全体の中での割合からすれば多いというほどのことはないですけれど、
どうも年始のTV(ラジオもですかね)には古典芸能の番組が増えるような傾向にありますね。


これは、大晦日から夜通しで明けた元旦に
朝からハイ・テンションで落語、漫才を含めたバラエティーが展開されることを
言っているわけでないとはご想像いただけるものと思います。
まあ、落語ももちろん古典芸能ではあろうと思っておりますけれど。


一方で、最早恒例と思しき「ニュー・イヤー・コンサート 」のウィーン からの中継を始めとして
クラシック音楽の番組もいつもよりは多いかなと。
音楽の中でもクラシックと言われるくらいに古典芸能であることには間違いないですね。


まどろっこしい言い方をしておりますけれど、
ここでの古典芸能は早い話が能、狂言、歌舞伎などのことでして、
「ことほぎ」感のあるプログラミングによってお正月らしさの演出に似合うということでしょうか。


と、ここまでの部分はいつになく大部のページ立てをされた新聞の
TV欄を眺めるだけでも分かることなんですが、「似合う年の始まり」とは掛詞でありまして、
「新年の始まりには、古典芸能が似合うよねぇ~」ということと
「古典芸能を鑑賞するに似合いの年齢になったものだなぁ~」とのダブル・ミーニング。


もちろ飲酒や喫煙ではあるまいに古典芸能は何歳からといった年齢制限があるわけではありませんし、
幼少の砌から夙に古典芸能への関心深く…という方もおられましょうから、
まあ個人的なしみじみ感と受け止めていただければと。


差し当たりここでは歌舞伎の話を中心にしますけれど、
学校で習う国語の授業の中でもかする程度に歌舞伎に触れたような気がします。
(これは担当する教員の教え方にもよりましょうが)


記憶する限りでは「三人吉三」の冒頭の台詞をよおく覚えていますですね。
有名な部分ですから、ご存知の方が多いのを承知で引いてみるとしましょう。

月も朧に白魚の 篝も霞む春の空 冷てえ風にほろ酔いの 心持ちよくうかうかと 浮かれ烏のただ一羽 ねぐらへ帰る川端で 竿の雫か濡れ手で粟 思いがけなく手に入る百両

この七五調の調子良さに「ほぉ~」と思いはしたものの、それっきり。
よく学校の「歌舞伎教室」てなことで実際に見てみるという授業もあるようですが、
個人的にはそういう経験もなく幾星霜、未だに歌舞伎見物をしたことはありません。


もっとも、その気になればいくらでも歌舞伎座に見に行くことはできたわけですけれど、
そうしなかったのは実際に出向こうとするまで興味が湧いてなかったというのが本当のところ。


それが、ここへ来て年末にも年明けにも歌舞伎公演のTV番組を見ていたというこの事実。
我ながら「どうしたことだ?」と思うところでして、やはりひとつには相応の年齢ということかなとも。


ただ「Chain reaction of curiosity」なる弊店の看板からしてなりゆきから想像されるように、
始まりは一昨年の年末頃に
泉岳寺 を訪ねたりしましたけれど、
「赤穂事件」に関心が向き出したことに関係があるわけですね。


「赤穂事件」に目を向ければ自ずと「仮名手本忠臣蔵 」が気になることになりまして、
ここに至ってかなり本気に?歌舞伎を見てみたいものだと思ったわけです。


とはいえ「仮名手本忠臣蔵」を見たいと言っても、そうそういつもこの演目をやっているわけもなく、
そうこうするうちに興味は別の方向に向かうことになりますが、
歌舞伎への興味を細々と持続させてきたのは、折々ETVで放送されている

歌舞伎超入門とも言うべき「花鳥風月堂」(コントめいたやりとりには「うむぅ~」ですが)と

これに続く「芸能百花繚乱」を去年はずいぶん見たことによりましょうか。
(ついでに言うとを「花鳥風月堂」の前に放送さえる「日本の話芸」で講談の面白さにも開眼しました)


と、いささかのベースを残していたところで、
昨年末には「仮名手本忠臣蔵」の五段目、六段目(お軽勘平の部分ですね)がTVで放送されて、
ここまでのエピソードは赤穂事件本来の顛末には無いお芝居の話とはいえ、
はっきりと真実を告げないがために誤解が誤解を生んでこじれる韓国ドラマのような展開を
面白く見たのですね。


そして、何とも都合がよいことに昨晩は新橋演舞場で公演中の七段目、
祇園一力茶屋の場が中継されるに及んで、歌舞伎機運が個人的に盛り上がりを見せているという。


こうした関わりから考えると、
年齢云々ではなくって興味の赴くところがここにたどり着いたといいたいところですけれど、
やっぱり相応の年齢という要素は無視できないような気もしないではない。


クラシック音楽なんかも同様なんですが、
「昔は全くクラシックなんて興味が無かったのに、何となく聴いてみようかと思って」
てなことはラジオなんかの投稿でよく聞く話でして、この何となくという関心・興味が出てくる
頃合いというものがあるのかもしれませんですね。


だからと言って、若い頃に持っていた興味・関心が無くなるわけでもなく、
それだけ幅が広がってきたのだ(年相応、万歳!笑)ということなのかなぁと。
「何となくやってみようか」これを大事にしたいものでありますなぁ。

年末に買った切り売りのロール・ケーキが冷蔵庫で眠っておりまして、
賞味期限が昨日までと気付いたものですから、そそくさと頂くことに。


でもって、クリームの部分を覆っていたビニールを剥がしてみたところ、
「おお!何と今年にふさわしい!」と思ってしまったのですね。


巳年のイメージ?


気のせいか?実に巳年らしく思われるではありませぬか。
前に買ったおりがみ用紙に乗せて、ちと際立たせてみたりして


と、何やら新年早々お目出度い気がしたところで初詣にと思ったわけですが、
今年は初詣からして七福神巡り にしてしまうことにしたのですね。


ということで八王子七福神とやらを巡ることにしたのですけれど、
八王子に出向くのはいささか理由のあるところでして。


ちょっと前に八王子城 を訪ねるにあたって、
いささかの予備知識を得んものと八王子市の郷土資料館に寄ったことには触れました。


で、郷土資料館から西八王子駅へ出る途中に信松院というお寺さんがあり、
すぐ前を通る道にも松姫通りという名が付いていることから、
何やら曰くのありそうなところだと思っていたという。


後から調べてみると、これが何と武田信玄 の四女である松姫、
後に出家して信松尼にゆかりの場所であったと分かったものの、
立ち寄っておけば良かったと思うも時すでに遅く、いつかは行ってみようと思っていたわけです。


時にこの信松院が八王子七福神の一つとして布袋尊に当たると知り及んだものですから、
これを機会と七福神巡りがてら行ってみたという次第。

ここに見事回り終え、満願成就てなことに(かどうかはわかりませんが)。


八王子七福神ご朱印色紙


ところで、このご朱印色紙をご覧になって気付くことがおありになろうかと。

そうなんですよね、七福神と言いながらその実、八福神になっているのですよ。


回り始めてもすぐには気付かなくて、

ご朱印をいただきつつ「これで半分を越えた」と思いつつ、残りを数えて「おや?」と。

最初は数え間違いかと思いましたけれど、

どう数えても八福神になってしまう。


なんでも(Wikipediaによればですが)

「今では七福神で唯一の女神は弁才天(弁財天)であるが、

当初の紅一点は吉祥天であったとも言われる」ということでもあり、

「八王子七福神めぐり」の案内にもこんなふうに書かれているのですね。

通常七福神に吉祥天は入りませんが、伝来の縁により八王子の“八”に因み八福神として奉安されております。

吉祥天が混じっているのはあながちおかしなことではないにしても、

八王子故の八福神とは?!たぶん他にはないのでは。

(と、思ったら横浜市瀬谷区に達磨大師を加えた八福神があるようで…)


というところで、八王子七福神(八福神)のことに戻りますが、

信松院では久しぶりに墓まいらーと化して松姫の墓所を訪ねました。


松姫之墓所@八王子・金龍山信松院


先に書いたとおり、松姫は武田信玄の息女ですけれど、

上杉謙信との戦いを繰り返した折り、西方からの憂いを封じるための政略結婚として

織田信長 の嫡子・信忠との縁組が画策されるのですね。


婚約はしたものの、その後に織田とは敵対関係となり、あえなく破談。

やがて武田氏滅亡の戦いに際して関東に落ちのび、

今の八王子で一族の菩提を弔って生涯を送られたという。

(武田氏と八王子の関係はどうやらこれにとどまらないようですが、また別の機会に)


松姫の剃髪は22歳のときであったといいます。

戦国時代を描くドラマなどではとかく女性は戦の道具、戦の犠牲とされますでけれど、

松姫もまさにそうした一人であったと言えましょうね。


それにしても、こうした歴史的な背景に思いを馳せるお寺さんがあるかと思えば、

こちらはどうしたことでしょう。七福神では弁財天にあたる了法寺です。


松栄山了法寺@八王子


入り口に据え付けられた看板がこれですが、

写真を撮るだけでも恥ずかしくなるようなイラスト。

「ようこそ了法寺へ」と書かれてなければ、とてもお寺さんとは思われません。


予備知識無しにたどりついてしまったものの、

ここがちらりと噂に聞いた「萌え寺」であったかと。

境内では萌えキャラのグッズ販売も行われておりましたよ。


ちなみにこちらが了法寺のHP 。トップ画面の「了法寺」という墨書と、

そこをクリックして飛んだ先とのギャップをお楽しみください(?)。


それにしても、1489年の開山とむしろ信松院よりも伝統のあるところで、

「お寺の敷居を低くする」との発想から出たものということのようですが、

ご近所なだけに松姫の話と比べてしまうと、あまりの違いのような気が。


それからもひとつだけ触れておこうと思いますのは、普段は仲間はずれの吉祥天。

この吉祥院は、それ以外がおよそ住宅地を抜けて歩くのとはうって変わって

南浅川の岸辺から立ち上った丘の上にありまして、とても遠望が利くのですね。


吉祥院からの遠望


せっかく八王子に来られたら、こうした眺望もあるところをお見せしたい…

というそうした配慮も手伝っての七福神入りというサービス精神なのかもしれませんですね。


ということで、ひと巡りした八王子七福神。

あれこれ書きましたけれど、日頃に加えて年末以来の運動不足解消のためというのが、

一番の理由であるかなと白状したりして…。

明けましておめでとうございます。

本年もたびたびのお立ち寄りをいただけますよう努めてまいりますので、

何卒宜しくお願い申し上げます。


年末にはマヤ暦から導かれた世界の終末がまことしやかにささやかれながも事なきを得、

2013年となりましたが、新年を迎えますと「今年はこんな年にしたいものだ」というような

願掛けがあちらでもこちらでも、ではないでしょうか。


願掛けといって思い出しますのは、流れ星ということにもなろうかと。

(マヤ暦が精緻な天文観測によるものという関係ではないですが)


先日見た大空を写した写真展から少々「 」を気にかけてという話はしましたけれど、

そのときに会場にあったビデオ映像から「流れ星」もまた気にしていたのでして、

「流れ星の文化誌」なる本を読んでいたのですが、

新年というタイミングでこの話は、頃合いたるや良しという気がしますですよ。


流れ星の文化誌 (気象ブックス)/渡辺美和


ところで、そもそも流れ星の実体はなんぞやという辺りから始めますが、

さっそくに引用させてもらうとしましょう。

正体は、星よりもずっとずっと小さな、私達が手にとってやっと存在が分かる程度の小さな物質である。ただちには信じにくいかもしれないが、1ミリメートルから1センチメートル程度の大きさだ。…つまむことはできるが、ちょっと力を加えればボロボロとつぶれてるかもしれない。家の塀などに使われる大谷石の破片や目の粗いクッキーのようなものに例えられようか。成分はケイ酸塩、つまり普通の石などと変わらないものと思われ、ケイ素やマグネシウム・哲なども含まれている。

こんなふうに言ってしまいますと、

願いをかける対象としては何だか身も蓋もないような気になってしまいますですね。


ところで、昔々の人は流れ星をどう思っていたのか。

何でも日本の記録で一番古い記録としては

「水鏡」(1195年頃成立、鈴木一平の歌ではありません)に記述があるようですが、

これはあくまで記録で書かれようもそっけないふう。


どう思っていたのかまでは伝わってこないですから、

もそっと遡った平安時代(遡るということはそれだけ科学的な見方から離れるわけで)

「枕草子」に「星は」として清少納言がこんなふうに書いてます。

星は すばる。ひこぼし。ゆふづつ。 よばひ星、すこしをかし。 尾だになからましかば、まいて。

ここに出てくる「よばひ星」、これが流れ星のことなんだそうですね。

流れ星は夜に現れてすうっと消えてしまう…こんなさまが「夜這い」に擬えられたようです。


ただ「尾っぽが無ければもっといいのに」とは(昔は彗星と混同されてたようですが)、

清少納言のユーモアの発露でしょうか。


すっと消えてこその「夜這い星」、

後に痕跡を残していてはまずいんでない、すぐ見つかってしまうよ…てなことのようで。


清少納言の文学的ユーモアとは別に、

どうも一般的に流れ星は凶兆と捉えられていたようでして、

見た者には災いがふりかかるとも考えられていたのだとか。


で、こうなりますと、災厄を払う方法が考案されることにもなるわけで、

その中に一つに「唾を吐く」という厄払い方法があるという。


突如として遭遇してしまう流れ星に対して、

誰にでもどんな状況でもできる厄払いが考えられた結果なのだろうなと思いますですね。

見てしまったら、唾さえ吐けば難から逃れられると。


ただ、厄払いもテクニカルに走ると、青森県は下北地方に伝わったとされる

「流れ星を見たら、歳の数だけ唾を吐かないと死が訪れる」のように、

大変なことになります。

子供ならいいですけれど、お年寄りだったら厄払いの方で命を削ってしまうとか…。


しかしながら時を経て、

遭遇の希少性は凶兆とは全く逆に吉兆とも考えられるなったそうな。

ちなみに昭和初期に行われた静岡県あたりを中心にした調査の結果は、

凶兆との受け止め方、吉兆との受け止め方、それぞれ相半ばしていたそうです。


その後には科学的な解明が進むにつれて、

凶兆との考えは「そんなバカな!」と減っていき、

むしろ吉兆と捉える方が支配的になっていくのですね(こちらも非科学的ですが)。


そんなことの象徴として紹介されていたのが1960~70年代の漫画やアニメで

言われてみれば「なるほど!」と。


1965年から1966年にかけてTV放送された「スーパジェッター」では、

主人公のスーパージェッターの愛機(?)が「流星号」。


1966年から67年にかけて放送された初代ウルトラマン では主題歌の歌詞に注目です。

♪胸につけてる マークは流星


いずれも、流星(つまりは流れ星ですが)にポジティブな意味合いが定着していたからこそ

子供向け番組のモチーフに登場しても、「ふ、不吉な…」という人がいなかったのでしょう。


ついでですが、1972年から「週刊少年ジャンプ」に連載されたトンデモ野球漫画

「アストロ球団」にはジャコビニ流星打法なんつうのが出てきたですねえ。

(ここまでくると、いやはやです)


…と、お正月早々の長話になりましたけれど、

すっかり肯定的に捉えられるようになった流れ星。

科学的でないのは承知の上で、願掛けというロマンは続いていってもいいかなと。


さて、何に願いを掛けるかはともかくも、

何かしら小さなものでも願いが叶う一年になるとよいですね。

毎年末になると登場する自己満足企画。

第九ではありませんが、年の瀬の恒例行事ということで、

またしても自分で書いた記事を振り返ってみようかなと。


その中で「まあ、よく書けた方かな…」というものを選び出すわけですが、


2008年2009年2010年 、そして昨2011年 と比べてどんなもんでありましょうか。

それでは、1月から12月までの各月からひとつずつということで。


番外につきましてですが、バルト海紀行は今夏の旅のことを8月から11月までかけて書いた

大長編ですので、いずれの月にも入れがたく、かといって触れずにもいられず…。


そしてもうひとつの掌編「春の声を聴きに」は、出来不出来はともかくとして、

気付いてみたら今年唯一の創作めいたことだったような気がして、入れてしまいした。


とまれ、今年もたくさん書きました!

今年2012年にたくさんの方々におこしいただきましたこと、感激の至りにございます。

来る2013年が皆さまにとりまして心安らかにお過ごしいただける年となりますよう

心より祈念致しております。よいお年をお迎えくださいませ。

先に「リヒテンシュタイン 華麗なる侯爵家の秘宝」展 を見ましたけれど、
ウィーン リヒテンシュタイン美術館 が独立国リヒテンシュタインの君主のものと気付かぬくらいに
リヒテンシュタインのことを知らんなぁと思ったものですから、またまたいささかの探究を。


とはいえ、旅行ガイドの類いもおそらくはスイス篇にほんのちょっとの情報が載っているだけであるように
リヒテンシュタインのことを扱った本というのはほとんどないのだなぁと。
ようやっと見つけたのが「ミニ国家 リヒテンシュタイン侯国」でありました。


ミニ国家「リヒテンシュタイン侯国」/植田 健嗣

著者は日本リヒテンシュタイン協会の設立者ということですが、本の中で

ご自身「リヒテンシュタインとの関わりは動機が不純」てなことを書かれている理由はと言えば、
こんなふうなんですね。


元々はドイツ語の研究者・大学教員になろうと考えていたところが、どうにもその口が見つからない。
どうしたものかと考えつつ、スイスを訪れていたときに現地の知り合いに連れていかれたのが

リヒテンシュタイン。


その時に何かしらの興味が湧いたというのなら不純な動機とはならないわけですが、
リヒテンシュタインも自分の研究するドイツ語を使用している国ながら、
日本のドイツ語教師でリヒテンシュタインに目を向けているものがいないということに気が付いて、
「これは隙間産業では?飯のタネになる?」ては思いが起こったのだとか(やはり不純?)。


そして、いざリヒテンシュタインを調べてみようと思っても当然のように資料がない。
今でも関連本が見つからないくらいですから、1975年当時においてをや。


問い合わせをしたくともリヒテンシュタインの出先窓口なども日本にはないわけでして、
ここで著者が凄いのは(「溺れる者は藁をもつかむ」の心境か…)リヒテンシュタイン侯爵を

直接の宛先に手紙を書いてしまうことなのですよね。

ところがさらに凄いのは、時期的には間があいたにせよ、
先方から国に関する資料を詰め込んだ小包が届いたということでしょうか。


こうしたことが糸口となって、とっかかりはなるほど不純な動機であったかもですが、
すっかり日本とリヒテンシュタインとの架け橋の役目を担っておられるようになったようです。


と、著者に関する話が長くなりましたけれど、
小さい、小さいと言われるリヒテンシュタインの小ささをイメージしておくとしましょう。


面積は160平方キロで東京都八王子市(186平方キロ)よりやや小さいくらいですが、
東側のオーストリアとの国境付近を中心に山岳地帯が国土の3分の2を占めているといいますから、
平野部(?)は55~60平方キロくらい(世田谷区が58平方キロ)となりしょうか。


そこにどれだけの人が住んでいるのかと人口を見てみますと34,000人余りですので、
東京で言えば33,000人ほどの瑞穂町くらい。
これで一つの国となれば、予想以上に際立つ小ささだなと思いますね。


ちなみに人口で同じくらいの瑞穂町の面積は17平方キロ弱。
反対に平野部(?)面積で同じくらいの世田谷区の人口は880,000人ほど。
リヒテンシュタインの小ささも凄いですが、東京の人口密度も凄いものだと改めて。


国としての大きさはともかく、
日本的な感覚から言えばまだまだ住める余地があるでないのと思ってしまうところながら、
家に対する感覚なども違うでしょうし(集合住宅に住むことを思い切り嫌っているようで)、
実際おいそれとリヒテンシュタインには住めないようにもなっているそうです。


それに加えて、観光客というのもあまり歓迎されてない様子。
と言いますのも、余りに小さい国なためにオーストリアとスイスを行き来するバス・ツアーが
首都ファドゥーツにトイレ休憩かランチで立ち寄るくらい。

お城を見上げて写真を取り、土産物を少々買ってさっさと次の国へということらしいのですね。


で、リヒテンシュタイン侯爵のお宝美術品のことになりますが、
ファドゥーツに保管庫があるのでせっかくだから美術館を建てて公開をとの考えも出たながら、
住民投票(何しろ3万人余の人口ですから)にかけて否決されたそうな。
観光客が増えてしまっては困るという理由のようで。


さて、国としてのリヒテンシュタインの歴史的なところも押さえておこうかと思いますが、
今のリヒテンシュタインがある場所が昔々からリヒテンシュタインと呼ばれる土地であったわけでは
ないようなのですね。


どこそこの場所を領有するから「どこそこ伯」と言われる
(例えばフランドルを領有しているから「フランドル伯」と呼ばれる)ように、
地名が先にあってという気がしたのですが、どうもそうではないという。


リヒテンシュタイン家は元々ウィーンにあってボヘミア 方面に領地を与えられた大貴族でありました。
しかしながら、名誉欲といったものは尽きるところがないわけでして、
ここはひとつ神聖ローマ帝国 議会に列席できるようになりたい、
そのためには誰かの臣下として土地をあてがってもらっているのでない自分の国が必要とのこと。


とはいえ、そうそう国の出物などあるはずもないのですが、
1699年に今の国土の北半分くらいを買い取ることができた…しかし、まだ国というには小さすぎる。
1712年に今度は南半分あたりを買い取ってひとつにまとめ、

これが1719年に神聖ローマ皇帝の認可を受けて
晴れてリヒテンシュタイン侯国の誕生となります。


とはいえ、根っからウィーンの都会住まいの侯爵としては山がちな国に近寄ることとてなく、
初めて侯爵がリヒテンシュタインを訪れたのは、侯国成立から130年も後の1824年。
実際にリヒテンシュタインの土地に住まうようになったのは1938年なのだそうですから、ちとびっくり。
(ファドゥーツに居を移すにあたってはドイツ語圏でのナチス勢力の拡大が関係しているそうで)


てな具合に断片的なことだけを書き連ねると、
一部分の知識でもってリヒテンシュタインを分かった気になっては困ると著者に叱られそうですが、
この国の産業や政治経済の、大きな点から小さな点まで本書を読む限りでつかめるところは

分かったような。


1999年刊とちと古くなりつつありますが、
軍隊も通貨も空港も持たないリヒテンシュタインってどんなとこ?と思われたら、
手に取ってみるに如くはなしではないでしょうか。
きっと「へえ、そうなんだぁ」と思われますよ。