いところは触れずにおいて…)


そんなこんなをあれこれ考えたりもしましたけれど、
本作の制作が作られるきっかけとしてあるポーが残した最期のメッセージの謎。
こうしたものから物語を作り出すのもまた想像力ですよね。
二次創作めいたものの面白みはこういうところにあるなぁと思ったり。


そうそう想像力ついでに申し上げますと、
この映画の殺人シーンにはかなりえぐい描写が見られるのですが、
(個人的には非常に怖がりだものですから、眼をそらしてましたが・・・)
観客もまた十分に想像力を働かせうることを作り手が考えてくれていれば、
あれほどストレートに見せる方法を取らなくてもよかったのではないかと。


もっとも世の中にはもっともっと見てられないようなシーンで固められた映画があるにせよ、
これからご覧になる方(特にスプラッター系が苦手な方)は心の準備されておかれた方が
よろしいのではないかと…。

前日はヘルシンキ滞在1日目ながらアイノラ 往復を皮切りに、

アテネウムヘルシンキ市立美術館のオキーフ展 とピンポイントで施設を訪れるばかりでしたけれど、

一夜明けたところでさてさてぶらりとしながら街歩きに出かけようかと。


エスプラナーディ公園公園Chain reaction of curiosity


札幌の大通公園ほどの規模ではありませんけれど、
道の真ん中を帯状に港まで続いているEsplanadin puisto(エスプラナーディ公園)、
ここを抜けて港の前のマーケット広場までぶらりと歩き始めたのでありました。


スウェーデン劇場の裏手から花壇と街路樹に縁取られた散歩道をたどっていきますと、
ほどなくバルト海の乙女像が見えてきて、ここはもう海が目の前です。


バルト海の乙女像


ヘルシンキはストックホルムよりもさらにさらにコンパクトな街なのでして、

そのコンパクトさによるものでしょうか、エスプラナーディ公園を歩き出してすぐに、

前方から来る女性と顔を見合わせて「あっ!」と。アイノラで一緒になった 彼女でありましたよ。


こうした「あ!」は朝のそぞろ歩きの後に出かけた博物館で

ガイドツアーが一緒だったアメリカ人女性と翌日市庁舎の中で出会ってもう一度繰り返されますが、

ま、偶然は偶然にせよ、ヘルシンキの世間が狭い(?)ことには変わりないかなと。


ヘルシンキ市庁舎

ところで、ヘルシンキも中央駅の周辺よりはこの辺りの方が街並みに味があるように思われますね。
マーケット広場に向かって建っている市庁舎などもストックホルム市庁舎の壮麗さとは異なるものの、
デザイン都市ヘルシンキの面目躍如であるような。


それにしても、ヘルシンキで海を目の前にしたら当然に

かもめが見られると思ってしまうのは映画「かもめ食堂」からの刷り込みでありましょうか。
まあどこへ行っても港にかもめは付き物と思うところですが、不思議なことに全くいません。
どこかしらへ遠征してたんでしょうかね…。


ヘルシンキの岸壁

岸辺に沿って進んで行きますと、前方やや左手の小高い丘に特徴のある建物が見えてくるのですね。
ロシア正教 のUspenskin katedraaliであります。

手元のガイドブックにはウスペンスキー寺院なんつうふうに書いてありますけれど、

フィンランド語表記をカタカナ読みで推測するに、カテドラーリとあるからには

ウスペンスキー大聖堂が正解なのでありましょう。


ウスペンスキー教会



ロシア正教というとモスクワの聖ワシリー大聖堂のような塔の上のたまねぎを想起するものの、
どこでもあの形ではないながら、これはこれで赤レンガが非常に印象的な建物ではないかと。


観光客はぞろぞろいますけれど、日曜日の午前中だったこともあって堂内はミサの真っ最中らしい。
中の聖画などは気になるところながら、入り込んでうろうろするのは遠慮しておきました。
出入りしている人はいましたけれど、中から鬱陶しそうな視線が送られていましたし。


ところで、このウスペンスキー教会のある高台は眺望が開けたところなのですけれど、
西側にはHelsingin tuomiokirkko(ヘルシンキ大聖堂)のドームが望めました。

ヘルシンキ大聖堂 遠望


遠そうに見えるものの、さほどの距離ではありませんから、次の目標はそこに。

ですがいざ行ってみると、やっぱりここでも礼拝の最中だったのでしょうか、
入口に係りの人が立っていて、入ろうとする観光客に入場お断りをきっぱりと言い渡していたのですよ。


見事なくらいの笑顔とおちつきでもって、「申し訳ないですが、入れません」を繰り返すさまは
堂に入っているというか、慣れているというか。

中には「同じキリスト教徒なのに何故入れないの?」と食い下がる、
おそらくスペインから来たらしきおばさんがいたのですが、係りの人は全く動じることなく撃退してました。

(ちなみにここはフィンランド福音ルター派の大聖堂、騒いでいた方はカトリックでありましょう)


ということでこのときは止む無く退散しましたけれど、
ヘルシンキ大聖堂は(何度も言ってますが)シベリウスの葬儀が行われた場所ですから、
また改めて立ち寄ってみようと思ったのでありました。

…と、ここでいったん小休止。

フィンランドの国立美術館であるアテネウム をひと回りした後に、
もうひとつ回れそうだなと思ったものですから、中央駅前を通り過ぎて、
アイノラ 行きのバスに乗ったKamppiの方向へ。


向かったのは、Helsingin taidemuseo Tennispalatsi(ヘルシンキ市立美術館テンニスパラッチ)

であります。


地図を見る限りここだなと思った場所には若者が溢れ返っているという状況。
おやぁ?と思うと、どうやらシネ・コンが入っているようす。
そんな外見だけでは「この中に美術館がある?」という建物の中に、
ヘルシンキ市立美術館はありました。


そもそも所蔵品を持つ美術館というよりは、展示ホールのような印象。
要するに上野で言うなら、西洋美術館でなくして東京都美術館にあたるものかと。


ではありますが、開催されていた展覧会がジョージア・オキーフ展となれば、
これはこれで見ておかねばと思うところでありますよ。


ジョージア・オキーフ展@Helsingin taidemuseo Tennispalatsi


ジョージア・オキーフ (1887-1986)といえば、
大きくクローズアップされた花の絵がすぐに思い浮かぶところですけれど、
ここではそれが必ずしもメインではないのでして、
オキーフの絵の移り変わり、あるいは幅広さの一端に触れるといったふう。


そもそもは師のA.W.ダウ譲りの

「Japanese concept for playing with light and dark」といったところを意識した上での

抽象表現に取り組んでいたのだとか。


とはいえ、いわゆるオキーフらしい作風を知っている側からすると、
抽象の中にも後のオキーフに繋がる萌芽が見えるような気もします。


ジョージア・オキーフ「Cottonwood tree in spring」


例えば、1943年作となればもはや初期とはいえないでしょうけれど、

これは「Cottonwood tree in spring」という作品。

そしてもう一つ、お次は1944年の作品「Black Place Ⅲ」です。


ジョージア・オキーフ「Black Place Ⅲ」


こうしたものを見るとむしろ逆に抽象の名残を感じたりするところです。

ではありますが、あれこれ作品を見ているうちに、対象を大きくクローズアップした作風というのも、
オキーフ自身にとっては実は抽象画として捉えていたのではないかと思えてきたりしたのですね。


パートナーであった写真家のアルフレッド・スティーグリッツとの関わりが影響して
出来上がっていった作風ではなかろうか、そしてその描かれたところはどうしたって具象でしょうと
思い込んでいたのですが、本当にそうなんだろうか・・・と。


そう考え見ると、オキーフの絵を見たときにも余りにもはっきりとその対象となっているものが、
違和感なく花であるとか動物の骨であるとかいうふうに特定できてしまうものですから、
それで分かった気になってしまうところながら、それとすぐに分かるというのが
まやかしなのかも知れない。


ロバート・メイプルソープ がやはり花を被写体にしながら

写真でもって単に花を見せるものではないことを表したのならば、
絵画というより作為を働かせやすいもので提示される作品こそもっと深読みすべきなのかもですね。


ということで、ニューメキシコからやってきた作品の数々をヘルシンキで見るという
変わった環境(?)の中で、的外れかどうかは分かりませんけれど、
ちょっとした深読みにふけるひと時でありましたよ。