キリストの携挙―9・十四万四千人で、イスラエルの子らのあらゆる部族の者が印を押されていた
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前回の「キリストの携挙―8・滅びの子が現れなければ主の日は来ないのです」の続きとしてテサロニケ人への手紙・後半を書いて投稿しようと思っていましたが、主の導きによって予定を変更して今回は黙示録7章に出て来る「十四万四千人」について投稿させていただきます。テサロニケ人への手紙の後半は後々投稿しますのでご理解のほどよろしくお願いいたします。
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今回は黙示録7章に出て来るイスラエルの子らの「十四万四千人」の数字の意味について解説します。

ヨハネの黙示録7章
7:1 その後、私は四人の御使いを見た。彼らは地の四隅に立ち、地の四方の風をしっかりと押さえて、地にも海にもどんな木にも吹きつけないようにしていた。
7:2 また私は、もう一人の御使いが、日の昇る方から、生ける神の印を持って上って来るのを見た。彼は、地にも海にも害を加えることを許された四人の御使いたちに、大声で叫んだ。
7:3 「私たちが神のしもべたちの額に印を押してしまうまで、地にも海にも木にも害を加えてはいけない。」
7:4 私は、印を押された者たちの数を耳にした。それは十四万四千人で、イスラエルの子らのあらゆる部族の者が印を押されていた。
7:5 ユダ族から一万二千人が印を押され、ルベン族から一万二千人、ガド族から一万二千人、
7:6 アシェル族から一万二千人、ナフタリ族から一万二千人、マナセ族から一万二千人、
7:7 シメオン族から一万二千人、レビ族から一万二千人、イッサカル族から一万二千人、
7:8 ゼブルン族から一万二千人、ヨセフ族から一万二千人、ベニヤミン族から一万二千人が印を押されていた。

すでに過去の投稿で書きましたが、黙示録7章に出てくる神のしもべとして額に印を押された「イスラエルの子らの十四万四千人」が、黙示録14章で再び出て来てシオンの山で子羊を賛美している額に子羊の名と子羊の父の名が記された「十四万四千人の人たち」です。

ヨハネの黙示録14章
14:1 また私は見た。すると見よ、子羊がシオンの山の上に立っていた。また、子羊とともに十四万四千人の人たちがいて、その額には子羊の名と、子羊の父の名が記されていた。

ですから黙示録7章の「イスラエルの子らの十四万四千人」の額に押された印は黙示録14章に書かれている「子羊の名と、子羊の父の名」です。これは、パウロが教えているクリスチャンが救われたときに受ける「贖いの証印」です。

Ⅱコリント人への手紙1章
1:21 私たちをあなたがたと一緒にキリストのうちに堅く保ち、私たちに油を注がれた方は神です。
1:22 神はまた、私たちに証印を押し、保証として御霊を私たちの心に与えてくださいました。

・神はまた、私たちに証印を押し、

エペソ人への手紙1章
1:13 このキリストにあって、あなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞いてそれを信じたことにより、約束の聖霊によって証印を押されました。
1:14 聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。このことは、私たちが贖われて神のものとされ、神の栄光がほめたたえられるためです。

・あなたがたの救いの福音を聞いてそれを信じたことにより、約束の聖霊によって証印を押されました。

エペソ人への手紙4章
4:30 神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。

・あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。

黙示録7章には、キリストの携挙によって終末のイスラエルが悔い改めて神のしもべとして認められて救われた証として一人の御使いが日の昇る方(イスラエルにキリストの光が昇る方向)から出て来て生ける神の印(御霊による贖いの証印)を十四万四千人のイスラエルの子らのあらゆる部族の者に押される光景が描かれています。このことは詩篇50篇で預言されています。

詩篇50篇
50:1 神の神【主】は語り地を呼び集められる。日の昇るところから沈むところまで。
50:2 麗しさの極みシオンから神は光を放たれる。
50:3 私たちの神は来られる。黙ってはおられない。御前には食い尽くす火がありその周りには激しい嵐がある。
50:4 神は上なる天をまた地を呼び集められる。ご自分の民をさばくために。
50:5 「わたしにある敬虔な者をわたしのところに集めよ。いけにえによってわたしと契約を結んだ者たちを。」
50:6 天は神の義を告げ知らせる。神こそが審判者であると。セラ

50:1 神の神【主】は語り地を呼び集められる。日の昇るところから沈むところまで。

・黙示録7章の一人の御使いは、詩篇50篇の「日の昇るところ」から生ける神の印を持って上って来て、日が沈むまでのキリストの光が輝いている間に、地(携挙で地に残された十二部族の子孫・終末のイスラエル)を呼び集めて額に神のしもべの印を押して、その後に、黙示録14章で、麗しさの極みシオンから神(子羊・キリスト)はイスラエルに向かって光を放たれます。シオンの山の周りには大艱難時代のサタンを裁くための食い尽くす火がありやがてその周りにはさらに激しい神の怒りの嵐が吹き荒れます。この近づいて来る嵐の風を、十四万四千人のイスラエルの子らのあらゆる部族の者の額に印が押されるまでの間食い止めるために、四人の御使いが地の四隅に立ち、地の四方の風(神の怒りの嵐の風)をしっかりと押さえて、地にも海にもどんな木にも吹きつけないように、していました。

 

ヨハネの黙示録7章

7:1 その後、私は四人の御使いを見た。彼らは地の四隅に立ち、地の四方の風をしっかりと押さえて、地にも海にもどんな木にも吹きつけないようにしていた。
7:2 また私は、もう一人の御使いが、日の昇る方から、生ける神の印を持って上って来るのを見た。彼は、地にも海にも害を加えることを許された四人の御使いたちに、大声で叫んだ。
7:3 「私たちが神のしもべたちの額に印を押してしまうまで、地にも海にも木にも害を加えてはいけない。」

 

詩篇50篇
50:3 私たちの神は来られる。黙ってはおられない。

50:4 神は上なる天をまた地を呼び集められる。ご自分の民をさばくために。

・神は終わりの日に雲に隠れて御子・キリストとともにクリスチャンを携挙に来ます。その時、神は黙っていません。地上に残されたイスラエルの民に向かって語ります。

50章4節の「上なる天を・・・呼び集める。」とは、クリスチャンを携挙によって天に集めることを預言しています。続いての「・・・地を呼び集められる。」とは、携挙で地上に残された終末のイスラエルの民がシオンの山に集められることを預言しています。そして実際に旧約時代のダビデによって語られたキリストの携挙の預言が黙示録14章で成就します。


50:4 神は上なる天をまた地を呼び集められる。ご自分の民をさばくために。
50:5 「わたしにある敬虔な者をわたしのところに集めよ。いけにえによってわたしと契約を結んだ者たちを。」

50章4節の「ご自分の民をさばくために。」の「さばき」は「悪に報復を与えるための裁き」ではありません。「決着をつける」という意味の「裁判」です。「判定」です。誰に向かって何を判定するのかというと、旧約時代の罪の贖いの生贄によってわたし(神)と契約を結んだ「十二部族の子孫の終末のイスラエル」に判定を下します。イスラエルの十二部族の終末の子孫はキリストの携挙で悔い改めてわたし(子羊・キリスト)にある「敬虔な者」となったので神の裁きによって区別されて大艱難時代の災いから外されて守られます。

50:6 天は神の義を告げ知らせる。神こそが審判者であると。セラ

 

天の御使いたちは神の審判によってサタンの裁きから区別された終末のイスラエルの民を大艱難時代から全力で守ります。

・旧約時代の子羊の血による生贄によってわたし(神)と契約を結んだイスラエルの終末の子孫は神の義による審判によって大艱難時代のサタンの裁きから区別されて守られます。

詩篇50篇は終末のイスラエルを預言しています。
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そしてイエス・キリストを救い主として心に受け入れた現代のクリスチャンの額にもイスラエルの十四万四千人と同じように額に子羊の名と、子羊の父の名が記されています。だから、クリスチャンは額に記されている「子羊の名と、子羊の父の名」によって祈ります。現代のクリスチャンの祈りは祈りの終わりに人それぞれ言葉は違いますが「イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン」と祈ります。自分の名によってでもなく牧師の名によってでもなく「イエス・キリストの御名によって」祈ります。霊的な額に子羊の名と子羊の父の名の証印が押されているから「イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン」と祈ります。

 

ヨハネの黙示録14章
14:1 また私は見た。すると見よ、子羊がシオンの山の上に立っていた。また、子羊とともに十四万四千人の人たちがいて、その額には子羊の名と、子羊の父の名が記されていた。

14:2 また、私は天からの声を聞いた。それは大水のとどろきのようであり、激しい雷鳴のようでもあった。しかも、私が聞いたその声は、竪琴を弾く人たちが竪琴に合わせて歌う声のようであった。

14:3 彼らは御座の前と、四つの生き物および長老たちの前で、新しい歌を歌った。しかし、地上から贖われた十四万四千人のほかは、この歌を学ぶことができなかった。

 

14章3節の「新しい歌」については詩篇33、40、96、98、144、149篇でそれぞれ預言されています。

 

同じく14章3節で「しかし、地上から贖われた十四万四千人のほかは、この歌を学ぶことができなかった。」と書かれているのは「新しい歌」は詩篇50篇5節の旧約時代に交わされた「いけにえによってわたしと契約を結んだ者たち」なる終末の144000人のイスラエルだけに適用される契約で詩篇の預言通りシナイ山に集められた「イスラエルと神だけの世界」で歌われる霊的な「新しい賛美の歌」ですから契約外の他のすべての異邦人には彼らが歌う「新しい歌」は理解出来ません。「新しい歌」は先祖が神と生贄の契約を交わした終末のイスラエルの民と神だけの世界で歌われる賛美の歌です。

 

詩篇50篇

50:5 「わたしにある敬虔な者をわたしのところに集めよ。いけにえによってわたしと契約を結んだ者たちを。」
 

ですから、黙示録14章のシナイ山でキリストと共にいる十四万四千人のイスラエルの民はクリスチャンと同じ「新しく御霊によって生まれ変わった十四万四千人のイスラエルの民」です。 だから十四万四千人のイスラエルは「女に触れて汚れたことがない者たちで、童貞である者たち」なのです。 新しく生まれる変わる前までは「【霊的】に女に触れた汚れた性体験のある【罪人】たち」でした。 携挙前までは、イスラエルは「姦淫を犯した男たち」でした。 姦淫を犯した男たち(イスラエル)が御霊によって新しく「無垢な赤ちゃん」として生まれ変わったから「女に触れて汚れたことがない者たちで、童貞である者たち」となりました。 

 

では、今までイスラエルは誰と姦淫を犯していたのか? というと、それは黙示録17章で出て来る「大淫婦」なる女です。 この大淫婦は以前の「中天の世界」で解説した創世記1章2節の大水の上に君臨するサタンの長です。 悪霊とサタンの巣窟となっている中天の世界を支配するサタンの長を黙示録17章以降は「大バビロンの大淫婦」と呼んでいます。 大バビロンは旧約時代にイスラエルが捕囚されたバビロン帝国のことです。

 

 イスラエル民族はバビロン捕囚の時代にバビロンの偶像崇拝と文化に染まり本来のイスラエルのヤハウェの神への信仰を失って堕落していきました。 ヤハウェの神の象徴である「契約の箱」を見失いました。 イスラエルはバビロン捕囚の時代にヤハウェの神から浮気して、不倫をして、バビロンの偶像の神と姦通しました。 黙示録はバビロン捕囚時代のイスラエルの不信仰を「男女の関係」として文学的に比喩的にイスラエルの悔い改めと大バビロンの長なるサタンの裁きを描いています。 

ヨハネの黙示録17章、19章

17:1 また、七つの鉢を持つ七人の御使いの一人が来て、私に語りかけた。 「ここに来なさい。大水の上に座している大淫婦に対するさばきを見せましょう。

17:2 地の王たちは、この女と淫らなことを行い、地に住む人々は、この女の淫行のぶどう酒に酔いました。」

17:3 それから、御使いは私を御霊によって荒野へ連れて行った。 私は、一人の女が緋色の獣に乗っているのを見た。 その獣は神を冒涜する名で満ちていて、七つの頭と十本の角を持っていた。

17:4 その女は紫と緋色の衣をまとい、金と宝石と真珠で身を飾り、忌まわしいものと、自らの淫行の汚れで満ちた金の杯を手に持っていた。 

17:5 その額には、意味の秘められた名、「大バビロン、淫婦たちと地上の忌まわしいものの母」という名が記されていた。

17:6 私は、この女が聖徒たちの血とイエスの証人たちの血に酔っているのを見た。 私はこの女を見て、非常に驚いた。 

 

19:2 神のさばきは真実で正しいからである。 神は、淫行で地を腐敗させた大淫婦をさばき、ご自分のしもべたちの血の報復を彼女にされた。」 

19:3 もう一度、彼らは言った。 「ハレルヤ。彼女が焼かれる煙は、世々限りなく立ち上る。」

 

「淫婦」という固有名詞、ワードは旧約聖書には一つも出て来ません。 ヨハネの黙示録だけに出て来ます。

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 黙示録7章では、キリストの携挙によって地上に残された終末のイスラエルの民が悔い改めて新しくキリストを民族の神として信じて救われたので、イスラエルが救われた「証・御霊による贖いの証印」として額に印章が押されて、 救われたイスラエルはクリスチャンと同じように心に御霊を与えられたことが描かれています。 (Ⅱコリ1:22)そのイスラエルが黙示録14章でキリストとともにシオンの山にいてキリストを賛美しています。

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次に

黙示録7章で額に神のしもべの印を押されたイスラエルの「十四万四千人」という数字は「実数」ではありません。

 イスラエルに属するすべての人々を「比喩的に表した数字」です。

「艱難 前 携挙説」の牧師先生、神学博士のみなさんは黙示録7章に出て来る十四万四千人は「艱難時代に救われたイスラエルの人数で、この十四万四千人のイスラエル人の伝道によって世界の人々が救われる」と教えていますが、今現在のイスラエルの人口はアラブ系の人も含めて約920万人ですから、 920万人の中のたった「十四万四千人」の少数しか救われないなんて普通に考えて、常識的に考えて、信仰的に考えて、あり得ません。 聖書には

ヨハネの黙示録7章
7:4 私は、印を押された者たちの数を耳にした。 それは十四万四千人で、イスラエルの子らのあらゆる部族の者が印を押されていた。

と書かれています。

イスラエルの子らのあらゆる部族の者が印を押されていた。

と書かれています。 「あらゆる部族の者」とは「すべての部族の者」という意味です。 「たった一部の部族」ではありません。 920万人の中のたった「十四万四千人」ではありません。 包括的に「あらゆる部族の者、すべての部族の者」という意味で書かれています。 文法的に

十四万四千人のイスラエルの子らのあらゆる部族の者が印を押されていた。

という意味で書かれています。
920万人の中のたった「十四万四千人」ではありません。 「十四万四千人」のイスラエルの子らのすべてです。

 「十四万四千人」というのはイスラエルの子らの「総人数」です。
私が言っていることの意味、分かりますよね?

ようするに黙示録7章の「十四万四千人」は全イスラエルを表す意味の比喩、象徴として書かれている人数です。 実際に救われる人の「実数」ではありません。

7:4 私は、印を押された者たちの数を耳にした。 それは十四万四千人で、イスラエルの子らのあらゆる部族の者が印を押されていた。

ですから「十二部族の血統を受け継ぐ現代のイスラエルのすべての民」という意味です。 その「十二部族の血統を受け継ぐ現代のイスラエルのすべての民」を比喩として、象徴的に「十四万四千人」という人の数で表しています。
だから十二部族均等に「一万二千人」が割り振られています。 「一万二千人」が十二部族均等に割り振られているのは「十二部族の子孫が平等にすべての者が救われる」という意味で均等な人数が割り振られています。 実数で920万人の内の各部族の子孫がきっちりと一万二千人づつ合計十四万四千人だけが救われで伝道するなんて普通に考えて、常識的に考えて、信仰的に考えて、あり得ません。

頭のいい牧師先生や神学博士のみなさんはやはり私みたいな凡人とは思考形態が違うのでしょうね。 知識は人を誇らせます。
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「十四万四千人」は1部族12000人を12部族平等に均等に割り振られた数字です。 1部族一万二千人×12部族で十四万四千人です。

そして1部族一万二千人という数字は12×1000=12000人です。

いずれも「12」という数字が鍵(key)となっています。

12の数字は新約、旧約聖書合わせて内容は多岐にわたりますが243句出て来ます。 主要な12の数字として

・イスラエルの12部族の12
・弟子(使徒)たちの12弟子
・黙示録21章に出て来る聖なる都、新しいエルサレムの12部族と12弟子に割り当てられている十二の門
・十二人の御使い、 十二の土台石
・そして十二軍団の御使い(マタイ26:53)、
・十二のかごをパン切れでいっぱいにした奇跡(マルコ6:43)
・両親は祭りの慣習にしたがってイエスが十二歳になったときも都へ上ったことも(ルカ2:42)
・十二年間長血を患っていた女が癒されたのも
・すでに息を引き取った十二歳のヤイロの娘が生き返ったのも(ルカ8~)、

などなど、みんな「12」という数字が共通になっています。 また私たちの生活は年月、時間においても

・1年12ヵ月
・1日24時間(午前・午後12時間×2)
・1時間60分(12×5)
・1分60秒(12×5)
・神の天地創造は12を割る六日間でした

というように、12で割り切れる数字が日常生活においてベースになっています。
一見屁理屈に見えますが、神が12という数字で部族を選んだことも、イエスが12という数字で弟子を選んだことも、私たち人間には計り知れませんが神様にとっては何か? 意味のある数字です。

そして「十四万四千人」の意味を考えるヒントが黙示録21章に書かれています。

ヨハネの黙示録21章
21:10 そして、御使いは御霊によって私を大きな高い山に連れて行き、聖なる都エルサレムが神のみもとから、天から降って来るのを見せた。
21:11 都には神の栄光があった。 その輝きは最高の宝石に似ていて、透き通った碧玉のようであった。
21:12 都には、大きな高い城壁があり、十二の門があった。 門の上には十二人の御使いがいた。 また、名前が刻まれていたが、それはイスラエルの子らの十二部族の名前であった。
21:13 東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。
21:14 都の城壁には十二の土台石があり、それには、子羊の十二使徒の、十二の名が刻まれていた。
21:15 また、私に語りかけた御使いは、都とその門と城壁を測るために金の測り竿を持っていた。
21:16 都は四角形で、長さと幅は同じである。 御使いが都をその竿で測ると、一万二千スタディオンあった。 長さも幅も高さも同じである。
21:17 また城壁を測ると、百四十四ペキスあった。 これは人間の尺度であるが、御使いの尺度も同じであった。

・竿=測量や建築に使う間竿 (けんざお)
・一万二千スタディオン(1スタディオン=185m/12000スタディオン=2220km)の都の長さと幅。
・百四十四ペキス(1ペキス=0.45m/144ペキス=64.8 m)の城壁の高さ。

黙示録21章16節に書かれている「一万二千スタディオン」は先ほどの黙示録7章で12部族均等に割り振られた「一万二千人」と同じ数字です。 続いて書かれている「百四十四ペキス」は黙示録7章ですべての12部族の額に印が押された十四万四千人の1000分の1の数字です。 144(ペキス)×1000=144000(額に印を押された12部族の総数)です。 これで辻褄が合いました。

1部族=12×1000=12000人は12を千倍した数です。 ここでも「12」という数字がベースになっています。 そして黙示録7章の1部族12000人は黙示録21章の「一万二千スタディオン」と関連しています。 紐づけられています。 一万二千スタディオンという数字の「根拠」となっています。 同様に

黙示録7章の144000人は黙示録21章の「百四十四ペキス」と関連しています。 紐づけられています。 百四十四ペキスという数字の「根拠」となっています。

・黙示録7章の144000人は黙示録21章の144(ペキス)を千倍にした数字です。
・黙示録7章の一部族12000人は黙示録21章の12000(スタディオン)と同じ数字です。 そしてヨハネが言っています。

ヨハネの黙示録21章
21:16 都は四角形で、長さと幅は同じである。 御使いが都をその竿で測ると、一万二千スタディオンあった。 長さも幅も高さも同じである。
21:17 また城壁を測ると、百四十四ペキスあった。 これは人間の尺度であるが、御使いの尺度も同じであった。

―――これは人間の尺度であるが、御使いの尺度も同じであった。 ―――

ここで唐突に「これは人間の尺度であるが、御使いの尺度も同じであった。」という言葉が出てきました。 このヨハネの「尺度」という言葉が黙示録7章の数字と黙示録21章の数字の意味を解き明かすカギとなります。

尺度とは

1 物の長さを測る道具。 ものさし。
2 長さ。 寸法。 「尺度を測る」
3 計量の標準。 また、判断・評価などの基準。 「合否判定の尺度を決める」 (デジタル大辞泉)

という意味で、ものを測る基準、判断する基準です。

ヨハネは「これは人間の尺度であるが、御使いの尺度も同じであった。」と言っていますから、天には「人間の尺度」と「御使いの尺度」の二通りの尺度が存在します。 そして黙示録21章の「一万二千スタディオンと百四十四ペキス」という数字は御使いが「人間の尺度」で測った数字(値)です。 だから「これは人間の尺度であるが、御使いの尺度も同じであった。」とヨハネは言っています。 そして「尺度も同じであった。」というのは「計算によって数字が一致した」「換算によって数字が同じになった」という意味です。

 

黙示録7章の一万二千人、十四万四千人は「御使いの尺度」で数えた数字です。
 

黙示録21章の一万二千スタディオン、百四十四ペキスは「人間の尺度」で測った数字です。
 

ですから黙示録7章の一万二千人、十四万四千人と黙示録21章の一万二千スタディオン、百四十四ペキスは「関連」しています。 「つながって」います。 黙示録21章の聖なる都の寸法、大きさは黙示録7章の額に印を押されたイスラエルの十二部族の人数を土台として設計されています。
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黙示録7章の「十四万四千人」という人数をヨハネは「御使い同士の会話から」聞きました。 自分で数えたのではありません。 御使いが御使いの尺度で数えた「十四万四千人」という人数をヨハネはそばで御使い同士の会話から「耳で聞いた」ので「それは十四万四千人で、」と書きました。

7:4 私は、印を押された者たちの数を耳にした。 それは十四万四千人で、イスラエルの子らのあらゆる部族の者が印を押されていた。

7章4節に「私は、印を押された者たちの数を耳にした。」と書かれています。 そして御使いが数えた「十四万四千人」という人数は「人間の尺度(実数)」で数えたのではなく「御使いの尺度」で数えられた人数です。 つまり実際には何百万人という終末のイスラエルの民の額に御使いが印を押していました。 その何百万人という数字を御使いが御使いの尺度で数えた人数が「十四万四千人」という人数です。 ヨハネが実際に目の前で見ている「何百万人」という人数は「人間の尺度による目算」です。 御使いが何百万人という人数を「十四万四千人」と数えたのは「御使いの尺度による計算」です。 人間と御使いでは同じ何百万人でも「数え方」が違います。 「計算式」が違います。 この数え方、計算式が黙示録21章で突然出てきた「尺度」の意味です。 ですから

黙示録7章の一万二千人、十四万四千人と黙示録21章の一万二千スタディオンと百四十四ペキスは「関連」しています。 「つながって」います。 黙示録21章の聖なる都の寸法、大きさは黙示録7章の額に印を押されたイスラエルの十二部族の人数を土台として設計されています。
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そして黙示録7章と21章では同じ数字でも「尺度」が違います。 同じ数字でも「見方、測り方」が違います。 同じ数字でも「用途」が違います。 黙示録7章は「人の数」です。 黙示録21章は聖なる都の「面積、立方体の寸法」です。

黙示録7章の144000人という「人数」を黙示録21章では「面積、容積」に換算して聖なる都の寸法、大きさを設計しています。 換算とは「ある数量を他の単位に換えて計算しなおすこと」です。 

ここから144000人という人数を聖なる都の立方体の寸法にどうやって換算したのかを算数を使って分かり易く説明します。

水の「重さ」は1000リットル=1000kg=1トン です。
そして1000kg=1トンの体積は1㎥です。 (㎥の肩についている3が小さすぎて分かりずらいと思いますが)
体積1㎥の「大きさ」は「縦・横・高さ・が1mの立方体」です。

仮に、床に1000リットルの水がこぼれたとします。 床にこぼれた1000リットルの水をすべて回収して貯める容器の大きさを計算すれば「縦・横・高さ・が1mの立方体」になります。 その理屈と同じです。

黙示録7章の1部族12000人、12部族の合計144000人という「人数」は床にこぼれた「1000リットルの水」です。 そして床にこぼれて回収した1000リットルの水(144000人)を貯水する「容器の寸法(都の容積の寸法)」が、黙示21章の聖なる都の長さと幅と高さの「寸法」です。 そこに聖なる都を囲む「城壁の高さの寸法」が書かれています。
この数学的な理屈、分かりますよね? 人の人数を都の大きさに「換算する数式」にたとえて説明しています。 この「換算する数式」が「尺度」です。 ですから

黙示録21章の聖なる都の一万二千スタディオンの長さと幅と高さの立法体の寸法は黙示録7章の「1部族=一万二千人」を根拠として設計されています。 城壁の高さ百四十四ペキスも黙示録7章の「12部族=十四万四千人」を根拠として設計されています。

7:4 私は、印を押された者たちの数を耳にした。 それは十四万四千人で、イスラエルの子らのあらゆる部族の者が印を押されていた。
7:5 ユダ族から一万二千人が印を押され、ルベン族から一万二千人、ガド族から一万二千人、・・・

21:16 都は四角形で、長さと幅は同じである。 御使いが都をその竿で測ると、一万二千スタディオンあった。 長さも幅も高さも同じである。
21:17 また城壁を測ると、百四十四ペキスあった。 これは人間の尺度であるが、御使いの尺度も同じであった。

人間尺度と御使いの尺度が「同じだった」のは「数字が一致した」からです。 「黙示録21章の聖なる都の大きさの数字が黙示録7章の額に印を押された144000人の数字と一致した」からです。 ここでヨハネが言っている「尺度」とは先ほど説明した「換算」です。 水の量を立方体の寸法に換算したように144000人の数字を神の都の立方体の寸法に換算して数字が一致したので「これは人間の尺度であるが、御使いの尺度も同じであった。」とヨハネは納得して記録しました。 人間の尺度と御使いの尺度の間に「換算」が入って一致した数字です。 1000リットルの水を換算して縦・横・高さ・が1mの立方体の容器を作ったのと同じ理屈です。

聖書に出て来る様々な「数字」にはそれぞれ「科学的な根拠」があります。 創世記1章に書かれている万物の法則、科学、物理の法則がすべて神が創造されたものであるならば、当然、聖書は科学と一致します。 合理します。 当てはまります。 計算出来ます。 科学は聖書の事実を証明します。
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黙示録7章の段階ではヨハネは「1部族=12000人、12部族合わせて144000人」という御使いの数字の意味が分かりませんでした。 ただ御使いの144000人という数字を「耳にした」だけです。

7:4 私は、印を押された者たちの数を耳にした。 それは十四万四千人で、イスラエルの子らのあらゆる部族の者が印を押されていた。

黙示録21章で聖なる都を見せられて初めてヨハネは黙示録7章で耳にした十四万四千人の数字の意味が理解出来ました。 納得しました。

 

ヨハネは黙示録21章の聖なる都の大きさは黙示録7章の12部族の額に印が押された人数によって設計されていることが理解出来たので「これは人間の尺度であるが、御使いの尺度も同じであった。」と納得しました。
ここまで私が言っていることの意味、みなさん分かりますよね?

 

結論として、

黙示録7章の1部族12000人、12部族合わせて合計144000人という数字は人間の「数学的な実数」ではなく御使いの尺度で計算された「天の数字」です。 黙示録7章にはキリストの携挙で地上に取り残されたイスラエルの十二部族の血統を受け継ぐ終末のすべてのイスラエルの民が救われて御使いたちによって救われた証としての「御霊による贖いの証印」がすべてのイスラエルの子孫の額に押される光景が描かれています。 1部族12000人が平等に均等に12部族すべてに振り分けられて合計144000人という数字は「すべてのイスラエルの民が分け隔てなく平等に救われる」という神の約束を霊的な比喩として象徴として表した数字です。 そして救われた1部族12000人×12部族=144000人という「すべてのイスラエルの民の信仰によって」聖なる都の大きさが黙示録21章で設計されています。 黙示録21章16節の1辺12000スタディオンの立方体は黙示録7章で均等に割り振られた1部族12000人×12部族=144000人の「領域」を表しています。
144ペキスは黙示録7章の12部族144000人の領域を囲っている城壁、フェンスの「高さの寸法」を表しています。

そして神の都には十二の門、入口、ゲートが築かれています。 十二の都の門には黙示録7章の十二部族の名が刻まれていて、十二の城壁の土台石には子羊の十二使徒の名が刻まれています。 入口は12箇所ありますが、中に入ればみな同じ「一つのエリア、領域、場所」です。 これは、旧約の信仰者も新約のクリスチャンも神の聖なる都に入れば分け隔てのない「神にあって一つの世界」を表しています。 都の門に十二部族の名が刻まれているのも土台石に十二使徒の名が刻まれているのも

神の永遠の聖なる都は旧約の信仰者と新約のクリスチャンの「信仰によって」建てられている

という「証」です。
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次回の「キリストの携挙ー10」に続きます。
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引用・聖書 新改訳2017 © 新日本聖書刊行会
#携挙 #クリスチャン #キリスト教会 #聖書 #イエスキリスト #再臨 #宗教 #ヨハネの黙示録

キリストの携挙―8・滅びの子が現れなければ主の日は来ないのです
 

前回の「キリストの携挙―7・天の果てから果てまで四方から、人の子が選んだ者たちを集めます」からの続きです。

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クリスチャンのみなさんはⅠ・Ⅱテサロニケ人への手紙を読んでなにか感じたことはありませんか?

教会では、テサロニケ人への手紙は具体的な「携挙の預言」が書かれていて携挙に関する説教のとき牧師が単発的に一部分しか語らないのでみなさんあまり気がつかないかもしれませんが、実は、テサロニケ人への手紙は明らかに、どう読んでも、どう考えても、

携挙を待っている信徒への手紙

ですよね?

この投稿を読み終えた後、Ⅰ・Ⅱテサロニケ人への手紙をサ~と読み返してみてください。両方合わせて8章の短い文章ですから直ぐ読み終わります。「携挙」というワードを意識しながら読んでいくと「なるほど、これ、携挙を待っている信徒への手紙だわ」と納得すると思います。

テサロニケ人への手紙はとにかくパウロのテサロニケ人の信徒への「称賛」で埋め尽くされています。パウロがテサロニケ人の信徒を褒めて褒めて褒めちぎっていることがよく分かります。非難する言葉は一つも出て来ません。最上級の言葉でパウロが褒めちぎっています。以下は手紙に書かれいるパウロのテサロニケ人の信徒への褒め言葉です。

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■ パウロのテサロニケ人の信徒への褒め言葉 ■

Ⅰテサロニケ人への手紙
1:4 神に愛されている兄弟たち。私たちは、あなたがたが神に選ばれていることを知っています。

1:6 あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちに、そして主に倣う者になりました。
1:7 その結果、あなたがたは、マケドニアとアカイアにいるすべての信者の模範になったのです。

2:8 あなたがたをいとおしく思い、神の福音だけではなく、自分自身のいのちまで、喜んであなたがたに与えたいと思っています。あなたがたが私たちの愛する者となったからです。

2:13 こういうわけで、私たちもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたが、私たちから聞いた神のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実そのとおり神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いています。

2:19 私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのは、いったいだれでしょうか。あなたがたではありませんか。
2:20 あなたがたこそ私たちの栄光であり、喜びなのです。

3:6 ところが今、テモテがあなたがたのところから私たちのもとに帰って来て、あなたがたの信仰と愛について良い知らせを伝えてくれました。また、あなたがたが私たちのことを、いつも好意をもって思い起こし、私たちがあなたがたに会いたいと思っているように、あなたがたも私たちに会いたがっていることを知らせてくれました。
3:7 こういうわけで、兄弟たち。私たちはあらゆる苦悩と苦難のうちにありながら、あなたがたのことでは慰めを受けました。あなたがたの信仰による慰めです。
3:8 あなたがたが主にあって堅く立っているなら、今、私たちの心は生き返るからです。
3:9 あなたがたのことで、どれほどの感謝を神におささげできるでしょうか。神の御前であなたがたのことを喜んでいる、そのすべての喜びのゆえに。

・あなたがたが神に選ばれていることを知っています。

 

・あなたがたは、マケドニアとアカイアにいるすべての信者の模範になったのです。

・あなたがたをいとおしく思い、神の福音だけではなく、自分自身のいのちまで、喜んであなたがたに与えたいと思っています。

・あなたがたが私たちの愛する者となったからです。

・あなたがたが、私たちから聞いた神のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実そのとおり神のことばとして受け入れてくれたからです。

・ 私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのは、いったいだれでしょうか。あなたがたではありませんか。

・あなたがたこそ私たちの栄光であり、喜びなのです。

・ところが今、テモテがあなたがたのところから私たちのもとに帰って来て、あなたがたの信仰と愛について良い知らせを伝えてくれました。

・こういうわけで、兄弟たち。私たちはあらゆる苦悩と苦難のうちにありながら、あなたがたのことでは慰めを受けました。あなたがたの信仰による慰めです。

・あなたがたのことで、どれほどの感謝を神におささげできるでしょうか。神の御前であなたがたのことを喜んでいる、そのすべての喜びのゆえに。

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Ⅱテサロニケ人への手紙
1:4 ですから私たち自身、神の諸教会の間であなたがたを誇りに思っています。あなたがたはあらゆる迫害と苦難に耐えながら、忍耐と信仰を保っています。

2:19 私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのは、いったいだれでしょうか。あなたがたではありませんか。
2:20 あなたがたこそ私たちの栄光であり、喜びなのです。

・ですから私たち自身、神の諸教会の間であなたがたを誇りに思っています。

・私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのは、いったいだれでしょうか。あなたがたではありませんか。

・あなたがたこそ私たちの栄光であり、喜びなのです。

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ここに挙げた文章から分かるように、テサロニケ教会の信徒に向けてパウロは最上級の言葉で褒めて褒めて褒めちぎっています。

・あなたがたをいとおしく思い、神の福音だけではなく、自分自身のいのちまで、喜んであなたがたに与えたいと思っています。あなたがたが私たちの愛する者となったからです。

・私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのは、いったいだれでしょうか。あなたがたではありませんか。

・あなたがたこそ私たちの栄光であり、喜びなのです。
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この箇所はパウロが彼らの信仰に酔いしれて陶酔しきっていいます。

パウロが書いたテサロニケ人への手紙から分かることは、テサロニケの教会は正にパウロが理想としてた混じり気のない「純粋な信仰者が集まった教会」でした。

そしてテサロニケ人への手紙の文章は携挙を匂わせる、思わせる、連想させる、ワードを中心に書かれています。
以下に挙げます。

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■ 携挙を匂わせる、思わせる、連想させる、ワード ■

Ⅰテサロニケ人への手紙
1:10 御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを、知らせているのです。この御子こそ、神が死者の中からよみがえらせた方、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスです。

・御子が天から来られるのを(キリストの携挙を)待ち望むようになったかを、・・・

・やがて来る御怒り(サタンを裁く大患難時代)から私たちを救い出してくださるイエスです。

2:15 ユダヤ人たちは、主であるイエスと預言者たちを殺し、私たちを迫害し、神に喜ばれることをせず、すべての人と対立しています。
2:16 彼らは、異邦人たちが救われるように私たちが語るのを妨げ、こうしていつも、自分たちの罪が満ちるようにしているのです。しかし、御怒りは彼らの上に臨んで極みに達しています。

・終末のユダヤはイスラエルに第三神殿を再建して神殿に反キリストが立ったときに頂点に達した神の御怒りが神殿に下ります。イスラエルによって第三神殿が再建されたときがユダヤの「罪が満ちるとき」です。二千年前にキリストを十字架で処刑した罰として第二神殿がローマによって滅ぼされたように、終末の第三神殿も神の御怒りで滅ぼされます。

2:19 私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのは、いったいだれでしょうか。あなたがたではありませんか。

・私たちの主イエスが再び来られるとき(キリストが携挙に来られるとき)

3:3 このような苦難の中にあっても、だれも動揺することがないようにするためでした。あなたがた自身が知っているとおり、私たちはこのような苦難にあうように定められているのです。
3:4 あなたがたのところにいたとき、私たちは前もって、苦難にあうようになると言っておいたのですが、あなたがたが知っているとおり、それは事実となりました。

・このような苦難の中にあっても、・・・私たちはこのような苦難にあうように定められているのです。

(ダニエル70週預言の終末の前半の「教会艱難時代の三年半」の苦難、またエゼキエル預言の教会苦難が終末のキリスト教会に定められています)

 



3:13 そして、あなたがたの心を強めて、私たちの主イエスがご自分のすべての聖徒たちとともに来られるときに、私たちの父である神の御前で、聖であり、責められるところのない者としてくださいますように。アーメン。

・主イエスは旧約時代の信仰者、新約時代の携挙前の天に帰ったクリスチャンたちとともに携挙に来ます。「聖徒たちとともに来られる」というのは天に帰ったすべての信仰者たちの魂を引き連れて携挙のときに「キリストの甦りのいのち」によって信仰者が甦って地上の墓から出て来る、という意味です。天から直接アブラハム、モーセ、ヤコブたちと一緒にやって来る、という意味ではありません。

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Ⅱテサロニケ人への手紙
1:7 苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えることです。このことは、主イエスが、燃える炎の中に、力ある御使いたちとともに天から現れるときに起こります。

・主イエスは燃える炎の中で(戦争、教会の苦難の中で)力ある御使いたちとともに天から現れて携挙に来ます。使徒2:19 の「血と火と立ち上る煙」の時代に来ます。

1:8 主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に罰を与えられます。
1:9 そのような者たちは、永遠の滅びという刑罰を受け、主の御前から、そして、その御力の栄光から退けられることになります。

・神を否定する者や教会を迫害する者は携挙で地上に残されてサタンとともに神の怒りの大艱難時代で裁かれて永遠の滅びという刑罰を受けます。

1:10 その日に主イエスは来て、ご自分の聖徒たちの間であがめられ、信じたすべての者たちの間で感嘆の的となられます。そうです、あなたがたに対する私たちの証しを、あなたがたは信じたのです。

・その日(携挙の日)に主イエスは聖徒たち、信じたすべての者たちを携挙しに来ます。

2:1 さて兄弟たち。私たちの主イエス・キリストの来臨と、私たちが主のみもとに集められることに関して、あなたがたにお願いします。

・私たちの主イエス・キリストの来臨(携挙)と、私たちが主のみもとに集められることに関して(マタイ24:31御使いたちによって天の果てから果てまで四方から、人の子が選んだ者たち・クリスチャン・が集められて主のもとに携挙されます)

2:2 霊によってであれ、ことばによってであれ、私たちから出たかのような手紙によってであれ、主の日がすでに来たかのように言われるのを聞いても、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください。

・主の日(携挙)がすでに来たかのように言われるのを聞いても、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください。

(携挙に関する様々なデマが終末の世界に蔓延します。しかも「私たちから出たかのような手紙によってであれ、」と書かれていますから、キリスト教会から聖徒でも信じてしまうような巧妙に細工された偽りの携挙神学が喧伝されます)

 

2:3 どんな手段によっても、だれにもだまされてはいけません。まず背教が起こり、不法の者、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないのです。

・どんな手段によっても、(主の日・携挙が近くなるとネットや YouTube で「携挙は艱難前に来ます!!!」と多くの牧師によって語られますが)、だれにもだまされてはいけません。まず背教が起こり、不法の者、すなわち滅びの子(反キリスト)が現れなければ、主の日(携挙)は来ないのです。

2:4 不法の者は、すべて神と呼ばれるもの、礼拝されるものに対抗して自分を高く上げ、ついには自分こそ神であると宣言して、神の宮に座ることになります。

・不法の者(反キリスト)は、すべて神と呼ばれるもの、礼拝されるもの(イエス・キリスト)に対抗して自分を高く上げ、ついには自分こそ神であると宣言して、神の宮(終末のユダヤが再建したエルサレム神殿)に座ることになります。

2:5 私がまだあなたがたのところにいたとき、これらのことをよく話していたのを覚えていませんか。

・パウロはこの手紙を送る前にすでにテサロニケの信徒に向けてキリストの携挙の時期、方法、手段、手順を、具体的に教えていました。しかしまだ不法の者が現れていないのに「不法の者(反キリスト)が現れる前に、教会が苦難に入る前に、携挙が来る!!!(現代の艱難 前 携挙説のルーツ)」と
すでに存在していた偽りの教会や信仰者たちが偽の携挙神学を喧伝していたので、偽りの携挙神学に流されないように心配してもう一度、前にパウロが教えた正しい携挙神学を思い起こさせながら、純粋な信仰者の集まりのテサロニケ人の教会にこの手紙を送りました。現代のネットや YouTube で盛んに喧伝されている「艱難 前 携挙説」は二千年前の使徒の時代にすでに偽の教会によって作られて喧伝されていました。パウロははっきりとⅠテサロニケ人への手紙3章3節で

 

 

「このような苦難の中にあっても、だれも動揺することがないようにするためでした。」

「私たちはこのような苦難にあうように定められているのです。」

 

と言って教会が「艱難時代」を通過することを教えています。パウロが教えている「不法の者」イエスが教えた「荒らす忌まわしいもの」が終末の再建されたエルサレム神殿の「神の宮」に座ったときに、キリストの携挙が来る!!!と教えています。

「教会の艱難時代」とはダニエル70週預言の終末の前半の「三年半」の期間です。携挙が終わった後半の「三年半」がサタンを裁くための「大患難時代」です。「艱難 前 携挙説」はこの「教会の艱難時代」とサタンを裁く「大艱難時代」をごちゃ混ぜにして「七年を大艱難時代」と定義して七年の大艱難時代の前に携挙が来る!!!と教えています。

 

Ⅰテサロニケ人への手紙

3:3 このような苦難の中にあっても、だれも動揺することがないようにするためでした。あなたがた自身が知っているとおり、私たちはこのような苦難にあうように定められているのです。

ーーーーー

2:6 不法の者がその定められた時に現れるようにと、

・イエスがマタイ24:15で預言された「それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす忌まわしいもの』が聖なる所に立っているのを見る時」が不法の者がその定められた時です。

2:6 ・・・今はその者を引き止めているものがあることを、あなたがたは知っています。

・「不法の者」についてすでにパウロから聞いているからテサロニケの信徒は「知っています」

2:7 不法の秘密はすでに働いています。ただし、秘密であるのは、今引き止めている者が取り除かれる時までのことです。

・不法の者はすでに現代の地上に存在して秘密裏に世界的立場に就くための準備をして自分の出番を待っています。

2:8 その時になると、不法の者が現れますが、主イエスは彼を御口の息をもって殺し、来臨の輝きをもって滅ぼされます。

・その時(携挙の時)になると、不法の者(反キリスト)が現れますが、(サタンを裁く大艱難時代に入ってから)主イエスは彼を御口の息をもって殺し、来臨の輝きをもって滅ぼされ、ヨハネの福音書1章5節の「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」が成就されます。
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この続きは次回の投稿になります。ぜひ最後までお読みください。

冒頭で申し上げたように、

テサロニケ人への手紙は明らかに、どう読んでも、どう考えても、

携挙を待っている信徒への手紙

です。

 

テサロニケ人への手紙は二千年前の当時に起こった教会の出来事を通して携挙がいつ来てもいいように人類の終末のキリストの携挙の預言が時代を越えた「普遍的メッセージ」という形で書かれています。テサロニケ人への手紙をなぞるように終末のキリストの携挙は来ます。


クリスチャンのみなさん、この投稿を読み終えた後、Ⅰ・Ⅱテサロニケ人への手紙をサ~と読み返してみてください。両方合わせて8章の短い文章ですから直ぐ読み終わります。「携挙」というワードを意識しながら読んでいくと「なるほど、これ、携挙を待っている信徒への手紙だわ」と納得するはずです。
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次回の「キリストの携挙ー9」に続きます。
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引用・聖書 新改訳2017 © 新日本聖書刊行会
#携挙 #クリスチャン #キリスト教会 #聖書 #イエスキリスト #再臨 #宗教 #ヨハネの黙示録

キリストの携挙―7・天の果てから果てまで四方から、人の子が選んだ者たちを集めます

前回の「キリストの携挙―6・終わりの日」からの続きです。

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マタイの福音書24章
24:31 人の子は大きなラッパの響きとともに御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで四方から、人の子が選んだ者たちを集めます。

キリストが携挙に来るときは大きなラッパの響きとともに御使いたちを地上に遣わして天の果てから果てまで四方から(全世界から)、キリストが選んだ「クリスチャン」を集めて天に引き上げます。「天の果てから果てまで四方から」というのは携挙のときに「どの場所にいても、どのような環境に置かれていても、迫害で逃げ隠れていても、迫害で牢獄に繋がれていても、携挙されます!!!」という意味です。

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マタイの福音書24章
24:1 イエスが宮を出て行かれると、弟子たちが近寄って来て、イエスに向かって宮の建物を指し示した。
24:2 すると、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはこれらの物すべてを見ているのですか。まことに、あなたがたに言います。ここで、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してありません。」
24:3 イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちがひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのですか。あなたが来られ、世が終わる時のしるしは、どのようなものですか。」
24:4 そこでイエスは彼らに答えられた。「人に惑わされないように気をつけなさい。
24:5 わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『私こそキリストだ』と言って、多くの人を惑わします。
24:6 また、戦争や戦争のうわさを聞くことになりますが、気をつけて、うろたえないようにしなさい。そういうことは必ず起こりますが、まだ終わりではありません。
24:7 民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、あちこちで飢饉と地震が起こります。
24:8 しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりなのです。
24:9 そのとき、人々はあなたがたを苦しみにあわせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。
24:10 そのとき多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合います。
24:11 また、偽預言者が大勢現れて、多くの人を惑わします。
24:12 不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えます。
24:13 しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。
24:14 御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます。
24:15 それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす忌まわしいもの』が聖なる所に立っているのを見たら──読者はよく理解せよ──
24:16 ユダヤにいる人たちは山へ逃げなさい。
24:17 屋上にいる人は、家にある物を取り出そうとして下に降りてはいけません。
24:18 畑にいる人は上着を取りに戻ってはいけません。
24:19 それらの日、身重の女たちと乳飲み子を持つ女たちは哀れです。
24:20 あなたがたの逃げるのが冬や安息日にならないように祈りなさい。
24:21 そのときには、世の始まりから今に至るまでなかったような、また今後も決してないような、大きな苦難があるからです。
24:22 もしその日数が少なくされないなら、一人も救われないでしょう。しかし、選ばれた者たちのために、その日数は少なくされます。
24:23 そのとき、だれかが『見よ、ここにキリストがいる』とか『そこにいる』とか言っても、信じてはいけません。
24:24 偽キリストたち、偽預言者たちが現れて、できれば選ばれた者たちをさえ惑わそうと、大きなしるしや不思議を行います。
24:25 いいですか。わたしはあなたがたに前もって話しました。
24:26 ですから、たとえだれかが『見よ、キリストは荒野にいる』と言っても、出て行ってはいけません。『見よ、奥の部屋にいる』と言っても、信じてはいけません。
24:27 人の子の到来は、稲妻が東から出て西にひらめくのと同じようにして実現するのです。
24:28 死体のあるところには、禿鷹が集まります。
24:29 そうした苦難の日々の後、ただちに太陽は暗くなり、月は光を放たなくなり、星は天から落ち、天のもろもろの力は揺り動かされます。
24:30 そのとき、人の子のしるしが天に現れます。そのとき、地のすべての部族は胸をたたいて悲しみ、人の子が天の雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見るのです。
24:31 人の子は大きなラッパの響きとともに御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで四方から、人の子が選んだ者たちを集めます。
24:32 いちじくの木から教訓を学びなさい。枝が柔らかになって葉が出て来ると、夏が近いことが分かります。
24:33 同じように、これらのことをすべて見たら、あなたがたは人の子が戸口まで近づいていることを知りなさい。
24:34 まことに、あなたがたに言います。これらのことがすべて起こるまでは、この時代が過ぎ去ることは決してありません。
24:35 天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。

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マタイの福音書24章
24:1 イエスが宮を出て行かれると、弟子たちが近寄って来て、イエスに向かって宮の建物を指し示した。
24:2 すると、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはこれらの物すべてを見ているのですか。まことに、あなたがたに言います。ここで、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してありません。」

イエスは目の前にそびえるエルサレム神殿を指しながら弟子たちに向かって

「あなたがたはこれらの物すべてを見ているのですか。まことに、あなたがたに言います。ここで、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してありません。」

と預言しました。ここでイエスが預言した「エルサレム神殿の崩壊」は、この後直ぐ来るローマによって破壊される「第二神殿の崩壊」を預言したのではありません。二千年後の終末のユダヤによって再建される「第三神殿の崩壊」を預言しています。キリスト教会や YouTube の牧師先生方が教えているすでに二千年前のローマによって滅ぼされた「第二神殿の崩壊」ではありません。携挙の直前に再建される「第三神殿の崩壊」を目の前に建っている「第二神殿を指しながら」イエスは「終末のエルサレム神殿の崩壊」を預言しています。エルサレム神殿の「今」を預言しているのではありません。「終末の神殿」を預言しています。キリストの預言は常に二千年前のユダヤの「今」を指しながらユダヤの「将来」を預言しています。それはその後の弟子たちとの会話をきちんと読めば分かります。

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24:3 イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちがひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのですか。あなたが来られ、世が終わる時のしるしは、どのようなものですか。」

ここで弟子たちは先ほどイエスが預言した「エルサレム神殿の崩壊」は、いつ、起こるのですか?と、イエスに聞いています。「そのようなこと」とはイエスが24章1節~2節で預言した「エルサレム神殿の崩壊」のことです。弟子たちはイエスが24章1節~2節で預言した

「あなたがたはこれらの物すべてを見ているのですか。まことに、あなたがたに言います。ここで、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してありません。」

という「エルサレム神殿の崩壊」に対して、間を置いて場所をオリーブ山に移して先ほどの預言の続きとして

「あなたが来られ、世が終わる時のしるしは、どのようなものですか。」

とイエスに聞いています。「世が終わる時」とは「人類の終末」です。つまり、弟子たちはすでにイエスから終末の「世の終わり」について聖書に書いてある以外にもいろいろ聞いていて、その終末の預言の中でイエスの「エルサレム神殿崩壊の預言」を聞きました。だから、イエスが語った「エルサレム神殿の崩壊」は人類の終末の「世が終わる時の預言」だとなんとなく理解しながら

「あなたが来られ、世が終わる時のしるしは、どのようなものですか。」

とイエスに問い返しています。

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パウロ(たち)がそれぞれの教会に送った手紙の中には具体的な携挙の方法、手順が書かれているものがあります。

Ⅰコリント人への手紙15章
15:51 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな眠るわけではありませんが、みな変えられます。
15:52 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。

Ⅰテサロニケ人への手紙4章~5章
4:14 イエスが死んで復活された、と私たちが信じているなら、神はまた同じように、イエスにあって眠った人たちを、イエスとともに連れて来られるはずです。
4:15 私たちは主のことばによって、あなたがたに伝えます。生きている私たちは、主の来臨まで残っているなら、眠った人たちより先になることは決してありません。
4:16 すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、
4:17 それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。

5:1 兄弟たち。その時と時期については、あなたがたに書き送る必要はありません。
5:2 主の日は、盗人が夜やって来るように来ることを、あなたがた自身よく知っているからです。
5:3 人々が「平和だ、安全だ」と言っているとき、妊婦に産みの苦しみが臨むように、突然の破滅が彼らを襲います。それを逃れることは決してできません。

クリスチャンのみなさん、パウロはどこで手紙に書いた具体的な携挙の方法、手順を知ったのか、分かりますか?答えは、ともにキリストの宣教をしているキリストの弟子から使徒となった「十二人の使徒たち」です。

イエスが預言した具体的な携挙の方法、手順を予め聞いていた弟子たちが、五旬節で御霊に満たされて使徒となってそこに後からパウロが加わったので、パウロはイエスの弟子だった使徒たちからイエスの携挙の預言を聞いて手紙に書いた、という流れです。イエスの携挙の預言は福音書に書かれている箇所だけではありません。他にもいろいろ語っています。ただ、イエスの携挙の預言は使徒たちが「弟子の時代」に聞いた将来の霊的な預言ですから、弟子の時代の彼らは「なんとなく漠然と」信じていました。使徒の働き1章6節で天に帰るキリストに弟子たちは「主よ。イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか。」と聞いています。

 

使徒の働き1章
1:4 使徒たちと一緒にいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。
1:5 ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです。」
1:6 そこで使徒たちは、一緒に集まったとき、イエスに尋ねた。「主よ。イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか。」
1:7 イエスは彼らに言われた。「いつとか、どんな時とかいうことは、あなたがたの知るところではありません。それは、父がご自分の権威をもって定めておられることです。

 

弟子たちは五旬節で御霊に満たされる前まではイエスの携挙の預言は「十字架で殺されて甦ったキリストが再び地上に降りて来てイスラエル王国を建て直す」という意識でイエスの携挙の預言を聞いていました。しかし五旬節で御霊に満たされて「霊の目が開かれて」初めてイエスの携挙の預言が「霊的に」理解出来て、弟子たちは御霊に満たされてはじめてダニエルの預言、エゼキエルの預言などと併せて「ああ、あの預言は近いうちに来る携挙のことだったのか!」と理解して納得しました。だから、まだキリストの携挙がはっきりと理解出来なかった時代の福音書にはイエスが語った具体的な携挙の方法や手順については記録されていません。そして後から使徒たちから聞いたイエスの携挙の預言をパウロが代わってそれぞれの教会の手紙に書き送り、最後にヨハネが御霊によって黙示録の世界を見せられたので、さらに詳細な携挙の方法、手順を書いた手紙を七つの教会に送りました。


パウロが教会宛ての手紙に書いた以下の携挙の預言はキリストが弟子たちに語りキリストから聞いた携挙の預言を弟子たちがパウロに教えてパウロがそれをそのまま教会宛ての手紙に書いて送りました。

Ⅰコリント人への手紙15章
15:52 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。

Ⅰテサロニケ人への手紙4章~5章
4:16 すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、
4:17 それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。

5:1 兄弟たち。その時と時期については、あなたがたに書き送る必要はありません。
5:2 主の日は、盗人が夜やって来るように来ることを、あなたがた自身よく知っているからです。

5:23 平和の神ご自身が、あなたがたを完全に聖なるものとしてくださいますように。あなたがたの霊、たましい、からだのすべてが、私たちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのないものとして保たれていますように。
5:24 あなたがたを召された方は真実ですから、そのようにしてくださいます。

Ⅰテサロニケ人への手紙5章2節に「主の日は、盗人が夜やって来るように来ることを、あなたがた自身よく知っているからです。」と書かれています。「あなたがた自身よく知っているからです。」と書かれているのは、手紙を受け取ったテサロニケの教会の信徒はすでにキリストがもう間もなく携挙に来ることを他の使徒たちから教えられてある程度のことは分かっていたから、それを前提にして、パウロは「主の日は、盗人が夜やって来るように来ることを、あなたがた自身よく知っているからです。」と書いています。

パウロが教会宛ての手紙で書いた携挙の預言はイエスが弟子たちに語った預言です。

話しを戻します。

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ですからイエスが目の前のエルサレム神殿を指して預言した「エルサレム神殿崩壊の預言」は終末のこれからユダヤが再建する「第三神殿の崩壊」を預言しています。そして24章16節の旧約時代の預言者ダニエルによって預言されている『荒らす忌まわしいもの(666の反キリスト)』が聖なる所(終末のユダヤが再建したエルサレム神殿)に立っているのを見たら、携挙が起こり、携挙が終わった直後に神の怒りがエルサレム神殿の反キリストに下り、エルサレムの十分の一が倒れて七千人が死ぬほどの大地震が起こり(黙示録11章11節~13節)、そこで終末のユダヤが再建した第三神殿が大地震により粉々に崩壊します。だからイエスは666の反キリストが再建されたエルサレム神殿に入場したらユダヤは神殿から早く逃げなさい!避難しなさい!離れなさい!と警告しています。

マタイの福音書24章
24:15 それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす忌まわしいもの』が聖なる所に立っているのを見たら──読者はよく理解せよ──
24:16 ユダヤにいる人たちは山へ逃げなさい。
24:17 屋上にいる人は、家にある物を取り出そうとして下に降りてはいけません。
24:18 畑にいる人は上着を取りに戻ってはいけません。
24:19 それらの日、身重の女たちと乳飲み子を持つ女たちは哀れです。
24:20 あなたがたの逃げるのが冬や安息日にならないように祈りなさい。
24:21 そのときには、世の始まりから今に至るまでなかったような、また今後も決してないような、大きな苦難があるからです。

24章21節の「そのときには、」とは、携挙によって教会の時代、恵みの時代が終わる「そのとき」です。
そして携挙の時は神殿から携挙の物凄い光景を目の当たりにした666の反キリストは世界中が見守る中で大地震による神殿崩壊の下敷きになり絶命したかに思われましたが、なんと、奇跡中の奇跡中の奇跡で命が助かり世界を驚かせて黙示録13章3節で再び世界を治めます。

ヨハネの黙示録13章
13:1 また私は、海から一頭の獣が上って来るのを見た。これには十本の角と七つの頭があった。その角には十の王冠があり、その頭には神を冒涜する様々な名があった。
13:2 私が見たその獣は豹に似ていて、足は熊の足のよう、口は獅子の口のようであった。竜はこの獣に、自分の力と自分の王座と大きな権威を与えた。
13:3 その頭のうちの一つは打たれて死んだと思われたが、その致命的な傷は治った。全地は驚いてその獣に従い、
13:4 竜を拝んだ。竜が獣に権威を与えたからである。また人々は獣も拝んで言った。「だれがこの獣に比べられるだろうか。だれがこれと戦うことができるだろうか。」

黙示録13章3節の「その頭のうちの一つ」は黙示録11章7節で出て来た「底知れぬ所から上って来る獣」です。

ヨハネの黙示録11章
11:7 二人が証言を終えると、底知れぬ所から上って来る獣が、彼らと戦って勝ち、彼らを殺してしまう。

「底知れぬ所から上って来る獣(666の反キリスト)」が終末の再建されたエルサレム神殿に入場して、携挙が来て、携挙が終わった後にエルサレムに大地震が起こって、神殿の下敷きになった666の反キリストの命が終わったと世界中の人々が思っていたら、666の反キリストの命は奇跡的に助かり復活しました。

13:3 その頭のうちの一つは打たれて死んだと思われたが、その致命的な傷は治った。全地は驚いてその獣に従い、・・・

「その頭のうちの一つは打たれて死んだと思われたが、」と書かれています。これは、イエスがマタイの福音書24章で弟子たちに預言した「エルサレム神殿の崩壊」が携挙で成就されて、神殿に立った反キリストが大地震によって「打たれた」ことが書かれています。しかし反キリストは奇跡的に助かって再び人類を治めます。
この辺のことはまた後で詳しく解説していきます。

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ヨハネの福音書24章
24:14 御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます。

キリストの福音が全世界に宣べ伝えられてすべての民族に証しされてから「終わり」が来ます。「終わり」とは「携挙」です。携挙によって教会の時代、恵みの時代が「終わり」ます。そしてサタンを裁くための大艱難時代に入ります。
「終わりの日」について使徒たちがヨエルの預言を引用して語っています。

使徒の働き2章
2:16 これは、預言者ヨエルによって語られたことです。
2:17 『神は言われる。終わりの日に、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。
2:18 その日わたしは、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると彼らは預言する。
2:19 また、わたしは上は天に不思議を、下は地にしるしを現れさせる。それは血と火と立ち上る煙。
2:20 主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽は闇に、月は血に変わる。
2:21 しかし、主の御名を呼び求める者はみな救われる。』

2章17節の「終わりの日」とは、携挙がまじかに迫った「教会の時代、恵みの時代が終わる直前のある一定の期間」です。教会の時代が終わろうとしている最後のある期間に神の霊が老若男女問わず偉い凡人問わずクリスチャンに注がれて人類最後の世界的な大リバイバルが起こります。そして世界的な大リバイバルは「平和な時代」に来るのではありません。2章19節の「血と火と立ち上る煙」の時代に来ます。すなわち「戦争の時代」に来ます。一昨年の2月にロシアから始まった戦争の火はイスラエルへとつづき、次はアジア、アフリカ、南米へと戦火が広がっていきます。世界の戦争の中で神の霊が教会に注がれて人類最後の大リバイバルが始ります。

2:20 主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽は闇に、月は血に変わる。
2:21 しかし、主の御名を呼び求める者はみな救われる。』

イエスが弟子たちに預言したように「主の大いなる輝かしい日(キリストの携挙)」が来る前に、太陽は闇に、月は血に変わります。しかし「主の御名を呼び求める者はみな救われて」携挙されます。

マタイの福音書24章
24:31 人の子は大きなラッパの響きとともに御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで四方から、人の子が選んだ者たちを集めます。

「人の子」はイエス・キリストです。ですから「人の子が選んだ者たち」とは、新約時代にイエス・キリストを信じたすべての「クリスチャン」です。キリストを十字架刑で殺したユダヤは「人の子が選んだ者たち」ではありません。

キリスト教会や YouTube でこの箇所の「人の子が選んだ者たち」とは神が選んだユダヤだと教えている牧師がいますが、なにを言っているのでしょうか?キリストを散々貶して罵倒して嘲笑って唾をかけて十字架で殺したユダヤがなんで「キリストが選んだ者たち」になるのでしょうか?
こんなこと教会学校の小学生でも分かることです。

 

ユダヤは旧約時代に神に選ばれたアブラハムの子孫としてアブラハムの神と信仰を受け継いで「選びの民」となった民族です。そして自分たちの救い主を十字架で処刑した時点でユダヤは「選びの民」から外れて、替わってキリストを信じるクリスチャンが世のはじめより神に選ばれた「選びの民」となりました。ですからキリストの十字架以降のユダヤは「選びの民」から外れた「異邦の民」です。実際に活ける神の言葉・聖書はヨハネの黙示録で終わって教会の時代に入り、神はクリスチャンの心の中に神殿を作り御霊の住まいとされました。ですからユダヤはキリストの十字架以降は「選びの民」ではなく「異邦の民」です。最近、ユダヤに熱狂するシオニストの牧師先生方が YouTube で盛んに「イスラエルのために祈りましょう!イスラエルを応援しましょう!」と言って今のイスラエルを擁護していますが、今現在、中東で女、子どもも情け容赦ない問答無用の無慈悲な戦争をしているイスラエルはもはや神の恵みから外れた普通の「異邦の民」です。現実にこの二千年前間、神はイスラエルに一切何も語っていません。聖書は二千年前の黙示録で終わっています。もちろんイスラエルは携挙のときは地上に残されます。だからキリストは「荒らす忌まわしいものが聖なる所に立っているのを見たらユダヤにいる人たちは山へ逃げなさい。」と終末のイスラエルに警告しています。

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パウロが教会宛ての手紙の中で世のはじめより神から選ばれた「クリスチャン」に向かって言っています。

ローマ人への手紙8章
8:28 神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。
8:29 神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。
8:30 神は、あらかじめ定めた人たちをさらに召し、召した人たちをさらに義と認め、義と認めた人たちにはさらに栄光をお与えになりました。

・クリスチャンは「神のご計画にしたがって召された人たち」です。
・神は、あらかじめ知っている人たち(クリスチャン)を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たち(教会、エクレシア)の中で御子が長子となるためです。
・神は、あらかじめ定めた人たち(クリスチャン)をさらに召し、召した人たち(クリスチャン)をさらに義と認め、義と認めた人たち(クリスチャン)にはさらに栄光をお与えになりました。

エペソ人への手紙1章
1:3 私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。
1:4 すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。
1:5 神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。
1:6 それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。
1:4 すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。

・クリスチャンは神から「キリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福を受けている人たち」です。
・クリスチャンは「世界の基が据えられる前から、この方(キリスト)にあって選ばれて、御前に(神の前に)聖なる、傷のない者にされた人たち」です。
・クリスチャンは「神のみこころの良しとするところにしたがって、イエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられた人たち」です。

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マタイの福音書24章
24:30 そのとき、人の子のしるしが天に現れます。そのとき、地のすべての部族は胸をたたいて悲しみ、人の子が天の雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見るのです。

イエスが預言した「人の子がクリスチャンを携挙しに来る光景」をヨハネは実際に黙示録の世界で見たので黙示録の冒頭で同じことを書きました。イエスの預言とヨハネが黙示録で見た光景を読み比べて下さい。

マタイの福音書24章
24:30 そのとき、人の子のしるしが天に現れます。そのとき、地のすべての部族は胸をたたいて悲しみ、人の子が天の雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見るのです。

ヨハネの黙示録1章
1:7 見よ、その方は雲とともに来られる。すべての目が彼を見る。彼を突き刺した者たちさえも。地のすべての部族は彼のゆえに胸をたたいて悲しむ。しかり、アーメン。

イエスが預言した携挙の光景を、ヨハネは実際に黙示録の世界で見ました。だからヨハネは御使いの命令に従って七つの教会に向けて携挙が本当に来ることを手紙に書いて警告しました。

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マタイの福音書24章
24:31 人の子は大きなラッパの響きとともに御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで四方から、人の子が選んだ者たちを集めます。

人の子が携挙に来るときは大きなラッパの響きとともに御使いたちを遣わされて御使いたちは天の果てから果てまで四方から「人の子が選んだクリスチャン」を集めて空中に引き上げながら天に入ります。

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次回の「キリストの携挙ー8」に続きます。
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引用・聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
#携挙 #クリスチャン #キリスト教会 #聖書 #イエスキリスト #再臨 #宗教 #ヨハネの黙示録

キリストの携挙ー6・終わりの日

 

前回の「キリストの携挙ー5・モーセが見た中天の世界」からの続きです。
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聖書には、人類の終末の教えの中で「終わりの日」「終わりのとき」という言葉、ワードが頻繁に出て来ます。そして「終わりの日」「終わりのとき」について、キリスト教会では、また YouTube の牧師先生方は、

携挙が終わった後に来る「艱難時代以降の期間」あるいは「再臨が終わった後の最後の期間」

と教えていますが、それは誤りです。間違いです。

確かに「終わりの日」という言葉から受けるイメージが感覚として「終わりの日」だから「人類が終わる日」と解釈しやすいですが、それは誤りです。間違いです。

聖書に書いてある、キリストが語っている、使徒たちが語っている、「終わりの日」とは、

キリスト信仰による「恵みの時代が終わる日」という意味です。

十字架信仰による「教会の時代が終わる日」という意味です。

携挙が終わった後に来る「艱難期が始まる日」ではありません。

今現在、クリスチャン、キリスト教会が置かれている「恵みの時代」が「終わる日」という意味です。

これから来るのではありません。今ある「恵みの時代」が「終わる日」です。

そしてクリスチャンと教会の恵みの時代が終わる日が「携挙の日」です。

クリスチャンが地上から携挙された時点で恵みの時代が終わります。新約のキリストの時代が終わります。携挙で地上にクリスチャンがいなくなったので、そこからサタンを裁くための七つのラッパが吹かれて「大患難時代」に入ります。ですから「終わりの日」は「キリストの携挙の日」です。

終わりの日→キリストの携挙の日→携挙が終わって教会の恵みの時代の終わりの日→七つのラッパによってサタンが裁かれる大患難時代に入る→再臨

という流れです。このことは後でさらに詳しく解説していきます。
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キリストと使徒たちが預言する「終わりの日」は携挙前に起こること、携挙そものに起こること、携挙の後に起こることの、三通りに分けて預言されています。携挙前・携挙・携挙後の三通りの預言をまとめて「終わりの日」と定義されています。

「終わりの日」はこれから来るのではありません。今ある「恵みの時代」が「終わる時」が「終わりの日」です。そしてクリスチャンと教会の恵みの時代が終わる日が「携挙の日」です。

この「終わりの日」をどう解釈するかで携挙神学がまったく180度変わって来ます。

以下に「終わりの日」が書かれている聖書箇所を挙げて解説していきます。

 

携挙前後の時系列

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終わりの日

ヨハネの福音書6章
6:39 わたしを遣わされた方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしが一人も失うことなく、終わりの日によみがえらせることです。
6:40 わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。」

・終わりの日(携挙の日)にはキリストの復活のいのちによって過去の死んだ全人類の信仰者がすべて甦ります。

6:44 わたしを遣わされた父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとに来ることはできません。わたしはその人を終わりの日によみがえらせます。

・終わりの日(携挙の日)には父なる神を礼拝する信仰者は子なるキリストによって甦ります。

6:54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。

・キリストのパンと葡萄酒の聖餐に与って死んだ信仰者は終わりの日(携挙の日)にキリストの永遠のいのちによって甦ります。
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ヨハネの福音書11章
11:23 イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。」
11:24 マルタはイエスに言った。「終わりの日のよみがえりの時に、私の兄弟がよみがえることは知っています。」
11:25 イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。

・キリストの甦りのいのちを信じる者は死んでもキリストのいのちによって終わりの日(携挙の日)に甦ります。
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ヨハネの福音書12章
12:48 わたしを拒み、わたしのことばを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことば、それが、終わりの日にその人をさばきます。

・キリストを拒み、キリストのことばを受け入れない者は、終わりの日(携挙の日)に携挙されないで地上に取り残されます。「さばく(裁く)」とは「区別すること」です。携挙される者と地上に残される者を裁定して「区別すること」です。
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使徒の働き2章
2:16 これは、預言者ヨエルによって語られたことです。
2:17 『神は言われる。終わりの日に、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。
2:18 その日わたしは、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると彼らは預言する。
2:19 また、わたしは上は天に不思議を、下は地にしるしを現れさせる。それは血と火と立ち上る煙。
2:20 主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽は闇に、月は血に変わる

・終わりの日(携挙の日)が近づいて来たら老若男女問わず社会的立場に関係なく牧師信徒関係なくすべての信仰者にキリストの霊が注がれて人類最後の大リバイバルが世界の起こります。そしてキリストが福音書で預言した「太陽は闇に、月は血に変わる」ときが来ます。

「主の大いなる輝かしい日」は婿なるキリストが花嫁なるクリスチャンを迎えに来る「主の大いなる輝かしい日」です。キリストは映画・レフト・ビハインドのように誰にも見つからないようにコソコソと盗戸のように隠れながらある日突然花嫁を迎えに来るのではありません。

なんで、最初で最後の永遠に一度の創造主なる神の子の結婚式を、罪人相手にコソコソ隠れてしなければいけないのでしょうか???

キリストの結婚式である携挙は堂々と全世界の人々の目に焼きつけて有無も言わせず圧倒するように御使いを引き連れて雲とともに携挙に来ます。だから「主の大いなる輝かしい日」なのです。携挙は永遠に最初で最後のキリストの結婚を祝う門出の日だから特別な「主の大いなる輝かしい日」なのです。その「主の大いなる栄光の輝き」を、世界中の人々は目の前で目撃します。
ヨハネは黙示録の世界で実際に「主の大いなる輝かしい日」の光景を見た!!!のです。だから黙示録1章の冒頭で

1:7 見よ、その方は雲とともに来られる。すべての目が彼を見る。彼を突き刺した者たちさえも。地のすべての部族は彼のゆえに胸をたたいて悲しむ。しかり、アーメン。

と七つの教会に書き送りました。はじめに「見よ!」と書いたのは黙示録の世界でキリストの携挙の場面を本当に現実にリアルに見たから「見よ!」と叫んでいます。ですから黙示録のどこかに「携挙の場面」が必ず出て来ます。実際「携挙の場面」が出て来ます。
「・・・すべての目が彼を見る。」とは「全世界の人々がキリストの携挙を目の当たり」にします。「・・・彼を突き刺した者たちさえも。」とは「二千年前に十字架刑でキリストに槍を突き刺したユダヤの血筋を受け継ぐ「現代の不信仰のイスラエルの人々も」キリストの携挙を目の当たりにします。「地のすべての部族は彼のゆえに胸をたたいて悲しむ。」とは携挙によって地上に残された「不信仰のイスラエルと世界の国々の異邦の民」は絶望して胸をたたいて悲しみます。
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Ⅱテモテへの手紙3章
3:1 終わりの日には困難な時代が来ることを、承知していなさい。

・終わりの日(携挙の日)は「困難な時代」に来ます。だから予め「承知していなさい」とパウロは教会に警告しています。「困難な時代→携挙→大艱難時代」という順番で来ます。携挙は今の日本のお花畑の平和な時代には来ません。戦争と経済の崩壊による世界が困難な時代に来ます。ダニエル70週預言の終末の7年の艱難期の前半の三年半の最後に来ます。そこで携挙が来て地上にすべてのクリスチャンがいなくなったので(自称・クリスチャンは残されますが)サタンを裁くための後半三年半の大患難時代に入ります。
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ヘブル人への手紙1章
1:1 神は昔、預言者たちによって、多くの部分に分け、多くの方法で先祖たちに語られましたが、
1:2 この終わりの時には、御子にあって私たちに語られました。神は御子を万物の相続者と定め、御子によって世界を造られました。

・旧約時代の預言者によって語られた多くの「終末の預言」がキリストの言葉によって次々と成就されていきながら、携挙が来る「恵みの時代が終わる時」まで使徒たち(クリスチャン)によって証しされていきます。
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Ⅱペテロの手紙3章
3:3 まず第一に、心得ておきなさい。終わりの時に、嘲る者たちが現れて嘲り、自分たちの欲望に従いながら、
3:4 こう言います。「彼の来臨の約束はどこにあるのか。父たちが眠りについた後も、すべてが創造のはじめからのままではないか。」

・終わりの時に(携挙が近づいた時に)、嘲る者たちが現れて嘲り(携挙を待っているクリスチャンたちって頭大丈夫な人たちなの?と嘲けられ)、(これから大変なことが起こることも知らずに)自分たちの欲望に従いながら、「彼の来臨の約束(携挙の約束)はどこにあるのか。父たちが眠りについた後も、すべてが創造のはじめからのままではないか。」と言ってクリスチャンをバカにします。
ここでペテロが言っている来臨の約束は「再臨」ではありません。「携挙の約束」です。使徒の働き1章11節で二人の人によって弟子たちに預言された「ガリラヤの人たち、どうして天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります。」という「携挙の約束」のことをここで「来臨の約束」とペテロは言っています。
黙示録19章の再臨の前にはすでに携挙が終わって七つのラッパが吹かれて世界が「創造のはじめからガラッと変わった世界」になっていますから、再臨を前提にして「・・・父たちが眠りについた後も、すべてが創造のはじめからのままではないか。」なんて言うはずがありません。「すべてが創造のはじめからのままではないか。」というのは地上の世界にまだ携挙のしるし、前兆が現れないから、ユダヤとローマをはじめ不信仰者たちが携挙を待っているクリスチャン向かって自分たちの欲望に従いながら「彼の来臨の約束(携挙の約束)はどこにあるのか。父たちが眠りについた後も、すべてが創造のはじめからのままではないか。」と言って嘲っています。ですからここでペテロが言っている「来臨の約束」とは「携挙の約束」です。黙示録19章の「再臨の約束」ではありません。
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Ⅰヨハネの手紙2章
2:18 幼子たち、今は終わりの時です。反キリストが来るとあなたがたが聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。それによって、今が終わりの時であると分かります。

・ヨハネがここで呼んでいる「反キリスト」とは二千年前の当時の使徒たちと信仰者を迫害するユダヤとローマを指しています。キリストの教えに反発してキリスト信仰者を迫害するユダヤとローマを「アンチ・キリスト」と呼んでいます。黙示録に出て来る反キリストは頭に666の数字を被った「666の反キリスト」です。

ヨハネの黙示録13章
13:18 ここに、知恵が必要である。思慮ある者はその獣の数字を数えなさい。それは人間を表す数字であるから。その数字は六百六十六である。

ヨハネはここで今にも直ぐ携挙が来るような切迫したニュアンスで「・・・今は終わりの時です。」「・・・それによって、今が終わりの時であると分かります。」と言っていますが、実際に彼らの時代に携挙は来ませんでした。これは、先ほどの使徒の働き1章11節の二人の人による「キリストの来臨の預言」を信じていたので、「その時点」では使徒たちは自分たちが生きている間にキリストが携挙に来ると信じていました。しかし後にヨハネはパトモス島の牢獄から天に引き上げられて黙示録の世界を見せられてはじめてキリストの携挙は二千年後の人類の終末に来ることが分かり、携挙について地上の七つの教会に手紙を送り、また、他の使徒と信徒にも携挙の時期について書き送りました。そのような経緯の中で、ヨハネは

2:18 幼子たち、今は終わりの時です。反キリストが来るとあなたがたが聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。それによって、今が終わりの時であると分かります。

と教えています。これはⅠヨハネの手紙だけではなく他の使徒たちの手紙の中にも「もう間もなくキリストの携挙が来る!」との認識で書かれているケースがよく出て来ます。

ヨハネの黙示録13章
13:18 ここに、知恵が必要である。思慮ある者はその獣の数字を数えなさい。それは人間を表す数字であるから。その数字は六百六十六である。

ヨハネがⅠヨハネの手紙2章で言っている「反キリスト」とは二千年前の当時の使徒とクリスチャンを迫害するユダヤとローマを指して「反キリスト」と言っています。黙示録に出て来る反キリストは頭に666が付いた他の反キリストとは格が上の「666の反キリスト」です。
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ユダの手紙1章
1:18 彼らはあなたがたにこう言いました。「終わりの時には、嘲る者たちが現れて、自分の不敬虔な欲望のままにふるまう。」

・「終わりに日(携挙の日)」が近づいたらクリスチャンは不敬虔な不信仰者たちから嘲られます。バカにされます。ヤバイ人扱いにされます。

「終わりの日」はこれから来るのではありません。今ある「恵みの時代」が「終わる日」です。恵みの時代、教会の時代を終わらせるために婿なるキリストが花嫁なるクリスチャンを迎えるに来る「携挙の日」です。
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次回の「キリストの携挙ー7」に続きます。
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引用・聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
#携挙 #クリスチャン #キリスト教会 #聖書 #イエスキリスト #再臨 #宗教 #ヨハネの黙示録

キリストの携挙ー5・モーセが見た中天の世界

 

前回の「キリストの携挙―4・千年王国の樹立」からの続きです。
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「キリストの携挙ー2・天が開かれているのを見た」の投稿で解説した「中天」の光景を、モーセはホレブの山で神の十のことばによる契約(十戒の契約)のときに見ました。

申命記4章
4:10 あなたがホレブで、あなたの神、【主】の前に立った日に【主】は私に言われた。「民をわたしのもとに集めよ。わたしは彼らにわたしのことばを聞かせる。それによって、彼らが地上に生きている日の間わたしを恐れることを学び、また彼らがその子どもたちに教えることができるように。」
4:11 そこであなたがたは近づいて来て、山のふもとに立った。山は燃え上がって火が中天に達し、闇と雲と暗黒があった。
4:12 【主】は火の中からあなたがたに語られた。あなたがたは語りかける声を聞いたが、御姿は見なかった。御声だけであった。
4:13 主はご自分の契約をあなたがたに告げて、それを行うように命じられた。十のことばである。主はそれを二枚の石の板に書き記された。

5:22 これらのことばを、【主】はあの山で火と雲と暗黒の中から、あなたがたの集会全体に大声で告げられた。ほかのことは言われなかった。そして主はそれを二枚の石の板に書いて、私に授けてくださった。
5:23 あなたがたが闇の中からその御声を聞き、またその山が火で燃えていたときに、あなたがた、すなわち、あなたがたの部族のすべてのかしらたちと長老たちが私のもとに近づき、
5:24 そして言った。「私たちの神、【主】は今、ご自分の栄光と偉大さを私たちに示されました。私たちは火の中から御声を聞きました。今日、私たちは、神が人に語られても人が生きているのを見ました。

4:11 そこであなたがたは近づいて来て、山のふもとに立った。山は燃え上がって火が中天に達し、闇と雲と暗黒があった。

申命記4章11節でモーセがホレブの山で見た「中天」が、ヨハネの黙示録8章13節と19章17節で出て来る「中天」です。創世記1章2節の大水(地の世界)を覆っている「闇」です。サタンと諸々の悪霊の巣窟となっている「闇の世界」です。

申命記4章
4:11 そこであなたがたは近づいて来て、山のふもとに立った。山は燃え上がって火が中天に達し、闇と雲と暗黒があった。

ヨハネの黙示録8章
8:13 また私は見た。そして、一羽の鷲が中天を飛びながら、大声でこう言うのを聞いた。「わざわいだ、わざわいだ、わざわいが来る。地上に住む者たちに。三人の御使いが吹こうとしている残りのラッパの音によって。」

ヨハネの黙示録19章
19:17 また私は、一人の御使いが太陽の中に立っているのを見た。彼は大声で叫び、中天を飛んでいるすべての鳥たちに言った。「さあ、神の大宴会に集まれ。

創世記1章
1:2 地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。

ホレブの山でモーセが見た中天も、ヨハネが黙示録で見た中天も、同じ「中天」です。創世記1章2節の闇の世界の「中天」です。
ですから申命記4章11節は

申命記4章
4:11 そこであなたがたは近づいて来て、山のふもとに立った。山は燃え上がって火が中天に達し、闇と雲と暗黒があった。

山は燃え上がって火が中天(闇のサタンの世界)に達し、闇(宇宙の暗闇)と雲(神の臨在)と暗黒(中天)があった。

と解釈することが出来ます。そして、人類の終末にモーセが見た闇の世界の「中天」に災いが下されることが、黙示録8章7節に書かれています。

ヨハネの黙示録8章
8:7 第一の御使いがラッパを吹いた。すると、血の混じった雹と火が現れて、地に投げ込まれた。そして地の三分の一が焼かれ、木々の三分の一も焼かれ、すべての青草も焼かれてしまった。
8:8 第二の御使いがラッパを吹いた。すると、火の燃えている大きな山のようなものが、海に投げ込まれた。そして海の三分の一が血になった。
8:9 また、海の中にいる被造物で、いのちのあるものの三分の一が死に、船の三分の一が壊された。
8:10 第三の御使いがラッパを吹いた。すると、天から、たいまつのように燃えている大きな星が落ちて来て、川の三分の一とその水源の上に落ちた。
8:11 この星の名は「苦よもぎ」と呼ばれ、水の三分の一は苦よもぎのようになった。水が苦くなったので、その水のために多くの人が死んだ。
8:12 第四の御使いがラッパを吹いた。すると太陽の三分の一と、月の三分の一、また星の三分の一が打たれたので、それらの三分の一は暗くなり、昼の三分の一は光を失い、夜も同じようになった。
8:13 また私は見た。そして、一羽の鷲が中天を飛びながら、大声でこう言うのを聞いた。「わざわいだ、わざわいだ、わざわいが来る。地上に住む者たちに。三人の御使いが吹こうとしている残りのラッパの音によって。」

黙示録8章13節で「わざわいだ、わざわいだ、わざわいが来る。地上に住む者たちに。三人の御使いが吹こうとしている残りのラッパの音によって。」と叫びながら中天を飛び回っている一羽の鷲はモーセがホレブの山で見た「中天」で「わざわいだ、わざわいだ、わざわいが来る。」と叫びながら飛び回っています。つまり、サタンの巣窟、サタンの王国に神の怒りの災いが来ることを一羽の鷲は警告しています。そしてクリスチャンのみなさん、申命記4章11節と黙示録8章8節をよく読み比べてください。何回も何十回も読み比べて確認してください。

 

申命記4章
4:11 そこであなたがたは近づいて来て、山のふもとに立った。山は燃え上がって火が中天に達し、闇と雲と暗黒があった。

黙示録8章
8:8 第二の御使いがラッパを吹いた。すると、火の燃えている大きな山のようなものが、海に投げ込まれた。そして海の三分の一が血になった。

申命記4章
4:11 ・・・山は燃え上がって火が中天に達し、・・・

黙示録8章
8:8・・・すると、火の燃えている大きな山のようなものが、

黙示録8章8節は、申命記4章11節の「火が燃えあがっている山」が海に投げ込まれた光景が描かれています。その結果、海の三分の一が血になりました。

そして、モーセが見た「火が燃えあがっている山」は荒野でサタンに連れられて上ったこの世の権威と栄華に輝いている「非常に高い山」のことを指しています。「キリストの携挙ー2・天が開かれているのを見た」をお読みいただければ理解出来ると思います。

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ですから黙示録に出て来る大バビロンを巡る戦いはキリストの軍勢とサタンの軍勢が「中天の世界、領域」で戦っている光景が描かれています。神と御使いの国の「天」ではありません。また、地上の人類の世界でもありません。天と地の狭間に存在する「闇の世界、サタンの巣窟となっている中天」で行われています。

そして携挙が終わって黙示録8章から始まる七つの御使いのラッパの合図とともにいよいよ中天でキリストの軍勢とサタンの軍勢による戦いが始ります。

聖書ははっきりと神と御使いの「天の世界」と人類の「地の世界」とサタン、悪霊の巣窟となっている「中天の世界」の三つの世界、領域が在ることを教えています。パウロもはっきりとⅡコリント人への手紙12章2節で「第三の天」と言って「二つの天」が存在することを示しています。

 

 

キリスト教会は今まで誰一人このことに触れていません。というか、霊的に誰も気がつきません。だから黙示録が荒唐無稽、支離滅裂な解釈になっています。

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次回の「キリストの携挙―6」に続きます。

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引用・聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

#携挙 #クリスチャン #キリスト教会 #聖書 #イエスキリスト #再臨 #宗教 #ヨハネの黙示録

キリストの携挙―4・千年王国の樹立


前回の「キリストの携挙―3・御座の周りには二十四の座があった」からの続きです。
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聖書に「千年王国」という固有名詞は出て来ません。しかし「千年の間、キリストと人類の信仰者が王国を治める」という預言は多く出て来ます。今回はこの「千年王国」について解説します。
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はじめる前にいつも同じことを言いますが、今後も言い続けてますが、

旧約聖書と新約聖書は表裏一体の関係にあります。万物の始りが書かれている創世記1章をぐるりとひっくり返すと万物の終わりが書かれているヨハネの黙示録が出て来ます。万物の終わりが書かれているヨハネの黙示録をぐるりとひっくり返すと万物の始りが書かれている創世記1章が出て来ます。ですから創世記1章の謎を解き明かすヒントは黙示録に書いてあります。逆に黙示録の謎を解き明かすヒントは創世記1章に書いてあります。これらのことを前提に、これから「千年王国の樹立」について解説していきます。
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はじめに結論を申し上げます。

千年王国の「王国」とは、今までサタンによって支配されていた「サタンの王国」のことです。サタンの巣窟となっていた中天に在るサタンの王国がヨハネの黙示録に出て来る「大バビロンの戦い」でキリストの軍勢に負けてキリストが支配する王国となったのが「千年王国」です。

前回解説した「サタンの王国(中天)」を巡ってサタンが裁かれる大患難時代で霊的な(中天で)「大バビロンの戦争」が始り、キリストの軍勢がサタンの軍勢に勝利を収めてサタンの王国がキリストの王国となったので、黙示録11章15節で天に「この世の王国は、私たちの主と、そのキリストのものとなった。主は世々限りなく支配される。」という大きな声が響き渡りました。黙示録11章15節に書かれている「この世の王国」が、サタンの巣窟となっている「サタンの王国」です。創世記1章2節の「闇」の世界、領域です。天と地の間にある「中天」の世界、領域です。キリストがマタイの福音書4章の荒野でサタンに連れられて高い山から見せられた「サタンの王国(大バビロン)」です。

ヨハネの黙示録11章
11:15 第七の御使いがラッパを吹いた。すると大きな声が天に起こって、こう言った。「この世の王国は、私たちの主と、そのキリストのものとなった。主は世々限りなく支配される。」

ヨハネの福音書4章
4:8 悪魔はまた、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての王国とその栄華を見せて、
4:9 こう言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これをすべてあなたにあげよう。」

ヨハネの福音書4章8節でサタンがキリストに見せた「この世のすべての王国とその栄華」が「サタンの王国」です。黙示録11章15節に書かれている「この世の王国」です。サタンが支配する「地上の人類の世界」です。ですから今現在私たちが存在している世界はサタンが王となって君臨している「サタンの王国」です。このサタンの王国が黙示録19章の再臨でキリストの王国となり、それから千年の間キリストが主の主、王の王となって、人類の信仰者がキリストに仕える王となって、それぞれの国を治めます。だからキリスト教会では「千年王国」と呼称されています。千年王国は黙示録に出て来る携挙、再臨に続く三大イベントの一つです。
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ここから創世記3章から始まって黙示録19章の千年王国に至るまでの「サタンの王国」について解説します。
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創世記3章
3:14 神である【主】は蛇に言われた。「おまえは、このようなことをしたので、どんな家畜よりも、どんな野の生き物よりものろわれる。おまえは腹這いで動き回り、一生、ちりを食べることになる。
3:15 わたしは敵意を、おまえと女の間に、おまえの子孫と女の子孫の間に置く。彼はおまえの頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ。」

神は、女であるエバを唆してアダムとエバを罪の世界に陥れた蛇(サタン)に向かって預言しました。

3:15 わたしは敵意を、おまえと女の間に、おまえの子孫と女の子孫の間に置く。彼はおまえの頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ。」

そしてパウロがⅠコリント人への手紙15章で神が蛇に向かって預言した言葉に言及して、来る「千年王国」について預言しています。

Ⅰコリント人への手紙15章
15:13 もし死者の復活がないとしたら、キリストもよみがえらなかったでしょう。
15:14 そして、キリストがよみがえらなかったとしたら、私たちの宣教は空しく、あなたがたの信仰も空しいものとなります。

15:20 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。
15:21 死が一人の人を通して来たのですから、死者の復活も一人の人を通して来るのです。
15:22 アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストにあってすべての人が生かされるのです。
15:23 しかし、それぞれに順序があります。まず初穂であるキリスト、次にその来臨のときにキリストに属している人たちです。1
5:24 それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、王国を父である神に渡されます。
15:25 すべての敵をその足の下に置くまで、キリストは王として治めることになっているからです。

お読みいただければ分かりますが、Ⅰコリント人への手紙15章でパウロは「死者の復活」についてコリントの教会に教えを説いている中で、蛇(サタン)の裁きと千年王国について預言しています。

15:23 しかし、それぞれに順序があります。まず初穂であるキリスト、次にその来臨のときにキリストに属している人たちです。
15:24 それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、王国を父である神に渡されます。
15:25 すべての敵をその足の下に置くまで、キリストは王として治めることになっているからです。

パウロはⅠコリント15章23節~25節で死者となったクリスチャンの「復活の順序」を教えています。

15:23 しかし、それぞれに順序があります。
↓↓↓↓
まず初穂であるキリスト、
(二千年前に十字架の死から三日後に復活したキリスト)
↓↓↓↓
次にその来臨のときにキリストに属している人たちです。
(来臨・携挙のときにキリストに属しているクリスチャンと旧約時代の信仰者がキリストの甦りのいのちに与り肉体をもって復活して携挙される)
↓↓↓↓
15:24 それから終わりが来ます。
(大患難時代に入りサタンの王国への裁きが来る)
↓↓↓↓
そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、王国を父である神に渡されます。
(ダニエルの70週預言の最後の後半三年半の大患難時代に入った黙示録12章~18章でサタンと諸々の悪霊たちの巣窟となっていた「サタンの王国(大バビロン)」がキリストの軍勢によって滅ばされてサタンと諸々の悪霊の巣窟となっていた領域、空間、中天の世界が神に還されます)
↓↓↓↓
15:25 すべての敵をその足の下に置くまで、キリストは王として治めることになっているからです。
(Ⅰコリント15章25節の「すべての敵を足の下に置くまで」とは、創世記3章のエデンの園で神が蛇に「わたしは敵意を、おまえと女の間に、おまえの子孫と女の子孫の間に置く。彼はおまえの頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ。」という預言のことです。「すべての敵」とは黙示録に出て来るサタンと諸々の悪霊たちのことです。神はエデンの園でキリストによって終末の黙示録の世界で蛇(サタン)の頭が打たれることを預言しました。

創世記3章
3:15・・・彼はおまえの頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ。

そして黙示録12章で「七つの頭と十本の角を持ち、その頭に七つの王冠をかぶっていた炎のように赤い大きな竜」が登場します。

ヨハネの黙示録12章
12:3 また、別のしるしが天に現れた。見よ、炎のように赤い大きな竜。それは、七つの頭と十本の角を持ち、その頭に七つの王冠をかぶっていた。

黙示録12章で出て来た七つの頭を持った「炎のように赤い大きな竜」がエデンの園でエバを唆した蛇の正体です。神はエデンの園で蛇(サタン)に向かって終末の黙示録の世界でキリストによって炎のように赤い大きな竜の「七つの頭」が打たれて権威と権力の象徴である「七つの王冠」が獲られることを予め預言しました。

エデンの園でエバを唆したのは黙示録12章で出て来る「炎のように赤い大きな竜」なるサタンの長です。このサタンの長は「七つの頭」を持っていました。その「七つの頭」がエデンの園での神の預言通りにキリストによって打たれました。

創世記3章
3:15 わたしは敵意を、おまえと女の間に、おまえの子孫と女の子孫の間に置く。彼はおまえの頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ。」

彼(キリスト)はおまえの頭(炎のように赤い大きな竜の七つの頭)を打ち、おまえは彼のかかとを打つ。」

炎のように赤い大きな竜の七つの頭は「致命傷」です。
↓↓↓↓
致命傷を負ったサタンの長は黙示録20章で「底知れぬ所」に投げ込まれて牢獄から脱走されないように御使いによって厳重に鍵が掛けられて封印されたまま千年の時を経て再び地上に解き放たれて最後の裁きを神から受けます。

ヨハネの黙示録20章
20:1 また私は、御使いが底知れぬ所の鍵と大きな鎖を手にして、天から下って来るのを見た。
20:2 彼は、竜、すなわち、悪魔でありサタンである古い蛇を捕らえて、これを千年の間縛り、
20:3 千年が終わるまで、これ以上諸国の民を惑わすことのないように、底知れぬ所に投げ込んで鍵をかけ、その上に封印をした。その後、竜はしばらくの間、解き放たれることになる。

20:2 彼は、竜、すなわち、悪魔でありサタンである古い蛇を捕らえて、これを千年の間縛り、
20:3 千年が終わるまで、これ以上諸国の民を惑わすことのないように、底知れぬ所に投げ込んで鍵をかけ、その上に封印をした。その後、竜はしばらくの間、解き放たれることになる。

黙示録20章2節の悪魔でありサタンである「古い蛇」は創世記3章で神から「彼はおまえの頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ。」と預言された悪の枢軸の張本人なるサタンの長の「蛇」です。この「古い蛇」がエデンの園で女エバを唆して人類を罪の世界に陥れました。

20:2 彼は、竜、すなわち、悪魔でありサタンである古い蛇を捕らえて、これを千年の間縛り、

サタンが「底知れぬ所」で閉じ込められている千年の間に、キリストが主の主、王の王となって、人類の信仰者がそれぞれの国の王となって、「千年王国」が樹立されて地上が千年の間支配されます。だからパウロはⅠコリント人への手紙15章25節で

15:25 すべての敵をその足の下に置くまで、キリストは王として治めることになっているからです。

と教えました。

「すべての敵をその足の下に置くまで」とは「すべてのサタンが底知れぬ所に閉じ込められている千年間」という意味です。

「キリストは王として治めることになっているからです。」とは「すべてのサタンが底知れぬ所に閉じ込められている千年の間キリストが地上の主の主、王の王として治めることになっている」という意味です。

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そして千年の時を経て底知れぬ所から解放されて再び地上に出て来たサタンに直接神の怒りの火が下ってサタンの終わりを迎えます。

ヨハネの黙示録20章
20:7 しかし、千年が終わると、サタンはその牢から解き放たれ、
20:8 地の四方にいる諸国の民を、すなわちゴグとマゴグを惑わすために出て行き、戦いのために彼らを召集する。彼らの数は海の砂のようである。
20:9 彼らは地の広いところに上って行き、聖徒たちの陣営と、愛された都を包囲した。すると天から火が下って来て、彼らを焼き尽くした。
20:10 彼らを惑わした悪魔は火と硫黄の池に投げ込まれた。そこには獣も偽預言者もいる。彼らは昼も夜も、世々限りなく苦しみを受ける。

サタンはすべての人類の前で神に裁かれて永遠の火と硫黄の池に投げ込まれて永遠に続く終わりのない「炎の池」の中でもがきながら苦しむ「永遠の刑罰」に入ります。神は全人類の目の前でサタンの終わりを見せることによって全人類を惑わして苦しめた張本人が完全にこの世から消え去って永遠の炎の中で苦しむことを「確認させている」のです。サタンに対する神の裁きは全人類のサタンに対する「復讐」です。人類を罪の世界に陥れて涙と苦しみと死で人類を苦しめた「復讐」です。「あなたがたのサタンに対する復讐はあなたがたに代わって神なるわたしが果たしましたよ」というメッセージです。

20:10 彼らを惑わした悪魔は火と硫黄の池に投げ込まれた。そこには獣も偽預言者もいる。彼らは昼も夜も、世々限りなく苦しみを受ける。

黙示録6章10節にキリストの信仰のゆえに迫害されて殺された人々の「怒りと怨念の叫び声」が書いてあります。

ヨハネの黙示録6章
6:9 子羊が第五の封印を解いたとき、私は、神のことばと、自分たちが立てた証しのゆえに殺された者たちのたましいが、祭壇の下にいるのを見た。
6:10 彼らは大声で叫んだ。「聖なるまことの主よ。いつまでさばきを行わず、地に住む者たちに私たちの血の復讐をなさらないのですか。」
6:11 すると、彼ら一人ひとりに白い衣が与えられた。そして、彼らのしもべ仲間で、彼らと同じように殺されようとしている兄弟たちの数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいるように言い渡された。

6:10 彼らは大声で叫んだ。「聖なるまことの主よ。いつまでさばきを行わず、地に住む者たちに私たちの血の復讐をなさらないのですか。」

神は「復讐の神」です。御子・イエス・キリストを与えたほどに愛しているご自分の民の怒り、怨念を受け取ってご自分の怒り、怨念として必ず血をもって復讐します。首謀者なるサタンには信仰者に代わって「永遠の刑罰」で復讐します。
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パウロがⅠコリント人への手紙15章で語った「終末の死者の復活の預言」はすでに死んだクリスチャン、旧約時代の信仰者たちが携挙のときに「キリストの甦りのいのち」に与って復活して墓から出て来ることを預言しています。携挙のときは信仰者として「死んだ者」は天で復活してキリストともに天からやって来るのではありません。キリストの甦りのいのちに与って復活して「墓から出て来て」地上で生きているクリスチャンとともに空中携挙されます。キリストが十字架で処刑されたときにマタイの福音書27章で起ったことが実際にリアルに今の全世界に起こります。

マタイの福音書27章
27:46 三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
27:47 そこに立っていた人たちの何人かが、これを聞いて言った。「この人はエリヤを呼んでいる。」
27:48 そのうちの一人がすぐに駆け寄り、海綿を取ってそれに酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けてイエスに飲ませようとした。
27:49 ほかの者たちは「待て。エリヤが救いに来るか見てみよう」と言った。
27:50 しかし、イエスは再び大声で叫んで霊を渡された。
27:51 すると見よ、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。地が揺れ動き、岩が裂け、
27:52 墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる人々のからだが生き返った。
27:53 彼らはイエスの復活の後で、墓から出て来て聖なる都に入り、多くの人に現れた。
27:54 百人隊長や一緒にイエスを見張っていた者たちは、地震やいろいろな出来事を見て、非常に恐れて言った。「この方は本当に神の子であった。」

27:52 墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる人々のからだが生き返った。27:53 彼らはイエスの復活の後で、墓から出て来て聖なる都に入り、多くの人に現れた。

携挙のときは

27:52 墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる人々(死者となったクリスチャン、旧約時代の信仰者)のからだが(キリストの甦りのいのちによって)生き返った。
27:53 彼らはイエスの復活の後で、墓から出て来て聖なる都に入り、多くの人(全世界に人々)に現れた。

キリストの携挙のときは現代の不信仰のイスラエルも不信仰の異邦人もすべての人々が「死者の復活」と「携挙の光景」を目の当たりで見ます。だからヨハネは黙示録の冒頭で

ヨハネの黙示録1章
1:6 また、ご自分の父である神のために、私たちを王国とし、祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくあるように。アーメン。
1:7 見よ、その方は雲とともに来られる。すべての目が彼を見る。彼を突き刺した者たちさえも。地のすべての部族は彼のゆえに胸をたたいて悲しむ。しかり、アーメン。

と書きました。黙示録1章6節に「私たちを王国とし、祭司としてくださった方に、」と書かれています。ここに書かれている「王国、祭司」とは千年王国を治める「王、祭司」です。ヨハネは携挙の場面と千年王国の場面を黙示録の世界で実際に「見た!!!」のです。だから七つの教会宛ての手紙(巻物)の冒頭で

1:6 また、ご自分の父である神のために、私たちを王国とし、祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくあるように。アーメン。
1:7 見よ、その方は雲とともに来られる。すべての目が彼を見る。彼を突き刺した者たちさえも。地のすべての部族は彼のゆえに胸をたたいて悲しむ。しかり、アーメン。

と書きました。
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次回の「キリストの携挙ー5」に続きます。
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引用・聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

#携挙 #クリスチャン #キリスト教会 #聖書 #イエスキリスト #再臨 #宗教 #ヨハネの黙示録

 

天地創造―2・夕があり、朝があった。第一日

 

前回の  「天地創造―1・はじめに神が天と地を創造された。」 からの続きです。
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創世記1章
1:1 はじめに神が天と地を創造された。

聖書に出て来る「天」は地球の大空、宇宙を表す場合と、霊的な黙示録の世界の「神の国の天」を表す場合の三通りに分けられます。

 

そして「天と地」「天地」と書かれている場合は基本的に霊的な黙示録の世界の「神の国の天」を表します。また、詩篇19篇のように神の国の天だけを強調して書かれている場合も多く出て来ます。

詩篇19篇
19:1 天は神の栄光を語り告げ大空は御手のわざを告げ知らせる。
19:2 昼は昼へ話を伝え夜は夜へ知識を示す。
19:3 話しもせず語りもせずその声も聞こえない。
19:4 しかしその光芒は全地にそのことばは世界の果てまで届いた。神は天に太陽のために幕屋を設けられた。
19:5 花婿のように太陽は部屋から出て勇士のように走路を喜び走る。
19:6 天の果てからそれは昇り天の果てまでそれは巡る。その熱から隠れ得るものは何もない。

詩篇19:1、4、6 の「天」は黙示録の世界の「神の国の天」です。詩篇19:4、5の「太陽」は天のキリストを表しています。「花婿」はクリスチャンを携挙に来るときのキリストの姿です。
詩篇19:4の「幕屋」と19:5 の「花婿」は黙示録21に出て来る「聖なる都、新しいエルサレム」を指しています。

ヨハネの黙示録21章
21:2 私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。
21:3 私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。

黙示録21:2の「夫」は詩篇19:5の「花婿(太陽)なるキリスト」です。黙示録21:3の「神の幕屋」は詩篇19:4で神が太陽(婿なるキリスト)のために設けられた天に在る「幕屋」です。そして携挙されたクリスチャンは聖なる都、新しいエルサレムの幕屋の中で永遠の神とともに住みます。このように旧約聖書には未来のキリストの姿、クリスチャンの姿が比喩や象徴として多く書かれています。

聖書に出て来る「天」と「地」は常に「一対(いっつい)」として書かれています。天と地は二つ揃って一組になって書かれています。片方が在ってもう片方が在る、天が在って地が在る、という関係です。天と地が両方揃っていなければ成り立たないお互いの関係です。だから常に「天と地」と書かれていて、聖書には
天と地=32箇所 天地=13箇所
で書かれています。
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そして、続けて

創世記1章
1:2 地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。

と書かれていて、なんとも不思議な情景が描かれています。この場面はまた後で解説します。
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今回は、創世記1章の創造の第一日から第六日の末尾に書かれている「夕があり、朝があった。第(一~六)日。」の解説をします。

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初めに結論を申し上げます。

創世記1章に書かれている第一日は「一日24時間」の一日ではありません。神の国の「一日」です。黙示録21章25節に書かれている「一日中」の一日です。

21:25 都の門は一日中、決して閉じられない。そこには夜がないからである。

では本論に入ります。

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創世記1章から初めに神が「一日24時間・一年365日」を創られた場面から解説します。

創世記1章
1:14 神は仰せられた。「光る物が天の大空にあれ。昼と夜を分けよ。定められた時々のため、日と年のためのしるしとなれ。
1:15 また天の大空で光る物となり、地の上を照らすようになれ。」すると、そのようになった。
1:16 神は二つの大きな光る物を造られた。大きいほうの光る物には昼を治めさせ、小さいほうの光る物には夜を治めさせた。また星も造られた。
1:17 神はそれらを天の大空に置き、地の上を照らさせ、
1:18 また昼と夜を治めさせ、光と闇を分けるようにされた。神はそれを良しと見られた。
1:19 夕があり、朝があった。第四日。

神は創造第四日目に宇宙空間に太陽と月を置いて「一日24時間・一年365日」という天体の物理的定義を創りました。

1:14神は仰せられた。「光る物が天の大空にあれ。昼と夜を分けよ。定められた時々のため、日と年のためのしるしとなれ。

・光る物が天の大空にあれ。(太陽を宇宙空間に置いて)
・昼と夜を分けよ。(地球の自転が始まり)
・日と年のための(日=一回転24時間の自転速度・年=365日の公転周期を定めて)
・しるしとなれ。(一日24時間・一年365日の目安、区切りとした)

「日と年のためのしるしとなれ。」

「しるし」は目安、区切り、「日」は一日24時間、「年」は一年365日、という意味です。

1:15 また天の大空で光る物となり、地の上を照らすようになれ。」すると、そのようになった。

・天の大空で(宇宙空間で)光る物(太陽)となり、地の上を(地球を)照らします。

1:16 神は二つの大きな光る物を造られた。大きいほうの光る物には昼を治めさせ、小さいほうの光る物には夜を治めさせた。また星も造られた。

・二つの大きな光る物(太陽と月)を造り
・大きいほうの光る物には昼を治めさせ(太陽が輝く時間帯を昼として)
・小さいほうの光る物には夜を治めさせた。(月が輝く時間帯を夜として)
・また星も造られた。(無数の星々を宇宙空間にちりばめた)
そして
1:17 神はそれらを天の大空に置き、地の上を照らさせ、
1:18 また昼と夜を治めさせ、光と闇を分けるようにされた。神はそれを良しと見られた。
と続いて最後に

1:19 夕があり、朝があった。第四日。

と結んでいます。

只今解説したように、創世記1章は極めて科学的に万物の創造が書かれています。物理学的な裏付けによって書かれています。この「天地創造シリーズ」を最後までお読みくだされば聖書には多くの「科学・物理」が出て来ます。聖書は「宗教」ではありません。「科学、物理」です。創世記1章は物理的なものが何も存在しない世界、空間に神が万物を動かすすべての科学、物理の法則を創る過程が描かれています。

創世記1章は宗教や抽象的な神学が書かれているのではありません。バビロニア時代の文書仮説で編集されたおとぎ話でもありません。浦島太郎やまんが日本昔ばなしの世界ではありません。活ける神の「天地創造」が書かれています。
話しを戻します。

創造第四日の宇宙空間に太陽と月と星々が造られて、それぞれの場所に配置されて、地球の自転と公転が始まることによって、昼と夜の時間帯が出来て、一日一回転=24時間の自転と1年=365日の公転が定められました。

創造第一日から第六日までのそれぞれの文章の中に記されている「・・・あれ。」「・・・分けよ。」「・・・なれ。」「・・・現れよ」「・・・芽生えさせよ。」「・・・群がれ。」「・・・飛べ。」「・・・生めよ。増えよ。海の水に満ちよ。」「・・・生じよ。」「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。」

という命令語は、活ける神の言葉によって「その時点」で天体の仕組みをはじめ万物(被造物)を創造された証拠、証明です。

ヘブル人への手紙11章
11:3 信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。

目に見えるロボットが目に見えないコンピュータのソフトウェアで動いているように、万物の目に見える世界(ハードウェア)は目に見えない神の言葉(ソフトウェア)によって動いています。

ですから一日24時間・一年365日という天体の物理的定義は創世記1章の創造第四日に創られたことは明白です。動かぬ証拠と事実です。ハッキリと「・・・定められた時々のため、日と年のためのしるしとなれ。」と書いてあるのですから。

つまり、神が創造第四日のこの時点で、ある目的のために定められた「一日24時間・一年365日」という時間の概念(ソフトウェア)を目に見える形にするために、太陽と月というハードウェアが印(しるし)として創られて、人間の時間の概念を支配しています。
ここまで私が言っていること、理解出来るでしょうか?

時間を創られる神が、時間に支配されたり、時間に束縛されることは、ありません。科学、物理を創造される神が、科学、物理に支配されたり、科学、物理に束縛されることは、ありません。それは、イエスの多くの奇跡によって、証明されています。ヨブ記には創世記1章の天地創造を解説する記述が多く出て来ます。

創世記1章の天地創造は、永遠の神が時間と空間の概念が無い黙示録に出て来る「神の都(神が住まわれる実家と考えてください)」に居て、その時間と空間の概念が無い永遠の世界から「光、あれ。」と仰せられて創世記1章の神の天地創造は始りました。黙示録21章25節の「一日中」は一日24時間という「時間の流れ」ではありません。永遠の神の国の「区切り」です。「印(しるし)です。

創世記1章の創造第四日に天体によって創られたものは人間のための一日24時間・一年365日という「時間の概念」です。だから「・・・定められた時々のため、日と年のためのしるしとなれ。」と、書いてあります。後から創られる人間とすべての命のために、神は創造第四日に一日24時間・一年365日という「時間の概念(ソフトウェア)」を定めて、時間のソフトウェアの上に太陽、月、星々という人間の五感で感じることの出来るハードウェアを乗せました。

1:1 はじめに神が天と地を創造された。

「はじめに・・・」とは前回申し上げたように「御使いが創られる前に、宇宙と地球が創られる前に」という意味です。天と地の欠片もない、という意味です。ですから創世記1章1節を超!正確に書くと

御使いも宇宙も太陽も月も星々も地球もまだ存在しない世界に、御使いのための「天」の空間と人間とすべての生命のための宇宙と地球の「地」の空間を創られた。

と書くことが出来ます。

創造の第一日から第六日までの末尾に書かれている「夕があり、朝があった。第一日」の一日は「神の国の一日」です。黙示録21章25節に書かれている「一日中」の一日です。夜(やみ)が存在しない「一日」です。

地球の一日24時間は創世記1:14~19に書かれている創造第四日目に創られたことは明白です。事実です。間違いありません。ですからキリスト教会で教えている「一日・24時間説」は誤りです。間違いです。
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ここから「神の国の一日」について解説します。

 

前回(天地創造―1)で書いたように、

旧約聖書と新約聖書は表裏一体の関係にあります。創世記1章1節をぐるりと裏返しすればヨハネの黙示録が出て来ます。ヨハネの黙示録をぐるりと裏返しすれば創世記1章1節が出て来ます。ですから創世記1章の「夕があり、朝があった。第一日。」の正しい答えも「天と地」と同じようにヨハネの黙示録に書いてあります。

ヨハネの黙示録21章
21:22 私は、この都の中に神殿を見なかった。全能の神である主と子羊が、都の神殿だからである。
21:23 都は、これを照らす太陽も月も必要としない。神の栄光が都を照らし、子羊が都の明かりだからである。
21:24 諸国の民は都の光によって歩み、地の王たちは自分たちの栄光を都に携えて来る。
21:25 都の門は一日中、決して閉じられない。そこには夜がないからである。

これは、クリスチャンが死んだ後の、未来の永遠の住まいとなる「聖なる都、新しいエルサレム」の光景です。ここに「これを照らす太陽も月も必要としない。」と書かれています。ここに書かれている太陽と月が、創世記1:14~18の創造第四日に創られた太陽と月です。そして創世記1:1で創られた「天と地」が黙示録20:11で跡形もなく永遠に消え去ったので、天と地の空間に創られた「太陽と月と暗闇の夜」も消え去りました。だから

黙示録21章
21:25 都の門は一日中、決して閉じられない。そこには夜がないからである。

「・・・そこには夜がないからである。」と書かれています。
ここまでの流れを整理すると、

創世記1:1で「天と地」が創られて
↓↓↓
創世記1:14~18で「太陽と月」が創られて
↓↓↓
黙示録20:11で創世記1:1で創られた「天と地」と創世記1:14~18で創られた「太陽と月」が跡形もなく永遠に消え去って
↓↓↓
黙示録21:1で 「新しい天と新しい地」を見た。
創世記1:1で創られた「以前の天と以前の地」は過ぎ去り、もはや海もない。
↓↓↓
と続いて

黙示録21章
21:25 都の門は一日中、決して閉じられない。そこには夜がないからである。

と書かれています。

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ところでクリスチャンのみなさんは宇宙はなんで真っ暗闇なのか、暗黒なのか、考えたことがありますか?

人間の感覚からすると、暗闇の宇宙が永遠に続いていて、無限の暗闇の宇宙の彼方のどこかに光輝く神の国が在ると想像しがちですが、そうではありません。永遠の光に満ちた世界にひと際輝く神の国があります。神の国は暗闇に包まれているのではありません。光輝く神の世界の中に、暗闇の世界がポツンとあります。

創世記1章
1:1 はじめに神が天と地を創造された。
1:2 地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。

最初に申し上げように、1:1の「はじめに・・・」は「天と地が創られる前の、御使いが創られる前の、宇宙と太陽と月が創られる前の、光輝く神の世界」です。
「天と地がまだ存在していない、御使いがまだ存在していない、宇宙と太陽と月がまだ存在していない、夜と闇が存在していない、無の空間に光輝く【神の世界】」です。

創世記1章が始まる前の神の世界は永遠の初めからキリストの光で輝き満ち溢れた「光の世界」です。神は「はじめ・・・」の前にすでに存在している神です。そして創世記1章が始まる前の神の世界から「はじめに・・・」と始ります。それから創世記1:1で「天と地」を創り、創世記1:3で「光、あれ。」と仰せられて「物理的な光」を創りました。創世記1:3で「光、あれ。」と仰せられて創られた光は永遠の初めから輝き続けていたキリストの光を投影した物理的な光です。ですから創世記1:3の「光、あれ。」は「キリストあれ!」という意味になります。聖書は常にキリストを光として描写しています。サタンをその後に出て来る「闇(やみ)」と描写しています。

ヨハネの福音書1章
1:9 すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。
1:10 この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。
1:11 この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。
1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

キリストは天と地が創られる前から輝いていた「まことの光」です。

キリストの光に満ち溢れた「光の世界」に永遠の初めから父なる神と御子・キリストと聖霊が三位一体として臨在していました。

21:1 また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
21:2 私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。

「聖なる都、新しいエルサレム」には都を照らす太陽も月も在りません。太陽も月も在りませんから「夜(暗闇)」も在りません。「聖なる都、新しいエルサレム」は神が創世記1章で創られた太陽、月、夜、それに伴う「一日24時間・一年365日」という物理的な時間の概念が存在しない世界です。

21:22 私は、この都の中に神殿を見なかった。全能の神である主と子羊が、都の神殿だからである。
21:23 都は、これを照らす太陽も月も必要としない。神の栄光が都を照らし、子羊が都の明かりだからである。
21:24 諸国の民は都の光によって歩み、地の王たちは自分たちの栄光を都に携えて来る。
21:25 都の門は一日中、決して閉じられない。そこには夜がないからである。

神は、「一日24時間・一年365日」という時間の概念が存在しない永遠の世界からキリスの光によって「光、あれ。」と言って地の世界に物理的な光を創りました。そして創造第四日目に太陽の光と月の光による「一日24時間・一年365日」の科学的、物理的、天文的な時間の概念を創りました。

ですから創世記1章1節の「・・・夕があり、朝があった。第一日。」の一日は永遠の神の世界の「一日」です。ヨハネの黙示録21章25節の閉じられることのない都の門の中の一日中の「一日」です。そして黙示録21章の「聖なる都、新しいエルサレム」には夜がありませんから、創世記1章の六日間のそれぞれの創造の末尾に

夕があり、朝があった。第一日。
夕があり、朝があった。第二日。
夕があり、朝があった。第三日。
夕があり、朝があった。第四日。
夕があり、朝があった。第五日。
夕があり、朝があった。第六日。

と書かれていて、「夜」がありません。元々天と地が創られる前の夜が存在しない神の世界から天と地を創り「光、あれ。」と御声を発して万物を六日で創りましたから、当然、夜が存在しません。だから「夕があり、朝があった。第一日。」と記されて夜が抜けています。比較するとよく分かります。

創造第四日に創られた「一日24時間・一年365日」の時間の流れ。
朝→昼→夕→夜(一日)→朝→昼→夕→夜(二日)朝→昼→夕→夜(三日)→・・・365日(一年)

夜(闇)の無い神の世界の時(とき)の区切り
朝(光あれ!)→昼→夕→(第一日)朝→昼→夕→(第二日)朝→昼→夕→(第三日)→・・・永遠に続く

創造第四日に創られた「一日24時間・一年365日」は人間と植物、動物、すべてのいのちのための「時間の流れ」です。

夜(闇)の無い神の世界の一日は永遠の世界の中の一つの「区切り」「節目」です。「時間」ではありません。「区切り」です。

人間は時間と空間に束縛されますが、時間と空間を創る永遠の神が時間に束縛されたり拘束されることはありません。甦りのキリストはある時、迫害によって散らされた五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。

Ⅰコリント人への手紙
15:5 また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。
15:6 その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中にはすでに眠った人も何人かいますが、大多数は今なお生き残っています。

「キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。」と言うのは一つの場所に集まった五百人以上の兄弟たちにキリストが現れた、という意味ではありません。迫害によって方々に散ら去られて異なる場所に居る五百人の兄弟たちに時間的に同時に現れた、という意味です。だから「同時に」と書かれています。「忍法五百人の分身の術」です。キリストは五百人に分身して居場所が異なる五百人の兄弟たちの前にリアルタイムで同時に現れました。甦りのキリストは時間と空間に束縛されない御体に変わりました。

21:25 都の門は一日中、決して閉じられない。そこには夜がないからである。

黙示録21:25には「・・・一日中・・・」と書かれていますから何か一日の「時(とき)、区切り、節目」があるのでしょう。夜(闇)が無い神の都の「時」が永遠に続きます。だから創世記1章で

夕があり、朝があった。第一日。

と書かれています。夜がありません。

キリスト教会では創世記1章1節の「夕があり、朝があった。第一日。」の一日は「24時間の一日」と教えいますがそれは誤りです。間違いです。

創世記1章1節の「夕があり、朝があった。第一日。」は夜がない「神の国の一日」です。
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次回の天地創造―3に続きます。

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引用・聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
#クリスチャン #キリスト教会 #聖書 #イエスキリスト #宗教 #創造論 #創世記 #天地創造 #科学 #携挙

 

キリストの携挙―3・御座の周りには二十四の座があった

前回の「キリストの携挙―2・天が開かれているのを見た」からの続きです。
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ヨハネの黙示録には「二十四人の長老(ひとりの長老)」が全部で13回出て来ます。以下にその13回の箇所を挙げます。

ヨハネの黙示録
4:4 また、御座の周りには二十四の座があった。これらの座には、白い衣をまとい、頭に金の冠をかぶった二十四人の長老たちが座っていた。

4:10 二十四人の長老たちは、御座に着いておられる方の前にひれ伏して、世々限りなく生きておられる方を礼拝した。また、自分たちの冠を御座の前に投げ出して言った。

5:5 すると、長老の一人が私に言った。「泣いてはいけません。ご覧なさい。ユダ族から出た獅子、ダビデの根が勝利したので、彼がその巻物を開き、七つの封印を解くことができます。」

5:6 また私は、御座と四つの生き物の真ん中、長老たちの真ん中に、屠られた姿で子羊が立っているのを見た。それは七つの角と七つの目を持っていた。その目は、全地に遣わされた神の七つの御霊であった。

5:8 巻物を受け取ったとき、四つの生き物と二十四人の長老たちは子羊の前にひれ伏した。彼らはそれぞれ、竪琴と、香に満ちた金の鉢を持っていた。香は聖徒たちの祈りであった。

5:11 また私は見た。そして御座と生き物と長老たちの周りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の数万倍、千の数千倍であった。

5:14 すると、四つの生き物は「アーメン」と言い、長老たちはひれ伏して礼拝した。

7:11 御使いたちはみな、御座と長老たちと四つの生き物の周りに立っていたが、御座の前にひれ伏し、神を礼拝して言った。

7:13 すると、長老の一人が私に話しかけて、「この白い衣を身にまとった人たちはだれですか。どこから来たのですか」と言った。
7:14 そこで私が「私の主よ、あなたこそご存じです」と言うと、長老は私に言った。「この人たちは大きな患難を経てきた者たちで、その衣を洗い、子羊の血で白くしたのです。

11:16 すると、神の御前で自分たちの座に着いていた二十四人の長老たちが、ひれ伏し、神を礼拝して言った。

14:3 彼らは御座の前と、四つの生き物および長老たちの前で、新しい歌を歌った。しかし、地上から贖われた十四万四千人のほかは、この歌を学ぶことができなかった。

19:4 すると、二十四人の長老たちと四つの生き物はひれ伏して、御座に着いておられる神を礼拝して言った。「アーメン。ハレルヤ。」
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そして、この二十四人の長老とは誰なのか?について、キリスト教会で議論されています。この二十四人の長老については、キリストがマタイの福音書19章で予めペテロに教えています。

マタイの福音書19章
19:27 そのとき、ペテロはイエスに言った。「ご覧ください。私たちはすべてを捨てて、あなたに従って来ました。それで、私たちは何をいただけるでしょうか。」
19:28 そこでイエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに言います。人の子がその栄光の座に着くとき、その新しい世界で、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族を治めます。

マタイの福音書19章28節は

キリストが黙示録の世界の「天の栄光の座」に着くとき、地上でキリストに従ってついて来たあなたがた12人は天でわたしとともに十二の座に着いてイスラエルの十二の部族を治めます。

という意味です。「治めます」というのは「従える」という意味です。
旧約時代のイスラエル(ヤコブ)の十二の部族はキリストが誕生するはるか前の人たちですから、キリストを知りません。キリストを知らない彼らはキリストを知っている十二弟子に従っていきます。だからキリストは「わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族を治めます。」と十二弟子に預言しました。

ペテロは家も家族とも別れて大先生にここまで従って来たのだからきっと大先生なるイエス様が自分たちにお金か財宝か右大臣左大臣の席でも用意して素晴らしいご褒美をくれるとでも思っていたのでしょう。しかしキリストは「十字架で殺されて天に帰ったわたしが栄光の座に着くとき、わたしに従って来たあなたがたもこの世ではなく 新しい世界の十二の栄光の座 に座ることになります」と、弟子たちに預言しました。そしてキリストが預言した通りに、弟子たちは黙示4章4節で白い衣をまとい頭に金の冠をかぶった「二十四人の長老」の十二人としてイスラエルの十二部族の長とともに登場します。

ヨハネの黙示録4章
4:4 また、御座の周りには二十四の座があった。これらの座には、白い衣をまとい、頭に金の冠をかぶった二十四人の長老たちが座っていた。

二十四人の長老たちは常に子羊のキリストと御使いに帯同しながらイスラエルの十二部族は旧約時代の信仰者の代表、総代として、十二弟子(使徒)は新約時代のクリスチャンの代表、総代として、人々を導きます。そして最後の黙示録21章で出て来る「聖なる都エルサレム」の十二の門と十二の城壁の土台石に彼らの名が刻まれています。

ヨハネの黙示録21章
21:10 そして、御使いは御霊によって私を大きな高い山に連れて行き、聖なる都エルサレムが神のみもとから、天から降って来るのを見せた。
21:11 都には神の栄光があった。その輝きは最高の宝石に似ていて、透き通った碧玉のようであった。
21:12 都には、大きな高い城壁があり、十二の門があった。門の上には十二人の御使いがいた。また、名前が刻まれていたが、それはイスラエルの子らの十二部族の名前であった。
21:13 東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。
21:14 都の城壁には十二の土台石があり、それには、子羊の十二使徒の、十二の名が刻まれていた。

黙示録に出て来る「二十四人の長老」の正体は

イスラエル(ヤコブ)の子らの十二部族の長の

ユダ、ルベン、ガド、アシェル、ナフタリ、マナセ、シメオン、レビ、イッサカル、ゼブルン、ヨセフ、ベニヤミン

の十二人と、キリストの弟子(使徒)の

ペテロ (シモン)、ゼベダイの子ヤコブ,ヨハネ、アンデレ、ピリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルパヨの子ヤコブ、タダイ (ユダ)、熱心党のシモン、マッテヤ

の十二人です。十二人と十二人の合わせて二十四人が「二十四人の長老」として黙示録に出て来ます。御使いでもモーセでもエリヤでもありません。
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ヨハネの黙示録に出て来る「二十四人の長老」は旧約時代のイスラエル(ヤコブ)の十二の部族の長と新約時代のキリストの弟子(使徒)の十二人を合わせた二十四人です。
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次回の「キリストの携挙ー3」に続きます。
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引用・聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
#携挙 #クリスチャン #キリスト教会 #聖書 #イエスキリスト #再臨 #宗教 #ヨハネの黙示録

死後の世界―2・死んだ人々と生きた人々


前回の「死後の世界―1」からの続きです。
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はじめに申し上げます。
このブログに投稿されている「天地創造シリーズ・死後の世界シリーズ・キリストの携挙シリーズ」の三つのテーマはお互いつながっています。リンクしています。三つのテーマがお互いを補完しています。天地創造を読んでいて死後の世界で書いた場面が出て来たり、死後の世界を読んでいてキリストの携挙で書いた場面が出て来たりと、三つのテーマはつながってリンクしながらお互いを補完し合っています。元々聖書はそのような書物です。ジグソーパズルのように旧約39巻のピースと新約27巻のピース合わせて全66巻のピースが綺麗に組み合わされてはじめて「神の世界」が完成されます。そのことを留意しながら、このブログをお読みいただければと思います。
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ヨハネの黙示録20章
20:1 また私は、御使いが底知れぬ所の鍵と大きな鎖を手にして、天から下って来るのを見た。
20:2 彼は、竜、すなわち、悪魔でありサタンである古い蛇を捕らえて、これを千年の間縛り、
20:3 千年が終わるまで、これ以上諸国の民を惑わすことのないように、底知れぬ所に投げ込んで鍵をかけ、その上に封印をした。その後、竜はしばらくの間、解き放たれることになる。
20:4 また私は多くの座を見た。それらの上に座っている者たちがいて、彼らにはさばきを行う権威が与えられた。また私は、イエスの証しと神のことばのゆえに首をはねられた人々のたましいを見た。彼らは獣もその像も拝まず、額にも手にも獣の刻印を受けていなかった。彼らは生き返って、キリストとともに千年の間、王として治めた。
20:5 残りの死者は、千年が終わるまでは生き返らなかった。これが第一の復活である。
20:6 この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対して、第二の死は何の力も持っていない。彼らは神とキリストの祭司となり、キリストとともに千年の間、王として治める。
20:7 しかし、千年が終わると、サタンはその牢から解き放たれ、
20:8 地の四方にいる諸国の民を、すなわちゴグとマゴグを惑わすために出て行き、戦いのために彼らを召集する。彼らの数は海の砂のようである。
20:9 彼らは地の広いところに上って行き、聖徒たちの陣営と、愛された都を包囲した。すると天から火が下って来て、彼らを焼き尽くした。
20:10 彼らを惑わした悪魔は火と硫黄の池に投げ込まれた。そこには獣も偽預言者もいる。彼らは昼も夜も、世々限りなく苦しみを受ける。
20:11 また私は、大きな白い御座と、そこに着いておられる方を見た。地と天はその御前から逃げ去り、跡形もなくなった。
20:12 また私は、死んだ人々が大きい者も小さい者も御座の前に立っているのを見た。数々の書物が開かれた。書物がもう一つ開かれたが、それはいのちの書であった。死んだ者たちは、これらの書物に書かれていることにしたがい、自分の行いに応じてさばかれた。
20:13 海はその中にいる死者を出した。死とよみも、その中にいる死者を出した。彼らはそれぞれ自分の行いに応じてさばかれた。
20:14 それから、死とよみは火の池に投げ込まれた。これが、すなわち火の池が、第二の死である。
20:15 いのちの書に記されていない者はみな、火の池に投げ込まれた。

20:11 また私は、大きな白い御座と、そこに着いておられる方を見た。地と天はその御前から逃げ去り、跡形もなくなった。

ヨハネは20:11で「大きな白い御座とそこに着いておられ方」を見ました。そして地と天はその御前から逃げ去り、跡形もなくなりました。ですから「大きな白い御座」はそれ以前の天と地でもない、また新しい天と地でもない、領域、空間に在ります。今現在の天と地でない、また黙示録21:1で出てくる「新しい天と地」でもない、領域、空間に、「大きな白い御座」は在ります。「大きな白い御座」は人が永遠の新しい天と地に行くのか?それとも永遠の地獄に行くのか?を、一人一人裁判で「数々の書物」と「いのちの書」によって判決を下す神が設けた厳かな特別な場所です。そしてこの「大きな白い御座の法廷」に集められるのが黙示録20:12 に出て来る「死んだ大きい者と小さい者の人々」です。

20:12 また私は、死んだ人々が大きい者も小さい者も御座の前に立っているのを見た。・・・

「死んだ人々が大きい者も小さい者」とは地上で生きている間のあらゆる身分の高い低い、階級の上下、偉い普通、功績勲章、天才凡才に関係なくすべての人が平等に裁きを受ける、という意味です。そして「死んだ人々」とは

黙示録20:5の「第一の復活」で千年が終わるまで生き返ることが出来なかった「死んだ人々」です。「生きている人々」に対義して「死んだ人々」がいます。

クリスチャンと旧約時代の信仰者は携挙でキリストの花嫁となって天に入り黙示録19章で「子羊の婚礼」を経てそのまま黙示録20章の「千年王国」に入ります。携挙が終わった後の大艱難時代に地上で救われたクリスチャン(救われたイスラエルの民と異邦の民)も再臨(子羊の婚礼)を経て千年王国に入ります。

クリスチャンと旧約時代の信仰者は携挙でキリストの花嫁となって、また、大艱難時代に救われたクリスチャンたちも
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黙示録19章で「子羊の婚礼」を経て
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黙示録20章の「千年王国」に入ります。

ですからクリスチャンと旧約時代の信仰者と大艱難時代に救われたクリスチャンは「生きた人々」として千年王国に入ります。
そして携挙の後の大艱難時代に救われたクリスチャン(救われたイスラエルの民と異邦の民)の中でキリストの信仰のために666の反・キリストによる迫害で殉教していったクリスチャンたちが黙示録20:6の「第一の復活」に与って黙示録20:4の「生き返って生きた人々」となって千年王国に入りキリストと共に携挙されたクリスチャンたちと千年王国を治めます。
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20:4 また私は多くの座を見た。それらの上に座っている者たちがいて、彼らにはさばきを行う権威が与えられた。また私は、イエスの証しと神のことばのゆえに首をはねられた人々のたましいを見た。彼らは獣もその像も拝まず、額にも手にも獣の刻印を受けていなかった。彼らは生き返って、キリストとともに千年の間、王として治めた。

20:6 この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対して、第二の死は何の力も持っていない。彼らは神とキリストの祭司となり、キリストとともに千年の間、王として治める。
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「生きた人々」だけがキリストと共に千年王国を治めます。
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20:5 残りの死者(第一の復活に与れなかった人々)は、千年が終わるまでは生き返らなかった。・・・
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残りの死者
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20:12の「死んだ人々」
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20:12 また私は、死んだ人々(第一の復活に与れなかった人々)が大きい者も小さい者も御座の前に立っているのを見た。数々の書物が開かれた。書物がもう一つ開かれたが、それはいのちの書であった。死んだ者たち(第一の復活に与れなかった人々)は、これらの書物に書かれていることにしたがい、自分の行いに応じてさばかれた。
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という流れになります。

20:12の大きな白い御座に居る「死んだ人々」は20:4の「第一の復活」に与れなかったノン・クリスチャン、旧約時代の不信仰者たちだけです。「生きた人々」となっているクリスチャンと全人類の信仰者はこの時点ですでに千年王国から黙示録21章の「新しい天と地」に移されています。

ですから「大きな白い御座の裁きの法廷」にクリスチャンはいません。居るのは「ノン・クリスチャンと旧約時代の不信仰者」だけです。つまり、「大きな白い御座の裁き」はノン・クリスチャンを含めた全人類の不信仰者だけを裁く専用の裁きの法廷です。そして裁判の審理の中で「数々の書物」と照らし合わせながら「いのちの書」に名前が書かれているノン・クリスチャンだけが、次の「新しい天と地」に入ることが出来ます。「いのちの書」に名前が書かれていないノン・クリスチャンは残念ながら第二の死が待っている「火の池」に投げ込まれます。

20:12 また私は、死んだ人々が大きい者も小さい者も御座の前に立っているのを見た。数々の書物が開かれた。書物がもう一つ開かれたが、それはいのちの書であった。死んだ者たちは、これらの書物に書かれていることにしたがい、自分の行いに応じてさばかれた。
20:13 海はその中にいる死者を出した。死とよみも、その中にいる死者を出した。彼らはそれぞれ自分の行いに応じてさばかれた。
20:14 それから、死とよみは火の池に投げ込まれた。これが、すなわち火の池が、第二の死である。
20:15 いのちの書に記されていない者はみな、火の池に投げ込まれた。

問題は、「いのちの書」にはいったい何が書かれているのか?ということです。
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20:13に「海はその中にいる死者を出した。」と書かれています。この意味は、死者で「お墓が無い人々」という意味です。

二千年前の陸上交通の手段は「馬」が主流です。現代のような車も電車も飛行機もありませんから遠くに行くときには馬に乗って出かけます。戦も馬に乗って戦います。聖書には白い馬、赤い馬、青白い馬、黒い馬と表現された馬が所々で出て来ます。そして海をまたいだ国々との交易は「船」です。腕で漕いでマストのセールに風を受けながら海を進んで行く「帆船」です。帆船に人や荷物を積んで海を渡りながら交易をする時代です。そして現代のような気象衛星や雨雲レーダーなんて無い時代ですから気象によって海が荒れて船が難破して遭難することが多くありました。パウロをはじめ使徒たちも度々乗っていた船が難破しそうになって命拾いしたことが使徒の働きその他書簡に書いてあります。手動力と風任せの帆船での航海は気象に影響される出たとこ勝負です。静かな航海になるか荒れた航海になるかは運に任せるしかありません。ですから海で遭難したらまず命は助かりません。海での遭難で多くの命が亡くなっています。当時は船が遭難したら現代のように海上保安庁、自衛隊が航空機と捜索船でやって来て空と海から最新のレーダーや望遠カメラ、ソナーや水中カメラを駆使して捜索することなんてありませんから、海で亡くなれば遺体の収容は困難です。ほとんどの遺体が海の中に沈んで消えていきます。遺体が収容出来なければ亡くなった人をお墓に入れることが出来ません。そういった「海で亡くなってお墓に入ることが出来なかった人々の魂」が、海から出されて「大きな白い御座」に集められて裁きを受けます。だから

20:13 海はその中にいる死者を出した。死とよみも、その中にいる死者を出した。彼らはそれぞれ自分の行いに応じてさばかれた。

と書かれています。「死とよみも、その中にいる死者を出した。」については後で解説します。

また、これは現代でも同じですが

拉致、誘拐などの犯罪によるものなのか?自己都合による家出なのか?分かりませんが、いわゆる「行方不明、消息不明」でそれっきり家族と会うことなく一生安否不明のまま終わってお墓に入ることが出来なかった人々も海から出て来た死者と同じように「大きな白い御座の裁き」に集められます。
戦争で戦地で亡くなってやはり遺体が収容出来ないでお墓に入れなかった人々の魂も「大きな白い御座」に集められます。

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次回の「死後の世界―3」に続きます。

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引用・聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
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天地創造―1・はじめに神が天と地を創造された。

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創世記1章
1:1 はじめに神が天と地を創造された。

創世記1章1節「天と地」の天は、ヨハネの黙示録の世界の「天」です。宇宙や大空ではありません。人の目に見えない神と御使いが居る黙示録の「天の世界」です。

キリスト教会では創世記1章1節の天は宇宙、あるいは地球の大空と教えていますが、それは誤りです。間違いです。

ですから創世記1章1節の「はじめに神が天と地を創造された。」というのは

はじめに神が御使いと天の世界を創造して、次に、宇宙と地球の世界を創造された。

と解釈するのが正しい解釈です。

キリスト教会で教えている

はじめに神が宇宙と大空と地球を創造された。

のではありません。

創造する順番が、黙示録の「天の世界」が先に創られて、その後に、宇宙と地球の「地の世界」が創られたので、「はじめに神が天と地を創造された。」と、書かれています。

天は黙示録で描写されている人の目に見えない「霊的な世界」です。地は人の五感(視覚・聴覚・触覚・味覚・嗅覚)で感じることの出来る宇宙と地球の「物理的な世界」です。
神ははじめに「霊の世界」と「物理の世界」の二つの世界を創りました。教会で教えている「物理の世界(宇宙と大空)」と「物理の世界(海と陸地」を創られたのではありません。

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旧約聖書と新約聖書は表裏一体の関係にあります。万物の始りが書かれている創世記1章をぐるりとひっくり返すと万物の終わりが書かれているヨハネの黙示録が出て来ます。ですからヨハネの黙示録から創世記1章の万物の創造を解き明かすことが出来ます。

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次に挙げる黙示録の箇所は創世記1章の万物の創造を解き明かす鍵となる聖句です。

ヨハネの黙示録20~22章
20:11 また私は、大きな白い御座と、そこに着いておられる方を見た。地と天はその御前から逃げ去り、跡形もなくなった。

20:11・・・地と天はその御前から逃げ去り、跡形もなくなった。

黙示録20:11に書かれている「地と天」は創世記1:1の「天と地」です。つまり創世記1:1で神が創られた「天と地」が黙示録20:11のところで「御前から逃げ去り、跡形もなくなり」ました。神が創世記1:1で創られた「天と地」が黙示録20:11で跡形もなく完全に永遠に消滅しました。

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21:1 また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
21:2 私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。
21:3 私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。

21:22 私は、この都の中に神殿を見なかった。全能の神である主と子羊が、都の神殿だからである。
21:23 都は、これを照らす太陽も月も必要としない。神の栄光が都を照らし、子羊が都の明かりだからである。
21:24 諸国の民は都の光によって歩み、地の王たちは自分たちの栄光を都に携えて来る。
21:25 都の門は一日中、決して閉じられない。そこには夜がないからである。

黙示録20:11で御前から逃げ去り、跡形もなく完全に消滅した創世記1:1の「以前の天と以前の地」の代わりに神は新たに御使いと人類のための「新しい天と新しい地」を創り御使いと人類の信仰者の住まいとされました。
聖なる都、新しいエルサレムに神殿が見えなかった(存在していなかった)のは、もはや「神を礼拝する必要が無くなったから」です。神と人類の関係が今までの「神を礼拝する」関係から「神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。」関係に変わったからです。

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ですから

創世記1章1節「天と地」の天はヨハネの黙示録の世界の「天」です。宇宙や大空ではありません。人の目に見えない神と御使いが居る黙示録の「天の世界」です。
地は人の五感(視覚・聴覚・触覚・味覚・嗅覚)で感じることの出来る宇宙と地球の「物理的な世界」です。

キリスト教会では創世記1章1節の天は宇宙、あるいは地球の大空と教えていますが、それは誤りです。間違いです。

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次回の天地創造―2に続きます。

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引用・聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
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