先に「追想五断章」 を読んで、
「リドル・ストーリーって、こういうもの?」と思ったりもしたものですから、
同作の中で名前の挙がった作品を読んでみることにしたのですね。
クリーブランド・モフェットの「謎のカード」というお話ですが、
近くの図書館で蔵書検索をすると、辛うじて見つかったのが「謎の物語」という一冊。
ちくまプリマーブックスなる、少年少女向けの選集ですけれど、
まあ背に腹は代えられないということで、手に取ってみたわけです。
編者の紀田順一郎さんが、国内外から選んだ「謎の物語」が収められておりまして、
「これがリドル・ストーリーという範疇のものなのだろうな」というものから、
いわゆる小泉八雲の怪異譚までを含む11編からなっています。
まあ、怪異譚はといえば、偉いお坊さんだったのに溺愛した稚児が亡くなると
悲しみのあまり葬ることもできず、死屍を喰らって鬼になってしまった…てな話でして、
最終的にも、「怪異現象だけんね、しゃあないね…」で終わってしまうわけですが、
最初の方の収録されているものが「いわゆるリドル・ストーリー」なのでありましょう。
最初を飾るストックトンの「女か虎か」は、そもリドル・ストーリーとして有名な話らしいですが、
タイトルが「いかにも!」です。
試練の場に置かれた主人公が、最終的に究極の選択として「女をとるのか、虎をとるのか」を迫られ、
さあ、どうなるというときに、作者はこう書き記すのですよ。
いずれに決めたかという疑問は、かるがるしく考慮すべき問題ではないし、作者は、これに答えうる唯一の人間だとうぬぼれる気はない。そこで、作者はすべての解釈を読者にゆだねる。
「お~い!これって、何よ!」
ではありますが、リドル・ストーリーはこうしたところから始まったわけです。
謎のまる投げ。
ただ、次に出てくるクリーブランド・モフェットの「謎のカード」。
こちらは少々、様相が異なってくるのですね。
ところで、先の「追想五断章」でこの「謎のカード」に触れた部分というのは、
こんなふうな紹介になっています。
リドルストーリーの中には、小説としては魅力的でも適切な結末はありえないという作例もあります。クリーブランド・モフェットという作家の「謎のカード」なんかがそうです。
この言い方からすると、「謎のカード」という作品には、
リドル・ストーリーとして必ずしも良い評価が与えられていないようですけれど、
個人的には面白かったと思うのですね。
あるアメリカ人の男が旅先のパリですれ違いざま、
見知らぬ美女からフランス語で書かれた一枚のカードを渡されます。
本人には読めないものですから、読めそうな人に見せて何が書いてあるのかを知ろうとするたびに、
カードを読んだものから「おまえ、いったいなんてやつだ!とっとと出て行け!」と
内容を知らされないままに追い払われることが続くのです。
訳もわからぬままアメリカに戻ってたところ、カードを渡したその女性を見かけ、
「いったい何が書いてあるのか」と問い詰めますが、病床にある彼女はもはや息もたえだえ…。
結末を書いてしまうとつまらないので、ここまでにしますが(気になるでしょ?)、
最終的に謎はそのまま放り出されてしまいます。
しかしながら、先の引用にあった「小説としては魅力的」の部分が勝っているような気がしますね。
謎が放りだされることに目を向けたリドル・ストーリーとして読むよりも、
一編の幻想小説として楽しめるものと思うわけです。
リドル・ストーリーにこだわるあまり、「女か、虎か、さあどっちだ。あとは想像してよね」となるよりは、
ひとつの作品として仕上がっている気がするからなのですね。
ということで、リドル・ストーリーも歴史的に(とまでいうのは大袈裟ですが)変容し、
例えば、「謎のカード」の次に出てくる、バリー・ペロウンの「穴のあいた記憶」なんてのを読むと、
より洒落たものになっていったような気はします。
小説はやっぱり小説であってほしい(個人的な考えにもとづいてますが…)ですから、
やっぱり「囚人のジレンマ」じゃあるまいし、
問題を投げて可能性をあれこれ考える学問や謎解きとも違うものとして
「あってほしい」と思うのでありました。
その点で、リドル・ストーリーそのものが一つのジャンルでなく、
テクニックのひとつを思ったらいいでしょうか。
テクニックだけでは、小説はできあがりませんでしょうし。