何だか来日するたびに聴きに行っているような気がしますけれど、

またエマニュエル・パユのフルートを聴いて来たのですね。


とはいえ、毎回毎回趣向が異なっていると言いますか、

チェンバロとのデュオでバッハ だったこともあれば、

ピアノ伴奏によるアレンジもの 、はたまた木管アンサンブルの中に入って ということもあり、

今回はといえば、室内合奏団と共にバロック期のコンチェルト特集?でありましたよ。



ポーランド放送室内合奏団withエマニュエル・パユ@東京オペラシティ


それにしても、何だってパユを聴きに行ってしまうのかといいますと、

何よりもその音色ということになりますでしょうか。


聴き飽きしないことはもとより、聴き疲れるもしない。

音が高かろうが強奏であろうが、その深みのある音色は変わらない。

今回のコンチェルトでも同様でありました。


さすがにアンコールでやった武満作品だけは「さすが現代!」であって、

フルートを吹きながら(ながらって音を出しながら同時にですよ)語る、叫ぶ、唸る…

てなことが混じりつつ、時に鋭い音がきーん!

でも、これはこれでしょう。


と、いきなりアンコールの話ではなんですが、

フルート協奏曲は3曲演奏されて、そのいずれもがなかなか聴けない曲ばかり。


まずはクヴァンツ、次にC.P.E.バッハ(大バッハの次男ですね)、

そして最後がプロイセン国王、フリードリヒ2世が作曲したものでありました。


で、どうしてこうしたレアもの選曲になっているかといいますれば、

今年2012年はフリードリヒ2世 (1712-1786)の生誕300年なのだとか。


まあ、世界史にその名が登場するような王様の生没周年行事も

毎年どこかしらでやっているのかもですが、こと音楽の世界では

このフリードリヒ2世はなかなか名うての人物ですから、

音楽系のイベントが行われているのでしょう。


題して「フルート・キング」というプロジェクト・ツアーでパユが回っているという。

上のフライヤーで、パユが妙に宮廷風のコスプレで出ているのもそういう曰くなのだそうで。

(ただフルート・キングと聞くと、今の人気・実力からしてパユのこと?と思いそうですが)


フルート大好きのフリードリヒ2世王ですが、

その先生がハンス・ヨアヒム・クヴァンツ(300ものフルート協奏曲を書いたらしい)で、

ベルリンに設けた宮廷楽団でチェンバロ奏者をしていたのがカール・フィリップ・エマヌエル・バッハ。

とまあ、こうした関わりで選曲されていたわけですなぁ。


クヴァンツとC.P.E.バッハの曲をいきなりすっ飛ばして何ですが、

面白いなと思ったのは、何といってもフリードリヒ2世御製のフルート協奏曲第3番ハ長調。


合奏の前奏があって独奏フルートが入ってきて好きなように吹き、

また合奏、そしてソロ…と言ってしまいますと、そりゃそうだ、協奏曲だからとなりますが、

独奏フルートが入ってきた途端に裏の伴奏は最小限の楽器に縮小されるのですよ。

そしてフルートがお休みになると、また楽器が増えて全員で合奏。


このはっきりしたコントラストが妙に面白いわけなのですね。

フルート・ソロは当然に自分が、つまり大王さまが吹くので、

「わしが吹いている間は、黙ってきくように。伴奏は少なくていいぞ。目立たなくなるからな」

という暗黙のお達し。


そして、大王さまがお休みするときには、

「さあ、はりきってわしが次に出るまできちんとつないでおけよ」

という、また暗黙のお達し。


曲調も、威厳のある第1楽章の出だしや重厚な第2楽章など

いかにも王様の音楽といったふう。

面白かったですねえ。それにいい曲です。


ところで、啓蒙専制君主として名高いフリードリヒ2世ですけれど、

こうした作曲家、フルート奏者の一面とは別に実際の治世はどんなものだっかのか、

今度はそっちが気になってきますですねえ。

一度は行ってみようかと思っていながらついつい先送りをしてしまう行き先があるものでして、
今回ようやくにして訪ねた武者小路実篤記念館などもそうしたものの最たるひとつではなかったかと。


先送りにしてしまう理由としては、
企画展などが開催されるていても「この機会にどうしても」というほどにはそそられないということ、
そして何より「いつもそこにある」ということでしょうか。


さはさりながら、安心しきっていると何かの拍子に閉館!てなことは、
青山ユニマット美術館 やら秩父の加藤近代美術館、

蓼科のマリー・ローランサン美術館 などなどのように全くないとは言えないわけで、

ついては思い切りの問題なわけですね。


そんなふうに思った折りも折り、「本の美-装幀と挿絵」という企画展が開催中で
「これなら!」と出かけていった次第でありますよ。


「本の美-装幀と挿絵」展@武者小路実篤記念館

本の装丁というのは、昔のLPレコードを「ジャケ買い」してしまうことがあったように、
実は内容の出来不出来、好き嫌いとは関わりのないところで内容を想像させ、

期待させるようなものがあるわけですね。


その点、個人的にではありますが武者小路実篤の本として思い浮かぶのは、
実篤自身による野菜や何かをあしらった新潮文庫のカバーでしょうか。


愛と死 (新潮文庫)/武者小路 実篤 真理先生 (新潮文庫)/武者小路 実篤


これが今でもおんなじ状況なのかと思って検索してみましたら、この通りでありました。

やっぱりと思いつつも、「あれ、野菜じゃなかったんだ」とは思いましたけれど。


ところで、いくら実篤記念館の企画展でも新潮文庫の表紙カバーが置いてあるだけでは、
よしんばその原画がおいてあったところで「なぁんだ」になってしまうところかとも思いますが、
新刊ハードカバーとして出版された当初には、

結構有名どころの画家が携わっていたのだなと思うのですね。


実篤が絵を描きだしたのは40歳頃からとのことですので、

そりゃ初期作品はもとより誰かに装丁を頼ることになるわけですが。

ちなみに学習院初等科時代の実篤くんは図画が苦手であったそうな。


で、有名どころの画家というところですけれど、

例えば岸田劉生、中川一政、梅原龍三郎といったあたりになりますですね。
取り分け岸田劉生は、武者小路実篤の本の装丁を手がけられることは光栄だと言っている。
展示の中に岸田からのハガキにはっきりと、そして何回も出てくるのですから。


こう言っては何ですが、鴎外 漱石 といった文豪っぽい感じでもないですので、
明治・大正・昭和にかけて数多登場した作家の中のひとりだけど、

名前はまあ知られているほう…てなことを思いがちながら、
当時は雑誌「白樺」の発行を中心にした白樺派の人々の活躍、活動というのは

目を惹いたものなのでしょう。


芸術に清新な風を吹き込むように美術に関しても、

ロダン ゴッホ などをどんどん紹介していったわけですから、
岸田が何となく(かなと)「白樺」を手にしたように、

画家たちにも目が離せない雑誌だったのかもしれません。


岸田と実篤とで新刊の装丁に関する手紙の往復は何度もあったようで、
岸田のハガキには「気に入ってくれてうれしい」てな言葉も綴られています。


実篤のハガキは無いので何をどう言ったかは不明ですが、
岸田の言葉をそのまま受け取れば実篤も納得づくの装丁ということになるわけですが、
たくさん岸田が手掛けた装丁の中で、どうしても「こりゃ、岸田劉生だね!」という図像が

いくつか登場するのですよ。


武者小路実篤「友情」 岸田劉生による装丁


どなたもすぐにピンと来るものと思いますが、そう、麗子像であります。
上は企画展フライヤーから切り出した「友情」の装丁です。

嬉々として岸田が描き、受けた実篤もやさしく微笑んでドラフトを眺めていたのでしょうか。
今になって見る側にすれば「岸田さん、やりすぎでないの」と思ったりもするところですが…。


ところで、この記念館には実篤公園というスペースが併設されていまして、
その中に実篤の終の棲家となった邸宅が建っているのですね。


公園といっても、オープン・スペースではないので開園時間は限られておりますが、
もともと5,000㎡あったという実篤邸の庭であったところ。


竹林に囲まれた実篤像@実篤公園


木立ちが多く、竹林のところもあり、

土のまんまの細道を回遊して歩くと、ニジマスの泳ぐ池(珍しいですよね)や
ヒカリモが見られたりする(夏場がいいようです)という。


ニジマスの泳ぐ池@実篤公園


池にニジマスとは珍しいので何とか撮影を試みましたが、

何となく魚影だけは見えるでしょうか。


池を泳ぐニジマス@実篤公園


とはいえ改まって「庭園」といってしまうには狭いのですが、

ほどほどにアップダウンもあって「いいところ」感が濃厚です。
思いもよらず、シベリウスの終の棲家であった「アイノラ 」を思い出してしまいました。


で、実篤さんのお住まいでありますが、

かなりはっきりした木造の日本的な家屋かと思いきやさにあらず。
モダンなようでモダンというほどの凝りようではなく、言うなれば機能的といったらいいでしょうか。


武者小路実篤 仙川の家


南面に大きく窓を設えて、

仕事部屋(内装はしっかり和室です)にたっぷりと日が降り注ぐように作られている。


明るく外を見渡せるようにするあまり(?)サン・ルーフにまでなってますから、
このイメージはどうも実篤さんとはぴったりこないわけです(と、個人的にですが)。


限定的な公開日には、

ずいずい中に入っては行けないものの邸に上がることはできますので、
どうせならばHPで確認して行かれると宜しいかと。


記念館と公園と邸、全部ひっくるめて見ると

「思いがけずもいいところだったねえ」と思うでして、
いままで先送りにしていたのが惜しまれるくらいだなと思うのでありましたよ。

武者小路実篤記念館

「アメイジング・グレイス」という歌がありますですね。


クラシカルなというよりは、ヒーリング・ミュージック的なところで
「ソプラノ・ヴォイス」なんつう言われ方が流行ったことがありましたけれど、
これはもしかするとキャスリーン・バトル歌うところの「オンブラ・マリ・フ」がCFに使われたりして、
この曲を収録したアルバムの日本語版タイトルが「甘美なソプラノ・ヴォイスへの誘い」てなふうになったのも流行り故かなと。


Invitation from Battle 甘美なソプラノ・ヴォイスへの誘い/バトル(キャスリーン)


同じ頃に「ソプラノ・ヴォイス」をフィーチャーしたコンピレーション・アルバムがたくさん出て、
その中に「アメイジング・グレイス」はかなり収録されていたのではと思うところです。


ということで、とにかく耳に心地よい曲で賛美歌か何かの類だろうか…くらいに思っていたのですけれど、
神の恩寵を称える歌であるという点では「なるほど!」なんですが、
何故神の恩寵を称える必要があったのかを知ると、「そんな背景が…」と思うことになるわけなのですね。


作詞者はジョン・ニュートン(1725-)という英国国教会の牧師さん。
長年にわたり奴隷貿易船の船長としてぼろ儲けをした人物とのことですが、

やがて前非を悔いて牧師となり、「アメイジング・グレイス」の作詞者ともなったという。
で、この歌に関してはWikipediaによりますと、こういうことになるのですね。

この曲には、黒人奴隷貿易に関わったことに対する深い悔恨と、それにも関わらず赦しを与えた神の愛に対する感謝が込められているといわれている。

とまあ、こうしたことにいきなり気付いたのではなくしてですね、
映画「アメイジング・グレイス」を見てようやく…ということなのでありますよ。


アメイジング・グレイス [DVD]/ヨアン・グリフィズ,ロモーラ・ガライ,ベネディクト・カンバーバッチ

この映画の主人公はウィリアム・ウィルバーフォース(1759-1833)、
奴隷貿易を廃止するための法律を何度も何度も議会に提出したという英国の政治家であります。


元々博愛的な考え方も持ち主でもあったのでしょうけれど、
たび重なる否決にも屈せずに法案を出し続けるというのは、当時にあってはなおのこと、
宗教的なバックグラウンドを感じさせますですね。


映画ではウィルバー(なぜかしらもっぱらこう呼ばれてます)が

先に触れた聖職者としてのジョン・ニュートンからも感化を受けたようすが示されますし、

ウィルバー自身が聖職者を選ぶか政治家を選ぶか悩みに悩むさまも見られます。


結果的には自分を活かす道として

政治家を選んだ(周囲から説き伏せられたようなところもありますが)わけですが、
ウィルバーがこのときに聖職者を選んでいたとすれば、

英国における奴隷貿易廃止の流れというのはもっともっと遅れることになったのかもしれません。


こんなふうに宗教は強い力を発揮させるものにもなるところですけれど、
それではそもそも教会はどんな関与のしかたをしていたのだろうと思ってしまいますですね。
総論賛成、各論反対みたいなところでしょうか。


なんとなく以前読んだ「チョコレートの真実 」の中で、
クエーカー教徒の人たちがチョコレート製造で得た利益を英国の社会に還元していながらも、
原料となるカカオ生産地の実態は与り知らぬことであるかのようであったことが思い出されます。


まあ、いずれにせよ、今のものさしを当てて

「まったくその頃は…」と言ってしまうのは適当ではないですよね。

世の中の価値観というか、考え方が違っていたわけですから。


そう考えるとなおのことですが、

ウィルバーのトンガリ具合は(当時の人にとって)尋常ではなかったのだろうとは

想像されるところです。


ですが、そのトンガリ具合は時代を先んじていたといいましょうか。

1789年に奴隷廃止に関する最初の演説を行って以来18年を経て、

奴隷貿易を廃止する法律が1807年に成立します。


先んじ度合いを表すのに比べるのが適切かはなんともいえませんけれど、

アメリカの大統領リンカーンが奴隷解放宣言を発するのは1862年。

ウィルバーの奮闘によりイギリスで先の法律ができてから55年後のことでありました。

高尾に行ってきました。


JR高尾駅の天狗

と、JR高尾駅の天狗の面まで登場させますと、

あたかも高尾山 (ミシュラン三ツ星!)に行ってきたかのごとくですけれど、

JRで高尾駅に到着し、京王線に乗り換えて高尾山口に向かうわさわさとした一群を尻目に、

ここで下車してバスで目的地に向かうのですね。


で、その目的地とは…。

このところ足利尊氏 だの武田信玄 だのと武将の話をしていたものですから、

「そういえば!」と思い出し、前から気になっていた八王子城跡を訪ねることにしたのですよ。


といっても、この日はやおらJR高尾駅をめざしたのではなくしてですね、

まず八王子駅で降りて歩くこと約15分、八王子市郷土資料館に向かったという。


「発掘された八王子城」展@八王子市郷土資料館


ここでは折しも「発掘された八王子城」という特別展をやっているものですから、

城跡に臨むにあたっての予備知識を少々仕入れておこうかと思いまして…。


その後、資料館からまた約15分ほど歩いて西八王子駅に出、

JRでひと駅、高尾に到着したという次第。

ここからはバスで15分ほどで八王子城跡というバス停に到着。


バス停から八王子城址ガイダンス施設


バス停からすぐのところに、

ま新しいガイダンス施設(ビジターセンターのようなものですな)が見えとりますが、

実はこの施設、今年の10月20日にオープンしたばかり。


ついでに言うと、ここまでのバス路線(1時間に1往復ですが)もこれに併せてできたという。

そして、八王子市郷土資料館の展示というのも、ガイダンス施設開館記念展というわけで、

八王子城跡はまさに今が旬!?なのではないかと。


八王子城の空堀跡?

ガイダンス施設を回り込んで進みますと、

特段の表示は見当たらなかったものの、空堀のあとでは思われる地形が。

見回す限りでは単なる里山風景でしかないのですけれど、やはり城跡なのだなと思うところです。


八王子城本丸跡への登り口


やがて登りにかかりますが、頂上付近に八王子神社があるものですから、

鳥居をくぐってスタートするのですね。


で、ここで改めてガイダンス施設で入手したルートマップを見てみて、「え?」と。

頂上たる本丸跡までの所要時間40分!とありました。


このあたりのことをあまり深く考えずに、

以前行ってみた片倉城跡 (標高143m)くらいのこころづもりでいましたが、

八王子城のあったこの深沢山は標高460mなのだそうで、すっかり山でありました。


バスが1時間に1本ということもあり、気合を入れ直してぐんぐん登りにかかると、

たちどころにぜいぜいしてくるわけでして、それでもぐんぐん行くともっとぜいぜいはあはあと。


前をゆったりした足取りで登っていたおじいさんが思わず振り替えるほどの喘ぎ声。

ばつが悪いので「きついですよね、こんな山だとは思いませんでしたよ」と言いますと、

「山城ですからねえ…」という答え。寒い空気に包まれてしまいました。


体力的にはすでに風雲急を告げており、

ここで立ち止まっては先行き危ういとおじいさんを追い越してずんずん行きますと、

さすがに登ってきただけのことはありますね。

視界が開けるとこのとおりです。


八王子城跡からの東側遠望


そりゃそうですよね、本来がお城だったのですから、

敵から襲撃を見通せる場所に作っているわけで(途中から単に山登り感覚になってましたが)。


ちなみにこれは東側の遠望で、肉眼では新宿の高層ビルが見えました。

(スカイツリーは無理なようでしたけれど)

そんなこんなして、ようやっと頂上の本丸跡に到着。

周囲に雑木が茂ってますが、城が築かれた当時は切り払われてと想像すると、

360度の展望を得られたものと思われます。


八王子城本丸跡之碑


と、ここでまた(気分的に)嵐を呼ぶできごとが!

とは大げさですが、例によって写真は携帯電話のおまけ機能で撮っているわけですが、

バッテリー切れ寸前の状態であることに気がついたのですね。


なにしろ喘ぎに喘いで登ってきただけに、

城跡らしき痕跡は下りにのんびり撮りながらと思っていたところが

もはやいつ切れてしまうかという状態に。


泣く泣く電源をいったん切って、黙々と下山したような次第ですが、

最後の最後に一枚だけ、里山の風情を記録しておきましたですよ。


八王子城跡の紅葉


帰りがけにバス待ちの時間を利用して、

ガイダンス施設の中でたっぷりと八王子城に関して学習をしたましたので、

ちとまとめておきましょう。


八王子城は小田原北条氏 三代目当主であった北条氏康の次男、氏照によって築城されたそうな。

築城年月は不詳ながら、1586年にそれまでの居城であった滝山城(やはり現在の八王子市)から

移ってきたのですが、これは豊臣秀吉の小田原攻めに備えるため。


滝山城に比べて山深い地形を利用した要害を八王子城に求めたようですが、

1590年(天正18年)、実際に秀吉方の前田利家軍、上杉景勝軍が攻め寄せたときに城主氏照は、

一族ともども小田原に籠っていたため、城を守っていたのは留守居の部隊であったとか。


そのため、堅固と思われた八王子城も主力部隊を欠いては前田・上杉の猛攻の前に、

一日で落城してしまったのだといいます。

(途中あれこれ言いましたが、風雲急を告げる出来事はこのことでした)


先に八王子市郷土資料館で見た発掘品の中には、

こうしたことを物語るのか、当時の鉄砲の弾がたくさん見つかり展示されていたのですね。


発掘品でいえば、山裾に築かれた御主殿(平時の政務の場所兼住居)跡からは

景徳鎮の焼き物の破片はもとよりヴェネツィア 産と思われるレースガラスの花瓶の破片なども

出土したようです。


当時の大名(分家ですが)にはこうした遠くヨーロッパからの交易品も手にしていたのですね。

そうしたことを思うにつけ、兵どもが夢の跡てなことを思う八王子城でありましたよ。

(そうそう、そうした場所なだけにここは「心○スポット」でもあるらしい。早く帰ってよかった…)

先日FM放送でクラシック音楽の番組を聴いておりましたら、
ベートーヴェン 作曲の序曲「コリオラン」を紹介して曰く
「これはベートーヴェンが当時ウィーン で上演された戯曲「コリオラン」に触発されて…云々」
といった言葉が聴かれたものですから、「え?」と思って調べてみますと「そうだったのかぁ」と。


モーツァルト あたりに比べて、ベートーヴェンの序曲が演奏されることは少ないこともあり、
それに比例するかのように耳にする機会も少ないのですよね。


これはモーツァルトの序曲が文字通りにオペラの序曲であって、
その本体のオペラが有名なだけに序曲ともども演奏機会があるてなことにもなりましょうけれど、
ベートーヴェンの場合はオペラ、劇音楽、バレエ音楽等に序曲を書いているものの、
どうも本体との一致がうまくいってないような。


うまくいってないとはアバウトな表現ですけれど、
オペラに関しては最終的に「フィデリオ」として伝えらえている作品の
試行錯誤の過程を反映してか、4曲もの序曲が残されてしまってますし、
エグモント 」(劇付随音楽 )はおよそ序曲しかほとんど聴く機会がありませんし、
プロメテウスの創造物 」(バレエ)に至ってはどんなバレエだったかも
分からなくなってしまっているような状況らしいのですよね。


まあ、ベートーヴェンに関して言えば、こうした音楽が(その出来栄えがどうかということとは別に)
作曲者の個性を聴くのには脇に置いておかれがちだったということでしょうか。


というようなベートーヴェンの序曲でありますから、
序曲「コリオラン」にしても曲の謂われを知ることもなく聴き流していた感なきにしもあらずですが、
改めて戯曲に触発されて…と知ると、「コリオラン」とはもしかして「コリオレイナス」のことだったの?
シェイクスピア も書いたあの?と思い当たり、調べてみるとかくてその通りということに。


どうやらベートーヴェンが触発されたというのは、シェイクスピアではなくって同じ題材を扱って
(ベートーヴェンと同時代人であった)ハインリヒ・ヨーゼフ・コリンという人が書いたもののようですが。


とまれ、ベートーヴェンはこの芝居のために序曲を作曲し、コリンに献呈までしているにもかかわらず、
その後も上演されたであろうこの芝居にベートーヴェンの序曲が鳴り響くことはなかったそうです。


なんでも「コリオラン」には感激したものの、コリンの何か別の戯曲は気に入らなかったのか、
散々くさしていたことをコリンが大層怒ったてなことらしいのですけれど、
何となくいかにもベートーヴェンらしいエピソードのような。


ということで、コリン版「コリオラン」がどういう仕立てなのかは分からないのですが、
ともかく「コリオレイナス」がどんな話なのかを知るべく、シェイクスピアを手に取ったのでありますよ。


コリオレーナス シェイクスピア全集 〔31〕 白水Uブックス/ウィリアム・シェイクスピア


お話は共和政ローマの時代、ローマ帝国になる以前ということですなぁ。

敵対する隣国ヴォルサイとの度重なる戦闘でローマを守り貫いている将軍ケイアス・マーシアス。

コリオライという敵の城市を攻めて功あったところから、コリオレイナスの称号が与えられます。


貴族の間では一致して「次の執政官にはコリオレイナスを!」となりますが、

どうもこのコリオレイナスさん、とぉっても口が悪い。


どこまでが本気か判然としないところながら、

市民階級にしてみると罵倒されているとしか思えないことをずばずば言ってしまうのですね。


当然のこと市民には受けが悪いわけですが、

これを利用して護民官のシシニアスとブルータスは結託して市民を扇動し、

暴動へと駆り立てた挙句、悪いのはコリオレイナスでこうしたことを引き起こしたのは

国家への反逆罪だぁ!などと言い出す始末。


市民は群衆心理状態ですから、「そうだ、そうだ!」となって、

哀れコリオレイナスは追放の憂き目にあうことになります。


怒ったコリオレイナスはあろうことか、敵国ヴォルサイの将軍を訪ね、

ローマを攻めるなら助力することを申し出るという展開。


無敵の将軍コリオレイナスがヴォルサイ兵を引き連れてローマの城門に迫る中、

コリオレイナスの母親や妻、子供がうちそろって、攻撃をやめるようコリオレイナスに縋って頼むという。

この場面にはニコラ・プッサン の絵でもって、想像を膨らませるとしましょう。


ニコラ・プッサン「Coriolanus」


で、剣を抜いてローマにいざ斬りかかろうとするコリオレイナスのその後の行動やいかに…。

結末はどうやらコリン版とシェイクスピア版では異なるようですが、

もったいぶってここでは触れますまい。


まあ、こんなようなお話なんですが、

コリオレイナスという人物、どうにも分かりにくいというか、理解しにくいというか。

とても一度読んだくらいでは整理がつきかねてしまうのですよ。


それだけにここでは通りいっぺん的な理解で臨むとするとですね、

ベートーヴェンはコリオレイナスに(部分的にもせよ)我が身を重ねていたのかもと思えるような。


コリオレイナスは市民たちに傲慢としか思えない言葉を投げかけますが、

これは本意というより要するにお追従が言えない極端さが出ているだけで、

ローマを、引いてはその民を愛し慈しんでいるのは言葉で語るまでもなく戦いに臨む姿勢、

そして勝ち得た結果が全てを示しているだろうに、それがどうして理解されないという内心があったかも。


一方でベートーヴェンはといえば、音楽でもって、それも音楽を進歩させることをもって

(ちなみにベートーヴェンは同時代人には思い切り最先端現代音楽であったはず)

広く人類にかくも報いているにも関わらず、その音楽を理解しようともせず、

ひいては自分をも変人扱いするとは!てなところでもあろうかと。


といっても、「コリオラン」を作曲したのは1807年。

この年には交響曲第4番、ピアノ協奏曲第4番などが作曲され、

翌年には交響曲第5番、第6番が生み出されるという気合たっぷりの頃合い。


そう考えると、「コリオラン」で曲を書いたというのは、

コリオラヌスの激しい心情を写した第一主題と

母親や妻を想起させる穏やかな第2主題を対比させることが

ソナタ形式を構成するのにうってつけと気づいたからなのかもですね。


それだけに何度も序曲「コリオラン」を聴いていると、

まさにこれから「コリオレイナス」幕が開いていく…という

ゾクゾクするような終わり方だったのだなと改めて思うところでありますよ。