どうもフランクフルトは通過点になってしまうだけなようでして…。

初めてヨーロッパに行ったときにも、ニュルンベルクから列車でフランクフルトに出たものの、
そのまま夜行に乗り継いでハンブルクへ行ってしまって…。


もっとも朝にハンブルクについたものの、

いささか寝たりないなと折り返しの列車に乗ってしまったので、
ハンブルクもスキップで、その日はブレーメンを見て廻ったんですが。


あ、フランクフルトの話でした。
一昨年にウィーンに行ったときにも乗り換えだけでしたしねえ。


フランクフルトは商業都市であって、観光的にはあまり見るところが無い…
みたいなことになってるのが原因のひとつでもありましょうね。


確かに古い街並みならロマンティック街道へ、風光明媚な景観ならライン河クルーズへと

出かける発着点という位置づけかと。


ただお目当てを何にするかによっては、

「意外と面白そうかも…」とようやく気づいてきたようなところがありまして、
ゲーテハウスもあるし、美術館・博物館の類いも数々そろってますしね。


そろそろフランクフルトとその周辺を訪ねる旅を

してもみてもいいのかな(空想旅行 ではやりましたけど)と思い始めたりする頃合いだったわけです。


ところが、そのフランクフルトで

一、二を争うお目当てになるものと思っていたシュテーデル美術館の、
改装による思わぬ貸出のおかげか、所蔵のフランドル絵画が日本で見られる、
しかもフェルメール の「地理学者」までお出かけいただいておる!と些か色めきたったものの、
混むだろうなぁと二の足を踏んでいたのですね。


ただ、先日の「美の巨人たち」に刺激を受けて書いた「新版 フェルメール劇場 」の第一話に

「地理学者」を取り上げたからには、やっぱり見ておくにしくはなしと思ったわけで、
東京・渋谷のBunkamuraザ・ミュージアム、

「フェルメール《地理学者》とオランダ・フランドル絵画」展に出かけてみたのでありました。


「フェルメール《地理学者》とオランダ・フランドル絵画」展@Bunkamuraザ・ミュージアム


混んでましたね、なかなかに。
以前、東京都美術館にフェルメールの数点が一度に集まった展覧会 ほどではないにせよ、
思いのほか小さめな「地理学者」の前には人だかりが出来てしまっていて…。


「それでもこの機会に見なきゃ!」というよりは、

「こんなふうに見てもなぁ」という思いが勝つタイプだものですから、
ぐるりひと回りして、しっぽを巻いて逃げ出したような次第。


それでも、いくつかの作品は目にとまるところでありまして、

その一つがルーベンスでしょうか。


ルーベンス、ブックホルスト「竪琴を弾くダヴィデ王」


展示作「竪琴を弾くダヴィデ王」は

ヤン・ブックホルストとの合作ということですけれど、とても小ぶりな作品。


実はルーベンスは、こうしたこぶりな作品に惹かれるものが多いのですよ(個人的にですが)。

ブリュッセルアントワープ を訪ねたとき(もちろん他でも見られますけれど)に、
天井の高い美術館の建物の壁面を埋め尽くす巨大な作品群に圧倒されたりもしましたけれど、
こういっては何ですが、依頼があって工房のラインをフル稼働し生産した(?)大作には
画家ルーベンスの思いみたいなものがどれほど入ってたのかなぁと。


それに比べて、小ぶりなものは

もっと直接的に画家たるルーべンスの思いを見ることができるような。
ルーベンス・ハウス で見たデッサンなんかでも、そんな気がしたものです。


それともう一つ。
今回フェルメールの評価は措いとくとして、いちばん印象に残ったのはレンブラント かなと。


レンブラント・ファン・レイン「サウル王の前で竪琴を弾くダヴィデ」



「サウル王の前で竪琴を弾くダヴィデ」は

光の画家、陰影の画家レンブラントの面目躍如ではないかと思うところです。
光が当たって輝くテカリの質感と、手の描写には目を惹くものでありますね。


奇しくもルーベンスとレンブラントとが竪琴弾きをモティーフに描いてます。
レンブラントの方がサウル王をどっしりと竪琴弾きを脇に描いていますけれど、
イメージ的にどちらかといえば、王様どっしりの感じはむしろルーベンスが描きそうで、
竪琴弾き単体の方をレンブラントが描きそうな気もするところですが…。


それから、その後の絵画に影響を与えた風景画、海景画あたりを見ておりますと、
コンスタブル なんかもロイスダールに私淑したんだよなぁ」とまざまざと思うところなのですね。
そんなあれこれを思いつつ、ゆっくりのんびり行きつ戻りつしながら眺めやりたいものながら、
実際にはそうもいかない、この状況。


マウリッツハイス で「真珠の耳飾りの少女 」を食い入るように眺めていても支障ない状況、
アムステルダム では「牛乳を注ぐ女 」もレンブラントの「夜警」も誰に遠慮もなく見ていられる状況、
そんな贅沢ともいえる状況で穏やかに眺めることはできない…。


となれば、やっぱり改装後には(この夏は言わないですが)

行かなきゃいけんですね、シュテーデル美術館にも。


数々の作品に対して失礼なくらい中途半端な見方しかしてこなかったですけれど、
いつか機会を見つけて「ちゃあんとご対面に行くけんね!」という思いを

抱かせることになった展覧会でありました。

たまたま「コナン 」を見たり、推理クイズのTV番組 を見たりしたものですから、

しばらくぶりにミステリでも読んでみようかなと思いつつも、

殺伐した「人殺し」みたいな話はなぁ…というところで、こんな紹介文があったっけと。

世間と渡り合うのは苦手な青年があこがれの司書となるべくアイルランドの田舎町へ。だが図書館は閉鎖され、蔵書も消えていた。青年の孤軍奮闘の行方は。

これを読むかぎり、何やら面白そうだなという期待が。

それにどうやら人殺しはなさそうだし…というのが、

イアン・ソンサム著「蔵書まるごと消失事件」でありました。


蔵書まるごと消失事件 (移動図書館貸出記録1) (創元推理文庫)/イアン・サンソム


事件としては、図書館の蔵書(田舎町の図書館なので、1万5千冊くらいでしたか…)が消失!

というのであって、殺伐とした話でないはおろか、表紙を見ると子供向けかとも思ってしまいそう。


さりながら、ミステリ書評家(であるらしい)穂井田直美さんの解説にはこんなふうに。

本好きにはたまらないミステリがスタートした。
なによりも嬉しいのは、等身大の本の虫がミステリ・シリーズの主人公として登場したことである。
これは快挙である。

ということで、「本好きにはたまらない」ところがあるようでして、

そうでない一般読者向けにも、かなり丁寧な文中括弧付きの注釈が施されてます。


ですが、「まるでエルキュール・ポワロね!」のポワロ の後にかっこして、

「アガサ・クリスティ作の推理小説に登場する名探偵」とあるのは、

いくらなんでもミステリを手に取る人には「こんなとこまで…」と思えてきますけれど。


ところで、難を言いますとですね、「長いなぁ」ということがありましょうか。

文庫版で450頁に及ぶミステリは、例えばミステリの女王クリスティ でいくつあったろうか…てな感じです。


長い理由はといえば、要するにドタバタなんですね。

(それが面白い!という方もきっとおいででしょう)

主人公イスラエル・アームストロング(これ、名前です)が、

消えて無くなった図書館蔵書の捜索にあたる破目に陥りますが、

もとより探偵でもなんでもない、ヒーローらしいところがまるでない人物なだけに

(それを主人公にしちゃいけないことはないですが)

その捜索過程はドタバタの連続。


巻末解説にはユーモア・ミステリとありますけれど、

蔵書消失というミステリ風味を利かせたユーモア小説だと思ったらいいのかも。

つまりは、最初から「久しぶりにミステリを読もう」といささか意気込んで?いたがために、

肩透かしをくらった恰好やもしれません。

ですから、それを前提に読まれる人はシンプルに「面白かった」となるのやもしれませぬ。


ただ、叙述に費やすと長くなる文章も、視覚的にはぱぱっといくのかもと考えるとき、

極めて映画向き、ドラマ向きの話だなとは思ったのですね。


副題に「移動図書館貸出記録1」とありますからシリーズものだと思いますけれど、

本として続きはおそらく読まないであろうなぁと思うものの、

BBCがドラマ化するらしきことが解説に書かれてますので、

そっちの方なら見てみたい!と思うところでありました。


あ、これから読もうと思ってらした方がいらしたら、ごめんなさい。

あくまで個人的な感想ですので…。

東京オペラシティには専ら演奏会を聴きに行くわけでありますけれど、

行ったら行ったでそこのアートギャラリーかICCか(いずれかもしくは両方)を覗くことが多いのですね。

ただ、今のところICC はどうやらクローズしているようですので、

立ち寄る先は自ずと決まってきてしまうのですが。


このたびもヤナーチェク を聴く前の少々の時間を利用して、

収蔵品展の方だけ見てきました。

(企画展さんには申し訳ないですが、こっちだけなら何と200円!)


この東京オペラシティ アートギャラリー は、

現在進行形の作家のものを中心としているようですが、

難波田龍起 (あ、こちらは故人ですけど)作品を結構お持ちのようなのですね。


そして、難波田作品にビビビっと来てる者からすると、

コレクション・ポリシーに共鳴してとは大袈裟でありますけれど、

全く知らないリアルタイムの作家さんたちの作品もなかなかに面白いものを見せてくれたりするなぁと。

先月行ったとき もしかりでありましたし。


ところで今回の収蔵品展は「李禹煥と韓国の作家たち」というタイトル。

昨夏、香港藝術館 でコンテンポラリー・アートのビエンナーレを覗いて、

「アジアが何の劣るまいぞ」てな作品の数々を見てますので、

はて韓国の作家たちの勢いや如何に?とも思ったわけです。


東京オペラシティ アートギャラリー 収蔵品展037 リーフレット


まずは、一人だけタイトルに名前の出ている李禹煥 さんの作品。

上のリーフレットに出ているような「線」を使ったものや、

四角い印章用の石(字を刻んでないものです)をスタンプのように利用した「点」を使ったものなどが

特徴のようですけれど、ひとつ面白いなぁと思ったのは「ドローイング」(1968年)という作品であります。


黒い紙を、黒鉛筆で円を描くようにぐるぐると書いていく、というより塗りつぶしていく、

それもおよそ隙間なくびっしりと線で埋めたという…ただそれだけの作品…

なのですが、黒の上に黒じゃ見えないじゃないか!というのは理屈でありまして、

想像できることですけれど鉛筆の黒は独特の光沢がありますよね。


だから、見えるわけです。

というより、独特の存在感を示しているんですよね。

普通は黒の上に黒で書こうとは思わないのではないかと。

いたずら書きじゃないんだし。


で、線の存在感に気付くとですね、たくさんの線それぞれが太さに違いがあり、

描く円の具合も違いがあり、何だか自己主張してるように見えてくるのでして、

そうなるとさらに、ちょっと見おんなじような線がたくさんあって、ひしめいている様子は

人間社会のようだなてなふうに思えてきたりするという。

面白いですよねえ。


東京オペラシティ アートギャラリー 収蔵品展037 リーフレット裏面

次の展示室に行きますと、

崔恩景さんの「Beyond the colors #77」(2001年)あたりも見ものですけれど、

もうひとりだけ触れておくとすると、郭仁植さんかなあと。


リーフレットの裏面に掲載されていた上の画像に見るような、

和紙に彩墨で繭玉のような形を重ねていったような作品です。


この彩墨を使う以前のものとして、単純に黒い墨で書いてる作品もあるんですけれど、

ひと目で華やかさ、明るさが感じられるのは彩墨の方ながら、

いろいろとぼかしの濃淡を変えた墨の繭玉を見ているとですね、

単色のはずが色が見えてくるような気がするわけですよ。

不思議ですよねえ。


とまあ、こうした出会いがしら的なアート鑑賞もなかなかに楽しいものでありますね。

が、ふと気づいてみると、泰西名画の企画もの展覧会にしばらく行ってないなぁと。

ようやく陽気もよくなってきたし、会期終了の近づいてるのもあるようですから、

ぼちぼち出向いてみるとしますかねえ。

そんな気分の後押しにもなった収蔵品展でありました。

レオシュ・ヤナーチェク(1854-1928)の「シンフォニエッタ」を聴いてきたのですね。


読響の演奏会でチェコ に関わる曲づくしということで、

モーツァルト の「プラハ 」やスメタナ の「モルダウ」もありますけれど、

やっぱりこたびの聴きどころはヤナーチェクの2曲、

狂詩曲「タラス・ブーリバ」 と「シンフォニエッタ」でありましょう。


読売日本交響楽団2011年4月公演


ところでヤナーチェクの「シンフォニエッタ」と言いますと、

読んでないのでよくは知りませんけれど、この曲が村上春樹 さんの「1Q84」に登場するらしく、

一時期CDがクラシック音楽(しかも古典的な名曲でもないのに?)にしては異様な売れ行きをしめした…

ということは聞き及びました。


さりながら、そうしたことがあってもおよそ演奏会で取り上げられるふうでもなく、

例えば「のだめ 」の中でベートーヴェン の交響曲第7番が使われると結構これが

プログラムを飾ったりもしたんですが、よほど一過性だったんでしょうかね。


とさも「シンフォニエッタ」を「とうに知ってるけんね」的に言い方になっておりますけれど、

これも思い返せばなかなかに「わけ分からん…」と耳に馴染まない曲であることが長く続いていたという。


実に印象的な、コラール風にゆっくりめのファンファーレから始まるのですけれど、

今では「おっ!」とばかり心躍るところでもあるものの、かつて「うむぅ…」だったわけでして、

今回の演奏会場で配布された曲目紹介には、こんなふうにあります。


冒頭部では、アカデミックな書法では禁じ手とされる平行5度の反復音型を用いつつ、パンダ(別働隊)とオーケストラのティンパニのみを用いて、ファンファーレが奏される。

アカデミックな書法では禁じ手!

クラシック音楽を聴くのを修行とは思ってませんけれど、

一度「こいつはあかん」と思っても懲りずに何度も聴くとか、いろんな曲にトライしてみるとかするうちに

だんだん耳が慣れてくる(麻痺してくる?)ようなところがあるのでして、

たぶんアカデミックな路線の音楽から離れたところの応用編に耳が馴染まないときには

受け付けにくかったのだろうと思うわけです。


でもって、このヤナーチェクの「アカデミックでなさ」の部分でありますけれど、

この曲が作られたのが1926年で、ようするに「20世紀音楽 」ではないか!というところもあるにしても、

ヤナーチェクがチェコはチェコでも東部のモラヴィア地方の生まれだというのが関わってるような。


今のチェコ共和国はざっくり言って、

西側がプラハを中心としたボヘミア、東側がブルノを中心としたモラヴィアからなってますが、

ボヘミアはドイツオーストリア との長い国境線を持ち、いわゆる西欧との行き来が昔から多かったと。


自ずと文化的な影響も受けるわけで、

西欧的な(いわゆるアカデミックな)きちんと形式を抑えた音楽作りがなされて、

その元は踊り、舞曲に根ざすところがあったようなのですよ。

あんまり不規則なふうだと踊りにくいですものね。


こうしたボヘミアに対して、モラヴィアの方はいえばボヘミアより奥まってる分、

スラブ系の意識が高いことと同時に、音楽の方も歌(民謡ですね)に根ざす方向があったとか。

踊りに比べてですけれど、歌は実に自由ですよね。

感情の赴くままに長短を変えたり、装飾したり、はたまた平均律では表せない微妙な音を使ったり。


チェコの国民音楽の祖をスメタナにおいたりしますけれど、
ヤナーチェクにすればスメタナの音楽は(乱暴な言い方をすればですが)、

「西欧風の弁当箱にチェコの素材を詰めただけ」という感もあったとか。


よく民謡収集に力を入れる作曲家がいるようにヤナーチェクもモラヴィア民謡を研究する。

でも、その先には歌が会話の大袈裟な感情表出みたいに思ったかどうかですが、

会話そのものの採譜を始めるのですね。

そして、たどりつくのが「発話旋律」なわけです。


反対の例として分かりやすいのが山田耕筰作曲の「赤とんぼ」でしょうか。

夕焼け小焼けの「あかとんぼ」。

この「あかとんぼ」と歌うメロディは、会話ではおよそこういう言い方はしないものになってます。

これはおかしい!というのがヤナーチェクだったわけですね。

西欧風の禁則を前提に作るのは不自然だと。


…と長くなってきてますが、ようするにクラシック音楽を聞きかじったばかりくらいですと、

どうしても西欧風に収まりのよい曲の方が耳に優しいながら、

ヤナーチェクの目指した方向性はそうではなかった。

それだけに、耳馴染みしにくい曲となっていた(あ、これは個人的経験ですが)というわけです。


お陰様でというのもなんですが、

今や「シンフォニエッタ」は、ヒンデミット の「ウェーバーの主題による交響的変容」と同様、

20世紀音楽(?)の中でも大好物になってまして、

トランペット9、バス・トランペット2、テナー・テューバ2という、

ハチャトゥリアン の交響詩曲にも近いバンダ(別働隊)を伴うこの曲を

生で聴けた幸せを大いに感じているのでありました。

この間フランスはカペー朝の話 のときに、ちょこっとイギリスのジョン王のことに触れましたけれど、
失地王などと不名誉な綽名で呼ばれることもあってか、何とか何世ということの多い王様の中で、
ジョン2世やらジョン3世がいっかな現れないことの元になるジョン王。


ふと思いましたのは、このジョン王のことを

シェイクスピア は戯曲の中にどう描き出したのであろうかということでして、
手にとってみたい次第であります。


ジョン王 シェイクスピア全集 〔13〕 白水Uブックス/ウィリアム・シェイクスピア


元々はイギリス王家プランタジネット朝を創始したヘンリー2世の末子でありますけれど、
兄弟が多く幼いジョンには領地が与えられなかったといいます。
鬱々とはしたかもですが、後に獅子心王ともいわれるリチャードなど剛毅な兄貴がいては
止むを得ないところではあったでしょうか。


ましてや自分に王位が廻ってくるなど、当初は思ってもいなかったのではないかと。
さりながらどうした運命の悪戯か、王位継承者が自分か甥かという状況が生じたのですね。


甥アーサーが先王リチャード1世の息子というなら色めくこともないのですが、
これがリチャードの次の兄であるジェフリーの息子でしかもまだ子供とあっては、
ジョン自身は「神様の思し召し」とでも思ったでしょうやもしれませぬ。


ここでは戦いの結果何とかアーサーを排して(暗殺とも)、ジョンは王位につきますが、
フランス王にはその召喚に応じぬと大陸側の領土を召し上げられ、
(フランス側領土ではジョンもフランス王の封臣でありましたから)
カンタベリー大司教の叙任争いでローマ法王からは破門され、
侘びがわりにイギリスを法王に差し出して臣従を誓い、ジョンは法王からイギリス王を任されるという具合。


さらに数多の戦いのために重税を課したことから、国内では総すかんを食らい、
「マグナ・カルタ(大憲章)」(王権の制限)を認めることに…。


というわけで、とても次代の王様たちが肖りたいと思うはずもなく、
後にも先にもイギリスにはジョン王といえば失地王のみというわけであります。


とまあ、このようなジョン王をシェイクスピアが描きだしたもので見てみますと

やはり「むむむ」と思わざるをえないような…。


巻末の解説からして、

「円熟味に欠けるうらみがあるとはいえ、失敗作だと一言では片付けられない」としながらも、

こんなふうな記載もあります。


三百年たらずの批評史で、とくにこの劇が問題にされた時代はなかったといわねばならない。無視されるか、失敗作だときめつけられるかのどちらかだった。こうしした不評をこうむった最大の原因は、シェイクスピアの描くジョン王にヒーローらしい偉大さがみられないことである。

このあと、「そもそもジョン王と言えば…」と

先に書いたようなおよそヒーローらしくない姿にも触れるところにもなるわけです。


それでも、シェイクスピアの時代は、歴史的に英国国教会を建てたヘンリー8世に続く

エリザベス朝の御代でありますから、教会に破門されたジョン王をいささか贔屓目に見て、

反カトリシズムの旗頭的に捉える向きもあるのだそうで。


とはいっても、本作の中のジョン王のこの台詞をご覧くださいな。

捕えた甥のアーサーを暗に葬り去るよう部下に対して示唆しておきながら、

その部下が事をし遂げて復命に来たと思った王の長広舌の一部であります。

おれがおれの気持ちを漠然と伝えたときに、
もしおまえが頭をふるか、話をとぎらせるか、
あるいはもっとはっきり言ってくれというように
疑わしげな目をおれの顔にむけるかしておれば、
おれは深く恥じて口をつぐみ、計画を放棄し、
おまえの危惧するところをおれの危惧としていたろう。
「ジョン王」第四幕第二場より

こりゃないですよね、部下としては。

甥を死に至らしめたのはお前が止めなかったのが原因だといわんばかり。

一事が万事ではなかろうものの、こうした人物を主人公に据えてもねえ…と思ってしまいますね。


シェイクスピアの話には、

悩みにしても怨みにしても深い深いところに根ざしてるところがあったりするんですが、

ここでのジョン王も苦脳するんですが、実に薄っぺらで妙に現世的なのですね。


それこそリアリティ!といえなくもないかもしれませんけれど、

まかり間違ってもこの作品でシェイクスピアの印象を決めてしまうようなことがあっては

(たぶんというか、まずあり得ないとは思いますが)

大きな誤解をすることになりましょう。


悪い奴という点では、リチャード三世 も「オセロ」のイアーゴーも尋常ならざるところがあるものの、

格が違うのでして、そちらの方でこそシェイクスピアを語るべきなのだろうと。


また、狂言回し的に立ちまわる道化が登場することがありますけれど、そうした役回りを、

どうやら獅子心王リチャード1世の隠し子らしき私生児フィリップと呼ばれる者が担ってまして、

解釈によっては後半部分はこのフィリップが主人公ではないかという考え方もあるようです。


が、前半の道化ぶりと後半の戦線の陣頭に立つ様子がどうもしっくりこないのでして、

これまたキャラクター作りの点でもやっぱり今ひとつかも。


あたかもジョン王の呪い?であるかのごとく、シェイクスピアといえども

ジョン王を扱って他の作品同様に後世にも輝き続けるとは、いかなかったようなのでありました。