ある夕方、玄関のチャイムが鳴った。ひとみは最初、聞き間違いだと思った。それでも、足が勝手に玄関に向かう。ドアを開けると、そこに立っていたのは菊地英治だった。明るい笑顔。いつもの、ちょっと照れくさそうな目。

「……英治、くん?」

声が震えた。英治は軽く手を挙げて、

「ただいま。遅くなってごめんな」
そう言って、靴を脱いだ。ひとみは後ずさりながら、
「死んだんじゃないの……?」
涙が一気に溢れた。英治は首を傾げて、笑った。
「何言ってるんだよ。俺が死ぬわけないだろ」そのままリビングに入り、キッチンに立つ。
冷蔵庫を開けてると「肉、まだ残ってるな。シチュー作ろうか」
ひとみはただ呆然と彼の背中を見つめていた。
鍋にバターを溶かし、玉ねぎを炒め、牛肉を加えて、赤ワインを注ぐ。いつもの手つき。いつもの匂い。
ひとみはテーブルに座り、涙を拭きながら、
「本当に……帰ってきたの?」
英治は振り返って、にこっと笑った。
「当たり前だろ。ひとみが待ってるってわかってるんだから」
ビーフシチューが完成した。熱々のそれを器に盛り、ひとみの前に置いた。
「ほら、冷めないうちに」
ひとみは震える手で受け取り、一口食べた。懐かしい味。温かくて、優しくて、胸の奥が溶けていくような味。涙がまた溢れたけど、今度は違う涙だった。
「英治くん……」
「ん?」
「ずっと、待ってたよ」
英治は優しく頷いて、「知ってるよ。ごめんな」
その言葉で、ひとみは安心した。すべてが元に戻った気がした。
食事を終え、ソファに並んで座っていると、まぶたが重くなった。英治の肩に頭を預けながら、ひとみは静かに眠りに落ちた。


次の朝。目が覚めると、
部屋は静かだった。となりにいた英治の姿はどこにもない。キッチンに鍋はなく、テーブルには皿もスプーンも置かれていない。シチューの匂いすら、微塵も残っていない。ひとみはゆっくりと起き上がった。
すべて、幻だった。一年経っても、心はまだ英治を求め続け、勝手に彼を呼び戻していた。でも、現実は変わらない。彼はもう帰ってこない。ひとみはまた座り込んだ。
「ごめんね……英治くん。こんなに弱くてグズなあたしで、ごめんね」
外では雪が降り始めていた。それは静かにひとみの世界を白く覆っていく。満たされていたはずの記憶は今もなお、優しく残酷に彼女を包み続けていた。