聖霊様が語られる方法 1
私達の霊を立たせてから語られる
彼がわたしに語り始めたとき、霊がわたしの中に入り、
わたしを自分の足で立たせた。わたしは語りかける者に耳を傾けた。
エゼキエル書 / 2章 2節
神様の御霊は疲れた肉体と霊をまず立たせた後、語られる。
えにしだの木の下に倒れたエリャを二回も慰めて立たせた。
まず、彼に食べ物を食べさせて気力を回復させた後語られた。
(列王記上 / 19章 5ー9節)
現在も聖霊様は語る前、私達が聞こえるように霊を生き返させて、
霊を眠りから起こしてくださる。
誰が眠ってる者に語るのか。
聖霊様はまずくたびれ疲れた肉体を慰めて力をくださり、
傷だらけの心を慰めて、失望した人に望みの光を照らして、
閉まった霊の窓を開いてくださる。
そして、主様への渇望を起こしてから語られる。
霊の渇を起こしてから語られるのだ。
聖霊様は弱い私達を助けて、
どのように祈ったら良いかか知らせてくださり、
願いの心をくださった後、語られる。
私達に従いたい心を起こしてから語られる。
気力が衰えたなら、まず気力を回復してください。
聖霊様はその後、語り始めるでしょう。
彼がわたしに語り始めたとき、霊がわたしの中に入り、
わたしを自分の足で立たせた。わたしは語りかける者に耳を傾けた。
エゼキエル書 / 2章 2節
神様の御霊は疲れた肉体と霊をまず立たせた後、語られる。
えにしだの木の下に倒れたエリャを二回も慰めて立たせた。
まず、彼に食べ物を食べさせて気力を回復させた後語られた。
(列王記上 / 19章 5ー9節)
現在も聖霊様は語る前、私達が聞こえるように霊を生き返させて、
霊を眠りから起こしてくださる。
誰が眠ってる者に語るのか。
聖霊様はまずくたびれ疲れた肉体を慰めて力をくださり、
傷だらけの心を慰めて、失望した人に望みの光を照らして、
閉まった霊の窓を開いてくださる。
そして、主様への渇望を起こしてから語られる。
霊の渇を起こしてから語られるのだ。
聖霊様は弱い私達を助けて、
どのように祈ったら良いかか知らせてくださり、
願いの心をくださった後、語られる。
私達に従いたい心を起こしてから語られる。
気力が衰えたなら、まず気力を回復してください。
聖霊様はその後、語り始めるでしょう。
聖霊様との交わり
三位一体の神様の本性は愛と喜びと幸せ。
この愛と喜びと幸せがとても大きくて満ち溢れて
それをシェアしたくて造った存在が人間なのだ。
しかし、人間はどんなに親密な関係でも各々独立な存在。
いくら愛しても、別々の人格体なので、完全な愛の連合はできない。
そして、すべての人間の深い底面には愛についての渇がある。
これは完全な神様の愛についての渇求なのだ。
私達の心に満ち溢れる愛についての渇求。
しかし、愛はもらうだけでは満足がない。
愛はあげる時満足できる。
神様はこれを知ってる。
そして、聖霊様が私達の内に入って生きてくださる。
あなたの内に聖霊様がいることを知ったらこれからどうすればいいのか?
聖霊様と一緒に交わりながら、生きる。
聖霊様と交わらないと、
聖霊様と一緒に生きる喜びと幸せを享受することができないだろう。
聖霊様は私達と交わるために私達の内にいる方で
一人でいるために来られた方ではない。
歌を歌わなければ歌が分からないように、
聖霊様と交際しなければ、
聖霊様が与えられる喜びと幸せを享受することができないし、
聖霊様が与えられる知恵と能力も味わうことができない。
今あなたを訪ねて来た偉大な聖霊様について歓迎して交わっているのか?
省みてみることだ。
なら、聖霊様と交わりながら生きるライフって何?
始めに、 霊と霊が会うこと。
この交わりは私達が純粋な霊で聖霊様に自分をささげる時だけ成り果てる。
霊的な交わりは聖霊様と私達の霊が連合する瞬間をいう。
この時聖霊様が私達の霊に満ち溢れる。
そして、聖霊様の平穏と和やかが私達の内に溢れ出る。
その時、私達は慰労と勇気をもらい、喜びと感激を経験する。
聖霊様は愛いっぱいの母のようで私達の霊を抱いてくださる時があるが、
これがまさに連合であり、交わりだ。
愛する人とは交わり自体が幸せ。
恵みは霊と霊の交わりから来られるのだ。
二番目に、 聖霊様と相談しながら、生きること。
真の交際のために対話はとても大事なことである。
聖霊様と一緒に生きても対話をしないと、
私達は聖霊様のいない者みたいに、人生を生きてしまう。
聖書ではこのような人を肉の人だという。
聖霊様と相談することを始めてください。
私達の霊は聖霊様と相談することでもっと敏感になり、豊かになる。
三番目に、 聖霊様に従う人生。
聖霊様は従う者におっしゃる。
聖霊様を消滅させないで、聖霊様の悟りに従う者に
もっと大きい悟りを与えられる。
あなたは真に聖霊様に従う準備になっているのか?
聖霊様がどんなことをおっしゃっても従う準備になっているのか?
私達が従う心性を持っていつも耳を傾けば、
いつでもどこでも聖霊様の御声を聞くことができる。
聖霊の御声を聞く者 1
私達の霊を生き返させる聖霊
聖霊の御声を聞く者になるためにはまず霊的な人にならなければいけない。
霊的な人というのはイエス・キリストを救い主と告白して、
聖霊が来られて霊を生き返らせた人だ。
聖霊を従い生きるためには聖霊と相談して、
その御言葉に従うことを願う人なのだ。
霊的なライフは肉で始めるのではない。
霊で始じめないといけない。
霊で始める為には、まず聖霊によって霊が生き返られなければいけない。
聖霊はいつも私達の霊を生き返らせた後、おっしゃる。
霊的な人は聖霊によって霊が生き返った人。
聖霊がおっしゃる相手は私達の霊で、肉ではない。
自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。
その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。
霊によって初めて判断できるからです。
コリントの信徒への手紙一 / 2章 14節
そして、 聖霊がまず私達の死んだ霊を生き返らせてからおっしゃるのだ。
聖霊は人格を持つ方で私達の霊の人格におっしゃる。
聖霊は私達の交わるため私達の内にいる。
私達の考えや感情があるところは心だが、聖霊がいるところは私達の霊だ。
わたしは父にお願いしよう。
父は別の弁護者を遣わして、
永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。
この方は、真理の霊である。
世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、
受け入れることができない。
しかし、あなたがたはこの霊を知っている。
この霊があなたがたと共におり、これからも、
あなたがたの内にいるからである。
ヨハネによる福音書 / 14章 17節
信じる者には等しく聖霊がその内に生きているのに、
なぜあるクリスチャンは失敗した生を生きて、
あるクリスチャンは成功な生を生きるのか?
(ここで言う成功はこの世でいう世俗な成功ではなく、
神様の目線で見る成功である)
聖霊が私達の内に生きていることを悟らないで生きることと
悟って生きることにその差がある。
あなたの目が開いて偉大な霊性があなたの内に生きていることを悟ると
あなたの人生に革命が起きるでしょう。
聖霊は私達私に向けた神様、すなわち天の父の善良な御心を果たすために
私達の内に生きている。
あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、
行わせておられるのは神であるからです。
フィリピの信徒への手紙 / 2章 13節
とバウロは言った。
聖霊の願われるように人生を生きるよりもっと偉大に生きる道はない。
聖霊の御声を聞く者になるためにはまず霊的な人にならなければいけない。
霊的な人というのはイエス・キリストを救い主と告白して、
聖霊が来られて霊を生き返らせた人だ。
聖霊を従い生きるためには聖霊と相談して、
その御言葉に従うことを願う人なのだ。
霊的なライフは肉で始めるのではない。
霊で始じめないといけない。
霊で始める為には、まず聖霊によって霊が生き返られなければいけない。
聖霊はいつも私達の霊を生き返らせた後、おっしゃる。
霊的な人は聖霊によって霊が生き返った人。
聖霊がおっしゃる相手は私達の霊で、肉ではない。
自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。
その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。
霊によって初めて判断できるからです。
コリントの信徒への手紙一 / 2章 14節
そして、 聖霊がまず私達の死んだ霊を生き返らせてからおっしゃるのだ。
聖霊は人格を持つ方で私達の霊の人格におっしゃる。
聖霊は私達の交わるため私達の内にいる。
私達の考えや感情があるところは心だが、聖霊がいるところは私達の霊だ。
わたしは父にお願いしよう。
父は別の弁護者を遣わして、
永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。
この方は、真理の霊である。
世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、
受け入れることができない。
しかし、あなたがたはこの霊を知っている。
この霊があなたがたと共におり、これからも、
あなたがたの内にいるからである。
ヨハネによる福音書 / 14章 17節
信じる者には等しく聖霊がその内に生きているのに、
なぜあるクリスチャンは失敗した生を生きて、
あるクリスチャンは成功な生を生きるのか?
(ここで言う成功はこの世でいう世俗な成功ではなく、
神様の目線で見る成功である)
聖霊が私達の内に生きていることを悟らないで生きることと
悟って生きることにその差がある。
あなたの目が開いて偉大な霊性があなたの内に生きていることを悟ると
あなたの人生に革命が起きるでしょう。
聖霊は私達私に向けた神様、すなわち天の父の善良な御心を果たすために
私達の内に生きている。
あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、
行わせておられるのは神であるからです。
フィリピの信徒への手紙 / 2章 13節
とバウロは言った。
聖霊の願われるように人生を生きるよりもっと偉大に生きる道はない。
自ずから成長しない霊性 2
新生しても、聖霊を従い、行わないで、肉体を追い、生きる者は
キリストにあっては幼子または肉の人だという。
兄弟たち、わたしはあなたがたには、
霊の人に対するように語ることができず、
肉の人、つまり、キリストとの関係では
乳飲み子である人々に対するように語りました。
わたしはあなたがたに乳を飲ませて、
固い食物は与えませんでした。
まだ固い物を口にすることができなかったからです。
いや、今でもできません。
コリントの信徒への手紙一 / 3章 1-2節
新生した人も最初は幼子みたいで
新生してない人、すなわち肉の人みたいに生きる。
相変わらず肉の人だからです。
お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、
あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、
ということになりはしませんか。
コリントの信徒への手紙一 / 3章 3節
このような人の霊性は外なる人、すなわち肉に遮られて
霊的な機能があまり現れない。
このような人は霊の体に成長しなければならない。
使徒パウロも自分は霊的に
幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、
幼子のように思い、幼子のように考えていた。
成人した今、幼子のことを棄てた。
コリントの信徒への手紙一 / 13章 11節
と告白した。
霊的に成人した人は話すことも悟ることも成長した人だ。
霊的幼子の知識は知ることも悟ることも少ない。
わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。
だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。
わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、
はっきり知られているようにはっきり知ることになる。
コリントの信徒への手紙一 / 13章 12節
私達が主に会ってはっきり知る時が来る。
その時が至るまで、私達はもっと主を知ることと
主の御心を理解し、悟ることに成長するように力を尽くさなけらばならない。
自ずから成長しない霊性 1
生まれた赤ちゃんも成人と同じく人格を持ってる。
しかし、赤ちゃんは
理解すること(知)、感じること(情)、決断すること(意)がとても微弱だ。
段々成長しながら、学んで、訓練されて、人格を取り揃えて行く。
私達の霊も新生した初期は
幼子のようだが、成人になると話すことや悟ることが成人と同じくなる。
幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、
幼子のように思い、幼子のように考えていた。
成人した今、幼子のことを棄てた。
コリントの信徒への手紙一 / 13章 11節
なので、新生した人はもう
造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、
真の知識に達するのです。
コロサイの信徒への手紙 / 3章 10節
だから、
わたしたちの主、救い主イエス・キリストの恵みと知識において、
成長しなさい。
ペトロの手紙二 / 3章 18節 と聖書に書いてある。
私達の霊性は訓練すればするほどもっと成長していく。
ここで肝に銘ずることは霊性訓練の源泉は「愛」ということ。
真心から神様を愛するうち、霊的世界も開く。
聖アゴスティンは
「キリスト教の神秘は神様を知り、その方を愛する知識がその源泉だ」
と言った。
霊性訓練のためにはまず人間の霊を理解して、
霊的世界の法則を知ることが必要である。
しかし、赤ちゃんは
理解すること(知)、感じること(情)、決断すること(意)がとても微弱だ。
段々成長しながら、学んで、訓練されて、人格を取り揃えて行く。
私達の霊も新生した初期は
幼子のようだが、成人になると話すことや悟ることが成人と同じくなる。
幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、
幼子のように思い、幼子のように考えていた。
成人した今、幼子のことを棄てた。
コリントの信徒への手紙一 / 13章 11節
なので、新生した人はもう
造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、
真の知識に達するのです。
コロサイの信徒への手紙 / 3章 10節
だから、
わたしたちの主、救い主イエス・キリストの恵みと知識において、
成長しなさい。
ペトロの手紙二 / 3章 18節 と聖書に書いてある。
私達の霊性は訓練すればするほどもっと成長していく。
ここで肝に銘ずることは霊性訓練の源泉は「愛」ということ。
真心から神様を愛するうち、霊的世界も開く。
聖アゴスティンは
「キリスト教の神秘は神様を知り、その方を愛する知識がその源泉だ」
と言った。
霊性訓練のためにはまず人間の霊を理解して、
霊的世界の法則を知ることが必要である。
十一献金は負担がある・・・
十一献金は多くの信徒に敏感なこと。
献金は自由にすればいいじゃないかと思う人も多い。
必ず十一献金する必要があるか?
真心をこめた献金ではなく、
ただこの世で祝福、いわゆる物質の祝福をもらうためにする十一献金は
神様も喜ばないでしょう。
その十一献金は神様のための献金ではなく、
結局自分のための献金になるだけではないかと思う。
神様は利己的な考えからの十一献金より
神様への愛を捧げる素直な心をもっと喜ばれる。
それにしても、あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。
薄荷や芸香やあらゆる野菜の十分の一は献げるが、
正義の実行と神への愛はおろそかにしているからだ。
これこそ行うべきことである。
もとより、十分の一の献げ物もおろそかにしてはならないが。
ルカによる福音書 / 11章 42節
物質主義が広まった現代の時代に、
まだ神様のこともよく分からないし、信仰もいまいちの段階なのに、
熱心で十一献金するのはなかなか難しいでしょう。
初心者が献金のことでためらうのは当然かも知れない。
それをみて、同じ兄弟姉妹として信仰が無いと責めるのは正しくないと思う。
多くの人がなんとなく十一献金はするけど、
まだ神様に会ったこともなくて、品性もイエス・キリスト様に似てない、
神様の御心を分かろうともしてない、
神様とはあまり関係ない生活をしているケースもよくあるので、
十一献金するとしても、その人の信仰が強いとは言えない。
十一献金はその人の行為の一部だけで、
それで信仰のすべてを判断することはできない。
主の内にあって自分の信仰が成長して
神様の御心が分かるようになり、神様との関係が親密になったら、
十一献金は自分の中でもう悩みにならない。
そういう人は神様の恵みで生きること自体を感謝して、
自然に何かでも神様に捧げたくなるし、
もちろん十一献金に関しても頂いた物質(金銭)の10%を
神様に捧げるのは当然だと思うようになる。
むしろ何か捧げたくても事情で何もできないことに悲しむ人もいるぐらい。
自分が稼ぎ、その一部を返すと思ったら、
自分のお金だと思い、特に大きい金額になると、
「こんな大きい金額は・・・もったいない」と思う人が結構いる。
それで、「旧約聖書の概念だから、
現代には十一献金はする必要がない」と言い張りながら、
代わりに金額を少なくして、感謝献金にする人もいる。
貪欲の誘惑に負け、ただ自分ができないだけなのに。
そういう意味で、十一献金はテストにもなるのでは。
自分の中で貪欲を捨てたか、まだ富が偶像崇拜なのか。
「だれも、二人の主人に仕えることはできない。
一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、
どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」
マタイによる福音書 / 6章 24節
10分の1は元々神様の分け前で、
残りの10分の9を神様から頂くと思えば、
心が重くならないでしょう。
10分の9も頂いたと思ったら、それこそ感謝することになる。
ご自分に聞いてください。
私は今十一献金を義務感でするのか、
それとも喜びと感謝の気持ちでするのか。
何より一番大事なのは「その人が神様をどれぐらい心から愛するのか」。
本当に愛すれば、十一献金はもう問題にならない。
私達はまだまだ未熟な人間。
もし自分ができないことに悩むなら、その気持ちをそのまま
素直に神様に伝えてください。
まだ、無理だと。 これはちょっと試験になるのだと。
そして、いつか父である神様をもっと愛することができて
金銭のことから自由になれるように成長したいと
神様の恵みを求めてください。
十一献金ができないのは信仰成長の段階でもあることだと思って、
周りに十一献金ができない人がいれば、
無条件に責めないで、
その人のこと、暖かい心とお祈りで見守ってあげましょう。
信仰レベルがまだ子供であるその人が主にあって成長して、
いつか神様と親密な関係になりますように。
その人が十一献金ができるかできないかにフォーカスしないで、
その人が神様を愛し、その方の御心を分かるようになることを願い、
喜んでください。
神様を愛すれば、神様の御心を分かれば、
嬉しい心で十一献金ができるので。
最後に、10%を神様に捧げるというのはお金に限らない。
あなたの時間でも10%を神様に捧げたいと思ったら、
そうしてください。
神様はあなたの考えることや本心を全部分かられるので、
どんなに些事なことでも素直な気持ちですることはきっと喜ばれる。
*あくまでも、これは個人の考えなので、
教会や牧会者のご意見とは違うかも知れないこと、
ご存知ください。
なぜキリスト教は排他的なの?
キリスト教を批判的な目線で見る人々から
よくこの質問を聞かれているのでは?
そして、いつも、あらゆることについて、
わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。
エフェソの信徒への手紙 / 5章 20節
あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、
また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、
希望を持って忍耐していることを、
わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです。
テサロニケの信徒への手紙一 / 1章 3節
コロサイにいる聖なる者たち、キリストに結ばれている忠実な兄弟たちへ。
わたしたちの父である神からの恵みと平和が、あなたがたにあるように。
コロサイの信徒への手紙 / 1章 2節
みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、
世の汚れに染まらないように自分を守ること、
これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です。
ヤコブの手紙 / 1章 27節
このように聖書には、
私たちの信じる神様が私たちの父であることを明記している。
ただの神じゃない。
世の中の神々じゃない。
霊である神様は私たちの霊の父である。
イエスは言われた。
「わたしにすがりつくのはよしなさい。
まだ父のもとへ上っていないのだから。
わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。
『わたしの父であり、あなたがたの父である方、
また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」
ヨハネによる福音書 / 20章 17節
霊的に離れていた私たちと交わりたくて、
神様の御子、イエス・キリスト様を送ってくださった父である神様を、
私たちを我が子だとおっしゃる父である神様を私たちは信じる。
その父が一人しかいないというのが、その父だけを愛するというのが、
なぜ排他的になるのか?
無神論でもなく、多神論でもなく、
唯一な天の父を信じるというのが排他的なのか?
肉体の父が一人しかいないと言ったら、その父だけ愛すると言ったら、
それを排他的な考えだと言うのか?
自分の父ではない人に、その方が父だと言ったら、
親父はそれをどう思ってるのか?
喜ぶ親父はいるだろうか?
神様も同じ。喜ばないでしょう。
だから、私達はイエス様の父であり、私達の父である唯一の神様しか認めない。
父である神様は聖書全体で私たちへの愛をずっと歌っている。
父である神様に向いてほしいと切実に訴えている。
思い起こせ、初めからのことを。
わたしは神、ほかにはいない。
わたしは神であり、わたしのような者はいない。
イザヤ書 / 46章 9節
わたしこそあなたの神、主。
エジプトの地からあなたを導き上った。
わたしのほかに、神を認めてはならない。
わたしのほかに、救いうる者はない。
ホセア書 / 13章 4節
あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。
あなたはいかなる像も造ってはならない。
上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、
いかなるものの形も造ってはならない。
あなたはそれらに向かってひれ伏したり、
それらに仕えたりしてはならない。
わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。
わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、
わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。
出エジプト記 / 20章 3-6節
その父の愛に対し、私達ができることは唯一な神様だけを愛し、信じること。
それを排他的だというなら、そのままほったらかして。
デイビッド・ウィルカーソン牧師の預言のメッセージに
このようなことが書いてある。
わたし自身が町を囲む火の城壁となると主は言われる。
わたしはその中にあって栄光となる。
ゼカリヤ書 / 2章 9節
「神様があなたと子供、 そして神様のすべての民を四面で取り囲んで火の城壁になることで
皆を救援する」
この火の城壁は悪が乗ずるによって
もっと高くて、 もっと広くて、 もっと堅固になるでしょう。
神様が人類歴史上一番聖なる、 一番正義のあって、
一番献身になった世代を起こすでしょう。
罪があふれる所ごとに主の恵がもっと溢れる。
神様は火の城壁で保護を受ける聖なる民たちを安全に守るでしょう。
その火の城壁はあまりにも堅くて
サタンとその連中が混沌に陷るようになるはずで、
神様の火の城壁の中にある人々に触れることができない。
神様の関心はそ火の城壁の内にあります
火の城壁の外には混乱と混沌が加重されるだけです。
状況がもっと悪くなるほど火の城壁はもっと高くなって堅固になるでしょう。
イエス・キリスト様は自分に献身された人々に決して消滅しない火の城壁、
四面を取り囲んだ保護壁になってくださる。
同性愛者たちと変態性欲者たちが自分の悪行を誇るよう
ほったらかしておいてください!
ロッカー(ロックを歌うシンガー)たちが彼らの愚かで悪い行実で
世の中をあざ笑って振るようにほったらかしてください!
サタンが自分の時が間近いことを分かって大きな怒りを抱いて
世の中に下るようにほったらかしてください!
悪者が暴れ狂うようにほったらかしてください!
共産主義者たちと人本主義者たちが
彼らの無神論を伝えるようにほったらかしてください!
国々が戦争を起こすようにほったらかしてください!
世の中がローマのように淫らになってもほったらかしてください!
気が抜けた大衆がこの消える世の中の富と名誉に捕らわれるように
ほったらかしてください!
何も火の城壁の内にいる人々とは関係がないです!
城壁の内にある人々の関心はただ神様の光栄です。
その光栄を見て触る人々は火の城壁の内にいながら、世界中に進むんでしょう。
そして彼らが触ることごとに真な生命を持って来るようになるでしょう。
彼らを掴んで、
「あなたたちと共に行かせてほしい。
我々は、神があなたたちと共におられると聞いたからだ。
ゼカリヤ書 / 8章 23節」というでしょう。
主の火の城壁の内にいる人々が誰も否認することができない証人になることは
自明ではないですか?
偉い人々が彼らに近付くでしょう。
その人々は火の城壁の民たちの前にひざまずいて
助けを求めて慰労を得ようとするでしょう。
「神様が彼らとともになさることを聞いた」から
彼らは火の城壁の民たちに懇請するでしょう。イザヤ / 45章 11節、14節
キリストの中で義と力を見つけた人々に他の人々が近付くでしょう。(イザヤ 45:24)
助けを要する人々は誰でも火の城壁の民たちを捜し出そうと思うでしょう。
火の城壁の人々は絶望中の人々を捜そうと労力する必要がないだろう。
彼らが尋ねて来るからだ。
「万軍の主はこう言われる。
もしあなたがわたしの道を歩み/わたしの務めを守るなら/
あなたはわたしの家を治め/わたしの庭を守る者となる。
わたしはあなたがここで仕える者らの/間に歩むことを許す。
ゼカリヤ書 / 3章 7節
よくこの質問を聞かれているのでは?
そして、いつも、あらゆることについて、
わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。
エフェソの信徒への手紙 / 5章 20節
あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、
また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、
希望を持って忍耐していることを、
わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです。
テサロニケの信徒への手紙一 / 1章 3節
コロサイにいる聖なる者たち、キリストに結ばれている忠実な兄弟たちへ。
わたしたちの父である神からの恵みと平和が、あなたがたにあるように。
コロサイの信徒への手紙 / 1章 2節
みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、
世の汚れに染まらないように自分を守ること、
これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です。
ヤコブの手紙 / 1章 27節
このように聖書には、
私たちの信じる神様が私たちの父であることを明記している。
ただの神じゃない。
世の中の神々じゃない。
霊である神様は私たちの霊の父である。
イエスは言われた。
「わたしにすがりつくのはよしなさい。
まだ父のもとへ上っていないのだから。
わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。
『わたしの父であり、あなたがたの父である方、
また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」
ヨハネによる福音書 / 20章 17節
霊的に離れていた私たちと交わりたくて、
神様の御子、イエス・キリスト様を送ってくださった父である神様を、
私たちを我が子だとおっしゃる父である神様を私たちは信じる。
その父が一人しかいないというのが、その父だけを愛するというのが、
なぜ排他的になるのか?
無神論でもなく、多神論でもなく、
唯一な天の父を信じるというのが排他的なのか?
肉体の父が一人しかいないと言ったら、その父だけ愛すると言ったら、
それを排他的な考えだと言うのか?
自分の父ではない人に、その方が父だと言ったら、
親父はそれをどう思ってるのか?
喜ぶ親父はいるだろうか?
神様も同じ。喜ばないでしょう。
だから、私達はイエス様の父であり、私達の父である唯一の神様しか認めない。
父である神様は聖書全体で私たちへの愛をずっと歌っている。
父である神様に向いてほしいと切実に訴えている。
思い起こせ、初めからのことを。
わたしは神、ほかにはいない。
わたしは神であり、わたしのような者はいない。
イザヤ書 / 46章 9節
わたしこそあなたの神、主。
エジプトの地からあなたを導き上った。
わたしのほかに、神を認めてはならない。
わたしのほかに、救いうる者はない。
ホセア書 / 13章 4節
あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。
あなたはいかなる像も造ってはならない。
上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、
いかなるものの形も造ってはならない。
あなたはそれらに向かってひれ伏したり、
それらに仕えたりしてはならない。
わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。
わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、
わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。
出エジプト記 / 20章 3-6節
その父の愛に対し、私達ができることは唯一な神様だけを愛し、信じること。
それを排他的だというなら、そのままほったらかして。
デイビッド・ウィルカーソン牧師の預言のメッセージに
このようなことが書いてある。
わたし自身が町を囲む火の城壁となると主は言われる。
わたしはその中にあって栄光となる。
ゼカリヤ書 / 2章 9節
「神様があなたと子供、 そして神様のすべての民を四面で取り囲んで火の城壁になることで
皆を救援する」
この火の城壁は悪が乗ずるによって
もっと高くて、 もっと広くて、 もっと堅固になるでしょう。
神様が人類歴史上一番聖なる、 一番正義のあって、
一番献身になった世代を起こすでしょう。
罪があふれる所ごとに主の恵がもっと溢れる。
神様は火の城壁で保護を受ける聖なる民たちを安全に守るでしょう。
その火の城壁はあまりにも堅くて
サタンとその連中が混沌に陷るようになるはずで、
神様の火の城壁の中にある人々に触れることができない。
神様の関心はそ火の城壁の内にあります
火の城壁の外には混乱と混沌が加重されるだけです。
状況がもっと悪くなるほど火の城壁はもっと高くなって堅固になるでしょう。
イエス・キリスト様は自分に献身された人々に決して消滅しない火の城壁、
四面を取り囲んだ保護壁になってくださる。
同性愛者たちと変態性欲者たちが自分の悪行を誇るよう
ほったらかしておいてください!
ロッカー(ロックを歌うシンガー)たちが彼らの愚かで悪い行実で
世の中をあざ笑って振るようにほったらかしてください!
サタンが自分の時が間近いことを分かって大きな怒りを抱いて
世の中に下るようにほったらかしてください!
悪者が暴れ狂うようにほったらかしてください!
共産主義者たちと人本主義者たちが
彼らの無神論を伝えるようにほったらかしてください!
国々が戦争を起こすようにほったらかしてください!
世の中がローマのように淫らになってもほったらかしてください!
気が抜けた大衆がこの消える世の中の富と名誉に捕らわれるように
ほったらかしてください!
何も火の城壁の内にいる人々とは関係がないです!
城壁の内にある人々の関心はただ神様の光栄です。
その光栄を見て触る人々は火の城壁の内にいながら、世界中に進むんでしょう。
そして彼らが触ることごとに真な生命を持って来るようになるでしょう。
彼らを掴んで、
「あなたたちと共に行かせてほしい。
我々は、神があなたたちと共におられると聞いたからだ。
ゼカリヤ書 / 8章 23節」というでしょう。
主の火の城壁の内にいる人々が誰も否認することができない証人になることは
自明ではないですか?
偉い人々が彼らに近付くでしょう。
その人々は火の城壁の民たちの前にひざまずいて
助けを求めて慰労を得ようとするでしょう。
「神様が彼らとともになさることを聞いた」から
彼らは火の城壁の民たちに懇請するでしょう。イザヤ / 45章 11節、14節
キリストの中で義と力を見つけた人々に他の人々が近付くでしょう。(イザヤ 45:24)
助けを要する人々は誰でも火の城壁の民たちを捜し出そうと思うでしょう。
火の城壁の人々は絶望中の人々を捜そうと労力する必要がないだろう。
彼らが尋ねて来るからだ。
「万軍の主はこう言われる。
もしあなたがわたしの道を歩み/わたしの務めを守るなら/
あなたはわたしの家を治め/わたしの庭を守る者となる。
わたしはあなたがここで仕える者らの/間に歩むことを許す。
ゼカリヤ書 / 3章 7節
Believing is...

Talking about God is not Believing.
神様について話すのは、信じることではない。
Talking to God is Believing.
神様と話すことが信じること。
Thinking of God is not Believing.
神様について思うことは、信じることではない。
Thinking with God is Believing.
神様と一緒に考えることが信じることだ。
Someone says "Seeing is Believing".
ある人は「見ることが信じることだ」と言うが、
I say "Seeing God is Believing".
私は言う。 「神様に会うことが信じることだ」と。
霊の人格性 - 3.意志
神様から分離されたあなたの霊が生き返ると意志も生き返る。
あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、
行わせておられるのは神であるからです。
フィリピの信徒への手紙 / 2章 13節
どうか、主が、あなたがたに神の愛とキリストの忍耐とを
深く悟らせてくださるように。
テサロニケの信徒への手紙二 / 3章 5節
御心に適うことをイエス・キリストによってわたしたちにしてくださり、
御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。
栄光が世々限りなくキリストにありますように、アーメン。
ヘブライ人への手紙 / 13章 21節
霊が肉体を従わないで、聖霊様を従って行動しようとする。
新生した人は聖霊様の御意を従って生きるので、律法の要求が自然に成り立てる。
神様は私たちの霊的な意志まで導いてその方の御意を成される。
自分の霊が聖霊様の御意に従う時は祝福は大きい。
新生した人は霊の新たなことで仕える。
しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して
死んだ者となり、律法から解放されています。
その結果、文字に従う古い生き方ではなく、
「霊」に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。
ローマの信徒への手紙 / 7章 6節
以前には知らなくて仕えたことを
(霊が生き返ると)知って仕えるし、
以前には肉体の思考で伝えたことを
(霊が生き返ると)霊の思考で仕えるし、
以前には律法の義務でしたことが
(霊が生き返ると)律法から解放され、自由の子になり、仕えるようになる。
このように霊が生き返ると霊の人格も生き返って、新たな知・情・意で生きるようになる。
そのうえ、元々から内に植えられた神様の品性も生き返る。
天の言語 ~天の門を開く鍵~

天の言語 ~天の門を開く鍵~
著者 : 金遇賢(キム・ウヒョン)
出版社: プレイズ出版
著者キム・ウヒョンは神様の導きで映画を通して神様の愛を伝える映画監督であり、
彼の作ったクリスチャン・ドキュメンタリー映画は
多くの韓国人クリスチャンの信仰に影響を及ぼしている。
天の言語、いわば聖霊の賜物の一つである異言のことだが、
天の門を開く鍵であり、天の父の心臓にまっすく入れる秘密通路だと
キム・ウヒョン監督はこの本で語る。
聖霊様の御声を聞く著者を用いて神様が伝える人への愛、聖霊様の働き、
天の父の御心などがこの本に書かれてる。
私の母もこの本を読んで、神様の働きは不思議だと言いながら、
天の言語を慕うようになった。
日本版ではなく、
原作を出版した韓国のクリスチャン出版社の社長も著者と出会い、
慕った天の言語を神様から与えられて、霊的に目が覚め、成長し、
キム・ウヒョン監督を招待した出版社の朝の礼拝に社員全員が神様のタッチに触れられ、
大きい変化があった。
最近その出版社から出版される図書から見ると、
以前には知的な信仰図書を出版してきたが、
社員全員の聖霊体験以来、霊的な信仰図書を多く出版する出版社として生まれ変わり、
会社の色が変わったのではと思う。
それも神様の働きでしょう。
異言の知識的なことを教える本ではないが、
いまだにも天の言語も、神様の御声が聞けることも信じない人や
異言で祈ってもその重要性を認識してない人にもおすすめする。
初信者の人でも楽しく読める、読みやすい本。
図書購入及び詳しいことは
こちらへ漫画版「天のことば」もある。
こちらへちなみに、五つのパンと二匹の魚さんのブログに
先週日本に来られたキム・ウヒョン監督のメッセージについて書かれてあるので、
どうぞ。
新しい世代。(韓国 金遇賢のメッセージから感じたままに…)