キリストの携挙―9・十四万四千人で、イスラエルの子らのあらゆる部族の者が印を押されていた
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前回の「キリストの携挙―8・滅びの子が現れなければ主の日は来ないのです」の続きとしてテサロニケ人への手紙・後半を書いて投稿しようと思っていましたが、主の導きによって予定を変更して今回は黙示録7章に出て来る「十四万四千人」について投稿させていただきます。テサロニケ人への手紙の後半は後々投稿しますのでご理解のほどよろしくお願いいたします。
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今回は黙示録7章に出て来るイスラエルの子らの「十四万四千人」の数字の意味について解説します。

ヨハネの黙示録7章
7:1 その後、私は四人の御使いを見た。彼らは地の四隅に立ち、地の四方の風をしっかりと押さえて、地にも海にもどんな木にも吹きつけないようにしていた。
7:2 また私は、もう一人の御使いが、日の昇る方から、生ける神の印を持って上って来るのを見た。彼は、地にも海にも害を加えることを許された四人の御使いたちに、大声で叫んだ。
7:3 「私たちが神のしもべたちの額に印を押してしまうまで、地にも海にも木にも害を加えてはいけない。」
7:4 私は、印を押された者たちの数を耳にした。それは十四万四千人で、イスラエルの子らのあらゆる部族の者が印を押されていた。
7:5 ユダ族から一万二千人が印を押され、ルベン族から一万二千人、ガド族から一万二千人、
7:6 アシェル族から一万二千人、ナフタリ族から一万二千人、マナセ族から一万二千人、
7:7 シメオン族から一万二千人、レビ族から一万二千人、イッサカル族から一万二千人、
7:8 ゼブルン族から一万二千人、ヨセフ族から一万二千人、ベニヤミン族から一万二千人が印を押されていた。

すでに過去の投稿で書きましたが、黙示録7章に出てくる神のしもべとして額に印を押された「イスラエルの子らの十四万四千人」が、黙示録14章で再び出て来てシオンの山で子羊を賛美している額に子羊の名と子羊の父の名が記された「十四万四千人の人たち」です。

ヨハネの黙示録14章
14:1 また私は見た。すると見よ、子羊がシオンの山の上に立っていた。また、子羊とともに十四万四千人の人たちがいて、その額には子羊の名と、子羊の父の名が記されていた。

ですから黙示録7章の「イスラエルの子らの十四万四千人」の額に押された印は黙示録14章に書かれている「子羊の名と、子羊の父の名」です。これは、パウロが教えているクリスチャンが救われたときに受ける「贖いの証印」です。

Ⅱコリント人への手紙1章
1:21 私たちをあなたがたと一緒にキリストのうちに堅く保ち、私たちに油を注がれた方は神です。
1:22 神はまた、私たちに証印を押し、保証として御霊を私たちの心に与えてくださいました。

・神はまた、私たちに証印を押し、

エペソ人への手紙1章
1:13 このキリストにあって、あなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞いてそれを信じたことにより、約束の聖霊によって証印を押されました。
1:14 聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。このことは、私たちが贖われて神のものとされ、神の栄光がほめたたえられるためです。

・あなたがたの救いの福音を聞いてそれを信じたことにより、約束の聖霊によって証印を押されました。

エペソ人への手紙4章
4:30 神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。

・あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。

黙示録7章には、キリストの携挙によって終末のイスラエルが悔い改めて神のしもべとして認められて救われた証として一人の御使いが日の昇る方(イスラエルにキリストの光が昇る方向)から出て来て生ける神の印(御霊による贖いの証印)を十四万四千人のイスラエルの子らのあらゆる部族の者に押される光景が描かれています。このことは詩篇50篇で預言されています。

詩篇50篇
50:1 神の神【主】は語り地を呼び集められる。日の昇るところから沈むところまで。
50:2 麗しさの極みシオンから神は光を放たれる。
50:3 私たちの神は来られる。黙ってはおられない。御前には食い尽くす火がありその周りには激しい嵐がある。
50:4 神は上なる天をまた地を呼び集められる。ご自分の民をさばくために。
50:5 「わたしにある敬虔な者をわたしのところに集めよ。いけにえによってわたしと契約を結んだ者たちを。」
50:6 天は神の義を告げ知らせる。神こそが審判者であると。セラ

50:1 神の神【主】は語り地を呼び集められる。日の昇るところから沈むところまで。

・黙示録7章の一人の御使いは、詩篇50篇の「日の昇るところ」から生ける神の印を持って上って来て、日が沈むまでのキリストの光が輝いている間に、地(携挙で地に残された十二部族の子孫・終末のイスラエル)を呼び集めて額に神のしもべの印を押して、その後に、黙示録14章で、麗しさの極みシオンから神(子羊・キリスト)はイスラエルに向かって光を放たれます。シオンの山の周りには大艱難時代のサタンを裁くための食い尽くす火がありやがてその周りにはさらに激しい神の怒りの嵐が吹き荒れます。この近づいて来る嵐の風を、十四万四千人のイスラエルの子らのあらゆる部族の者の額に印が押されるまでの間食い止めるために、四人の御使いが地の四隅に立ち、地の四方の風(神の怒りの嵐の風)をしっかりと押さえて、地にも海にもどんな木にも吹きつけないように、していました。

 

ヨハネの黙示録7章

7:1 その後、私は四人の御使いを見た。彼らは地の四隅に立ち、地の四方の風をしっかりと押さえて、地にも海にもどんな木にも吹きつけないようにしていた。
7:2 また私は、もう一人の御使いが、日の昇る方から、生ける神の印を持って上って来るのを見た。彼は、地にも海にも害を加えることを許された四人の御使いたちに、大声で叫んだ。
7:3 「私たちが神のしもべたちの額に印を押してしまうまで、地にも海にも木にも害を加えてはいけない。」

 

詩篇50篇
50:3 私たちの神は来られる。黙ってはおられない。

50:4 神は上なる天をまた地を呼び集められる。ご自分の民をさばくために。

・神は終わりの日に雲に隠れて御子・キリストとともにクリスチャンを携挙に来ます。その時、神は黙っていません。地上に残されたイスラエルの民に向かって語ります。

50章4節の「上なる天を・・・呼び集める。」とは、クリスチャンを携挙によって天に集めることを預言しています。続いての「・・・地を呼び集められる。」とは、携挙で地上に残された終末のイスラエルの民がシオンの山に集められることを預言しています。そして実際に旧約時代のダビデによって語られたキリストの携挙の預言が黙示録14章で成就します。


50:4 神は上なる天をまた地を呼び集められる。ご自分の民をさばくために。
50:5 「わたしにある敬虔な者をわたしのところに集めよ。いけにえによってわたしと契約を結んだ者たちを。」

50章4節の「ご自分の民をさばくために。」の「さばき」は「悪に報復を与えるための裁き」ではありません。「決着をつける」という意味の「裁判」です。「判定」です。誰に向かって何を判定するのかというと、旧約時代の罪の贖いの生贄によってわたし(神)と契約を結んだ「十二部族の子孫の終末のイスラエル」に判定を下します。イスラエルの十二部族の終末の子孫はキリストの携挙で悔い改めてわたし(子羊・キリスト)にある「敬虔な者」となったので神の裁きによって区別されて大艱難時代の災いから外されて守られます。

50:6 天は神の義を告げ知らせる。神こそが審判者であると。セラ

 

天の御使いたちは神の審判によってサタンの裁きから区別された終末のイスラエルの民を大艱難時代から全力で守ります。

・旧約時代の子羊の血による生贄によってわたし(神)と契約を結んだイスラエルの終末の子孫は神の義による審判によって大艱難時代のサタンの裁きから区別されて守られます。

詩篇50篇は終末のイスラエルを預言しています。
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そしてイエス・キリストを救い主として心に受け入れた現代のクリスチャンの額にもイスラエルの十四万四千人と同じように額に子羊の名と、子羊の父の名が記されています。だから、クリスチャンは額に記されている「子羊の名と、子羊の父の名」によって祈ります。現代のクリスチャンの祈りは祈りの終わりに人それぞれ言葉は違いますが「イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン」と祈ります。自分の名によってでもなく牧師の名によってでもなく「イエス・キリストの御名によって」祈ります。霊的な額に子羊の名と子羊の父の名の証印が押されているから「イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン」と祈ります。

 

ヨハネの黙示録14章
14:1 また私は見た。すると見よ、子羊がシオンの山の上に立っていた。また、子羊とともに十四万四千人の人たちがいて、その額には子羊の名と、子羊の父の名が記されていた。

14:2 また、私は天からの声を聞いた。それは大水のとどろきのようであり、激しい雷鳴のようでもあった。しかも、私が聞いたその声は、竪琴を弾く人たちが竪琴に合わせて歌う声のようであった。

14:3 彼らは御座の前と、四つの生き物および長老たちの前で、新しい歌を歌った。しかし、地上から贖われた十四万四千人のほかは、この歌を学ぶことができなかった。

 

14章3節の「新しい歌」については詩篇33、40、96、98、144、149篇でそれぞれ預言されています。

 

同じく14章3節で「しかし、地上から贖われた十四万四千人のほかは、この歌を学ぶことができなかった。」と書かれているのは「新しい歌」は詩篇50篇5節の旧約時代に交わされた「いけにえによってわたしと契約を結んだ者たち」なる終末の144000人のイスラエルだけに適用される契約で詩篇の預言通りシナイ山に集められた「イスラエルと神だけの世界」で歌われる霊的な「新しい賛美の歌」ですから契約外の他のすべての異邦人には彼らが歌う「新しい歌」は理解出来ません。「新しい歌」は先祖が神と生贄の契約を交わした終末のイスラエルの民と神だけの世界で歌われる賛美の歌です。

 

詩篇50篇

50:5 「わたしにある敬虔な者をわたしのところに集めよ。いけにえによってわたしと契約を結んだ者たちを。」
 

ですから、黙示録14章のシナイ山でキリストと共にいる十四万四千人のイスラエルの民はクリスチャンと同じ「新しく御霊によって生まれ変わった十四万四千人のイスラエルの民」です。 だから十四万四千人のイスラエルは「女に触れて汚れたことがない者たちで、童貞である者たち」なのです。 新しく生まれる変わる前までは「【霊的】に女に触れた汚れた性体験のある【罪人】たち」でした。 携挙前までは、イスラエルは「姦淫を犯した男たち」でした。 姦淫を犯した男たち(イスラエル)が御霊によって新しく「無垢な赤ちゃん」として生まれ変わったから「女に触れて汚れたことがない者たちで、童貞である者たち」となりました。 

 

では、今までイスラエルは誰と姦淫を犯していたのか? というと、それは黙示録17章で出て来る「大淫婦」なる女です。 この大淫婦は以前の「中天の世界」で解説した創世記1章2節の大水の上に君臨するサタンの長です。 悪霊とサタンの巣窟となっている中天の世界を支配するサタンの長を黙示録17章以降は「大バビロンの大淫婦」と呼んでいます。 大バビロンは旧約時代にイスラエルが捕囚されたバビロン帝国のことです。

 

 イスラエル民族はバビロン捕囚の時代にバビロンの偶像崇拝と文化に染まり本来のイスラエルのヤハウェの神への信仰を失って堕落していきました。 ヤハウェの神の象徴である「契約の箱」を見失いました。 イスラエルはバビロン捕囚の時代にヤハウェの神から浮気して、不倫をして、バビロンの偶像の神と姦通しました。 黙示録はバビロン捕囚時代のイスラエルの不信仰を「男女の関係」として文学的に比喩的にイスラエルの悔い改めと大バビロンの長なるサタンの裁きを描いています。 

ヨハネの黙示録17章、19章

17:1 また、七つの鉢を持つ七人の御使いの一人が来て、私に語りかけた。 「ここに来なさい。大水の上に座している大淫婦に対するさばきを見せましょう。

17:2 地の王たちは、この女と淫らなことを行い、地に住む人々は、この女の淫行のぶどう酒に酔いました。」

17:3 それから、御使いは私を御霊によって荒野へ連れて行った。 私は、一人の女が緋色の獣に乗っているのを見た。 その獣は神を冒涜する名で満ちていて、七つの頭と十本の角を持っていた。

17:4 その女は紫と緋色の衣をまとい、金と宝石と真珠で身を飾り、忌まわしいものと、自らの淫行の汚れで満ちた金の杯を手に持っていた。 

17:5 その額には、意味の秘められた名、「大バビロン、淫婦たちと地上の忌まわしいものの母」という名が記されていた。

17:6 私は、この女が聖徒たちの血とイエスの証人たちの血に酔っているのを見た。 私はこの女を見て、非常に驚いた。 

 

19:2 神のさばきは真実で正しいからである。 神は、淫行で地を腐敗させた大淫婦をさばき、ご自分のしもべたちの血の報復を彼女にされた。」 

19:3 もう一度、彼らは言った。 「ハレルヤ。彼女が焼かれる煙は、世々限りなく立ち上る。」

 

「淫婦」という固有名詞、ワードは旧約聖書には一つも出て来ません。 ヨハネの黙示録だけに出て来ます。

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 黙示録7章では、キリストの携挙によって地上に残された終末のイスラエルの民が悔い改めて新しくキリストを民族の神として信じて救われたので、イスラエルが救われた「証・御霊による贖いの証印」として額に印章が押されて、 救われたイスラエルはクリスチャンと同じように心に御霊を与えられたことが描かれています。 (Ⅱコリ1:22)そのイスラエルが黙示録14章でキリストとともにシオンの山にいてキリストを賛美しています。

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次に

黙示録7章で額に神のしもべの印を押されたイスラエルの「十四万四千人」という数字は「実数」ではありません。

 イスラエルに属するすべての人々を「比喩的に表した数字」です。

「艱難 前 携挙説」の牧師先生、神学博士のみなさんは黙示録7章に出て来る十四万四千人は「艱難時代に救われたイスラエルの人数で、この十四万四千人のイスラエル人の伝道によって世界の人々が救われる」と教えていますが、今現在のイスラエルの人口はアラブ系の人も含めて約920万人ですから、 920万人の中のたった「十四万四千人」の少数しか救われないなんて普通に考えて、常識的に考えて、信仰的に考えて、あり得ません。 聖書には

ヨハネの黙示録7章
7:4 私は、印を押された者たちの数を耳にした。 それは十四万四千人で、イスラエルの子らのあらゆる部族の者が印を押されていた。

と書かれています。

イスラエルの子らのあらゆる部族の者が印を押されていた。

と書かれています。 「あらゆる部族の者」とは「すべての部族の者」という意味です。 「たった一部の部族」ではありません。 920万人の中のたった「十四万四千人」ではありません。 包括的に「あらゆる部族の者、すべての部族の者」という意味で書かれています。 文法的に

十四万四千人のイスラエルの子らのあらゆる部族の者が印を押されていた。

という意味で書かれています。
920万人の中のたった「十四万四千人」ではありません。 「十四万四千人」のイスラエルの子らのすべてです。

 「十四万四千人」というのはイスラエルの子らの「総人数」です。
私が言っていることの意味、分かりますよね?

ようするに黙示録7章の「十四万四千人」は全イスラエルを表す意味の比喩、象徴として書かれている人数です。 実際に救われる人の「実数」ではありません。

7:4 私は、印を押された者たちの数を耳にした。 それは十四万四千人で、イスラエルの子らのあらゆる部族の者が印を押されていた。

ですから「十二部族の血統を受け継ぐ現代のイスラエルのすべての民」という意味です。 その「十二部族の血統を受け継ぐ現代のイスラエルのすべての民」を比喩として、象徴的に「十四万四千人」という人の数で表しています。
だから十二部族均等に「一万二千人」が割り振られています。 「一万二千人」が十二部族均等に割り振られているのは「十二部族の子孫が平等にすべての者が救われる」という意味で均等な人数が割り振られています。 実数で920万人の内の各部族の子孫がきっちりと一万二千人づつ合計十四万四千人だけが救われで伝道するなんて普通に考えて、常識的に考えて、信仰的に考えて、あり得ません。

頭のいい牧師先生や神学博士のみなさんはやはり私みたいな凡人とは思考形態が違うのでしょうね。 知識は人を誇らせます。
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「十四万四千人」は1部族12000人を12部族平等に均等に割り振られた数字です。 1部族一万二千人×12部族で十四万四千人です。

そして1部族一万二千人という数字は12×1000=12000人です。

いずれも「12」という数字が鍵(key)となっています。

12の数字は新約、旧約聖書合わせて内容は多岐にわたりますが243句出て来ます。 主要な12の数字として

・イスラエルの12部族の12
・弟子(使徒)たちの12弟子
・黙示録21章に出て来る聖なる都、新しいエルサレムの12部族と12弟子に割り当てられている十二の門
・十二人の御使い、 十二の土台石
・そして十二軍団の御使い(マタイ26:53)、
・十二のかごをパン切れでいっぱいにした奇跡(マルコ6:43)
・両親は祭りの慣習にしたがってイエスが十二歳になったときも都へ上ったことも(ルカ2:42)
・十二年間長血を患っていた女が癒されたのも
・すでに息を引き取った十二歳のヤイロの娘が生き返ったのも(ルカ8~)、

などなど、みんな「12」という数字が共通になっています。 また私たちの生活は年月、時間においても

・1年12ヵ月
・1日24時間(午前・午後12時間×2)
・1時間60分(12×5)
・1分60秒(12×5)
・神の天地創造は12を割る六日間でした

というように、12で割り切れる数字が日常生活においてベースになっています。
一見屁理屈に見えますが、神が12という数字で部族を選んだことも、イエスが12という数字で弟子を選んだことも、私たち人間には計り知れませんが神様にとっては何か? 意味のある数字です。

そして「十四万四千人」の意味を考えるヒントが黙示録21章に書かれています。

ヨハネの黙示録21章
21:10 そして、御使いは御霊によって私を大きな高い山に連れて行き、聖なる都エルサレムが神のみもとから、天から降って来るのを見せた。
21:11 都には神の栄光があった。 その輝きは最高の宝石に似ていて、透き通った碧玉のようであった。
21:12 都には、大きな高い城壁があり、十二の門があった。 門の上には十二人の御使いがいた。 また、名前が刻まれていたが、それはイスラエルの子らの十二部族の名前であった。
21:13 東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。
21:14 都の城壁には十二の土台石があり、それには、子羊の十二使徒の、十二の名が刻まれていた。
21:15 また、私に語りかけた御使いは、都とその門と城壁を測るために金の測り竿を持っていた。
21:16 都は四角形で、長さと幅は同じである。 御使いが都をその竿で測ると、一万二千スタディオンあった。 長さも幅も高さも同じである。
21:17 また城壁を測ると、百四十四ペキスあった。 これは人間の尺度であるが、御使いの尺度も同じであった。

・竿=測量や建築に使う間竿 (けんざお)
・一万二千スタディオン(1スタディオン=185m/12000スタディオン=2220km)の都の長さと幅。
・百四十四ペキス(1ペキス=0.45m/144ペキス=64.8 m)の城壁の高さ。

黙示録21章16節に書かれている「一万二千スタディオン」は先ほどの黙示録7章で12部族均等に割り振られた「一万二千人」と同じ数字です。 続いて書かれている「百四十四ペキス」は黙示録7章ですべての12部族の額に印が押された十四万四千人の1000分の1の数字です。 144(ペキス)×1000=144000(額に印を押された12部族の総数)です。 これで辻褄が合いました。

1部族=12×1000=12000人は12を千倍した数です。 ここでも「12」という数字がベースになっています。 そして黙示録7章の1部族12000人は黙示録21章の「一万二千スタディオン」と関連しています。 紐づけられています。 一万二千スタディオンという数字の「根拠」となっています。 同様に

黙示録7章の144000人は黙示録21章の「百四十四ペキス」と関連しています。 紐づけられています。 百四十四ペキスという数字の「根拠」となっています。

・黙示録7章の144000人は黙示録21章の144(ペキス)を千倍にした数字です。
・黙示録7章の一部族12000人は黙示録21章の12000(スタディオン)と同じ数字です。 そしてヨハネが言っています。

ヨハネの黙示録21章
21:16 都は四角形で、長さと幅は同じである。 御使いが都をその竿で測ると、一万二千スタディオンあった。 長さも幅も高さも同じである。
21:17 また城壁を測ると、百四十四ペキスあった。 これは人間の尺度であるが、御使いの尺度も同じであった。

―――これは人間の尺度であるが、御使いの尺度も同じであった。 ―――

ここで唐突に「これは人間の尺度であるが、御使いの尺度も同じであった。」という言葉が出てきました。 このヨハネの「尺度」という言葉が黙示録7章の数字と黙示録21章の数字の意味を解き明かすカギとなります。

尺度とは

1 物の長さを測る道具。 ものさし。
2 長さ。 寸法。 「尺度を測る」
3 計量の標準。 また、判断・評価などの基準。 「合否判定の尺度を決める」 (デジタル大辞泉)

という意味で、ものを測る基準、判断する基準です。

ヨハネは「これは人間の尺度であるが、御使いの尺度も同じであった。」と言っていますから、天には「人間の尺度」と「御使いの尺度」の二通りの尺度が存在します。 そして黙示録21章の「一万二千スタディオンと百四十四ペキス」という数字は御使いが「人間の尺度」で測った数字(値)です。 だから「これは人間の尺度であるが、御使いの尺度も同じであった。」とヨハネは言っています。 そして「尺度も同じであった。」というのは「計算によって数字が一致した」「換算によって数字が同じになった」という意味です。

 

黙示録7章の一万二千人、十四万四千人は「御使いの尺度」で数えた数字です。
 

黙示録21章の一万二千スタディオン、百四十四ペキスは「人間の尺度」で測った数字です。
 

ですから黙示録7章の一万二千人、十四万四千人と黙示録21章の一万二千スタディオン、百四十四ペキスは「関連」しています。 「つながって」います。 黙示録21章の聖なる都の寸法、大きさは黙示録7章の額に印を押されたイスラエルの十二部族の人数を土台として設計されています。
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黙示録7章の「十四万四千人」という人数をヨハネは「御使い同士の会話から」聞きました。 自分で数えたのではありません。 御使いが御使いの尺度で数えた「十四万四千人」という人数をヨハネはそばで御使い同士の会話から「耳で聞いた」ので「それは十四万四千人で、」と書きました。

7:4 私は、印を押された者たちの数を耳にした。 それは十四万四千人で、イスラエルの子らのあらゆる部族の者が印を押されていた。

7章4節に「私は、印を押された者たちの数を耳にした。」と書かれています。 そして御使いが数えた「十四万四千人」という人数は「人間の尺度(実数)」で数えたのではなく「御使いの尺度」で数えられた人数です。 つまり実際には何百万人という終末のイスラエルの民の額に御使いが印を押していました。 その何百万人という数字を御使いが御使いの尺度で数えた人数が「十四万四千人」という人数です。 ヨハネが実際に目の前で見ている「何百万人」という人数は「人間の尺度による目算」です。 御使いが何百万人という人数を「十四万四千人」と数えたのは「御使いの尺度による計算」です。 人間と御使いでは同じ何百万人でも「数え方」が違います。 「計算式」が違います。 この数え方、計算式が黙示録21章で突然出てきた「尺度」の意味です。 ですから

黙示録7章の一万二千人、十四万四千人と黙示録21章の一万二千スタディオンと百四十四ペキスは「関連」しています。 「つながって」います。 黙示録21章の聖なる都の寸法、大きさは黙示録7章の額に印を押されたイスラエルの十二部族の人数を土台として設計されています。
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そして黙示録7章と21章では同じ数字でも「尺度」が違います。 同じ数字でも「見方、測り方」が違います。 同じ数字でも「用途」が違います。 黙示録7章は「人の数」です。 黙示録21章は聖なる都の「面積、立方体の寸法」です。

黙示録7章の144000人という「人数」を黙示録21章では「面積、容積」に換算して聖なる都の寸法、大きさを設計しています。 換算とは「ある数量を他の単位に換えて計算しなおすこと」です。 

ここから144000人という人数を聖なる都の立方体の寸法にどうやって換算したのかを算数を使って分かり易く説明します。

水の「重さ」は1000リットル=1000kg=1トン です。
そして1000kg=1トンの体積は1㎥です。 (㎥の肩についている3が小さすぎて分かりずらいと思いますが)
体積1㎥の「大きさ」は「縦・横・高さ・が1mの立方体」です。

仮に、床に1000リットルの水がこぼれたとします。 床にこぼれた1000リットルの水をすべて回収して貯める容器の大きさを計算すれば「縦・横・高さ・が1mの立方体」になります。 その理屈と同じです。

黙示録7章の1部族12000人、12部族の合計144000人という「人数」は床にこぼれた「1000リットルの水」です。 そして床にこぼれて回収した1000リットルの水(144000人)を貯水する「容器の寸法(都の容積の寸法)」が、黙示21章の聖なる都の長さと幅と高さの「寸法」です。 そこに聖なる都を囲む「城壁の高さの寸法」が書かれています。
この数学的な理屈、分かりますよね? 人の人数を都の大きさに「換算する数式」にたとえて説明しています。 この「換算する数式」が「尺度」です。 ですから

黙示録21章の聖なる都の一万二千スタディオンの長さと幅と高さの立法体の寸法は黙示録7章の「1部族=一万二千人」を根拠として設計されています。 城壁の高さ百四十四ペキスも黙示録7章の「12部族=十四万四千人」を根拠として設計されています。

7:4 私は、印を押された者たちの数を耳にした。 それは十四万四千人で、イスラエルの子らのあらゆる部族の者が印を押されていた。
7:5 ユダ族から一万二千人が印を押され、ルベン族から一万二千人、ガド族から一万二千人、・・・

21:16 都は四角形で、長さと幅は同じである。 御使いが都をその竿で測ると、一万二千スタディオンあった。 長さも幅も高さも同じである。
21:17 また城壁を測ると、百四十四ペキスあった。 これは人間の尺度であるが、御使いの尺度も同じであった。

人間尺度と御使いの尺度が「同じだった」のは「数字が一致した」からです。 「黙示録21章の聖なる都の大きさの数字が黙示録7章の額に印を押された144000人の数字と一致した」からです。 ここでヨハネが言っている「尺度」とは先ほど説明した「換算」です。 水の量を立方体の寸法に換算したように144000人の数字を神の都の立方体の寸法に換算して数字が一致したので「これは人間の尺度であるが、御使いの尺度も同じであった。」とヨハネは納得して記録しました。 人間の尺度と御使いの尺度の間に「換算」が入って一致した数字です。 1000リットルの水を換算して縦・横・高さ・が1mの立方体の容器を作ったのと同じ理屈です。

聖書に出て来る様々な「数字」にはそれぞれ「科学的な根拠」があります。 創世記1章に書かれている万物の法則、科学、物理の法則がすべて神が創造されたものであるならば、当然、聖書は科学と一致します。 合理します。 当てはまります。 計算出来ます。 科学は聖書の事実を証明します。
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黙示録7章の段階ではヨハネは「1部族=12000人、12部族合わせて144000人」という御使いの数字の意味が分かりませんでした。 ただ御使いの144000人という数字を「耳にした」だけです。

7:4 私は、印を押された者たちの数を耳にした。 それは十四万四千人で、イスラエルの子らのあらゆる部族の者が印を押されていた。

黙示録21章で聖なる都を見せられて初めてヨハネは黙示録7章で耳にした十四万四千人の数字の意味が理解出来ました。 納得しました。

 

ヨハネは黙示録21章の聖なる都の大きさは黙示録7章の12部族の額に印が押された人数によって設計されていることが理解出来たので「これは人間の尺度であるが、御使いの尺度も同じであった。」と納得しました。
ここまで私が言っていることの意味、みなさん分かりますよね?

 

結論として、

黙示録7章の1部族12000人、12部族合わせて合計144000人という数字は人間の「数学的な実数」ではなく御使いの尺度で計算された「天の数字」です。 黙示録7章にはキリストの携挙で地上に取り残されたイスラエルの十二部族の血統を受け継ぐ終末のすべてのイスラエルの民が救われて御使いたちによって救われた証としての「御霊による贖いの証印」がすべてのイスラエルの子孫の額に押される光景が描かれています。 1部族12000人が平等に均等に12部族すべてに振り分けられて合計144000人という数字は「すべてのイスラエルの民が分け隔てなく平等に救われる」という神の約束を霊的な比喩として象徴として表した数字です。 そして救われた1部族12000人×12部族=144000人という「すべてのイスラエルの民の信仰によって」聖なる都の大きさが黙示録21章で設計されています。 黙示録21章16節の1辺12000スタディオンの立方体は黙示録7章で均等に割り振られた1部族12000人×12部族=144000人の「領域」を表しています。
144ペキスは黙示録7章の12部族144000人の領域を囲っている城壁、フェンスの「高さの寸法」を表しています。

そして神の都には十二の門、入口、ゲートが築かれています。 十二の都の門には黙示録7章の十二部族の名が刻まれていて、十二の城壁の土台石には子羊の十二使徒の名が刻まれています。 入口は12箇所ありますが、中に入ればみな同じ「一つのエリア、領域、場所」です。 これは、旧約の信仰者も新約のクリスチャンも神の聖なる都に入れば分け隔てのない「神にあって一つの世界」を表しています。 都の門に十二部族の名が刻まれているのも土台石に十二使徒の名が刻まれているのも

神の永遠の聖なる都は旧約の信仰者と新約のクリスチャンの「信仰によって」建てられている

という「証」です。
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次回の「キリストの携挙ー10」に続きます。
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引用・聖書 新改訳2017 © 新日本聖書刊行会
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