またまたずいぶんと出遅れた展覧会の話であります。
東京・六本木の国立新美術館でお終いの近づいてきた「シュルレアリスム」展を覗いてきたのですね。


シュルレアリスム展@国立新美術館


開幕早々くらいに出かけられた方から、
独特の雰囲気が会場に横溢している…てなことを伺っていたのですけれど、どうもそうでもない。


会期が進むにつれて、「臆するに足らず」というか「興味深いですよ」というか、
そういったことが口コミででも広がったのか、

人の入り具合も含めていわゆる普通の展覧会と変わらぬ雰囲気。
それでも、しきりに首を捻ったりしてる人は見かけましたけれど。


でも、かつてはそうした人とおんなじような反応を示していたろうなぁと思うのですよね。
つまり、絵を見ても「何のことやら、さっぱり…」と思っていたような。


それが、あるとき(何かきっかけがあったのかは忘れましたけれど)
「わかんなくていいんだぁね」と思ってから、とっても自由になりました。

そして自由ついでに、絵の解釈も自由に、勝手きままにするようになって、

むしろ楽しくなってきたのですね。


ただ、直感的にふわりと解釈できるものもあれば、

「うむぅ」となりつつ向き合う中でじわじわ来るものもある。
後者の場合には、頭の中でぶぅ~んとHDが高速回転する感がありまして、
それだけに何とも草臥れたりもするわけですね、それが楽しいともいえますけれど。


シュルレアリスムは、「印象に過ぎん!」と言われたから「印象派」とか
「野獣の檻にいるよう」と言われたから「野獣派」とかいうのと違って、
アンドレ・ブルトンが高らかに(?)宣言を発した理論を拠り所にしてるのですよね。


さすれば、そうした部分を勉強して臨むことがシュルレアリスム理解には必要となるのでしょう。
けれど、個人的なことばかりで恐縮ですが、

およそ解説・解釈からむしろ遠ざかっていた方が自由であるのでして、
(つまり解説されてしまうと「そう見なきゃいけんのでは」となりますから)
本来知っておくべきかとも思われる理論は敬して近づいておらないわけです。


「シュルレアリスムとは何ぞや」を知りたいのでなくって、
そこにある(シュルレアリスム作品といわれる)絵を見て

頭の中をぶぅ~んと言わせたいだけなのですから。


まあ、そんなふうな思いで好き勝手に見て廻っておりますと、
ルネ・マグリット の絵はダントツに「分かりやすいなぁ」ということに気づくわけです。
誤解のないようにですが、ここで「分かりやすい」は

勝手な想像をめぐらせやすいと思っていただいたら良いのかもです。


例えば「秘密の分身」ですけれど、要するに分身とは自分自身のことであって、
蓋を開けて(開けないうちは秘密になってるわけで)その内面を見てみれば、
「空」でもあり、どす黒くもあり、何らかの共鳴体のようなものが多々入っているという。


ルネ・マグリット「秘密の分身」


そうした蓋を開けることを、非常に分かりやすい形で視覚化してるんですよね。


後先になりますが、マグリットの絵はシュルレアリスムじゃないのではないかと。
一見、不条理に見えるような世界を提示していることから、
心象の自動記述といったシュリレアリスティックに思われるところでしょうけれど、
マグリットが望んだ「人をびっくりさせること」であって、
ひたすらトリッキーな絵を目指していたことからすれば、
非常に意図的な作りこんだ遊び、判じ物のように思われます。


ですから、本来というか、

他の画家の作品を見ても必ずしも答え(種明かし)があるとは限らない中で、
マグリットには答え(明かされる種)があるやに思うところなのですよ。

で、「赤いモデル」を見てみます。


ルネ・マグリット「赤いモデル」


靴に指が付いていれば、そりゃ見る人は驚くのでして、

マグリットはそれを見てほくそ笑むのかもですね。


でも、人は皆記憶を持ってるわけで、

ある程度クリアな像として思い出を頭の中に描くこともできるすれば、
それを靴が行って悪いことがありましょうか。


靴が記憶を持っていて、

履いた人の足を思い出している、その足の像をクリアに思い描いている。
それを絵という媒体でもって可視化すると、こんなふうな絵になりますよね。


と、マグリットばかりで長くなってますが、
ちょっと注目したのがヴィクトル・ブローネルというルーマニアのシュルレアリストでしょうか。


本展には結構多くの作品(絵画だけでなく)が展示されていますけれど、
その中でもいちばん最初(だったような)に現れる「モティーフについて」という小さな作品は印象的です。


ヴィクトル・ブローネル「モティーフについて」


絵を描く行為、それは目で見たものをそのままに、
あるいは一歩進めば鼻で嗅いだ臭いの雰囲気も立ち上るように…。
そうした描く行為そのものをデフォルメして(というのは揶揄してですが)視覚的に描いてみれば、
この絵のように目玉が飛び出して絵筆を握り、鼻もまた飛び出して加筆して、てなぐあいになるのかも。


自動記述によらない、これまでの絵画制作は
例えてみれば「こんなふうじゃあありませんか」と言われているような気がしたものです。


ヴィクトル・ブローネル「光る地虫」


また「光る地虫」では、地虫そのものも背景も連想させるのは脳神経かなと。

(シナプスと言ったらいいのかな…)


「体」というものも実体があるようでいて、
その形、大きさなどなど「体」を「体」として知覚しうるのは脳神経のなせる技。
光を放つ地虫のように、脳神経は「体」を照射しているわけですね。


知覚と体を切り離してしまうと、も一つの作品「空気の威信」のように、
「所詮からだの部分部分は『モノ』でしかないよね」と言ったことにもなっていくかもしれません。


ヴィクトル・ブローネル「空気の威信」

…とまあ、マグリットとブローネルしか触れませんでしたけれど、
他にも、キリコエルンストミロダリデルヴォー などなど

あれこれと面白く見られる作品がたくさんありました。


それだけに、面白くも草臥れる展覧会であったわけでして、
そんなふうですから、一枚だけ見かけたピカソ の絵には

何だか心穏やかにさせてもらえたような気がするのですね。


パブロ・ピカソ「横たわる女」



普通の展覧会だったらピカソこそ尖がってるわけで、
やっぱりこの展覧会は普通じゃなかったのかもしれませんです。