中山ひとみはようやく手に入れた幸福を、信じていた。菊地英治と結婚したのはちょうど一年前。長い片思いの果てに訪れた奇跡のような出来事だった。英治はいつも少し照れくさそうに笑い、ひとみが作ったクラムチャウダーを満足気に食べる姿が印象的だった。二人で選んだソファー、窓辺に置いてあるのは英治の集めた多肉植物たち、休みの日に二人で観る大河アニメは至福の時間。それらが積み重なって、ひとみにとっての「普通の幸せ」は確かにそこにあった。
だからその日、英治がいつまで経っても帰ってこなかったとき、ひとみは不安でたまらなかった。いつもなら7時半には玄関の鍵がカチャリと鳴る。遅くなっても8時を過ぎることはほとんどなかった。それが9時を回り、10時になっても音沙汰がない。LINEは既読にならず、電話は呼び出し音が虚しく響くだけだった。
「何かあったのかな……」
ひとみはソファーに座ったまま膝を抱え、時計の針が刻む音だけを聞いていた。不安は徐々に形を成し、胸の奥で重くうずくまる。
いつの間にか寝てしまったのか、カーテンの隙間から光が差している。スマホの時計を見ると午前6時になっている、
そんなときに電話がなった。ひとみはぼーっとしたまま受話器を取る。
「警視庁の者ですが……菊地さんの自宅でしょうか?」
相手の声は事務的で、どこか遠く感じた。
「はいそうですが……」
「あなたは菊地さんの身内ですか?」
「妻です。」
「そうですか。実はご主人である菊地英治さんが、車内で亡くなっているのが発見されました」
「……え?」
「現在、身元の確認を急いでおります。お越しいただけますか」
頭の中が真っ白になった。足が動かない。受話器を握った手だけが震えていた。警察署に着いたのは昼前になっていた。
検視の結果、一酸化炭素中毒による死亡と告げられた。排気ガスを車内に充満させたまま、エンジンをかけた状態で発見されたという。そして、もう一つ。
「助手席に、もうお一人の男性が同じように亡くなっておられました」
「……誰ですか?」
「西野優馬さん。菊地さんと大学の頃からの親友です。」
ひとみは息を詰めた。
「どうして二人が……?」
刑事は少し間を置いてから、静かに答えた。
「調べの結果、少なくともここ数年にわたり、恋愛関係にあったことが確認されています。複数の人間からも、二人が交際していることは公然の事実として認識されていたようです」
ひとみは目を閉じた。頭の中に、英治の笑顔が浮かぶ。紅茶を飲む姿。ソファーで寄り添ってゲームをした日々。ホラー映画を見て震えるひとみを抱き締めてくれた腕。全部、本物だったのだろうか。それとも、全部、嘘だったのだろうか。刑事は続けた。
「発見されたとき、二人は互いに手を握っていた状態でした。」
ひとみは声を出すこともできなかった。ただ、目の前の机の木目を見つめていた。木目が滲んで、波打って、遠くへ遠くへと流れていく。
英治が最後に抱きしめたのは、自分ではなかった。
翌朝、ひとみはソファーの上で、膝を抱えて座っていた。多肉植物は静かに光を浴びている。棚には、英治が好きな茶葉が1缶残っていた。ひとみは立ち上がることも、泣くこともできなかった。ただ、静かに、手を繋いだ二人の姿を想像していた。そして、自分が一度も抱きしめ返してもらえなかったことを、ゆっくりと思い出していた。