ちょうど去年の暮れでしたですかね「忠臣蔵
」を話題にしていたのは。
話はまずその頃のことからになりますが…。
日本の古典芸能にとんと疎いものですから、
「仮名手本忠臣蔵」といってもそもそも赤穂事件との違いは何?てなくらいなものでしたが、
「仮名手本忠臣蔵」の設定は室町時代
となっていて、いわば「太平記」の世界に移してあるのだそうで。
となれば!ですよ、やっぱり「太平記」が気になっても当然かと。
楠正成やら足利尊氏、新田義貞
といった
名前だけは知ってる人物たちが登場するものということくらいしか知らないもので、
こりゃあいささかてっとり早く知るためにはと、
中公新書の「太平記」という一冊に頼ってみたわけでして…。
すると、「太平記」というのは魑魅魍魎の世界であったのだなぁと思うわけでして。
何しろ後醍醐天皇や楠正成、新田義貞らもことごとく無念を抱えて亡くなり、
それが怨霊となって現世に異変を巻き起こすてなことしばし。
争いごとばかりの世では、親分に従う(従わされる)子分の死は数えきれないでしょうし、
そうしたことは世の不穏さと結びつき、感覚的に増幅もされましょうから、
関わる一切合財を「これは、亡き後醍醐天皇が怒っておられるに違いない!」みたいな
結び付け方もされたのでしょうね。
…というあたりへきたところで去年は思わぬ痛みに苛まれる日々に突入してしまい、
やがてしばしの休業をいただくという状態に陥っていたのですけれど、
何するとてなく痛みの出ない姿勢で本を読むことはしていたわけで、
気紛らしに没入するためにはこの際長尺ものでも厭わずに…と考えたときに
手にとったのが吉川英治版「私本太平記」全8巻だったというわけです。
個性的な登場人物数多のこの時代、
足利尊氏という人は室町幕府の開いた人物であって、
その後15代にわたる足利将軍家の祖でありながら、
後醍醐天皇に弓弾いたせいか、どうもその評価は釈然とするものではなく、
例えば楠正成が忠臣として持ち上げられていることに比べるとかなり分が悪いような。
吉川版太平記はわざわざ「私本」とうたっているだけあって、
むしろ尊氏はメイン・キャラなんですが、そうしたことからも足利荘に行ってみるかな…
てなことを引き摺っていたわけですね、長らく。
このほど宇都宮に行くにあたっては、
そうした関心の矛先から足利市にも立ち寄ってみるかてな思いがあったんですが、
同じ栃木県内ながらあんまり移動の便がよろしくないと気がついたところへもってきて、
宇都宮市内の栃木県立博物館で足利尊氏に関する展示をやっとることを知ったものですから、
今回のところは宇都宮一点集中でいいかと思ったのでありますよ。
とまあ、長あい前振りでもって、
ようやく宇都宮で出向いた栃木県立博物館の話にたどりついたですが、
その展示とやら、「足利尊氏 その生涯とゆかりの名宝」展というものでありました。
全体のざっくりとした構成は、折々に尊氏やその弟・直義が発した書状をたどることで
太平記の流れを追ってみるといったふうな仕立て。
まずもって関心したのは、14世紀前半のものがよく残っていたものだねえ、紙なのに…ということ。
実にたくさん残されているわけです。
と、ここで思うことは(そういうところを見てほしいわけではないと思いますが)
「尊氏はあまり字がうまくない…」ということ。
昔のものに限らず書状の文字は判読しがたいところではありますけれど、
悪いことにはっきりした楷書体で書かれた写経が残っている。
さらに悪いことには、最初の方を禅僧・夢窓疎石が書き、続いて尊氏が、
最後の方は直義が書くという具合に並んでしまっているのですよ。
夢窓疎石が達筆なのは一目瞭然。
そして、直義もきっちり実直な性格そのままにかちっとした楷書を書く。
それに比べて尊氏は…というわけです。
小学校の漢字の書き取りだったら、
「足利くん!漢字の角の部分は、丸くないんだよ」と注意されてしまいそう。
(ここは自分の体験でもありますが)
ただ、こういっては直義がかわいそうかもですが、
「ものごと、何もそうきっちりとばかりはいかないこともあるよね」」とおおらかに構える
尊氏の姿勢にこそ大将の器があったと言えるのかもしれませんですねえ。
でなければ、負けても負けても敗者復活戦を勝ち上がるように尊氏が再起を図るのに、
付いてくる将兵も味方する軍勢もいなかったのではと思われますし。
ところで、かつては中学の歴史の教科書にも「足利尊氏像」として掲載されていた肖像
(兜無しで馬に跨っている場面の有名なもの)がありますけれど、
これも「騎馬武者像」(京都国立博物館蔵・重要文化財)として展示されておりました。
今では尊氏本人ではなく、尊氏に仕えた高師直かその息子・師詮の像とされ、
馬具に同家の家紋が記されているのが見てとれるのだそうです。
(最初にこれが尊氏像でないと知ったときには、鎌倉幕府の成立年の話
同様に仰天しましたが…)
ですが、本展フライヤーの中央に鎮座する足利尊氏坐像(大分県国東市・安国寺蔵・重文)は
もっとも初期に造られた尊氏像ではないかと言われているものでして、
これを見ると左右の目の大きさが違う(左目だけ一重か奥二重)なのですね。
で、例の「騎馬武者像」を見返すと、やはり左右の目の大きさが違うように思われなくもない。
展示の中には、いくつかの尊氏坐像がありましたけれど、
どうも表情には移り変わりが(時に非常に大きく)ある中で、
この特徴には「え?!」と思ったわけです。
かつて教科書でそういうふうに刷り込まれたことで
どうしても「騎馬武者像」を尊氏だとしたいわけではありませんが、
歴史研究でも後から後からいろんな発見がありましょうから、
この後もまた大どんでん返しは無きにしも非ず。
まだまだ「え?!」と思うことがたくさん出てくるのだろうなぁ…てなことを思いつつ、
栃木県立博物館を後にしたのでありました。