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日本国内の城郭を回遊してます


今日は立秋ですねーもみじ



これって旧暦の8月7日のことなんじゃない?


現代の8月7日はまだまだ夏真っ盛りというか、これから夏本番ですよねぇあっつー




狭間の話をすぐ書けばいいのに「備中松山のレポのときでいいやーぽけ~」と


めんどくさがった結果、読者様にいらぬ困惑を与えてしまったかもしれません。


申し訳ありませんaya




さて、先日えらそーに「間違っている」と言った岡山城の狭間。



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岡山城 月見櫓の渡り櫓の狭間



城好きになって2年ほど経ち、いくつかの本やサイトを見てきましたが、



「狭間は鉄砲の角度を付けやすくするため城内が広くなっているとありました。



とすれば、上の写真の復元土塀は間違っていることになります。


城外が広くなっている




現存といえば、やはり姫路城!・・・・・なのですが、



いかんせん初めて行った城でまったくの無知識でだったため、


手元にわかり易い狭間の写真がありませんでした・・・。凹む



しかし、ゆうりさんに見せていただいた姫路城の土塀の狭間は城内が広くなっていました






土塀ではありませんが、彦根城天守の狭間も城内に角度がつけられ、広くなってます



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彦根城天守の狭間






こちらは高知城(現存天守)の土塀。


この土塀が現存かどうか、わからないのですが、城外が広くなっています



※後日、フォロアーさんから情報を頂きました。


高知城本丸の土塀は城内・城外の両方とも広くなっているタイプとのことです。


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高知城の土塀







これは江戸城の隠し鉄砲狭間



城内が広くなっています。



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隠し鉄砲座間(城外から見る)          同 (城内から見る)






と。城外が広いタイプ城内が広いタイプと2種類あることが見られます。




「困惑することになった」と大げさに言ったのが、備中松山城の狭間



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備中松山城 三の平東の現存土塀




ちょっとわかりにくいのですが、城内と城外が広く、土塀の中心が狭くなってます





まとめると狭間にはこのように3タイプあるようです。(左側が城内)

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先回の岡山城レポでいただいたコメントと、今回の各城の狭間の写真を見た結論は



狭間は一概に城内が広いものではなく、



設計者あるいは城主の経験や持論によって、いろんなタイプがあった。





って、結論にいたってないですね(^^;


明らかに狭間を意識してない、飾りだけのものもありますけどね汗



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岸和田城(模擬天守)の狭間(復元)








意外にも狭間の写真がなくて、驚きました。


見てるだけでわざわざ狭間だけを撮ってなかったんだな~くまった…



ところで・・・


犬山城に狭間ありました?写真が一枚もないのですが(-▽-;)


(天守にはなかった記憶はあります)






コメントくださったみなさま、情報&意見ありがとうございました。


これからもいろいろ教えてくださいkai遊録 {お願いします





のっけからカメさんペースの攻城レポですカメ


そういえば、彦根城であったカメさんは無事に川へ帰れたかな?


また井戸にハマってなきゃいいけど(^^;



助けてあげたメンバーの一人だけど、オイラは竜宮城に招待しなくていーよー。


まだまだ行きたい城たくさんあるから、おばあちゃんにされたら困るもんaya




ではでは、桃太郎伝説のある地 岡山のレポいっきまーす!kai遊録


(前回はコチラ





kai遊録 現地案内板






kai遊録 大納戸櫓台



【大納戸櫓台の石垣 説明版要約】

・関ヶ原合戦後に小早川秀秋が築き、池田利隆が改修したと見られる


・加工をあまり施さない自然石を用いているが、上部ほど傾斜が強くなっている


・大納戸櫓は南北長20mの三階建ての櫓だった




見て目に付くのは、赤い(オレンジ)になっていることなんですが、説明ないですねMe



焼けた跡かと思いましたが、それにしては局所的だし、剥離跡もないように思います。



・・・もしかして積み直し?傷んだ部分を違うとこの石垣で補ったとか。



でも、赤み加減がまた違うんですよねー。


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空襲によって赤茶色に焼けた、市内に残る石垣





では廊下門を潜って、いよいよ本丸に攻め入ります。




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あら?aya五七の桐の紋ですよ?



このあたりの瓦は復元だと思いますが、なぜ桐の紋なのでしょう?



池田氏は蝶紋ですし、主君の家紋にしても徳川氏だから葵紋でしょうに。






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月見櫓横の狭間

「ここのもおかしいですね(・ω´・ ){むぅ」とぼやいたら


「え?」と皆さん、釘付け。


私がぼやくまで気付かなかったようです。



いろんな城のレポで書いてますが、狭間が逆のとこが結構多いのです。


(中には寸胴というヒドイのもありましたがね)



本来は、鉄砲の角度を変えるために、城内側が広くなっていなるものですが、


ご覧のとおり、城外側が広くなってます(ちょっと写真が悪いですが)



「え?あってんじゃないの、あれで」との声もありましたが、



ゆうりさんのメモリーに『姫路城の土塀』が顔


「姫路城がそうなら、あれが間違っている」ということで落ち着きました(笑)



(ところが、この問題は翌日の備中松山城の現存の土塀で困惑することになります)





kai遊録  kai遊録

月見櫓(現存)                    同(腰曲輪?から見上げる) 




この月見櫓「見た目は望楼型、中身は層塔型」の櫓だそうです。



名前のとおりお月見もしたそうですよ。


もちろん櫓なので地階は貯蔵施設です。



お酒の貯蔵場所だったんかな?(笑)kai遊録 (←




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石碑



石碑に「國寳(国宝) 岡山城月見櫓」と書いてありました。



高知城のように新制度で国宝から重要文化財扱いになってしまったのでしょうか?


・・・それにしては、石碑が真新しくない?え??






表書院の下には宇喜多氏時代の石垣が埋まっていて、一部が展示されてます。



kai遊録  kai遊録

地中に埋もれていた石垣



【地中に埋もれていた石垣 説明版 要約】


・今から400年余年前、宇喜多秀家が岡山城を築いたときの石垣


・江戸時代の初めに城を城を改造するときに埋め込まれた


・本来の裾は床下に埋もれている


石垣の辺と辺が成す角度は70度と尖っていて全国的に珍しいもの



なんで尖ってるかについては説明版をクリックしたってください顔文字


(語彙力がなくて要約しきれなかった・・・)






表書院の門に“平重門”っていうのがあって、


“たいらの しげかど”?大河で出てきそうだね(笑)」なんて話してたんだけど、


ググってみましたが、そんな人いませんでしたーaya{つまらんのぅ~




ではでは今回はこの辺で~バイバイ




次回 岡山城③はコチラ


もう、いい・・・・不機嫌



もうねー、メンドくさいの領域超えてますわ、ピグライフ庭に行く


城目指して造ってたピグアイランドも、もう早々と作業ゲームになってきたし。


2.5時間ごとにPCチェックするのが億劫です。


(最盛期は4アカウントも駆使させてた人←)




年末ごろから「やめる!今度こそやめる」と言いながら、


なんか続けてきちゃったんですが、今度こそやめる~(たぶん)




いままでお水くださった皆さんありがとうございましたaya


ライフのお庭、絶賛“蜂の巣ガーデン”ハチになってるんで、立入禁止ですよ~(笑)





今回からはH24.4.21(土)~22(日)の『城人(しろうと)』オフ会レポ行きまーす!kai遊録




『第三回 城人オフ会 in岡山』




ってことでやってきました、岡山県桃桃太郎



私、初の中国(地方)上陸であります!


ちゃんと集合場所の目印の桃太郎の銅像撮ったのに、写真が行方不明・・・。




幸村!さんと、さらさんとは、高速バスで一緒だったんだけど、


鉄駕籠で酔ってしまった私たちを尻目に、さらさん「じゃ、城行ってきまーす!パー」と


軽い足取りで、庭瀬城撫川城へ行かれました。



行動力もすごいけど、車酔いしない体質がうれやましい・・・ちーん{気持ちわるいー


乗り物酔いって空きっ腹だとなりやすいから、何か食べれば良かったんだと思います。


いつも目が覚めてから到着までの数十分で襲ってくるので・・・。



でも、さらさんは車内で本読んでても全く酔わないそうで、


移動中の車内で城本うぃ開いてメモしたり、攻城計画を立てていらっしゃいました。





城郭体系の縄張図コピーしたのに忘れる大失態やらかしたけど、


am(あむ)さんが“しおり”を用意してくださっていました喜ぶ{ありがとうございまーす!




最初にやってきたのは岡山城





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内下馬門の石垣




岡山城は最初、宇喜多直家さんが“石山城”築き、


その後、息子の秀家さんが隣に新しい曲輪作って、主郭の場所を変えたそうです。



後北条氏の小田原城と同じですね!そうだ!





隣接の“後楽園”は日本有数の庭園ですけど、時間の関係で今回はスルー顔



(後楽園と聞くと遊園地を思い出すのは私だけ?)



kai遊録 内下馬門跡の石垣



内枡形虎口になってるんだけど、全体を撮れませんでした泣く


下馬ってことは往時は水堀の外に馬屋があったのかな?



【説明版 要約】


・このあたりは本丸の正門で、城の威厳や大名の権力を誇示するために巨石が使用されている


・最大の石は高さ4.1m×幅3.4mの板石で厚みはない


関が原の合戦後の池田氏時代のものの可能性が高い




池田氏って、姫路城の池田輝政さんの一族です。


もともとは5歳の次男君に与えられますが、病死しちゃって結局は長男の家系が継承していってます。


(長男は側室の子のようです)




せっかくなのでもういっちょ!ホイ



最初に築城した宇喜多氏と今の池田氏の間に、小早川秀秋さんが入城してます。


(関ヶ原の戦いで家康さんに鉄砲ぶっ放されて、西軍を裏切った人



ところが、わずか2年で急死。子供がいなかったので断絶しちゃいました。


(兄弟親戚はいなかったんかいな?aya




死因は関ヶ原で戦死した大谷吉継さんとか石田三成さんの呪いだとか言われてますね。



kai遊録    





kai遊録 中の段の石垣



kai遊録  kai遊録
算木積み&打込接                 野面積



【中の段南西の石垣 説明板要約】


・関ヶ原合戦後に小早川秀秋が築き、続く池田忠継が改修した石垣


・左隅は1620年代に池田忠雄が築いた割石積みの石垣が被さっている


・あまり加工を施さない石材をゆるい角度で積み、高さは11m


・H11~H13年にかけて解体修理を行った。





“割石積み”っていうのは打込接のことみたいですねなるほど




岡山城の石は瀬戸内海の“犬島”産の花崗岩(みかげ石)で、



大坂城の巨石No.1“蛸石”も“犬島”産なんですよ。




お墓も花崗岩なんだって~。


あー、だから転用石でお墓が使われてるんかひらめき{ぽん!





全然進んでいませんが、今回はここまでバイバイ




次回 岡山城②はコチラ