昨年末に見た芝居 の印象から、こんなことを書きました。
十人十色というように(もちろん同好の士はいるでしょうけれど)趣味嗜好はひとそれぞれ。
でもって、それぞれに「あいつはバカか?」と言われるようなものを持っているのではと。


ひとそれぞれですから、それこそどんな分野でも趣味嗜好を持つ人はいるわけでして、
自分にとってピンとこないものであれば、どうしたって「?」と思うことにもなりますね。


それが例えニッチなものでなく多くの人が関心を寄せるものであっても
個人的に関心が無ければ「何だってあんなに血道をあげて…」とも思えるところなのでは。

実はそうしたものの一つに「料理」があります…とは、極めて個人的なことではありますが。

いわゆる「食」に対しては極めて淡泊な対応をしておりまして、
行列が出来ているようなお店、何カ月も予約待ちをしなければならないようなお店には、
むしろ敬して近寄らずという具合。


あまりよく行くお店もありませんが、何とか思い出されるのは
せいぜい吉祥寺のらーめん屋か新宿で食べるゴーヤ定食のお店くらいでしょうかねえ。


とまあ、かような粗食に耐えるタイプでありますけれど、
フランス映画の「シェフ!」は面白く見ることができました。
グルメの方が見るとすれば、楽しみどころが違うのかもしれませんが…。


映画「シェフ!~三ツ星レストランの舞台裏へようこそ」


ジャッキー(ミカエル・ユーン)は大の料理好き。
といっても食べる方というより作る方でありまして、
好きという加減の方もむしろ「おタク」的なものでもあろうかと。


二十年この方ミシュラン・ガイドの三ツ星をキープしているレストラン「ラガルド」の
シェフであるアレクサンドル(ジャン・レノ)がこれまでに作り出した料理のレシピを
全てそらんじており、しかも料理として完璧に再現できるという技量の持ち主なのですね。


当然に何がしかのレストランでシェフとして働くことを望みながらも、
実際にはどこにでもある食堂の料理人にしかなれない。


しかも、客のオーダーの組み合わせやらワインとの相性やらに

「合わない!」と口出しするものですから、そうした仕事も長続きしない状況。


そんなところで、結婚を引き延ばして付き合っている彼女のベアトリス(ラファエル・アゴゲ)から、
とにかく職に就くことを最優先にと紹介されたのがさる大きな建物の窓拭きの仕事でありました。


ところが、この建物にはかの有名レストラン「ラガルド」が入っていたことから
ジャッキーにとって思いもかけぬ展開が待ち受けていたのですね。


「ラガルド」のシェフ、アレクサンドルは程なくやってくる調査人を唸らせるような新作料理を提供して
何とか三ツ星をキープしたいところながら、その新作レシピが全く浮かんでこない。
ただでさえ、アレクサンドルの料理は古い田舎料理と考えているような調査人がやってくるらしい。


窮地に立たされたアレクサンドルはふとしたことからジャッキーの料理の才能を予感し、
これまで誰にも口出しさせなかった新作レシピの創案に彼の助力を得ることに…。


ということで、紆余曲折はいろいろと続くものの、
ジャッキーにとっても彼女にとっても、アレクサンドルにしても彼女の娘にしても
みぃんなまるっと収まっていくのでして、それだけの話といえばそれだけのこと。


でもですね、変に奇を衒ったりすることもなく、凝った展開が待ち受けるでなく、
(アレクサンドルとジャッキーが最新流行料理の敵情視察に行く場面は相当ヘンテコですが)
「そうだろうなぁ」というふうに収束していくんですが、
全体的には何とも捨てがたいハートウォーミング・コメディになっている。


メニューを模したタイトルバックからしておしゃれな感じでもありますし、
素敵な映画でありましたよ。


ところで、二人そろってヘンテコな仮装で訪ねた最新料理とはどうやら分子料理というもの。
冒頭に申し上げたとおりの食に淡泊な人間には「何のこと?」と思いましたけれど、
見ていて想像したところでは「宇宙食」のようなものかなと。
形からは思い掛けないような素材の味がするという。


よくは分かりませんが、料理の前衛でもあるのでしょうかね。
美術も音楽もそうですけれど、とかく前衛となると「分かる人には分かる」てなことで、
一般人は置き去りにされる傾向無きにしも非ずですけれど、
料理の世界もまたしかりなのかなと思ったものでありますよ。

この間は年始早々にTVの歌舞伎中継を見た と「仮名手本忠臣蔵 」のことに触れましたけれど、
その時の中継のメインはむしろ亀治郎改め四代目市川猿之助の大阪襲名披露公演として演じられた
「義経千本桜」ではなかったかと。


TVにもせよ見るのは初めてながら、
「義経千本桜」という題名のわりに源義経が主人公ではなくして
狐忠信(狐が義経の家臣に化身している)なのだとは、
何となく聞き及んでいたのですね。


でもって、この早変わりあり、宙乗りありという外連味たっぷりの芝居を見ていて、
ふと思い出したのが昨年10月から12月に掛けて聴いていたNHKカルチャーラジオ・文学の世界。
この期間に放送されていたのは「グリム童話の深層をよむ」というものでありました。

これが大層面白い内容であったのですよ。


NHKカルチャーラジオ 文学の世界 グリム童話の深層をよむ―ドイツ・メルヘンへの誘い


グリム童話 と言えば、ひと頃「本当は怖い…」云々と言われたものですが、
グリム兄弟が収集して「Kinder und Hausmärchen」にまとめ、改訂を重ねるごとに、
そしてそれがもっぱら「童話」として受け止められ、受け入れられるようになっていくものの、
元はといえば民間伝承。


それだけに素のままの姿には残酷なところもあれば艶笑譚のようなところもあるわけですが、
それが子供向けとしてオブラートに包まれ、アレンジされ…となる前の姿は
「どうだ、こんなに怖いんだぞ!」と言ったところでそれまでのお話。


ですが、このラジオ講座での内容は、素の姿で提示されて「おや?」と思うような部分には
何かしら古い(それ故に忘れられてしまった)伝承の意図があったのではとして
そうした深層部分を探ろうと言うものなのですね。


では、いったい歌舞伎の「義経千本桜」とグリム童話がどう結びつくのかということになりますが、
先ほど言ったようなグリム童話の深層部分の一つに「人間の動物観」が隠されているとして、
その動物観を洋の東西 で比較しているところに関わりがあります。


比較対象として日本からは「鶴の恩返し」、グリム童話からは「六羽の白鳥 」を取り上げて、
テキストにはこんなふうに記されているのですよ。

「鶴の恩返し」と「六羽の白鳥」のさらに重要な相違点は、前者では動物が人間に変身するのに対し、後者では人間が動物に変身することです。この相違は、この二つのメルヘンに限定されるものではなく、日本民話の変身譚一般とヨーロッパ民話の変身譚一般の違いと言えるものです。

と、ここで「義経千本桜」に戻ってみれば、
なるほど狐が義経の家来に化けているなと思うわけなのですし、
一方でグリム童話を思い出してみると「蛙の王様」なんかがまさに典型的ですが、
確かに人が動物に変身している(本人の意図であるかどうかは別として)のですね。


昔々のことで言えば、動物が人に変身する、人が動物に変身するという両方の形の話が
併存していたのだそうで、グリーンランドやアラスカのイヌイットの伝承には
そうした古い形として両方の形態の話が残されていると言います。


ですから、古い古い時代には洋の東西を問わず両方の形があったと思われるようなのですが、
たぶん日本では八百万の神々を信仰する精神性の中で、
動物にも神秘的な力があるとの考えが生き続けたのではないですかね。


狐や狸は人を化かすという言い方は、
科学的にありえないとしても、今でもよおく知られたことではないかと。

それに比べて、人間の方が化けるのはもっぱら怨霊のようなものだけですね。


一方で、西洋ではやはりキリスト教の影響が大なのでしょう。
動物にはやはり神秘的な力があるとの意識は、キリスト教以前からの伝承には込められてとしても、
動物が変身してしまってはまさに神秘を発現してしまう「神」のような存在になってしまいます。


しかし動物が人に変身するとはしない代わりに、
人が動物に変身させられる方なら悪魔の仕業にもできますし、
また伝承で動物が持つとされる神秘の力を借りるために人が動物に仮装するといった話、
例えば動物の皮をたくさん被るというグリム童話の「千枚皮」のような話ならば、

教会も過敏に反応することはなかったのかもしれませんですね。


…というようなことは、テキストを読み返していたのですがここまでは書いてませんので
想像を巡らせただけであることは、ご容赦いただきたく。


それにしても、「鶴の恩返し」も「蛙の王様」も何となく読んで、
知ってる話と片付けてしまってましたけれど、改めてこうした視点で比べてみると
面白いものでありますね。


この講座の面白いところはこれに留まるものではありませんので、
また別の機会にも引き合いに出してみたいと思っておりますよ。

前回の勝沼行き ではただただ飲んで浸かって…というだけでしたので、
今度はいささかなりとも日本のワインのことを知って出かけようかと
「日本のワイン・誕生と揺籃時代」という書物をぱらぱらと眺めやっていたわけです。


先にもそして今回も立ち寄った勝沼ぶどうの丘のワイン・カーブには
ほんの片隅ですが勝沼ワインの昔に関する史料室が併設されていたのですね。


そこには、複製ながら日本初の醸造会社の株券なども展示されていて、
こんなふうな説明がついておりました。

明治10年(1877年)に設立された、日本で初めての本格的なぶどう酒会社、大日本山梨葡萄酒会社(通称、祝村葡萄酒会社)の株券で、明治14年(1881年)1月1日、高野正誠宛てに発行されたもの。

ここに登場する高野正誠とは、
会社設立同年に本格的なワイン造りを修業するためにフランスに派遣された人で、当時25歳。
一緒に派遣された土屋龍憲が19歳であったと言いますから、明治という時代は
政治の世界のみならず進取の気性を持った若者に活躍の場があったというべきでありましょうかね。


高野の生家には明治12年(1879年)に醸造されたと言われるワインが保存されているのだそうで、
130年余の眠りについているのですねえ。
また、土屋の方は勝沼に「龍憲セラー」というレンガ造りの貯蔵庫にその名を残しておりますね。


とまれ、日本初のワイン醸造会社は山梨県の勝沼に誕生したということで、
歴史的にも先駆的な場所であったということなのでしょう。


ですが「何故ここに?」という点では、
元から葡萄の産地であったとしてもそれだけでは弱いようにも思われますので、
そこら辺を含めて先ほどの書物に探ってみようというわけでありますよ。


明治日本のキーワードの一つは「文明開化 」。
基本的には欧化政策で西洋のモノをあり難がる気風は、
ずいぶんと根強く残されたものだと思わずにはいられないわけですが、
そんな中には当然にワインがあったと思われますね。


洋行帰りは必ずやワインを飲むようになってくるでしょうし、
「先進国(?)ではみんな飲んでいる」との吹聴でもあれば、興味を引くこと必至。
実際、横浜居留地の外人さんはみんな飲んでいるという。


当時、日本で消費されるワインは国産が無い以上舶来ものばかり。
つまりは輸入に頼っているわけですが、明治日本のもう一つのキーワードは「富国強兵」、
国を富ませて列強に伍していくためには、輸出を拡大して外貨を稼ぐ方向でなくてはならないのですね。


工業製品がおよそ無い時代の輸出品は農産物になってくるわけで、
日本が最も得意とする作物はいえば「米」ということに。


ところが、米のうちの一定量は清酒造りに利用されてしまうこともあり、輸出にまでたくさん回らない。
ここで浮上するのがワイン作りということになります。


外国人は皆ワインを飲んでいる。どうやら健康に良いとの話もある。
では、日本でも酒としてはワインを飲むことにして、清酒造りに使う米を輸出に回そうではないかと、
極めて雑駁に言ってしまうと、そんな背景があったそうですな、かなり乱暴な話ですが。


「富国強兵」を達成する戦略に「殖産興業」というのがありますですね。
早い話が、外国に輸出できるものをどんどん増やそうということで、
そのための戦術の一つがワイン造りであったことになるという。
(こうした農業支援は帰農士族への対応という側面もあったようで)


しかし、政府がいかに声高く「ワインを!」と叫んだところで、
誰も作ったことないですし、成功すると限ったものでもない。


政府自体が、明治になって大名たちが国に帰ってがらんとした東京に
試験場を設けて、苗木の提供などにも努めたようですが、なかなか成果があがらない。
(内藤新宿にも試験場があったそうですが、これは今の新宿御苑でしょうか)


実際に先ほど出てきた大日本山梨葡萄酒会社は程なく頓挫してしまうわけですが、
例えば元々米や何かを作っていたところが作物を転換するのではない勝沼あたりでは
会社ができる以前からむしろ積極的に取り組んだようですね。


ですが、元々ぶどうの産地だからといってそれだけでは弱いとは先ほど言ったばかり。
勝沼という土地は甲府盆地の一角であって、
高台からみれば周囲をぐるり山に囲まれた場所で、
どうしてそんなところで先駆的なことができたのか、
はたまた先駆的なことをする気になった人たちがいたのか、と思ってしまいます。


これの答えのひとつが「絹の道」なのですね。
もちろん中央アジアを通るシルク・ロードでなくして、
日本の数少ない輸出産品である生糸を
八王子 の養蚕農家から開港地・横浜へ運ぶ道のことで、
以前町田の辺りに残る道筋を歩いたことがありました。


ところが、この「絹の道」は八王子から横浜なのではなくって、
長野県の諏訪あたりの養蚕農家から買い付け始め、途中山梨でも買い付けて、
(当時は例の?笹子トンネルなどはありませんから)塩山の北側の大菩薩峠を越えて
八王子に抜けていき、横浜を目指すというルートだったそうな。


ということは、このルートを通る商人の行き来があったわけで、
山間の地でありながらも開港地として文明開化の先端を行く横浜の話などは
ずいぶんと伝わったものと思われます。


それだけに、特産のぶどうで新しいことをやろう、うまくすればひと山当てられるという
考えが出てくるのは不思議なことではなかったのだろうと。


とまあ、山梨の他にも北海道開拓使が試み、関西にも官立で播州葡萄園が作られ、
愛知県でも当時最大規模の苗木の植え付けが行われたりしたようですが、
大きな成果を収められないままに、一時のぶどう栽培熱はだんだんと引いていってしまう。


国産が安定供給できないとなるとワインは
やっぱり舶来となって高い飲み物であり続け定着しない。
その一方で日本ワイン造りは、本来の味わいにばらつきがあってもごまかせてしまう?甘味葡萄酒の
原材料供給として続いていったようです。


個人的に思い返しても、子供の頃にワインというより葡萄酒といえば、
「ハチブドー酒」とか「赤玉ポートワイン」とかいう、とにかく甘いものであったという気が。
(といって、子供の頃に飲んでたわけでなく、もっぱらそういうものだとされていた…)


それがいつの間にか、「夫婦でワイン、なんてね」とか
「金曜日は、花買って、パン買って、ワインを買ってかえります」とか宣伝されるようになり、
今やかつての甘味葡萄酒をワインと考える人はまずいないというふうになってますよね。


そして、明治の初めに国産ぶどうでは良いワインはできないと駄目だしされた甲州種を使って、
ワインらしいワインが造られるようになっているという。
明治の先覚者たちは、ようやく苦労が報われたと喜んでいるかもしれませんですねえ。

まださほど時間は経っておりませんですねえ。
塩山 で枯露柿作りを見て石和温泉 につかり、勝沼 でワインの試飲三昧をしてから。


ですが、こうした話を両親に聴かせましたところ(予想はしておりましたが)
当然のように「行きたい」となるわけでして、

またしても石和温泉に行ってきてしまったという次第。


とりあえずは行きたいと思うところへ両親が行けるうちにということで。
「孝行をしたい時分に親はなし」とはよく言われることですし。


で、今回は目的地手前の途中下車は無しにして少々乗り越し、
甲府で名物のほうとう共にB級グルメグランプリの「とりもっちゃん」をいただこうということに。
ですが、ここではその後の腹ごなしに立ち寄った舞鶴城公園、

つまりは甲府城のお話であります。


そもそも行きの列車が甲府駅に近づいて城の石垣が見えてきたところで、
「あれ、武田信玄が建てたの?武田信玄が建てたの?」と

興奮気味に尋ねる子供の声が聞こえたのですね。


誰かしら同行者が何と答えたかはわかりませんけれど、
甲府駅を南口に出て、先ほど見えたお城とは反対側の西寄りのところには

立派な立派な銅像があります。


武田信玄之像@甲府駅前


言わずと知れた武田信玄の像なのでして、

合戦に采配を振う一場面とでも言うべき姿は塩山で見たもの よりも

さらに勇壮な印象が(なおのこと実際に近いとされる肖像から離れますね)。


とまあ、このように武田信玄を大々的にフィーチャーした駅前のようすからしても、
ついつい「さっき見えたのは武田信玄のお城だったのねぇ、きっと」的な

思い込みが生じてしまおうかと。


ですが、武田信玄の時代の本拠地はといえば、

今では武田神社のある辺りにあった躑躅ヶ崎館であって、お城ではない。


では、この甲府城(甲斐府中城が正式名称でしょうか、甲斐府中だから甲府、駿府も同じかな)は
いったいいつ頃のものかということになりますが、それには長篠の戦の後武田氏が滅亡した後に
甲斐国が誰の領地だったのかにまず触れておく方がいいような。


長篠の戦は織田信長と武田勝頼の合戦ですから、これに勝った信長が手中に収めますが、
信長にとっては家臣でなくして同盟軍であった徳川家康に預けられたものの、
その後天下人となった秀吉が領し、政権交代(?)によって再び家康のところに戻ってきます。


ちなみに家康は、江戸に一朝事が起こった際には甲府に引いて…ということを考えていたらしく
(あたかも太平洋戦争時の松代大本営を想起させますですねえ)甲斐国を重視していました。


ですから、甲府の押さえには当初は徳川家の身内、

その後将軍家の信任厚かった柳沢吉保が入り、
やがて幕府直轄という特別な扱いをされていくのですね。


築城自体は秀吉の時代、浅野長政・幸長父子によりますが、

最も立派になった時期といいますのは、
甲斐国生まれで土地に思い入れのあった柳沢吉保の統治時代だったようです。

城のようすがあたかも翼を広げた鶴のようと捉えられたところから舞鶴城とも言われたのだとか。
(先に訪れた塩山の恵林寺で、武田信玄の墓と隣り合うように柳沢吉保の墓があった由縁ですね)


甲斐国といえばとにもかくにも武田信玄で、
旅行ガイドブックにも信玄公ゆかりの地をめぐるてな案内は山ほど乗っているのに、
甲府城の扱いは惨憺たるもの。


ですが明治になって廃城となり、
一時はぶどうの木の育成を試す農業試験場みたいに使われた甲府城ですが、
すでに20年余をかけて現在も進行中の修復が進んでいるのですね。


その中で建築技法を含めて当時のようすを忠実に再現したとされる稲荷櫓には
甲府城博物館的な施設が設けられておりまして、甲府城の歴史や修復技法の説明、
修復作業にあたっての出土品などの展示があるのですよ。


甲府城 稲荷櫓


ガイドブックでの扱いは寂しい限りですが、
武田信玄以降の甲府を知るためには欠かせない場所であると思いますですよ。

歴史に「もしも…」と言ったところで詮無い話と言われますように、
「もしも関ヶ原 で徳川家康が負けていたら…」といったことは
完全にフィクションとして想像を巡らすことはありと思うものの、
歴史的事実として確固としすぎていて、いわば与太話の範疇に入ってしまうかも。


ところが一方で、歴史の中で確たるものとなっていない部分に関しては、
いくらでも「もしも…」が通用するところではないかと。


ただし、もしもという中身がどれほど歴史の断片を踏まえているかによって、
それこそ「トンでも話」から「ありそうな話」まで幅広い位置づけができようかと思われます。


というところで、そんな「もしも…」のひとつで作り上げられて映画、
「もうひとりのシェイクスピア」を見てきたのでありますよ。


映画「もうひとりのシェイクスピア」


この作品を先の位置付けの中で言うなら、

やや「ありそうな話」寄りということになりしょうか。


現在でもさしあたり(?)ウィリアム・シェイクスピア 作として

繰り返し上演されている戯曲作品の数々が本当にシェイクスピアによって書かれたものなのか。


まず、ストラトフォード・アポン・エイヴォンという片田舎の職人の息子であるシェイクスピアは
そうした身分なりの教育しか受けていないにも関わらず、歴史や外国、

そして宮廷の事情まで含めて詳しくなくては書けないような話を書けたのかという

疑問があるわけですね。


そして自筆の原稿が全く残されていないという事実に加えて、
そもそもシェイクスピアは文字が書けなかったと考えてもおかしくないという。


それではあの数々の戯曲を誰が書いたのか…という

真犯人ならぬ真の作者捜しに繋がっていくわけですが、
一番有名な、そして可能性のありそうなのが、

シェイクスピアと同時代を生きたオックスフォード伯、
エドワード・ド・ヴィアとする説なのだそうです。


では、「もしもオックスフォード伯が真の作者だったのだとしたら」
どうしてシェイクスピアの作品として上演され、後世にまで伝わるようになったのか。
これを独自の解釈、つまりは想像で補うことをしながら作り上げたのが

この映画のお話なのでありますよ。


想像で補うといっても、かなり手がこんではいるようで、
専門家をも唸らせるような歴史的な小ネタをうまく利用して物語を紡ぎあげていると言います。

例えば、エセックス伯が女王エリザベス1世 の着替え中に部屋に飛び込んでしまったという
宮廷の噂話的に残されたエピソードを物語の中に違和感なく使っているといったような。


もっとも個人的には専門家でも何でもありませんから、
どこまでがそうしたことなのかは判然としませんが、よく作り出したなあという点で
非常に興味深いものに思えました。


最後の最後にオックスフォード伯の敵対者である宰相ロバート・セシルが
(この人はあたかも「リチャード三世 」の主人公のような外見であったそうな)
あたかもギリシア悲劇での愛憎を思わせる秘話をオックスフォード伯に聞かせますけれど、
この話はちらともそれまで触れられていない、そこで唐突に出てくる裏話で

敢えて必要だったのかなと思ったりはしましたけれど。


実は映画としては、何しろ監督が「インデペンデンス・デイ」や「デイ・アフター・トゥモロー」の
ローランド・エメリッヒだものですから、予めのイメージを思い描きにくいところではありました。


しかしながら、シェイクスピアの生きた16~17世紀のロンドンを
折しもスペイン無敵艦隊を破った世界帝国の首都として壮大に、
かつごみごみしたリアルも同時に描き出すスペクタクル(?)はこの監督ならではなのかもと。


結氷したテムズ川を進むエリザベス女王の葬列のシーンは
思わず「おおお!」と思ってしまいましたですよ。


ところで、オックスフォード伯が真の作者とする可能性を示すことの一つとして
「槍をふるう者(Spear-shaker)」という渾名を持っていたこともあるようです。


前後半をさかさまにすればシェイクスピアになるではないかということなんですが、
ここからシェイクスピアというペン・ネームを作り出したとなると、
そもそもシェイクスピアという人物はいなかったことになってしまいます。


映画ではオックスフォード伯がベン・ジョンソンを当て馬の劇作家と考えていたにも関わらず、
ジョンソンが結果的にこれを拒んでしまうのですね。


で、芝居(「ヘンリー五世」)に興奮した聴衆が作者の登壇を要求した結果

単なる舞台役者であったシェイクスピアが名乗り出てしまうことになっていて、

一介の役者ながらシェイクスピアという人物がいたことにしてありますので、

いなかったとなればまた別の話。

となれば「もしもシェイクスピアという人物がいなかったとしたら」と仮定して

別の話も書けることになりますね。


ただ、本当の作者が誰かという点に関して、

何の証拠もない極めて個人的な意見ですけれど、
シェイクスピアは敢えて後々に謎と受け止められるように自筆原稿も残さないという

作戦に出たのではないですかね。


これはかなり話題性たっぷりとして、後々に語り継がれることにもなろうかと思われ、
自分の人生も戯曲の中の登場人物たちのようにドラマティックな余韻で締めくくろうとしたのかもしれんなぁと。