“のぼうの城”を見てきました。 | kai遊録

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“のぼうの城”を見てきました。



ネタバレはしませんが、嫌悪される方は閲覧しないでください。















総合的な感想は


戦国時代の“城の攻防戦を感じられて、よかった喜ぶ


「なんで忍城だけが落城しなかったんだろうaya」 です。




あと・・


ライアーゲームー再生ー(だっけ?)でも思ったんださ、


芦田愛菜ちゃんの役、必要だったかな?むしろ、いらな・・・(自粛








ここからは、城好きとしてのボヤキるんるん



※kaiさんは伊勢宗瑞(北条早雲)が好きなので後北条贔屓です。


※ですが、関東管領と関東公方のいざこざを整理をする前に城中毒になったので、


 北条好きといいつつ、歴史知識は皆無といっても過言じゃありません。
















「あの描写はおかしい」とか「あの武将はあの人がよかった」なんてことは言えません顔


どこまでが史実なのかもよく知らないし・・・。










この映画を見て一番強く感じたことは「ああ、これが戦なんだ… 怖いな・・・」ということ。




城を見るときのポイントのひとつとして「攻め手の気持ちになって城を見る」と言われます。



仲間と出かけたとき「ここ横矢掛かりまくり!いて座今、死んだね~(笑)」なんてことを言うのですが、


実際にその場所で死んだ人がいるかもしれないと思ったら、ゾクッと震えました。


(生憎、忍城は来訪したことないですが)





豊臣軍2万5000人が忍城を囲んだシーンで。


かわらけが音を立てるほどの震動に、地鳴り。


井楼から見た、山が燃えているかのような篝火と煙は圧 倒 的 威 圧 感 メラメラ




障子堀で有名な山中城という城が静岡県にあります。


あれほど工夫を凝らした城がなぜ一日で落ちたのか、思っていたのですが、


忍城の2倍以上の約6万の軍勢に囲まれれば、それも仕方ないなと納得しましたsao☆





忍城の話に戻ります。


1590年当時、秀吉は石垣山一夜城という総石垣の城を造る技術を持っているのに、


(実際の天正時代の忍城がどんな縄張りでどんな門を備えていたかは知りませんが)


忍城は「・・吉野ヶ里遺跡?びっくり!」と思わんばかりの脆弱な木の門に井楼




長篠城のような天然の堀に囲まれているわけでもない、平城(沼城)なので

攻め手は虎口という虎口から攻め寄せて来る。



けどたった3000人、それも“兵”よりも“百姓”のほうがが多いのに守りきった


(たしか作中で兵500って言ってたから、百姓が2500かな)



その点で真田昌幸が徳川秀忠に勝った上田城の戦いよりもすごいと思います。




逆に言うと、豊臣軍は兵農分離されている“兵士”で武具もしっかりしているでしょうに、


“百姓”主体の軍に負けるなんて、情けないねー。



そーいえば、その昌幸と信繁(幸村)親子、忍城攻めにも参加してたそうですね。


(八王子城攻めにも参加してるた気がするぞ、昌幸さん・・・)




忍城攻めといえば、やはり見所は“水攻め”ですね波


のぼうの城では「石田三成が秀吉の備中高松城攻めを見て真似した」となっていますが、


史実では三成は水攻めに反対していたのに、秀吉が「やれ!」と言ったようです(書状で)




ところで、なぜ忍城は落城しなかったのでしょうか?


私なりに水攻めのメリット、デメリットを考えました考える



作中で大谷刑部が「水攻めでは、諸将が武功を立てられないと言っていましたが、


いい意味で考えると「自軍にダメージがない」ということですよね?



それを秀吉が支持したのなら、


成田氏長は内通しているから、忍城は野戦をして自軍に損害を出す必要はない。


水攻めで経済力と脅威を見せつけ、忍城側の士気を下げるのが目的だったのではないかな。


(史実で成田氏長が内通していたかどうかは知りませんが)




ところで、その水攻めですが「土塁を積んで川を決壊させる」というのは分かるのですが、


川の水をどうやって操るのかがイメージできないので、その辺りの様子も見たかったです。





少し話は変わります。


映画を見る前日に城仲間と滝山城について語っていたので、


帰宅の車の中で八王子城と滝山城のことを考えていました。



私は滝山城が一番好きな城で何かとつけて「滝山城、滝山城きゃはっ」というのですが、


「滝山城は確かにいい城だけど、実用的じゃないといわれましたぐすん…{はぅぅ・・・





滝山城は1569年に武田軍に二ノ丸まで攻められています。


その軍勢、武田軍2万1000に対して、滝山城の北条氏照の兵は2000。


氏照は12年後の1581年に八王子城の築城を開始し、1587年に移っています。



滝山城は2000の兵で守るには広すぎたから、山城の八王子城を築城したのではないか、と。


確かに八王子城は、滝山城とは雲泥の差で曲輪が少なく小さいです。




ですが、


小田原の役で八王子城に攻め寄せた豊臣勢1万5000に対して、八王子城の兵3000。


6/23に攻められて、1日で落城したようです。



約10倍もいた武田軍は撃退しているのに、3倍の豊臣軍には1日で落城。


総大将の違いはあるでしょうが、


もし滝山城から移らなかったら、どうなっていたんだろう?うーん…





ところで、すごいのが韮山城(静岡県)です。



韮山城は4万以上の豊臣軍に包囲されましたが、


3000の兵で3月から6/24の3ヶ月間も持ちこたえましたおおーっ!!


(忍城は6/5から攻撃され、約1ヵ月後の7/17に開城)





戦は兵の数や軍略だけじゃなく、


総大将の采配や力量兵士の士気といった物理的でない要素も関係するのだなと感じました。







思いのままに書いたのでグダグダになっちゃいました顔文字



兵の数や日時はウィキペディアを参考にしています。