ひとみは、朝からずっと胸が温かかった。洗濯物を干しながら、キッチンで紅茶を淹れながら、何度もスマホを手に取っては、同じメールを読み返していた。
『今日は君の誕生日だから、早く帰るよ。君の好きなチョコのケーキを買って帰るね。愛してる。』
菊地英治からのメール。送信時刻は午後三時十二分。
いつもより少し早めに送られてきたその一文が、ひとみにとっては世界で一番甘い言葉だった。ひとみはずっと彼に片思いをしていた。英治がサッカー部のエースで、いつも笑顔で周りを明るくする人気者だったから、告白なんてできるわけがないと思っていた。
なのに卒業間近のある雨の日、英治が傘も差さずに校門の前で待っていて、濡れた前髪を掻き上げながら言ったのだ。
「中山、俺、ずっとお前のこと好きだったんだけど、気づいてた?」
それから10年が経ち、ようやく去年の秋、彼がプロポーズしてくれた。
指輪を渡された瞬間、ひとみは泣きながら何度も頷いた。
「ずっと、ずっと待ってたよ」と、声が震えて上手く言葉にならなかった。結婚してからは、毎日のように幸せを感じていた。
英治は水産試験場で働いていて忙しかったけれど、必ず「行ってきます」の後に「愛してるよ」と囁いて出かけ、帰ってきたら「ただいま」と抱きしめてくれた。
ひとみはそんな彼の背中に顔を埋めながら、胸の奥で何度も思うのだった。――あたしは、こんなに幸せでいいんだろうか。誕生日当日も、ひとみは朝から張り切っていた。
英治が好きなカルボナーラを作り、テーブルの上に花瓶に桜の枝を活けた。
まだ肌寒い四月だったけれど、今年は桜の開花が少し早かった。
窓の外に見える桜並木が、淡いピンクに揺れている。
「早く帰ってきてね」
ひとみはスマホに向かって小さく呟き、微笑んだ。午後九時を過ぎても、彼は帰ってこなかった。
電話をかけても「電源が切れているか、電波の届かないところにいます」と機械的な声が繰り返すだけだった。
ひとみは何の気なしにテレビをつけた。夜のニュース番組、キャスターが落ち着いた声で「本日夜九時頃、首都高速道路で多重衝突事故が発生しました。複数車両が炎上し、少なくとも五名の死亡が確認されています……」と伝えている。画面に映し出されたのは、黒煙を上げる高速道路の惨状。炎に包まれた車、散乱したガラスと金属片。ひとみは急に不安に押し潰され、過呼吸を起こし、そのままソファーに倒れ込んだ。
彼女が目覚めたのは午前零時を回った頃にかかってきた電話だった。相手は警察で、伝えられた情報にひとみは崩れ落ちた。英治は事故に巻き込まれて即死だったという。
対向車線から飛び出してきたトラックが中央分離帯を突き破り、複数の車を巻き込む形で衝突したらしい。
彼の車は三番目に激しく潰され、消防隊が到着した時にはすでに心肺停止状態だった。
ひとみは警察署で、彼の遺体と対面したが、まともに見ることができなかった。
葬儀の間、ひとみはほとんど泣かなかった。涙すら出なかった。代わりに、胸の奥に大きな穴が空いたような感覚だけがあった。
友人たちが泣き崩れるのを、ぼんやりと眺めていた。自分が泣かないことに、周りの人が驚いているのがわかったけれど、どうしても感情が動かなかった。
家に帰ってからも、ひとみは受け入れられなかった。
それから1ヶ月経ち、ひとみは閉じこもるようになっていた。心配した橋口純子に無理やり連れ出され「少し外の空気を吸いなよ。銀座をぶらぶらして、美味しいスイーツでも食べようよ」と。
銀座の街は、初夏の陽気に満ちていた。
ひとみは純子の腕に軽く手をかけながら、ぼんやりと歩いていた。
ケーキ屋のショーウィンドウに並ぶ色とりどりのケーキを見て、ふと胸が痛くなった。しかもチョコをふんだんに使ったケーキ。
英治は、誕生日にケーキを買って帰ると約束していたのに。
信号待ちで立ち止まったその時だった。向こう側の歩道を、紺色のジャケットを着た男が歩いているのが目に入った。
背筋をピンとし大股で歩くのはまさに彼の特徴。「英治さん……!」声が出ていた。
純子が驚いて振り向くより早く、ひとみは信号が変わるとすぐ走り出した。彼女は必死に走るも体力のないひとみはすぐに息が切れて歩みが遅くなる。
「待って! 英治、待ってよ!」
男は振り向くことなく、人混みの中を、すいすいと歩いていく。
「英治! お願い、止まって!」
声が枯れるほど叫んだ。なのに男は振り返らない。やがて、男の姿は完全に人混みに飲み込まれてしまった。ひとみは息を切らしながら、その場にへたり込んだ。
膝を抱えて、肩を震わせた。
「なんで……あたしを置いていくの……」
涙が、ぽろぽろと落ちた。
「ひとみ……」純子が息を切らして駆け寄ってきた。
彼女はひとみの肩に手を置き、優しく、けれどはっきりと言った。
「彼はもういないよ。現実を見て」
その言葉が、胸に突き刺さった。ひとみはゆっくりと顔を上げた。
純子の顔は、哀れみと心配でいっぱいだった。
それが、余計に腹立たしかった。
「……違う」
ひとみは首を振った。
声が掠れていた。
「英治さんはいるもん。あそこにいた。ちゃんと歩いてた。あたしを見捨てて、置いていくなんて……そんなことしない。彼は優しいもん。いつも『愛してる』って言ってくれた。だから、きっと……きっと何か理由があるの。事故なんて、嘘だよ……」
純子は唇を噛んだ。友達として、これ以上傷つけたくなかった。でも、いつまでもこのままでは、ひとみが壊れてしまう。
「ひとみ、聞いて。英治くんは亡くなったの。警察も病院も、ちゃんと確認したんだよ。君が見たのは……ただの幻なんだよ」
「幻なんかじゃない!」
ひとみは声を荒げた。
ひとみは、銀座で英治の幻を見たあの日から、急速に体調を崩した。持病の喘息が、久しぶりに激しく再発したのだ。
夜中に突然息が苦しくなり、咳き込んで目が覚める。吸入器を握りしめながら、ベッドの上で体を折り曲げて苦しむ姿は、見ているだけで胸が痛んだ。
医者からは「強いストレスが引き金になっている可能性が高い」と言われたが、ひとみはただ黙って点滴を受け、薬を飲み続けた。純子は仕事を調整して、ほとんど毎日ひとみの自宅に通った。
食事を作り、部屋の換気をし、夜は彼女の好きなアニメを一緒に視聴する。
ひとみが「ごめんね、純子……」と弱々しく謝るたび、純子は笑って頭を撫でた。
「いいのいいの。友達でしょ。早く元気になってよ。」
でも、ひとみの目は虚ろだった。薬の影響で眠っている間も、時々「英治…さん…」と小さく名前を呼んでいた。純子はそのたびに、心の中で祈るしかなかった。
(早く、彼女がこの苦しみから解放されますように。)
ある晴れた午後、純子はひとみの分の買い物に出かけた。
ひとみが好きなチョコミントのアイスを見つけて購入した。すると向こうから、しっかりとした足取りで歩いてくる男がいた。
紺色のジャケットを着て黒ぶちのメガネをかけた男性――菊地英治。一瞬、息が止まった。顔も、ほとんど同じ。
純子は心臓が早鐘のように鳴るのを感じながら、速足で追いかけた。人混みを掻き分け、息を切らして男のすぐ後ろまで近づいた。
「ちょっと……すみません!」
思わず肩に手を伸ばし、掴んでしまった。男はピタリと足を止め、ゆっくり振り返った。
その顔は、確かに英治に瓜二つだった。
でも彼がいつも浮かべていた柔らかい笑顔ではなく、明らかに不機嫌そうな、冷たい目つきだった。
「……なんの用ですか?」
低い声。英治の声となんら変わらない響き。純子は一瞬、言葉を失った。指先が震え、掴んでいた肩から手を離した。
「え……あ……」
男の顔をまじまじと見つめる。似ている。本当に、信じられないほど似ている。だけど彼は違う。純子は慌てて頭を下げた。
「すみません……知り合いにすごく似てたもので……間違えました。本当に申し訳ありません」
男は面倒くさそうに舌打ちをすると、
「はあ……気をつけてくださいよ」とだけ吐き捨て、さっさとその場から立ち去ってしまった。
後ろ姿も、歩き方も、英治にそっくりだったが、もう純子は追いかけなかった。純子はしばらくその場に立ち尽くし、深く息を吐いた。
心臓がまだ激しく鳴っていた。
(絶対に、ひとみには言わない。)
彼女は心の中で固く誓った。
もしこのことを話したら、ひとみはまた幻を追いかけて、もっと深く壊れてしまう。喘息の発作が悪化するかもしれない。いや、それ以上に、心が。純子はかごを握りしめ、足早にレジに向かった。