三遊亭圓龍師匠が本日亡くなりました。実は大変お世話になった師匠なのです。
写真は引退高座となった2018年4月8日日本橋亭における「怖いはなしの会」。
演目は珍しい『骨違い』。この時は楽屋入りもやっとという感じで、近しいお客様にタクシーで
連れてきてもらう程でした。しかし、打ち上げにはお越し下さり久々に酒席を共にしました。
携帯電話を頑なに持たず(ケチで持たなかったのかも)、連絡は据付電話でした。
ですから捕まらない時は大変。確か毎週火曜日はゴールデン街で呑んでいるという
固定スケジュール故に、急な連絡があった時にゴールデン街の店を一軒一軒訪ねたところ
やっぱり吞んでいらして(お店は確かサーヤ)、事なきを得たことがあります。
しかし、留守番電話が開発された時(相当昔です)には外付けで操作も難しいそれをいち早く導入していたんだよ、
と弟弟子の圓好師匠から聞きました。
圓好師匠と言えば、圓龍師に仕事を頼んだところ丁度ふさがっていて、「それじゃあ弟分を紹介しましょう」
と圓好師匠にお願いしたことがあります。寄席でも滅多に聞けない師匠だけに、この巡りあわせにも大感謝でした。
この仕事の時の録音が圓好師匠の追悼の会で配られたことも光栄でした。
27,8年前でしょうか今はなき伝説の居酒屋、浅草の”かいばや”に誰かに連れていかれた際に
既にで呑んでいだのが圓龍師匠。そこで会話を交わしたのが縁となりました。
後に伯龍の会をやろうと思った時に相談したのも圓龍師匠。
「何で誰も気づかないのか?という程の素晴らしい発想。声も良いしとにかく巧い。しかし自分以外はみんなバカで下手だという考えの人だ」
とご託宣を頂戴しました。着物の畳み方から何から教わりました。
「圓生はウルサイ人だったから弟子にしか着物は触らせなかった」と聞きました。
味どころに通暁し、何作も著作を出しております。もちろんそういうお店にもご一緒しました。これも楽しい思い出です。
演目は非常に多く、やはり心酔した圓生直伝のものにオオッという感がありました。
『百年目』は「圓生師匠のオカミサンもウチのお父ちゃんの噺でこれと言ったら『百年目』だと言っていた」と聞きましたが
大変思い入れの深い噺でした。『鰻の幇間』は志ん朝師匠直伝とかで、こういう出処の良い噺も随分もっていらっしゃいました。
『紫檀楼古木』も川柳師匠傘寿記念の会で、「こういう地味で詰まらない噺をやってまで、私は川柳師匠を盛上げようとしている」という導入で
聞かせてくれました。
それじゃあ圓生ものをということで、今あんまりやる人のいない『おかふい』や『鼻欲しい』は頼んでも、イヤだと言って受けてくれませんでした。珍しいところでは太宰治の『裸川』(青砥左衛門が落とした小銭を探すあの噺)なんていうのもやっていました。
踊れる、笛が吹ける、三味線も弾ける、ピアノやヴァイオリンもやるという多芸な人ですが
そういう素養と知性を巧くコントロール出来ていない感があったことは否めません。
何でこんなことにココまで拘るのか?というような妙な意固地なところもあり、中々一筋縄ではいかない方でした。
後年は社会派マクラの圓龍を自称し、各国ジョークを細かく採集し、下記のCDも出しました(今は廃盤。再発しようかな?)。
謹んで感謝と共にご冥福をお祈りいたします。